「……そうか」
翌日、噂の件について話すと、糸杉は静かにそう答えた。もっと辛辣な言い方のひとつもするだろうと思っていたので、意外だった。もしかしたら、糸杉がバッサリ切り捨ててくれることを内心期待していたのかもしれない。
それくらい、まだ動揺している。
「そんなの気にするな。俺、屋久と話してこようか?」
一方のぐは、昨日からまだ苛立っているようだった。
「ありがとう。でも……」
「やめた方がいいかもな」
糸杉が言う。
「いざこざ起こしたらかえって厄介そうだから、放っておくのがいいだろ。勝手に言わせとけば」
のむも頷く。
「俺は、こんなことで態度を変えるつもりはない。言いたい奴には、言わせとく」
「ーーでも、限度を超えたら、俺が潰す」
そう言う糸杉の、糸目の奥が光った気がする。俺は、恐ろしいものを見る目で糸杉を見た。
「糸杉の"潰す"は物理攻撃じゃなさそう。なんか……とっても良くない方法で再起不能にされそう」
「わかる。ある日突然、学校に来なくなりそう」
「うん……変わり果てた姿で見つかりそう」
「お前ら、俺を何だと思ってんの?」
3人から好き放題言われて顔をしかめる糸杉を見て笑うと、少しだけ気持ちが緩んだ。
その日も、のむは昼になると、早々に美術室に向かっていった。今日から本格的に描き始めるらしい。
ラフスケッチが終わっても「できればいてほしい」と言われ、俺も追いかける。
「できれば」と言われて、行かない選択肢なんかない。
ーーいいんだよね?行っても。
そんな思いが頭をよぎる。と同時に、たしなめる自分がいる。
”キュン”を教えてもらっていただけで根も葉もない噂を立てられて、そのせいで俺達が変わってしまうなんて変だ。いつも通り、堂々としていればいいだけだ。
なのに……この気持ちは何なんだろう。
美術室の前の廊下で、左右を見渡す。生徒が数人行き来しているけれど、こちらを気にするそぶりはない。
俺は、迷いを吹っ切るように勢いよく引き戸を引いた。
「あっ……失礼しまぁす……」
今日は、美術室にのむ以外にも生徒がいた。考えてみたら、文化祭間近なので他に展示の準備をする生徒がいるのは自然なことだ。
俺は、ホッとした。ホッとして、少しだけ「残念」と思った。
ーー残念?どうして?
「おう、来たな」
のむに声をかけられて、我に返った。
「あっ。うん。お待たせ」
「……今日は他の部員もいるから」
ーーいるから、できないなぁ。
「え?」
無意識によぎった言葉に、思わず声が出る。
「今日、他の部員もいるから、あんま邪魔になんないようにこっちでやるわ」
「あ、う、うん。わかった」
「どした?」
「だいじょぶ」
聞き返したと思われて慌てて返事をしたけど、のむに変に思われてしまっただろうか。
今日はいつもと違って、教室の隅に机を挟んで、面接みたいなスタイルで椅子が2つ、置かれている。
その椅子の一つに座って、気持ちを落ち着かせようと口を開いた。
「のむは、今日も爆速弁当したの?」
「いや、まだ……」
いつも俺が美術室に着く前にお弁当を空にして、絵に取り掛かる準備まで済ませてしまうのむだが、今日はまだらしい。
購買で買ったチョコメロンパンの袋を開けようと手をかけた時、「ちょっと待ってくれ」とのむに止められた。
「……これ」
周りを気にしながら、ぐいっとのむの弁当箱を寄越してくる。
「えっ、どうしたの。何?」
「これ食え」
「いや、でもお母さんがのむに作ってくれたやつだろ」
「……ちがう」
「え?」
わけがわからず弁当箱を受け取りながら、きょとんとする。
のむは、とても気まずそうに人差し指を口の前に持ってくると、小さい声で言った。
「作った」
「ん?」
”しー”のポーズをしていた人差し指を、今度は自身に向ける。
ーーのむが?
