スマートフォンの画面に表示された時刻は、午後三時を少し回ったところだった。
高鳥真歩(たかとり まほ)は、JR明石駅へ向かう道の途中で足を止め、こめかみを指先で強く押さえた。
「……はあ」
声にならない溜め息が喉の奥でつかえ、生ぬるい空気となって口から漏れた。
東京のIT企業で営業職を務めて今年で十年目。三十二歳になった真歩の毎日は、完璧に構造化されたスケジュール表によって支配されていた。五分単位で設定されたアラーム、絶え間なく届くメール通知、移動中にこなすチャットツールの返信、週に何度も行われるオンライン会議。空いた時間があれば、次のタスクを詰め込むのが当たり前だった。効率こそが正義であり、遅延は悪だった。
だが、今日の出張は、その完璧な設計図が根底から瓦解した一日となった。
兵庫県明石市にある大手製造メーカーへの新規システム導入プレゼン。数ヶ月前から準備を進め、昨夜も深夜二時まで資料のブラッシュアップを重ねて臨んだはずだった。
肩までの髪をきっちりと結び、紺色のスーツに身を包み、身だしなみにも隙はなかった。
しかし、相手方の役員陣の反応は終始冷ややかだった。
『高鳥さん、提案のロジックは綺麗ですが、うちの現場の泥臭い動きがまったく見えていませんね』
提示されたのは拒絶に近い保留。打ち合わせが終わった直後、社内のチャットツールには上司からの短文が届いていた。
《後で電話。今回の件、かなり厳しいぞ》。
商談が予定よりも大幅に早く打ち切られたため、真歩は途方にもなく中途半端な時間を持て余すことになった。予約した東京行きの新幹線の発車時刻までは、まだ三時間以上もある。本来なら、一番近いカフェに飛び込み、ノートパソコンを開いて敗因分析の報告書をまとめ始めるべきだった。
パソコンを開く気力が、どうしても湧いてこなかった。指先が重い。画面に並ぶ文字が、ただの不規則な黒い点にしか見えない。
しばらく歩いたところで、潮の匂いを含んだぬるい風が真歩の頬を撫でた。ロータリーの案内板の前で足を止める。
『魚の棚(うおんたな)商店街』
矢印が指し示す方向を眺める。いつもならスマートフォンを取り出し、マップで最短ルートを検索し、評価が高い店をフィルタリングして向かうところだ。しかし真歩は、ポケットの中で振動するスマホに触れる手を止めた。
(今日は……もう、調べるのも嫌だな)
検索しない。最短を選ばない。効率を求めない。それは、今の真歩にとって、ささやかな無駄な抗いに過ぎなかった。
☆
アーケードの入口に足を踏み入れた瞬間、真歩の視界と聴覚が一変した。
「はい、いらっしゃい! 今日のタコ、活きええで!」
「お姉さん、見てって! 揚がったばっかりの鯛、安いで!」
威勢のいい関西弁が、あちこちから飛び交っている。両側にひしめき合う鮮魚店の店先には、木箱に盛られた赤々とした明石ダコや、銀色に輝く鯛が威風堂々と並べられている。売り子の活気ある掛け声、氷が溶けて滴る水の音、練り物を揚げる香ばしい匂い、焼き魚の香煙。静寂で無機質なオフィスと、数字とグラフだけに囲まれていた真歩の感覚に、生々しい日常の色彩が一気に押し寄せてきた。
「すごい……」
あまりの雑然さと熱気に圧倒されながら、真歩は流されるように商店街の奥へと歩みを進めた。誰も真歩のスーツ姿を気にしていない。ここでは、プレゼンの成否も、残業時間の超過も、何の意味も持たなかった。
アーケードの中ほどを過ぎたあたりで、ふと小さな店の前で足が止まった。赤い暖簾には、古びた文字で『玉子焼』とだけ書かれている。
東京では『明石焼き』と呼ばれる食べ物だ。お好み焼きやたこ焼きとは違う、出汁で食べる黄色い丸。真歩は吸い寄せられるように引き戸を開けた。
「いらっしゃい。おひとり?」
カウンターの奥から、白髪をひとつにまとめた小柄なおばちゃんが声をかけてきた。店内に先客はおらず、パイプ椅子が数脚並んでいるだけのこじんまりとした空間だった。
「あ、はい。一人です」
「そこ座って。玉子焼でええな?」
「はい、お願いします」
注文を聞くと、おばちゃんは手際よく銅板に向かい、黄色い生地を流し込んだ。カチカチと銅板を叩くリズムが良い。ほんの数分で、木製の傾斜がついた板の上に、綺麗に並んだ十五個の黄金色の丸が運ばれてきた。三つ葉が浮かぶ温かい出汁の入った椀も添えられる。
「はい、お待たせ。熱いから気ぃつけや」
出汁のいい香りが立ち上り、真歩の胃袋が小さく鳴った。昼食を取る余裕すらないまま挑んだプレゼンだった。真歩はお箸を取り、急いで一番手前の玉子焼をつまみ上げた。早く口にして、この空腹と敗北感を打ち消したかった。早く、手際よく、すぐに。
しかし、箸で持ち上げた瞬間、ふわふわの生地が重みに耐えかねて崩れそうになる。慌てて出汁に潜らせ、そのまま口に放り込もうとした。
「あかんあかん! そんな急いで食べたら、口ん中やけどするで!」
おばちゃんが笑いながら、手元を制した。
「ちょっと待ったらええねん。出汁の中でちょっと休ませて、熱が少し落ち着いてから食べなはれ」
「……え?」
真歩の動きが止まった。
『ちょっと待ったらええねん』
たったそれだけの言葉が、胸の奥深くに重く落ちてきた。
待つ? 待ったらいい?
