そこは、外の喧騒が嘘のように静かだった。白い壁に、いくつもの絵が並んでいる。
大きさも、色も、描かれているものも違う。
けれど、どの絵もただの飾りには見えなかった。
それぞれの額縁の中に、別の時間や空気が閉じ込められているようだった。
見知らぬ誰かの横顔、暗い海、赤い花。
誰もいない部屋。
描かれたものは動かないのに、見つめていると、その向こうから何かを語りかけられているような気がする。
一頼は小さく息を呑んだ。
どれも、今まで見たことのないものばかり。
「……ここにあるの、全部絵ですか?」
思わず口にする。
「えぇ、すべて作家さんがこのために描いた作品ですよ」
「……作家……作品……」
その言葉を、噛みしめるように繰り返す。
今まで、学校の授業で見る絵は教科書の中にあった。
有名な人が、ずっと昔に描いたもので、美術館に行かなければ見られない、遠い存在。
けれど、ここに並んでいる絵は違う。
今を生きている誰かが描いたもの。
誰かが手を動かし、色を選び、ここへ置いたもの。
「画廊は、作家が個展を開く場所なんです」
女性の声は、穏やかに続く。
「今回は三人展と言って、三人の作家がそれぞれ作品を持ち寄って展示と販売をしています」
「売ってるんですか?絵を」
「もちろん」
「……」
一頼は、もう一度壁を見渡した。
絵は、買えるものなのだ。
誰かが描いた気持ちや時間を、自分の家へ持ち帰ることができる。
その考えが不思議で、少しだけ胸が高鳴った。
「……飾った絵も、ですか?」
「えぇ」
女性が頷く。
「ご覧になりますか?」
「……はい」
さっき外から見ていたあの絵の前へ歩み寄る。
近くで見ると——
息を呑んだ。
「……すごい」
絵の具が重なった跡。
筆が走った跡。
近くで見ればそれは滑らかなだけではないく、色は少し盛り上がり、場所によっては荒く、迷ったような線もある。
それなのに少し離れると、それらが一つになって、柔らかな光に見える。
「本物だ……」
さっきまでとは、まるで違う。
ガラス越しに見ていたときよりも、ずっと近くて、ずっと強い。
ここには、描いた人の手の動きが残っている。
絵の具を置いた時の息遣いまで、伝わってきそうだった。
「扉越しで見るのと、全然違う……」
自分でも分かるくらい、声が弾んでいた。
「そちらは、大学生の作家が描かれたんですよ」
「え!?」
驚いて振り返る。
大学生が描いた。
もっとずっと年上の、特別な人が描いたものだと思っていた。
「そうだったんですか」
はっとして視線を落とすと、絵の下に小さなネームプレートが掛けられていた。
【久見ルナ】
見慣れない名前だった。
けれど、その四文字が、なぜか一頼の胸に深く残った。
「……久見、ルナ」
小さく口の中で繰り返してみる。
それだけで、少しだけその作家が現実に存在していることが信じられる気がした。
「今日も在廊予定だったのですが、風邪を引いて来られないみたいで……残念ですね」
「描いた人と、話せるんですか?」
「もちろんです。それが個展の醍醐味ですから」
「……!」
胸が、少しだけ高鳴る。
「そちら、気に入られたみたいですね」
女性が優しく言う。
「店の外で、ずっと見ておられましたから」
「……っ」
一頼は、少しだけ顔を赤らめた。
「す、すみません」
「いえ」
微笑む。
「それだけ、目を奪われたのでしょう?」
「……はい」
視線を、もう一度絵に戻す。
「絵画なんて、今まで触れてこなかったから……よく分からないんですけど」
言葉を探す。
「この絵を見た瞬間、ビビってなって……わーってなって……ほわーって気持ちに……」
自分でも何を言っているのか分からなくなって、言葉が止まる。
「……ごめんなさい」
俯く。
「何言ってるか分かりません……」
「ふふっ」
女性は静かに笑った。
「私もね、画廊で長く勤めていますけど、言葉にする方が難しいですよ」
「……」
「でもね」
その声は、とても優しかった。
「絵画なんだから、わざわざ言葉にしなくてもいいんです」
「……!」
「描き手の想いと、見た人の気持ちが繋がったのなら」
一頼は、ゆっくり顔を上げる。
「そこに言葉なんか要らない」
「……」
「それは、確かな繋がりができた証ですよ」
「……繋がり……」
小さく呟く。
「えぇ、きっと」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちていった。