驚きのあまり大きな声を出しそうになったが、何とか堪えて、ぱくぱくと口を動かす。
のむが、落ち着きなく口をもごもごさせながら、頷いた。
「調理実習でめっちゃ硬いごはん炊けて、”敢えてアルデンテに仕上げた”とか言ってたのに……」
「うるせぇよ」
チョコメロンパンを傍らに置くと、弁当箱を開いた。
ふりかけごはん、玉子焼き、たこさんウインナー。それだけのシンプルなお弁当。たこの足は太かったり細かったりして、玉子焼きは少し焦げている。
「まめはいつもパンばっかりだから、たまにはいいだろ」
「おかあちゃん……」
胸がいっぱいで言葉が見つからなくて、精一杯おどけてみせた。いただきます、と手を合わせる。
「味見したから、味はたぶん大丈夫」
玉子焼きを口に運ぶ俺を、のむが不安そうに頬杖をつきながら覗き込む。
「……野村家の玉子焼きも甘いんだなぁ」
俺は、しみじみと呟いた。自然と口角が上がり、お、い、し、い、と口の動きでのむに伝える。
「俺んち、両親とも仕事が忙しくて夜も遅いからさ。玉子焼きって久しぶりに食べたかも。……うちの玉子焼きもね、甘いんだ。俺、玉子焼き好きなんだった。忘れてたなぁ」
「そうか」
のむが、ふう、とほっとしたように長い溜息をついた。
たこさんウインナーも、いつぶりだろう。他の生徒もいるので、”たこさんウインナー”というワードは口に出さない代わりに、たこの口をして、箸でゆらゆらとたこを泳がせてから、口に運ぶ。のむが、手で口元を隠しながら声を出さずに笑っている。
今度はおいしいを言う代わりに、満面の笑みで伝えた。うんうん、とのむが頷く。
「あっ。そういえば、のむのお昼は?」
「……いや……これ1個作るのに、精一杯で」
「そうなの?」
「ていうか、渡せるかわかんなかったから、渡せなかったら自分で食おうと思ってた」
俺も料理はほとんどできないから、わかる。きっと、すごく時間がかかっただろう。
「こんなものでよろしければ……」
うやうやしくチョコメロンパンを渡すと、のむは「どうも」と受け取って、食べ始めた。
「あ、ごはんがアルデンテじゃない」
「るせーな」
「ねぇのむ」
「ん?」
「最高。俺ミシュラン星みっつ」
「……光栄だなぁ」
のむはあっという間にパンを食べ終えてしまうと、さっとスケッチブックを取り出し、遊ぶように鉛筆を滑らせ始めた。
「あれ、もうスケッチ終わったんじゃないの?」
「んー?……今日は、もういいや」
「そっか」
それなら、今日どうして俺のこと呼んだの?なんて言わない。
これは自惚れかもしれないけど、のむの顔に「俺が元気になってうれしい」って書いてある、気がする。だったらいいな、と思っている自分がいる。
ーーなんでそんな風に思うんだ?
鼻歌でも歌いだしそうな様子でスケッチブックに目を落とすのむを見ながら、俺はもう一つ玉子焼きを口に運んだ。
翌日、噂の件について話すと、糸杉は静かにそう答えた。もっと辛辣な言い方のひとつもするだろうと思っていたので、意外だった。もしかしたら、糸杉がバッサリ切り捨ててくれることを内心期待していたのかもしれない。
それくらい、まだ動揺している。
「そんなの気にするな。俺、屋久と話してこようか?」
一方のぐは、昨日からまだ苛立っているようだった。
「ありがとう。でも……」
「やめた方がいいかもな」
糸杉が言う。
「いざこざ起こしたらかえって厄介そうだから、放っておくのがいいだろ。勝手に言わせとけば」
のむも頷く。
「俺は、こんなことで態度を変えるつもりはない。言いたい奴には、言わせとく」
「ーーでも、限度を超えたら、俺が潰す」
そう言う糸杉の、糸目の奥が光った気がする。俺は、恐ろしいものを見る目で糸杉を見た。
「糸杉の"潰す"は物理攻撃じゃなさそう。なんか……とっても良くない方法で再起不能にされそう」
「わかる。ある日突然、学校に来なくなりそう」
「うん……変わり果てた姿で見つかりそう」
「お前ら、俺を何だと思ってんの?」
3人から好き放題言われて顔をしかめる糸杉を見て笑うと、少しだけ気持ちが緩んだ。
その日も、のむは昼になると、早々に美術室に向かっていった。今日から本格的に描き始めるらしい。
ラフスケッチが終わっても「できればいてほしい」と言われ、俺も追いかける。
「できれば」と言われて、行かない選択肢なんかない。
ーーいいんだよね?行っても。
そんな思いが頭をよぎる。と同時に、たしなめる自分がいる。
”キュン”を教えてもらっていただけで根も葉もない噂を立てられて、そのせいで俺達が変わってしまうなんて変だ。いつも通り、堂々としていればいいだけだ。
なのに……この気持ちは何なんだろう。
美術室の前の廊下で、左右を見渡す。生徒が数人行き来しているけれど、こちらを気にするそぶりはない。
俺は、迷いを吹っ切るように勢いよく引き戸を引いた。
「あっ……失礼しまぁす……」
今日は、美術室にのむ以外にも生徒がいた。考えてみたら、文化祭間近なので他に展示の準備をする生徒がいるのは自然なことだ。
俺は、ホッとした。ホッとして、少しだけ「残念」と思った。
ーー残念?どうして?