真歩の人生には、「待つ」という選択肢が存在しなかった。メールが来れば即座に返信し、問題が起きれば即座に解決策を提示し、予定が空けば次の業務を突っ込む。「早く」「すぐに」「今日中に」「効率よく」。そうやって背中を押され続け、自分自身でも拍車をかけ続けてきたのだ。
出汁の中に沈んだ玉子焼を見る。表面の熱気がふわりと和らぎ、琥珀色のスープになじんでいく。
真歩はおばちゃんに言われた通り、十数秒間、じっと待った。時計の針を気にせず、ただ目の前の一粒が冷めるのを待つ。
そっと箸ですくい上げ、口へと運ぶ。
――ふわっ、と口の中で生地がほどけた。
豊かな出汁の旨味と、卵の上質な甘みが一気に広がる。そして中心にある明石ダコのぷりっとした弾力のある食感。出汁の温かさが、喉を通って胃の中にじんわりと広がっていく。
「……おいしい」
思わず呟いた真歩の声は、少し震えていた。
「ふふ、せやろ? 急いで食べても、味が分からんくなったらもったいないからな」
おばちゃんは満足そうに笑い、奥で仕込みを再開した。
二個目、三個目と食べ進めるうちに、プレゼンで失敗したときの冷や汗や、上司からのチャットを見たときの動悸、全身を縛り上げていた緊張が、温かい出汁とともに少しずつ解けていくのが分かった。冷めるのを待つ時間すらも、ごちそうの一部だったのだ。
☆
店を出ると、外の空気は少しだけ涼しくなっていた。十五個の玉子焼を平らげたお腹は心地よく満たされていたが、真歩はまだ駅へ戻る気になれなかった。
アーケードをさらに歩くと、練り物屋の店先から油の香ばしい匂いが漂ってきた。揚げたてのタコ天を一つ買い、紙に包んでもらって歩き食いをする。東京では決してしない行儀の悪い振る舞いが、今は不思議と心地よかった。
「お姉さん、それうまそうに食べるなぁ」
通りすがりの鮮魚店のおじさんが声をかけてきた。
「あ、すごく美味しいです。タコがぷりぷりで」
「せやろ! これ、今日の昼網のやつやからな!」
「昼網……ですか?」
真歩が首を傾げると、おじさんは誇らしげに胸を張った。
「明石はな、朝だけやなくて昼にも競りがあるんや。午前中に獲れた魚が、午後にはもう店に並ぶ。それが『昼網』や。だから新鮮さがちゃうねん」
「今日獲れたものが、今日並ぶ……」
「そうやで! 今日獲れたもんを、今日食べる。一番贅沢なことやろ?」
おじさんはガハハと笑って、次の客の相手に向かった。
今日獲れた魚を、今日食べる。あらかじめ計画された物流や長期的な保存技術ではなく、その日の自然の恵みを、その日のうちに受け取る暮らし。明日や来週の数字ばかりを追いかけ、今日という一日を消化試合のように通り過ぎさせていた真歩にとって、それはどこか眩しく、贅沢な生き方に見えた。
ふと、ポケットの中のスマートフォンを取り出す。時刻は十七時十五分。
明石駅から新大阪まで在来線を使い、新幹線への乗り換えまで一時間程度はかかる。予約した新幹線の発車時刻まで、あと一時間を切っていた。
以前の真歩なら、「大変、乗り遅れる!」と青ざめて走っていたはずだ。効率的な乗り換えルートを検索し、足早に駅へ向かっただろう。だが今の真歩は、画面を見て、ふっと小さく笑ってしまった。
(まあ、遅れたら次の自由席に乗ればいいか)
そんな考えが自分の中から出てきたことに、一番驚いたのは真歩自身だった。
☆
在来線の新快速の窓の外を、夕暮れの明石の街並みが流れていく。
明石駅を出て間もなく、真歩は車窓の向こうに白い時計塔がそびえているのを見つけた。
「……明石市立天文科学館」
案内板で読んだ記憶が蘇る。東経百三十五度、日本標準時を定める子午線が通る町。
この国全体の時間を刻む基準となる町で、自分は今日、ほんの二時間ちょっとだけ、決められた時間から外れて迷子になっていたのだ。