大きさも、色も、描かれているものも違う。
けれど、どの絵もただの飾りには見えなかった。
それぞれの額縁の中に、別の時間や空気が閉じ込められているようだった。
見知らぬ誰かの横顔、暗い海、赤い花。
誰もいない部屋。
描かれたものは動かないのに、見つめていると、その向こうから何かを語りかけられているような気がする。
一頼は小さく息を呑んだ。
どれも、今まで見たことのないものばかり。
「……ここにあるの、全部絵ですか?」
思わず口にする。
「えぇ、すべて作家さんがこのために描いた作品ですよ」
「……作家……作品……」
その言葉を、噛みしめるように繰り返す。
今まで、学校の授業で見る絵は教科書の中にあった。
有名な人が、ずっと昔に描いたもので、美術館に行かなければ見られない、遠い存在。
けれど、ここに並んでいる絵は違う。
今を生きている誰かが描いたもの。
誰かが手を動かし、色を選び、ここへ置いたもの。
「画廊は、作家が個展を開く場所なんです」
女性の声は、穏やかに続く。
「今回は三人展と言って、三人の作家がそれぞれ作品を持ち寄って展示と販売をしています」
「売ってるんですか?絵を」
「もちろん」
「……」
一頼は、もう一度壁を見渡した。
絵は、買えるものなのだ。
誰かが描いた気持ちや時間を、自分の家へ持ち帰ることができる。
その考えが不思議で、少しだけ胸が高鳴った。
「……飾った絵も、ですか?」
「えぇ」
女性が頷く。
「ご覧になりますか?」
「……はい」
さっき外から見ていたあの絵の前へ歩み寄る。
近くで見ると——
息を呑んだ。
「……すごい」
絵の具が重なった跡。
筆が走った跡。
近くで見ればそれは滑らかなだけではないく、色は少し盛り上がり、場所によっては荒く、迷ったような線もある。
それなのに少し離れると、それらが一つになって、柔らかな光に見える。
「本物だ……」
さっきまでとは、まるで違う。
ガラス越しに見ていたときよりも、ずっと近くて、ずっと強い。
ここには、描いた人の手の動きが残っている。
絵の具を置いた時の息遣いまで、伝わってきそうだった。
「扉越しで見るのと、全然違う……」
自分でも分かるくらい、声が弾んでいた。
「そちらは、大学生の作家が描かれたんですよ」
「え!?」
驚いて振り返る。
大学生が描いた。
もっとずっと年上の、特別な人が描いたものだと思っていた。
「そうだったんですか」
はっとして視線を落とすと、絵の下に小さなネームプレートが掛けられていた。
【久見ルナ】
見慣れない名前だった。
けれど、その四文字が、なぜか一頼の胸に深く残った。
「……久見、ルナ」
小さく口の中で繰り返してみる。
それだけで、少しだけその作家が現実に存在していることが信じられる気がした。
「今日も在廊予定だったのですが、風邪を引いて来られないみたいで……残念ですね」
「描いた人と、話せるんですか?」
「もちろんです。それが個展の醍醐味ですから」
「……!」
胸が、少しだけ高鳴る。
「そちら、気に入られたみたいですね」
女性が優しく言う。
「店の外で、ずっと見ておられましたから」
「……っ」
一頼は、少しだけ顔を赤らめた。
「す、すみません」
「いえ」
微笑む。
「それだけ、目を奪われたのでしょう?」
「……はい」
視線を、もう一度絵に戻す。
「絵画なんて、今まで触れてこなかったから……よく分からないんですけど」
言葉を探す。
「この絵を見た瞬間、ビビってなって……わーってなって……ほわーって気持ちに……」
自分でも何を言っているのか分からなくなって、言葉が止まる。
「……ごめんなさい」
俯く。
「何言ってるか分かりません……」
「ふふっ」
女性は静かに笑った。
「私もね、画廊で長く勤めていますけど、言葉にする方が難しいですよ」
「……」
「でもね」
その声は、とても優しかった。
「絵画なんだから、わざわざ言葉にしなくてもいいんです」
「……!」
「描き手の想いと、見た人の気持ちが繋がったのなら」
一頼は、ゆっくり顔を上げる。
「そこに言葉なんか要らない」
「……」
「それは、確かな繋がりができた証ですよ」
「……繋がり……」
小さく呟く。
「えぇ、きっと」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちていった。