「おう、来たな」
のむに声をかけられて、我に返った。
「あっ。うん。お待たせ」
「……今日は他の部員もいるから」
ーーいるから、できないなぁ。
「え?」
無意識によぎった言葉に、思わず声が出る。
「今日、他の部員もいるから、あんま邪魔になんないようにこっちでやるわ」
「あ、う、うん。わかった」
「どした?」
「だいじょぶ」
聞き返したと思われて慌てて返事をしたけど、のむに変に思われてしまっただろうか。
今日はいつもと違って、教室の隅に机を挟んで、面接みたいなスタイルで椅子が2つ、置かれている。
その椅子の一つに座って、気持ちを落ち着かせようと口を開いた。
「のむは、今日も爆速弁当したの?」
「いや、まだ……」
いつも俺が美術室に着く前にお弁当を空にして、絵に取り掛かる準備まで済ませてしまうのむだが、今日はまだらしい。
購買で買ったチョコメロンパンの袋を開けようと手をかけた時、「ちょっと待ってくれ」とのむに止められた。
「……これ」
周りを気にしながら、ぐいっとのむの弁当箱を寄越してくる。
「えっ、どうしたの。何?」
「これ食え」
「いや、でもお母さんがのむに作ってくれたやつだろ」
「……ちがう」
「え?」
わけがわからず弁当箱を受け取りながら、きょとんとする。
のむは、とても気まずそうに人差し指を口の前に持ってくると、小さい声で言った。
「作った」
「ん?」
”しー”のポーズをしていた人差し指を、今度は自身に向ける。
ーーのむが?
驚きのあまり大きな声を出しそうになったが、何とか堪えて、ぱくぱくと口を動かす。
のむが、落ち着きなく口をもごもごさせながら、頷いた。
「調理実習でめっちゃ硬いごはん炊けて、”敢えてアルデンテに仕上げた”とか言ってたのに……」
「うるせぇよ」
チョコメロンパンを傍らに置くと、弁当箱を開いた。
ふりかけごはん、玉子焼き、たこさんウインナー。それだけのシンプルなお弁当。たこの足は太かったり細かったりして、玉子焼きは少し焦げている。
「まめはいつもパンばっかりだから、たまにはいいだろ」
「おかあちゃん……」
胸がいっぱいで言葉が見つからなくて、精一杯おどけてみせた。いただきます、と手を合わせる。
「味見したから、味はたぶん大丈夫」
玉子焼きを口に運ぶ俺を、のむが不安そうに頬杖をつきながら覗き込む。
「……野村家の玉子焼きも甘いんだなぁ」
俺は、しみじみと呟いた。自然と口角が上がり、お、い、し、い、と口の動きでのむに伝える。
「俺んち、両親とも仕事が忙しくて夜も遅いからさ。玉子焼きって久しぶりに食べたかも。……うちの玉子焼きもね、甘いんだ。俺、玉子焼き好きなんだった。忘れてたなぁ」
「そうか」
のむが、ふう、とほっとしたように長い溜息をついた。
たこさんウインナーも、いつぶりだろう。他の生徒もいるので、”たこさんウインナー”というワードは口に出さない代わりに、たこの口をして、箸でゆらゆらとたこを泳がせてから、口に運ぶ。のむが、手で口元を隠しながら声を出さずに笑っている。
今度はおいしいを言う代わりに、満面の笑みで伝えた。うんうん、とのむが頷く。
「あっ。そういえば、のむのお昼は?」
「……いや……これ1個作るのに、精一杯で」
「そうなの?」
「ていうか、渡せるかわかんなかったから、渡せなかったら自分で食おうと思ってた」
俺も料理はほとんどできないから、わかる。きっと、すごく時間がかかっただろう。
「こんなものでよろしければ……」
うやうやしくチョコメロンパンを渡すと、のむは「どうも」と受け取って、食べ始めた。
「あ、ごはんがアルデンテじゃない」
「るせーな」
「ねぇのむ」
「ん?」
「最高。俺ミシュラン星みっつ」
「……光栄だなぁ」
のむはあっという間にパンを食べ終えてしまうと、さっとスケッチブックを取り出し、遊ぶように鉛筆を滑らせ始めた。
「あれ、もうスケッチ終わったんじゃないの?」
「んー?……今日は、もういいや」
「そっか」
それなら、今日どうして俺のこと呼んだの?なんて言わない。
これは自惚れかもしれないけど、のむの顔に「俺が元気になってうれしい」って書いてある、気がする。だったらいいな、と思っている自分がいる。
ーーなんでそんな風に思うんだ?
鼻歌でも歌いだしそうな様子でスケッチブックに目を落とすのむを見ながら、俺はもう一つ玉子焼きを口に運んだ。