日本中が正しい時間を刻んで動いている中で、自分だけが少し立ち止まり、熱い玉子焼が冷めるのを待ち、昼網のタコを食べた。けれど、世界は壊れなかったし、自分だって何も失わなかった。
(それで、よかったんだ)
白い時計塔は、やがて流れていく街並みの向こうへ遠ざかっていった。
☆
新大阪駅に着いた頃には、予約していた新幹線はすでに発車していた。
以前の真歩なら、ホームで時刻表を睨みながら、自分の判断を何度も責めていただろう。
けれど今日は、不思議と焦りはなかった。
次の東京行きの新幹線に乗り込み、真歩は自由席のシートに腰を下ろした。
鞄からノートパソコンを取り出す。いつもなら、ここで即座に「本日のプレゼンに関する反省と今後の対策」という題名の報告書を書き始める場面だ。
しかし、真歩は文章作成ソフトのアイコンをクリックしなかった。
代わりにスマートフォンをパソコンに接続し、写真フォルダを開いた。
画面に映し出されたのは、湯気が立ち上る黄色い玉子焼、活きのいいタコが並んだ魚屋の店先、そしてどこか懐かしいアーケードの風景。
東京へ戻れば、明日もまた厳しい現実が待っている。プレゼンの失敗を取り戻すための挽回策を練らなければならないし、上司からの詰めも待っているだろう。分刻みのスケジュールは、明日も容赦なく真歩を追い立てるはずだ。
それでも。
(空いた時間を、全部仕事で埋めなくてもいい)
そのことだけは、今日の明石で、あの熱々の出汁の中で学んだ。
真歩はカレンダーアプリを開き、明日のスケジューラーを表示させた。十二時からの枠に入っていた『資料修正・提出』という予定をタップする。
そして、躊躇なく『削除』ボタンを押した。
代わりに、まっさらになったその一時間の枠に、文字を打ち込む。
『昼ごはん』
それだけを入力し終えると、真歩はそっとノートパソコンの画面を閉じた。車窓の外を流れる街並みは、すっかり夜の闇に包まれ始めていた。
第2話 予定表の「昼ごはん」
翌朝のオフィスは、相変わらず静かな打鍵音に包まれていた。昨日訪れた明石の、魚の匂いと威勢のいい掛け声が飛び交う商店街とは、まるで別世界だった。
真歩はデスクに着くと、ルーティン通りにノートパソコンを起動させた。画面の右下に並ぶ通知メッセージが次々とポップアップし、チャットツールの赤い未読バッジが数字を増やしていく。
「高鳥、おはよう。昨日の件だけど」
デスクの横に立ったのは、直属の上司である部長の佐伯だった。腕を組み、険しい眉根を寄せたまま真歩の画面を見下ろしてくる。
「明石の件、報告書見たよ。……というか、昨日のうちに送られてこなかったからどうしたのかと思ったが」
「申し訳ありません。昨夜は帰りの新幹線で考えを整理し、今朝一番で送信いたしました」
真歩は席を立ち、ゆっくりと頭を下げた。昨日の新幹線の中では、真歩は報告書を書かずに魚の棚の写真を見ていた。報告書を書き上げたのは、今朝少し早く出社してからのことだ。以前の自分なら、昨夜のうちに睡眠時間を削ってでも提出していただろう。
佐伯は小さく鼻を鳴らし、手元のメモ帳を指で叩いた。
「まあいい。で、報告書にもあったが、先方が言っていた『現場の運用イメージ』ってやつだな。先方に合わせすぎる必要はないだろう。基本パッケージを納得させるのも営業の仕事だ」
けれど、真歩の脳裏に、昨日の魚屋のおじさんの言葉が不意に蘇った。
『今日獲れたもんを、今日食べる。一番贅沢なことやろ?』
決まった型に相手を当てはめるのではなく、その場にあるものを見る。
先方が求めていたのは、そういうことなのかもしれない。
「……部長」
真歩は佐伯の目を真っ直ぐに見返した。
「先方の現場は、工場ごとの職人さんの手作業や長年の経験則に強く依存しています。効率化の数値を提示するだけでは、彼らにとって『自分たちの仕事が否定された』と感じられるのかもしれません。もう少し、現場の作業フローに寄り添った再提案の形を考えさせていただけないでしょうか」
