数日後。
一頼は、再びあの画廊の前に立っていた。
自分でも少し驚くほど、ここへ来るまでに迷いはなかった。家を出るときから行き先は決まっていて、電車を降りてからも、一度も足を止めなかった。
ガラス越しに店内を覗くと、あの日と同じ、白い壁と柔らかな灯りが見えた。
それだけで、胸の奥が少しだけ弾む。一頼は小さく息を吸い、扉を開けた。
「……こんにちは」
「あら」
奥にいた女性が顔を上げる。一頼の姿を認めると、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ」
「こ、こんにちは」
一度来たことのある場所なのに、なぜか少し緊張してしまう。一頼は小さく頭を下げてから、照れくさそうに続けた。
「また、見に来ました」
「えぇ。どうぞ、ごゆっくり」
その言葉に背中を押されるように、一頼は店内へ足を進めた。
静かな空間も、壁に並ぶ絵も、やわらかな照明も、あの日と何も変わっていないように見える。
けれど、一頼の目はほとんど無意識に、一枚の絵を探していた。
そして、すぐに見つける。
(……あった)
前と同じ場所に、前と同じように飾られている。たったそれだけのことなのに、胸の奥から安堵が込み上げた。
一頼はゆっくりと近づき、もう一度、その絵の前に立つ。
腕の中に子どもを抱く女性。二人を包む、淡くやわらかな光。
前に見たものと同じはずなのに、不思議と今日は少し違って見えた。
初めて見たときよりも、光の奥行きが分かる気がする。女性の腕の力加減や、子どもの身体を包み込むような姿勢まで、前よりもずっと近く感じられた。
(……なんでだろう)
何かが変わったのは、絵ではなく自分のほうなのかもしれない。ただ見つめているだけなのに、時間がゆっくりとほどけていく。
そのまましばらく絵を眺めているうちに、ふと視線が下へ落ちた。別の作品のネームプレートのそばに、小さな丸い印がついている。
一頼は首を傾げた。
(……これ、なんだろう)
「あの」
奥にいる女性へ声をかける。
「絵の下についてる、マークみたいなのって……何ですか?」
「あぁ、あれですか」
女性は一頼の視線を追い、すぐに頷いた。
「売却済みの印ですよ」
「……え」
思いがけない答えに、胸の奥が小さくざわつく。
「作品が売れたときにつけるんです。緑は商談中、赤が売却済み。画廊によって少し違いますけどね」
「売れたら……持って帰っちゃうんですか?」
「いえ。会期中はそのまま展示して、終わってから購入された方へお渡しします」
「……そうなんだ」
説明を聞きながら、一頼の視線は自然とあの絵へ戻っていた。
(じゃあ……)
誰かが買えば、この絵も……。
胸の奥が、またざわつく。
「あの」
気づけば、口が先に動いていた。
「……この絵も、もう売れてますか?」
女性は一瞬きょとんとしたあと、一頼が心配そうに見つめていることに気づいたのだろう。
少しだけ微笑んだ。
「大丈夫ですよ。その作品は、まだ買い手は決まっていません」
一頼は思わず息を吐いた。
「そ、そうですか……」
自分でも驚くほど、ほっとしている。けれど、その安堵は長く続かなかった。
――まだ。
その言葉が、今度は別の意味を持って胸に残る。まだ売れていないだけで、これから誰かが買うかもしれない。
そもそも、この展示だっていつまでも続くわけではない。
誰かのものになってしまえば、もうここへ来ても、この絵を見ることはできなくなる。
「……」
さっきまで穏やかだった胸の奥に、急に焦りのようなものが広がった。
自分には関係のないことのはずなのに。
この絵が誰かに買われても、何もおかしくない。むしろ、売るためにここへ飾られているのだから、それが普通なのだろう。
それでも。
(……嫌だ)
そう思った自分に、一頼は戸惑った。
知らない誰かの家へ行ってしまうのが嫌だった。もう見られなくなるのが嫌だった。
あの夜、自分を見つけてくれたように感じた光を、知らない誰かに持っていかれてしまうような気がした。
「あの……」
何かを尋ねようとして、一頼は口を開くけれど、その先の言葉が出てこない。
値段を聞いて、どうするのだろう。
自分はまだ高校生で、絵なんて買ったこともない。
そもそも、絵を欲しいと思ったことさえ、今日まで一度もなかった。
それなのに――。
一頼はもう一度、絵を見上げた。
女性の腕の中にいる子どもを包む、あのやわらかな光。見ているだけで、胸の奥に小さな温度が戻ってくる。
あの夜、自分がここへ辿り着かなければ、この絵の存在すら知らないままだった。
そう思うと、偶然見つけただけのはずなのに、なぜか手放してはいけないもののように思えてしまった。
⸻
一頼は、再びあの画廊の前に立っていた。
