【研心】
茉那さんから指定された駅に向かう電車の中で、深い深いため息をついた。息と一緒に魂まで抜け出してしまいそうだった。
初回の茉那さんとのカフェデートは、僕にとっては思いのほか楽しいものだった。茉那さんからにじみ出る好意はやや恐ろしかったものの、得意なアニメの話をするだけで喜ばれたので、そこまで気を遣わずに済んだ。
ところが、すぐに次のデートの約束を取り付けられたのは完全な誤算だった。そのうえ、今日は家に行く約束までされてしまった。
夜に家に行くなんて、いくら何でもダメなことだった、と強く反省した。知り合って間もないからさすがに一線は越えないと思うし、僕としても断るつもりだけど……。そうは言っても何が起こるかわからないので、使わずに済むことを祈りながら人生で初めて避妊具を買った。
隣の席の人の音漏れを聞きながら、もう一度深いため息をついた。こういうの、男友だちからは羨ましがられるんだろうか。そういうことに興味がないわけではないけど、相手くらいは自分で選びたい。
目的地の駅で降りる人は少なかった。茉那さんを探しながら重い足取りで改札を抜けると、男の人の声が飛んできた。
「研心!」
思いがけない呼びかけに飛び上がりそうになった。声がした方を振り向くと、そこにはグレーのスウェットに身を包み、つっかけを履いた誠太さんが手を振っていた。スウェットはよれよれだ。
本来ならば、誠太さんがここにいることを真っ先に疑問に思うところだったかもしれない。でも、あまりにもグレーすぎる誠太さんの格好の方が気になってしまった。ネズミの着ぐるみみたいで、有り体に言えばクソダサい。
そんな失礼な気持ちを押し殺しながら聞いた。
「こんなところでどうしたんですか?」
すると、誠太さんは不思議そうな顔をした。
「どうもこうも、迎えに来たに決まってるじゃん。うちでアニメ見るんでしょ。茉那はもう来てるよ」
「え」
その言葉で、僕は勘違いをしていたことに気が付いた。家でアニメを見るって、誠太さんの家だったのか! てっきり茉那さんの家だと思ってた。っていうか勘違いしない方が無理でしょ。
「早く行こうぜ」
「あ、え、はい……」
誠太さんが踵を返したので、僕も慌てて歩き出した。
二人で並んで歩きながら考えを巡らせた。誠太さんの家でアニメを見るってのはわかった。でも……なぜ? 茉那さんとはどういう関係なんだ? 考えれば考えるほどわからない。
「なあ研心」
「は、はい!」
ほとんど会話したことのない先輩に名前を呼ばれて、僕は思わず背筋を伸ばした。
「食べられないものとかある?」
「え、いや、何でも食べられます」
「それは良かった。ちなみに今日の夕飯はカレーね。ゆうちゃんのちくわカレー」
耳慣れない単語が飛び出してきたため、脳の反応が一瞬だけ遅れた。
「……ゆうちゃん?」
「そう。昔の少女マンガの主人公で、ちくわの乗ったカレーが好物なんだって。茉那からのリクエスト」
「へえ……っていうか、もしかして誠太さんが作るんですか?」
「そうだよ。っていうかもう作ってあるから、盛り付けるだけ」
「すごい。料理が好きなんですね」
僕は料理はからっきしダメだったため、すっかり感心して言った。高校の調理実習が最後の料理経験だ。
「いや、料理が好きっていうよりも……」
そこまで言って、誠太さんが急に口ごもった。機嫌を損ねてしまったかと思い、心配して顔を覗き込むと、それに気が付いた誠太さんは静かに微笑んだ。
「ごめん。今のナシ。とにかく今日はゆっくりしていってくれ」
「はい、ありがとうございます……」
何を言いよどんだのか気になったものの、誠太さんは好印象だった。優しくて、親しみやすい。でも、やっぱり茉那さんとの関係性は謎だ。
茉那さんのことを聞こうと口を開きかけたら、誠太さんの方から話題が出た。
「茉那のことなんだけど」
「あ、はい」
「あいつって、ちょっと子どもっぽいだろ」
返事に困った。肯定するのが自然な気はするが、それでは茉那さんに悪い。でも誠太さんは返事を待たずに続けた。
「茉那は実家暮らしなんだけど、母親との折り合いが悪いの。嫌なら家を出ればいいのにさ、結局親に甘えてるんだよ」
「はあ……」
突然踏み込んだ話を聞かされてますます困った。
「その、何が言いたいかというと、茉那には甘えられる相手が必要なんだ」
「甘え、ですか……」
どうして誠太さんはそんなことを僕に話すのか。ここで嫌な可能性に思い当たった。
「いいか、茉那は本当は人見知りなんだよ。それなのに自分からデートの約束を取り付けるってのは、あいつなりに本気なんだ」
今すぐ振り返って逃げ出したい気持ちに駆られた。でも足は前にしか動かなかった。
「だから、研心」
「……はい」
「茉那のことを幸せにしてやってくれよ」
「……えーっと……」
嫌な予感が的中したことを確信した。誠太さんは僕と茉那さんをくっつけようとしている。優しそうだなんて一瞬でも思った自分を殴りたい。
「着いたよ」
返答に窮しているうちに、誠太さんのアパートにたどり着いてしまった。この状況はヤバすぎる。
「二階ね」
カン、カン、と音を立てて、誠太さんは外の金属製の階段を上った。逃げるなら今がチャンス。頭ではわかっているものの、体はどうしても逆らうことができない。
僕は重い足を上げて、地獄への階段を一歩ずつ上り始めた。