佐伯は一瞬驚いたように目を見開いた。普段なら「わかりました、なんとか説得してみます」と答えるはずの真歩が、はっきりと意見を口にしたからだ。
「……まあ、再提案のチャンスがあるならやってみろ。ただし、今週中に修正案を出せよ。スケジュールは遅らせるな」
そう言い残して、佐伯は自分の席へと戻っていった。
☆ ☆ ☆
午前中の業務は、怒涛のような打ち合わせとメール対応で飛ぶように過ぎていった。気づけば時計の針は十二時を回っていた。
普段なら、この時間帯もデスクでパソコン画面を睨みながら、片手でコンビニのサンドイッチを口に押し込んでいるところだ。空いた時間は資料作成に充てる。それが真歩のスタイルだった。
だが、今日の真歩のカレンダーには、昨日新幹線の中で入力した予定がそのまま残っていた。
『12:00 - 13:00 昼ごはん』
隣の席の同僚・小林が、キーボードを激しく叩きながら溜め息をつく。
「あー、もう十二時か。高鳥さん、午後の顧客会議の準備、もう終わりました? 私、全然終わらなくて昼食べる時間なさそうですわ……」
「小林さん」
真歩は立ち上がり、バッグを手にした。
「少し外で食べてきます。帰ってきたら、準備手伝いますね」
「えっ、高鳥さんが外食? 珍しいですね……」
小林が目を丸くするのを背に、真歩はオフィスを出た。エレベーターで一階まで下り、ビルを出る。蒸し暑い都心の風が吹き抜けたが、ビル街の隙間に広がる青空がやけに鮮やかに見えた。
ビルから徒歩五分ほど離れた路地裏にある、小さな定食屋に入った。オフィス街の中心から少し外れたそこは、近所の会社員や地域の人々が集まる、飾らない雰囲気の店だった。
「いらっしゃい! 日替わりはサバの味噌煮ね!」
威勢のいい店主の声。真歩はカウンター席に座り、日替わり定食を注文した。
料理が運ばれてくるまでの数分間、真歩はスマートフォンをポケットから取り出さなかった。いつもならSNSのチェックやメールの返信で埋めてしまう「待ち時間」だ。
店内を見渡すと、少し離れたテーブル席では老夫婦が仲良く小鉢を突ついており、隣のサラリーマンは新聞を読んでいる。厨房からは、魚を煮付ける甘辛い醤油の香りと、出汁の湯気が立ち上っていた。
(……あ、出汁の匂い)
昨日、魚の棚の小さな店で食べた玉子焼を思い出す。熱々で、出汁の中に沈めて少し冷めるのを待った、あの十数秒間。
「はい、サバ味噌定食お待たせ!」
運ばれてきたサバ味噌定食から、湯気と甘辛い香りが立ち上っていた。
真歩はまず味噌汁を一口すすった。温かな旨味が、じわりと体に染みていく。
急いで食べない。一口ずつ、味わう。
たった三十分ほどの食事だったが、スマートフォンを見ずに目の前の料理だけに向き合っていると、不思議なくらい頭がすっきりしてきた。
(私は、今までどれだけの時間を『こなす』ためだけに消費してきたんだろう)
食事を終え、お会計を済ませて外に出ると、午後からの仕事に対する嫌なプレッシャーが、不思議と軽くなっていることに気づいた。頭の中がすっきりと整理され、さっき佐伯部長と話した明石の案件についても、新しいアイデアがふつふつと湧いてくる。
☆ ☆ ☆
オフィスに戻ると、真歩は昼食前よりずっと落ち着いて仕事に向き合えた。
困っていた小林の資料にも目を通し、いくつか助言する。
「高鳥さん、今日はなんか余裕ありますね」
そう言われて、真歩はフッと微笑んだ。
そうかもしれない。昼食のために空けた時間は、思っていた以上に真歩の中にも余白を作っていた。
定時を少し過ぎた頃、真歩は明石のメーカー向け再提案資料の骨子を書き上げた。
今度は数字だけではなく、現場で働く人たちの姿を思い浮かべながら作った資料だった。
『ちょっと待ったらええねん』
魚の棚のおばちゃんの声が、再び耳の奥で再生される。
急いで答えを出そうとせず、相手のペースを待ち、寄り添うこと。
