ブリザーブドフラワー

冬休みの、空気がやけに静かな午後だった。

外は晴れているのに、窓越しに差し込む光は白く冷たい。
レースのカーテンを透けた光は、床の途中で弱々しく途切れ、部屋の奥までは届いていなかった。

広すぎるわけでもないリビングが、今日は妙にがらんとして見えた。
一頼(ひより)はキッチンに立ち、エプロンの紐を背中で結びながら、何度も頭の中で言葉を繰り返していた。

(言うだけ、聞くだけでいい)

それだけのことなのに、胸の奥が落ち着かない。

冷蔵庫の扉には、スーパーでもらってきた正月料理のチラシが磁石で留められていた。

赤や金色で華やかに飾られた料理の写真を、一頼はここ数日、何度も眺めていた。
作ったことのないものも多かったけれど、調べればできる気がした。

今年は一緒に食べられる。年末は休みを取れたと、父が言っていたから。

普段の食卓は、ほとんど一人だった。
父は長距離の仕事で家を空けることが多く、帰ってきても夜遅い。朝にはもう出ている日も珍しくなかった。

だから一頼は、いつの間にか一人で起きて、一人でご飯を食べ、一人で眠ることに慣れていた。
寂しいと思う前に、やることを見つける。掃除をして、洗濯をして、食事を作る。

そうしていれば、静かな家の中でも時間は過ぎていく。

けれど今年の年末だけは、少し違うと思っていた。
一緒に買い物へ行って、台所に並んで、出来上がった料理を見て、父が驚いて。

久しぶりに二人で、同じ時間に「いただきます」と言う。

そんな光景を、何度も思い浮かべていると、リビングから、父が出かける準備をしている音が聞こえる。

作業着の布が擦れる音と、鍵を手に取る音。いつも聞き慣れた、忙しない気配。

「お父さん」

声をかけると、父――頼仁(よりひと)が振り返った。

「ん?」

大きな身体に、日に焼けた顔。
一見すると怖そうに見える父は、一頼を見る時だけ、目尻をわずかに下げる。

一頼はほんの少しだけ背筋を伸ばした。

「ねえ、お正月、何が食べたい?私、作るから」

言ったあとで、急に恥ずかしくなった。
別に大したことを言ったわけではないのに、それでも、自分が楽しみにしていたことを知られるのは、少しくすぐったかった。

「おせちは全部作れないかもしれないけど、煮物とか、お雑煮とかならできると思うし」

「……あぁ」

頼仁は困ったように視線を逸らす。

「そのことなんだけどな……お父さん、二十九日から仕事入ってな。出なくちゃいけなくなったんだ」

その一言で、部屋の温度がすっと下がったような気がした。窓から差していた光まで、急に遠ざかったように見える。

「……え?」

「急で悪いんだけどな。人が足りないらしくて」

一頼は頼仁の顔を見つめた。

何か聞き間違えたのかもしれないと思った。年末は休めると言っていた。今年は家にいると言っていた。

だから自分は料理を調べた。冷蔵庫の中身も考えた。
父が好きそうなものを、何日も考えていた。

「どうして……?」

口から出た声は、自分が思っていたよりも小さかった。

「せっかく……ご飯、作ろうと思ってたのに」

頼仁は、申し訳なさそうに頭をかく。
その表情を見れば、父が好きで仕事へ行くわけではないことくらい分かる。

分かっている。父が自分のために働いていることも。父が休みたいと言える立場ではないことも。

全部分かっているはずなのに、胸の中に生まれた寂しさはそんな理屈では消えてくれなかった。

「……でもな、年末に働けば、いい給料が出るんだぞ」

頼仁は、場を明るくしようとするように声を弾ませた。

「これが終わったら、一頼ちゃんの欲しいもの買いに行こう」

一頼は黙ったまま、床を見つめる。

「それか、ディスティニーCに行こうか? 新しいジェットコースターできただろう」

「……」

「お父さんも乗りたいなあ」

楽しそうに笑う父の声。けれど、その言葉はひどく遠くに聞こえた。

「ほら、あそこは昔、お母さんとも行ったの覚えてるか?」

頼仁が続ける。

「……」

「あの時は一頼ちゃん、まだ小さくて、ゴーカートしか乗れなくて――」

「……どうして?」

気づけば、声が漏れていた。頼仁が言葉を止める。

「年末は、お休み取るって言ったじゃん」

一頼は一歩、父に近づいた。胸の奥に押し込めていたものが、少しずつ溢れ始める。

「今年は家にいるって言ったよね」

「……ごめんな」

「私、ずっと考えてたんだよ」

何を作ろうか、どこへ買い物に行こうか。

父がいつ帰ってきてもいいように、掃除も早めに済ませて。そんなことまで言いそうになり、一頼は唇を噛んだ。

言えば言うほど、自分が子どもっぽく思えた。父を困らせるだけだと分かっていた。

「その代わりに、何でも好きなものを――」

「……要らないよ!」

思っていたよりも強い声が出た。

リビングの静けさを破るように響き、自分でも驚いた。
頼仁の目が、わずかに見開かれる。

「ディスティニーCにも行きたくないよ!」

喉の奥が熱い。言葉を止めようとしても、止まらない。

「それに、私は絶叫マシーンが嫌いなの!」

その瞬間、頼仁の顔から笑みが消えた。

「……!」

父が知らなかったことに、一頼自身も傷ついた。

何年も一緒に暮らしてきたはずなのに。自分の好きなものも、嫌いなものも、父は何も知らない。
その事実が、思っていた以上に悲しかった。

「約束したのに」

声が震えて、目の奥が熱くなる。

「お父さんは、私のことなんてどうでもいいんだよ!」

言った瞬間胸の奥が冷たくなった。本当は、そんなこと思っていない。

けれど、もう引き返せなかった。

「……一頼ちゃん」

頼仁の声が、ひどく寂しそうに聞こえる。その声を聞いてしまったら、謝ってしまいそうだった。

一頼は逃げるように背を向けて廊下を走った。

自室へ入り、ドアを閉める。強く閉めるつもりはなかったのに、大きな音が家中に響いた。
その音だけが、まるで自分の代わりに泣いているようだった。