ブリザーブドフラワー


行き先はなかった。
ただ、家から離れたかった。

足の向くまま電車に乗り、気づけば人の多い街へ出ていた。

駅を出ると、眩しいほどの光が溢れている。

街路樹にはイルミネーションが巻かれ、店の窓には金や赤の飾りが並んでいた。

どこからかクリスマスの名残のような音楽が聞こえる。

東京の夜は明るくて、夜なのに空以外はどこも暗くない。

それなのに、一頼の胸の中には、光の届かない場所があるようだった。

どこを見ても、人がいる。

腕を組んで歩く恋人たち。
買い物袋を持つ親子。
楽しそうに話す友人同士。

誰かが誰かを待ち、誰かが誰かの隣を歩いている。

一頼だけが、その流れから外れていた。

行き交う人に肩が触れても、誰とも繋がっている気がしない。

こんなにも人がいるのに、自分の名前を呼ぶ人はいない。
自分だけが世界に取り残されているように感じた。

みんなが灯りのある場所へ帰っていく中で、自分だけが帰れない。

帰る家はあるのに、帰りたいと思えない。

「……ひとりだ」

口にした声は、人混みの音にすぐ掻き消された。

そのことが、余計に寂しかった。

一頼は俯いたまま歩き続けた。

何度も人を避け、信号を渡り、細い通りへ入る。

どこをどう歩いたのかも分からない。

足先は冷え、指先も感覚が薄くなっていた。
そうして歩いていた時だった。

ふと。

視界の端に、柔らかな色が差した。

一頼の足が止まる。

賑やかな通りから少し外れた場所に、一軒の小さな店があった。

大きな看板も、派手な照明もない。

けれどガラス張りの扉の向こうから、あたたかな灯りが漏れている。

その光は、周囲のイルミネーションのような眩しい光ではなかった。

夜の中に静かに置かれた、小さな明かり。

誰かを呼び込もうとするのではなく、ただそこにある光だった。

そして、その灯りの中に、一枚の絵が飾られていた。

「……」

一頼は、息を止めた。

絵の中には、ひとりの女性が描かれていた。

腕の中に、小さな子どもを抱いている。

女性は笑っているわけではない。
子どもも、こちらを見てはいない。

けれど二人を包む光は、ひどくやわらかかった。

夕暮れなのか、朝なのか、どこから差している光なのかも分からない。
ただ、その淡い光の中で、女性は子どもを大切そうに抱いている。

一頼の胸が、強く締めつけられた。

(お母さん……)

一瞬だけ、そう思った。
けれど、母の顔を思い出したわけではない。
一頼は、母の記憶をほとんど持っていなかった。

声も、匂いも、抱きしめられた感触も。

覚えているような気がして、けれど本当に自分の記憶なのか分からない。

写真や父の話から作った、借り物の記憶かもしれなかった。

それなのに、その絵を見た瞬間。自分にも確かに、あの腕の中にいた時間があったのだと思えた。

誰かに抱かれ、守られていた時が。

胸の奥に押し込めていたものが、不意に揺れた。

父に置いていかれたような寂しさ、ひどいことを言ってしまった後悔。
誰にも分かってもらえないと思っていた気持ち。

それらを絵の中の光が、何も尋ねず、静かに包んでくれるような気がした。

一頼は目を逸らさず、ガラスの前へ近づいた。
冷たいガラス越しに、絵を見つめる。

自分がなぜこれほど惹かれているのかは分からなかった。

悲しい絵ではない、明るい絵とも少し違う。
見ていると、胸が痛い。

それなのに、その痛みから目を逸らしたくなかった。

むしろ、ずっとここにいたいと思った。

自分でも名前をつけられなかった寂しさを、この絵だけは知っているような気がしたから。

絵は何も言わない。ただ、やわらかな光の中で、子どもを抱いている。

その沈黙が、一頼には優しかった。

「……あったかい」

無意識に、言葉がこぼれた。

外気で指先は冷えきって、頬も痛いほど冷たい。
それなのに胸の奥には、小さな火が灯ったようだった。

ほんの少し前まで、世界中の光が自分を置き去りにしているように見えていた。

けれど今は違う。

目の前の絵から差す光だけが、まっすぐ自分へ届いている。
暗い場所にいる自分を見つけ、ここにいていいと伝えてくれるような光。

一頼はそこから動けなくなった。
街のざわめきが、遠ざかっていき、気づけば絵と自分だけが取り残されたようだった。

けれど先ほどまで感じていた孤独とは違う。
会ったこともない、名前も知らないその人が残した色と光が、今の自分に届いている。

「……」

どれくらいそこに立っていたのか、自分でも分からない。

はっとして顔を上げると、店先に置かれた看板が目に入った。

『三人展』

見慣れない言葉だった。

何の店なのかも分からない。絵を飾る場所だと思うが、美術館とは違うらしい。

一頼が戸惑いながら店内を覗いていると、声がした。

「よかったら、中に入って見てみて」

一頼は驚いて振り返ると、ガラス扉の向こう、店の奥から、穏やかな表情の初老の女性がこちらを見ていた。

「いえ、その……」

急に声をかけられ、一頼は身を縮める。

「わたしは……」

何を言えばいいのか分からない。黙ったまま勝手に長い間立っていたことを謝るべきか。

女性は急かすことなく、柔らかく微笑んだ。

「どうぞ」

その一言はとても静かだった。
押しつけるような響きはない。けれど、不思議と拒む気にはなれなかった。

一頼はもう一度、店の中へ視線を向ける。
白い壁に飾られたいくつもの絵。外よりもあたたかな照明がそれを照らしている。

けれど、自分のような子どもが入っていい場所なのか分からない。

「でも……お金、持ってなくて……」

思わずそう言うと、女性はくすりと笑った。

「ふふっ……大丈夫ですよ。画廊は入場無料です」

「……え?」

その言葉に背中を押されるように、一頼は一歩、店の中へ足を踏み入れた。