真歩は満足のいく出来になった骨子案をファイルに保存すると、パソコンをシャットダウンした。
このまま残って完成版まで仕上げようと思えばできた。けれど、今日はここまでにしておこうと決めた。頭を休ませ、明日またフレッシュな目で確認する方が、良い仕事ができると知ったからだ。
バッグを肩にかけ、オフィスを出る。
エレベーターを待つ間、真歩はスマートフォンのカレンダーを開いた。明日の十二時にも、やはり「昼ごはん」の予定が入っている。
(明日は、何を食べようかな)
東京の喧騒へと続く夜の街へ踏み出しながら、真歩はほんの少しだけ、足取りが軽くなっている自分を感じていた。
第3話 潮風と出汁の再会
一週間後、真歩は再び明石へ向かっていた。
膝の上のブリーフケースには、この一週間かけて練り上げた明石の製造メーカーへの再提案資料が入っている。
☆
JR明石駅のホームに降り立つと、ほのかに湿り気を帯びた潮風が頬を撫でた。一週間前に感じた焦燥感はもうない。真歩の足取りは、前回の訪問時とは比べものにならないほど確かだった。
「高鳥さん、わざわざ再提案に来ていただけるとは」
役員の木村が、現場責任者の山下とともに真歩を迎えた。
テーブルの上に提示したのは、数値の削減目標を前面に出した以前の資料とは一線を画す内容だ。現場の職人たちの作業手順に合わせ、彼らの「長年の勘」を補助するためのシンプルな画面設計と、余剰時間でどのように現場の安全や品質管理を向上させるかというストーリーを丁寧に盛り込んでいた。
山下が手元の資料をじっくりとめくり、ふっと眉間のシワを緩めた。
「……うん。これなら現場の連中も“自分たちの仕事が否定された”とは思わんだろうな。うちの手順をよく考えてくれたのが伝わるよ」
「ありがとうございます」
真歩は深く頭を下げた。
「数値の効率化は、現場で働く方々の“ゆとり”を生み出すためのものです。そのゆとりが、御社の質の高いものづくりを支えるのだと考えています」
木村役員も満足そうに頷いた。
「前回の商談の時とは、目の輝きが違うね、高鳥さん。良い提案をありがとう。もちろん、現場との細かな調整や社内での確認はまだ必要だが、この方向で前向きに進めたいと思う」
☆ ☆ ☆
打ち合わせを終え、確かな手応えを胸に、真歩はメーカーのオフィスを後にした。時計を見ると、時刻は午後一時を回ったところだった。
足は自然と、あの商店街へと向かっていた。アーケードの入口に掲げられた「魚の棚 UONTANA」の看板が見えると、真歩の口元がゆるんだ。
昼過ぎのアーケード内は、買い出しの客や観光客でにぎわっている。活気ある声が行き交う通路を進み、真歩は先日立ち寄った小さな玉子焼店を目指した。
赤いのれんをくぐると、店内はちょうど一巡目の客が引けたところだった。焼き台の前で銅板を拭いていたおばちゃんが、真歩の姿を見るなり破顔した。
「あら! お姉さん、また来てくれたん! 東京に帰ったと思ってたわ」
「お久しぶりです。今日は打ち合わせの帰りに、どうしてもここの玉子焼が食べたくて」
カウンター席に腰を下ろすと、おばちゃんは手際よく生地を混ぜ、焼き台へと流し込んでいく。カチャカチャという心地よい金属音とともに、出汁と焼き上がる卵の芳しい香りが店内に広がった。
「仕事、うまくいったんか?」
「はい。おばちゃんが前に『ちょっと待ったらええねん』って言ってくれたおかげです。相手のペースを待って、寄り添う気持ちを持てました」
おばちゃんは焼き上がりつつある玉子焼をくるりと返しながら笑った。
「そりゃよかったわ。人間、焦ってもええことないからな。ほい、お待たせ!」
木の板に乗せられた熱々の玉子焼が目の前に運ばれてきた。三つ葉が浮かぶ温かい出汁にそっと潜らせる。出汁がじんわりと生地に染み込むのを一呼吸待ってから口に運んだ。
