御馳走を食べていたら自分が食べられそうになった

老人は、私がトイレをすませるのを待ってくれていた。

私がトイレからでてきたのを確認すると、老人は本殿にむかいゆっくりと歩きだした。

老人の後を追いかける。

本殿の開け放たれた扉をくぐりぬける。

三和土は、一流旅館のように広い。

ちがうところは、余計な飾り物のひとつもなく、飾り気がないこと。

老人は衣ずれの音すらもたてずわらじをぬぎそろえ、廊下にあがった。

能などの踊りのように洗練された気品ある老人の動きに思わず見惚れてしまう。

私もできるだけ見たばかりの老人の動きをトレースしようとしたが、子どもが背伸びをして親の真似をするようなみっともない動きになってしまった。


老人のあとをついて廊下を歩く。

廊下のどこにも皮脂汚れはついておらず、ワックスを塗ったように艶々と輝いており靴下を通して踏みしめる木の質感が心地よい。

木と石、だけで作られている本堂は、虫や鳥の鳴き声すらも吸収している、そう考えてしまうほどに静まりかえっている。

瓦の原料は、なんだったけと考えていると、老人は右にまがり広間にはいった。

私もあとを追い広間のなかにはいる。

広間は、なにかの武術の道場そっくりで、木の壁と床だけがある殺風景な空間。

もちろん武器などはなく、掛け軸も、額にいれた楷書や行書もなく、徹底的に装飾をそぎおとしたミニマリストの最終形態のような空間は、5メートル先に落ちた待ち針の音すら聞こえそうなほどの静寂につつまれている。



老人は広間の角に置かれてあった座布団をひろいあげ、私に手渡しそこらに座るようにいった。

リュックサックを背からおろし、座布団の横におき、座布団にひざをつき足折りまげ、かかとをそろえ、お尻をかかとのうえにのせ正しく座った。

老人は、私の何十倍も慣れ親しんだ動きで座布団のうえに鎮座した。

ちいさいと思われた老人のおへそは、どっしりと重みがあり、肺は空気でふくらみ、頭に糸がついているように自然に背すじがのびている。

まるで仏さまが、目のまえに座っているような、ありがたい空気に圧倒され、おもわず腰と背をのばす。

老人は、右目だけを仏さまの目のように半分だけひらき、おもむろに禅寺の歴史を語りはじめた。

私はあわててリュックサックからテープレコーダーとメモ帖、ボールペンをとりだした。

テープレコーダーの録音ボタンを押し、真っ白なメモ帖にボールペンをあてがう。



寺につとめるひとは、話すことも仕事と聞いたことがある。

老人の話す言葉は、簡潔で明瞭。

つまることがなく、和歌を吟じるように、とうとうと禅寺の歴史を教えてくれた。

老人の話をまとめると、源平合戦の時代からこのあたりの地域は戦乱がつづき常に食料が不足していた。

ひとをあざむき米をうばう。ひとの農地から野菜をぬすむ。森にわけいり動物を殺生する。暴力をふるい調味料を強奪する。

みながみな、血走った目で、食料を探しもとめ、隣人を信用できなくなり食料をたくわえこみだした。

人の気持ちがすさんだこの地方に、貪瞋という妖怪がいつのまにか住みつき、食べ物や飲み物で人を誘惑し、頭からむさぼりつきだした。

お腹いっぱいにご飯を食べたいという誘惑に勝てず何百人という人間が、貪瞋(とんじん)の犠牲になった。

そんなとき、この寺の開祖である光元がこの地域にやってきた。

光元が枯れ果てた木のしたで座禅を組んでいると、貪瞋がやってきて、お椀いっぱいの白ご飯を光元にさしだした。

白米の蒸れた甘い香りは、光元の鼻孔に確実にとどいているはず。

けれども光元はぴくりとも動かず悠然と座りつづけた。

貪瞋は、ありとあらゆる料理を、光元のまえに並べたが、光元の心は、まったく揺るがなかった、ぬかに釘を沈めるように。

御馳走を見せても光元が、食欲を見せないことに貪瞋は動揺し、汗をかき、その場でくるくると回りだした。

そのとき、光元は、やおら目をひらき、

「タダ足ルヲ知ル」

と一喝し、

「腹八分目」

とつづけて大喝した。

その声と迫力に驚愕させられた貪瞋は、光元に背をむけ、なにもかも放りだして遁走した。

そのあと光元は、ここに禅寺をたて、まわりの人に「タダ足ルヲ知ル」「腹八分目」の教えをひろめた。

その結果、貪瞋の餌食になる人間はいなくなった。めでたし。めでたし。



老人の話を聞きおわり、私は思った。

なぜ、その二言を発しただけで、化け物は逃げさったのだろうかと。

老人の白い眉毛が、ぴくりと上にあがりいった。

「貪瞋は、ひとのもっとたくさん食べたい、もっと美味しいものを食べたい。その欲求を喰らう。食べものにたいする妄執を手放すことができれば貪瞋はよってこず、また食べられることもない」

老人は私の心のなかを読んだのかと驚かされ、あわててメモをとり、なんとも説教くさい、というか、抹香くさいお話だなと思いつつペンを走らせた。