茉那さんから指定された駅に向かう電車の中で、深い深いため息をついた。息と一緒に魂まで抜け出してしまいそうだった。
初回の茉那さんとのカフェデートは、僕にとっては思いのほか楽しいものだった。茉那さんからにじみ出る好意はやや恐ろしかったものの、得意なアニメの話をするだけで喜ばれたので、そこまで気を遣わずに済んだ。
ところが、すぐに次のデートの約束を取り付けられたのは完全な誤算だった。そのうえ、今日は家に行く約束までされてしまった。
夜に家に行くなんて、いくら何でもダメなことだった、と強く反省した。知り合って間もないからさすがに一線は越えないと思うし、僕としても断るつもりだけど……。そうは言っても何が起こるかわからないので、使わずに済むことを祈りながら人生で初めて避妊具を買った。
隣の席の人の音漏れを聞きながら、もう一度深いため息をついた。こういうの、男友だちからは羨ましがられるんだろうか。そういうことに興味がないわけではないけど、相手くらいは自分で選びたい。
目的地の駅で降りる人は少なかった。茉那さんを探しながら重い足取りで改札を抜けると、男の人の声が飛んできた。
「研心!」
思いがけない呼びかけに飛び上がりそうになった。声がした方を振り向くと、そこにはグレーのスウェットに身を包み、つっかけを履いた誠太さんが手を振っていた。スウェットはよれよれだ。
本来ならば、誠太さんがここにいることを真っ先に疑問に思うところだったかもしれない。でも、あまりにもグレーすぎる誠太さんの格好の方が気になってしまった。ネズミの着ぐるみみたいで、有り体に言えばクソダサい。
そんな失礼な気持ちを押し殺しながら聞いた。
「こんなところでどうしたんですか?」
すると、誠太さんは不思議そうな顔をした。
「どうもこうも、迎えに来たに決まってるじゃん。うちでアニメ見るんでしょ。茉那はもう来てるよ」
「え」
その言葉で、僕は勘違いをしていたことに気が付いた。家でアニメを見るって、誠太さんの家だったのか! てっきり茉那さんの家だと思ってた。っていうか勘違いしない方が無理でしょ。
「早く行こうぜ」
「あ、え、はい……」
誠太さんが踵を返したので、僕も慌てて歩き出した。
二人で並んで歩きながら考えを巡らせた。誠太さんの家でアニメを見るってのはわかった。でも……なぜ? 茉那さんとはどういう関係なんだ? 考えれば考えるほどわからない。
「なあ研心」
「は、はい!」
ほとんど会話したことのない先輩に名前を呼ばれて、僕は思わず背筋を伸ばした。
「食べられないものとかある?」
「え、いや、何でも食べられます」
「それは良かった。ちなみに今日の夕飯はカレーね。ゆうちゃんのちくわカレー」
耳慣れない単語が飛び出してきたため、脳の反応が一瞬だけ遅れた。
「……ゆうちゃん?」
「そう。昔の少女マンガの主人公で、ちくわの乗ったカレーが好物なんだって。茉那からのリクエスト」
「へえ……っていうか、もしかして誠太さんが作るんですか?」
「そうだよ。っていうかもう作ってあるから、盛り付けるだけ」
「すごい。料理が好きなんですね」
僕は料理はからっきしダメだったため、すっかり感心して言った。高校の調理実習が最後の料理経験だ。
「いや、料理が好きっていうよりも……」
そこまで言って、誠太さんが急に口ごもった。機嫌を損ねてしまったかと思い、心配して顔を覗き込むと、それに気が付いた誠太さんは静かに微笑んだ。
「ごめん。今のナシ。とにかく今日はゆっくりしていってくれ」
「はい、ありがとうございます……」
何を言いよどんだのか気になったものの、誠太さんは好印象だった。優しくて、親しみやすい。でも、やっぱり茉那さんとの関係性は謎だ。
茉那さんのことを聞こうと口を開きかけたら、誠太さんの方から話題が出た。
「茉那のことなんだけど」
「あ、はい」
「あいつって、ちょっと子どもっぽいだろ」
返事に困った。肯定するのが自然な気はするが、それでは茉那さんに悪い。でも誠太さんは返事を待たずに続けた。
「茉那は実家暮らしなんだけど、母親との折り合いが悪いの。嫌なら家を出ればいいのにさ、結局親に甘えてるんだよ」
「はあ……」
突然踏み込んだ話を聞かされてますます困った。
「その、何が言いたいかというと、茉那には甘えられる相手が必要なんだ」
「甘え、ですか……」
どうして誠太さんはそんなことを僕に話すのか。ここで嫌な可能性に思い当たった。
「いいか、茉那は本当は人見知りなんだよ。それなのに自分からデートの約束を取り付けるってのは、あいつなりに本気なんだ」
今すぐ振り返って逃げ出したい気持ちに駆られた。でも足は前にしか動かなかった。
「だから、研心」
「……はい」
「茉那のことを幸せにしてやってくれよ」
「……えーっと……」
嫌な予感が的中したことを確信した。誠太さんは僕と茉那さんをくっつけようとしている。優しそうだなんて一瞬でも思った自分を殴りたい。
「着いたよ」
返答に窮しているうちに、誠太さんのアパートにたどり着いてしまった。この状況はヤバすぎる。
「二階ね」
カン、カン、と音を立てて、誠太さんは外の金属製の階段を上った。逃げるなら今がチャンス。頭ではわかっているものの、体はどうしても逆らうことができない。
僕は重い足を上げて、地獄への階段を一歩ずつ上り始めた。