ふんわりとした食感と、明石ダコのぷりっとした噛みごたえ。そして口いっぱいに広がる優しい出汁の味。前回来た時よりも、ずっと深くその美味しさを味わえている自分がいた。
☆ ☆ ☆
店を出た後、真歩はすぐには駅に向かわず、少し遠回りをして魚の棚の裏路地へと足を踏み入れた。
古びた木造の建物や小料理屋が並ぶ細い路地には、アーケードの喧騒とは異なる静かな時間が流れていた。ふと足をとめると、路地の隙間から明石海峡大橋の雄大な姿と、光る海が見えた。
スマートフォンを取り出し、予定表を開く。びっしりと詰まったスケジュールの間に、ポツンと残された「余白」。かつての自分にとって恐ろしい空白だったものは、今では次の思考を生み出し、自分自身を取り戻すための大切な「居場所」になっていた。
「迷うのも、悪くないな」
通り抜ける潮風をいっぱいに吸い込みながら、真歩は呟いた。
そして、ゆっくりとJR明石駅へ向かって歩き出した。バッグの中の書類は重かったが、足取りは軽かった。
(了)
高鳥真歩(たかとり まほ)は、JR明石駅へ向かう道の途中で足を止め、こめかみを指先で強く押さえた。
「……はあ」
声にならない溜め息が喉の奥でつかえ、生ぬるい空気となって口から漏れた。
東京のIT企業で営業職を務めて今年で十年目。三十二歳になった真歩の毎日は、完璧に構造化されたスケジュール表によって支配されていた。五分単位で設定されたアラーム、絶え間なく届くメール通知、移動中にこなすチャットツールの返信、週に何度も行われるオンライン会議。空いた時間があれば、次のタスクを詰め込むのが当たり前だった。効率こそが正義であり、遅延は悪だった。
だが、今日の出張は、その完璧な設計図が根底から瓦解した一日となった。
兵庫県明石市にある大手製造メーカーへの新規システム導入プレゼン。数ヶ月前から準備を進め、昨夜も深夜二時まで資料のブラッシュアップを重ねて臨んだはずだった。
肩までの髪をきっちりと結び、紺色のスーツに身を包み、身だしなみにも隙はなかった。
しかし、相手方の役員陣の反応は終始冷ややかだった。
『高鳥さん、提案のロジックは綺麗ですが、うちの現場の泥臭い動きがまったく見えていませんね』
提示されたのは拒絶に近い保留。打ち合わせが終わった直後、社内のチャットツールには上司からの短文が届いていた。
《後で電話。今回の件、かなり厳しいぞ》。
商談が予定よりも大幅に早く打ち切られたため、真歩は途方にもなく中途半端な時間を持て余すことになった。予約した東京行きの新幹線の発車時刻までは、まだ三時間以上もある。本来なら、一番近いカフェに飛び込み、ノートパソコンを開いて敗因分析の報告書をまとめ始めるべきだった。
パソコンを開く気力が、どうしても湧いてこなかった。指先が重い。画面に並ぶ文字が、ただの不規則な黒い点にしか見えない。
しばらく歩いたところで、潮の匂いを含んだぬるい風が真歩の頬を撫でた。ロータリーの案内板の前で足を止める。
『魚の棚(うおんたな)商店街』
矢印が指し示す方向を眺める。いつもならスマートフォンを取り出し、マップで最短ルートを検索し、評価が高い店をフィルタリングして向かうところだ。しかし真歩は、ポケットの中で振動するスマホに触れる手を止めた。
(今日は……もう、調べるのも嫌だな)
検索しない。最短を選ばない。効率を求めない。それは、今の真歩にとって、ささやかな無駄な抗いに過ぎなかった。
☆
アーケードの入口に足を踏み入れた瞬間、真歩の視界と聴覚が一変した。
「はい、いらっしゃい! 今日のタコ、活きええで!」
「お姉さん、見てって! 揚がったばっかりの鯛、安いで!」
威勢のいい関西弁が、あちこちから飛び交っている。両側にひしめき合う鮮魚店の店先には、木箱に盛られた赤々とした明石ダコや、銀色に輝く鯛が威風堂々と並べられている。売り子の活気ある掛け声、氷が溶けて滴る水の音、練り物を揚げる香ばしい匂い、焼き魚の香煙。静寂で無機質なオフィスと、数字とグラフだけに囲まれていた真歩の感覚に、生々しい日常の色彩が一気に押し寄せてきた。