自分でも少し驚くほど、ここへ来るまでに迷いはなかった。家を出るときから行き先は決まっていて、電車を降りてからも、一度も足を止めなかった。
ガラス越しに店内を覗くと、あの日と同じ、白い壁と柔らかな灯りが見えた。
それだけで、胸の奥が少しだけ弾む。一頼は小さく息を吸い、扉を開けた。
「……こんにちは」
「あら」
奥にいた女性が顔を上げる。一頼の姿を認めると、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ」
「こ、こんにちは」
一度来たことのある場所なのに、なぜか少し緊張してしまう。一頼は小さく頭を下げてから、照れくさそうに続けた。
「また、見に来ました」
「えぇ。どうぞ、ごゆっくり」
その言葉に背中を押されるように、一頼は店内へ足を進めた。
静かな空間も、壁に並ぶ絵も、やわらかな照明も、あの日と何も変わっていないように見える。
けれど、一頼の目はほとんど無意識に、一枚の絵を探していた。
そして、すぐに見つける。
(……あった)
前と同じ場所に、前と同じように飾られている。たったそれだけのことなのに、胸の奥から安堵が込み上げた。
一頼はゆっくりと近づき、もう一度、その絵の前に立つ。
腕の中に子どもを抱く女性。二人を包む、淡くやわらかな光。
前に見たものと同じはずなのに、不思議と今日は少し違って見えた。
初めて見たときよりも、光の奥行きが分かる気がする。女性の腕の力加減や、子どもの身体を包み込むような姿勢まで、前よりもずっと近く感じられた。
(……なんでだろう)
何かが変わったのは、絵ではなく自分のほうなのかもしれない。ただ見つめているだけなのに、時間がゆっくりとほどけていく。
そのまましばらく絵を眺めているうちに、ふと視線が下へ落ちた。別の作品のネームプレートのそばに、小さな丸い印がついている。
一頼は首を傾げた。
(……これ、なんだろう)
「あの」
奥にいる女性へ声をかける。
「絵の下についてる、マークみたいなのって……何ですか?」
「あぁ、あれですか」
女性は一頼の視線を追い、すぐに頷いた。
「売却済みの印ですよ」
「……え」
思いがけない答えに、胸の奥が小さくざわつく。
「作品が売れたときにつけるんです。緑は商談中、赤が売却済み。画廊によって少し違いますけどね」
「売れたら……持って帰っちゃうんですか?」
「いえ。会期中はそのまま展示して、終わってから購入された方へお渡しします」
「……そうなんだ」
説明を聞きながら、一頼の視線は自然とあの絵へ戻っていた。
(じゃあ……)
誰かが買えば、この絵も……。
胸の奥が、またざわつく。
「あの」
気づけば、口が先に動いていた。
「……この絵も、もう売れてますか?」
女性は一瞬きょとんとしたあと、一頼が心配そうに見つめていることに気づいたのだろう。
少しだけ微笑んだ。
「大丈夫ですよ。その作品は、まだ買い手は決まっていません」
一頼は思わず息を吐いた。
「そ、そうですか……」
自分でも驚くほど、ほっとしている。けれど、その安堵は長く続かなかった。
――まだ。
その言葉が、今度は別の意味を持って胸に残る。まだ売れていないだけで、これから誰かが買うかもしれない。
そもそも、この展示だっていつまでも続くわけではない。
誰かのものになってしまえば、もうここへ来ても、この絵を見ることはできなくなる。
「……」
さっきまで穏やかだった胸の奥に、急に焦りのようなものが広がった。
自分には関係のないことのはずなのに。
この絵が誰かに買われても、何もおかしくない。むしろ、売るためにここへ飾られているのだから、それが普通なのだろう。
それでも。
(……嫌だ)
そう思った自分に、一頼は戸惑った。
知らない誰かの家へ行ってしまうのが嫌だった。もう見られなくなるのが嫌だった。
あの夜、自分を見つけてくれたように感じた光を、知らない誰かに持っていかれてしまうような気がした。
「あの……」
何かを尋ねようとして、一頼は口を開くけれど、その先の言葉が出てこない。
値段を聞いて、どうするのだろう。
自分はまだ高校生で、絵なんて買ったこともない。
そもそも、絵を欲しいと思ったことさえ、今日まで一度もなかった。
それなのに――。
一頼はもう一度、絵を見上げた。
女性の腕の中にいる子どもを包む、あのやわらかな光。見ているだけで、胸の奥に小さな温度が戻ってくる。
あの夜、自分がここへ辿り着かなければ、この絵の存在すら知らないままだった。
そう思うと、偶然見つけただけのはずなのに、なぜか手放してはいけないもののように思えてしまった。
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