「すごい……」
あまりの雑然さと熱気に圧倒されながら、真歩は流されるように商店街の奥へと歩みを進めた。誰も真歩のスーツ姿を気にしていない。ここでは、プレゼンの成否も、残業時間の超過も、何の意味も持たなかった。
アーケードの中ほどを過ぎたあたりで、ふと小さな店の前で足が止まった。赤い暖簾には、古びた文字で『玉子焼』とだけ書かれている。
東京では『明石焼き』と呼ばれる食べ物だ。お好み焼きやたこ焼きとは違う、出汁で食べる黄色い丸。真歩は吸い寄せられるように引き戸を開けた。
「いらっしゃい。おひとり?」
カウンターの奥から、白髪をひとつにまとめた小柄なおばちゃんが声をかけてきた。店内に先客はおらず、パイプ椅子が数脚並んでいるだけのこじんまりとした空間だった。
「あ、はい。一人です」
「そこ座って。玉子焼でええな?」
「はい、お願いします」
注文を聞くと、おばちゃんは手際よく銅板に向かい、黄色い生地を流し込んだ。カチカチと銅板を叩くリズムが良い。ほんの数分で、木製の傾斜がついた板の上に、綺麗に並んだ十五個の黄金色の丸が運ばれてきた。三つ葉が浮かぶ温かい出汁の入った椀も添えられる。
「はい、お待たせ。熱いから気ぃつけや」
出汁のいい香りが立ち上り、真歩の胃袋が小さく鳴った。昼食を取る余裕すらないまま挑んだプレゼンだった。真歩はお箸を取り、急いで一番手前の玉子焼をつまみ上げた。早く口にして、この空腹と敗北感を打ち消したかった。早く、手際よく、すぐに。
しかし、箸で持ち上げた瞬間、ふわふわの生地が重みに耐えかねて崩れそうになる。慌てて出汁に潜らせ、そのまま口に放り込もうとした。
「あかんあかん! そんな急いで食べたら、口ん中やけどするで!」
おばちゃんが笑いながら、手元を制した。
「ちょっと待ったらええねん。出汁の中でちょっと休ませて、熱が少し落ち着いてから食べなはれ」
「……え?」
真歩の動きが止まった。
『ちょっと待ったらええねん』
たったそれだけの言葉が、胸の奥深くに重く落ちてきた。
待つ? 待ったらいい?
真歩の人生には、「待つ」という選択肢が存在しなかった。メールが来れば即座に返信し、問題が起きれば即座に解決策を提示し、予定が空けば次の業務を突っ込む。「早く」「すぐに」「今日中に」「効率よく」。そうやって背中を押され続け、自分自身でも拍車をかけ続けてきたのだ。
出汁の中に沈んだ玉子焼を見る。表面の熱気がふわりと和らぎ、琥珀色のスープになじんでいく。
真歩はおばちゃんに言われた通り、十数秒間、じっと待った。時計の針を気にせず、ただ目の前の一粒が冷めるのを待つ。
そっと箸ですくい上げ、口へと運ぶ。
――ふわっ、と口の中で生地がほどけた。
豊かな出汁の旨味と、卵の上質な甘みが一気に広がる。そして中心にある明石ダコのぷりっとした弾力のある食感。出汁の温かさが、喉を通って胃の中にじんわりと広がっていく。
「……おいしい」
思わず呟いた真歩の声は、少し震えていた。
「ふふ、せやろ? 急いで食べても、味が分からんくなったらもったいないからな」
おばちゃんは満足そうに笑い、奥で仕込みを再開した。
二個目、三個目と食べ進めるうちに、プレゼンで失敗したときの冷や汗や、上司からのチャットを見たときの動悸、全身を縛り上げていた緊張が、温かい出汁とともに少しずつ解けていくのが分かった。冷めるのを待つ時間すらも、ごちそうの一部だったのだ。
☆
店を出ると、外の空気は少しだけ涼しくなっていた。十五個の玉子焼を平らげたお腹は心地よく満たされていたが、真歩はまだ駅へ戻る気になれなかった。
アーケードをさらに歩くと、練り物屋の店先から油の香ばしい匂いが漂ってきた。揚げたてのタコ天を一つ買い、紙に包んでもらって歩き食いをする。東京では決してしない行儀の悪い振る舞いが、今は不思議と心地よかった。
「お姉さん、それうまそうに食べるなぁ」
通りすがりの鮮魚店のおじさんが声をかけてきた。
「あ、すごく美味しいです。タコがぷりぷりで」
「せやろ! これ、今日の昼網のやつやからな!」
「昼網……ですか?」
真歩が首を傾げると、おじさんは誇らしげに胸を張った。
「明石はな、朝だけやなくて昼にも競りがあるんや。午前中に獲れた魚が、午後にはもう店に並ぶ。それが『昼網』や。だから新鮮さがちゃうねん」
「今日獲れたものが、今日並ぶ……」
「そうやで! 今日獲れたもんを、今日食べる。一番贅沢なことやろ?」
おじさんはガハハと笑って、次の客の相手に向かった。
今日獲れた魚を、今日食べる。あらかじめ計画された物流や長期的な保存技術ではなく、その日の自然の恵みを、その日のうちに受け取る暮らし。明日や来週の数字ばかりを追いかけ、今日という一日を消化試合のように通り過ぎさせていた真歩にとって、それはどこか眩しく、贅沢な生き方に見えた。
ふと、ポケットの中のスマートフォンを取り出す。時刻は十七時十五分。
明石駅から新大阪まで在来線を使い、新幹線への乗り換えまで一時間程度はかかる。予約した新幹線の発車時刻まで、あと一時間を切っていた。
以前の真歩なら、「大変、乗り遅れる!」と青ざめて走っていたはずだ。効率的な乗り換えルートを検索し、足早に駅へ向かっただろう。だが今の真歩は、画面を見て、ふっと小さく笑ってしまった。
(まあ、遅れたら次の自由席に乗ればいいか)
そんな考えが自分の中から出てきたことに、一番驚いたのは真歩自身だった。
☆
在来線の新快速の窓の外を、夕暮れの明石の街並みが流れていく。
明石駅を出て間もなく、真歩は車窓の向こうに白い時計塔がそびえているのを見つけた。
「……明石市立天文科学館」
案内板で読んだ記憶が蘇る。東経百三十五度、日本標準時を定める子午線が通る町。
この国全体の時間を刻む基準となる町で、自分は今日、ほんの二時間ちょっとだけ、決められた時間から外れて迷子になっていたのだ。
日本中が正しい時間を刻んで動いている中で、自分だけが少し立ち止まり、熱い玉子焼が冷めるのを待ち、昼網のタコを食べた。けれど、世界は壊れなかったし、自分だって何も失わなかった。
(それで、よかったんだ)
白い時計塔は、やがて流れていく街並みの向こうへ遠ざかっていった。
☆
新大阪駅に着いた頃には、予約していた新幹線はすでに発車していた。
以前の真歩なら、ホームで時刻表を睨みながら、自分の判断を何度も責めていただろう。
けれど今日は、不思議と焦りはなかった。
次の東京行きの新幹線に乗り込み、真歩は自由席のシートに腰を下ろした。
鞄からノートパソコンを取り出す。いつもなら、ここで即座に「本日のプレゼンに関する反省と今後の対策」という題名の報告書を書き始める場面だ。
しかし、真歩は文章作成ソフトのアイコンをクリックしなかった。
代わりにスマートフォンをパソコンに接続し、写真フォルダを開いた。
画面に映し出されたのは、湯気が立ち上る黄色い玉子焼、活きのいいタコが並んだ魚屋の店先、そしてどこか懐かしいアーケードの風景。
東京へ戻れば、明日もまた厳しい現実が待っている。プレゼンの失敗を取り戻すための挽回策を練らなければならないし、上司からの詰めも待っているだろう。分刻みのスケジュールは、明日も容赦なく真歩を追い立てるはずだ。
それでも。
(空いた時間を、全部仕事で埋めなくてもいい)
そのことだけは、今日の明石で、あの熱々の出汁の中で学んだ。
真歩はカレンダーアプリを開き、明日のスケジューラーを表示させた。十二時からの枠に入っていた『資料修正・提出』という予定をタップする。
そして、躊躇なく『削除』ボタンを押した。
代わりに、まっさらになったその一時間の枠に、文字を打ち込む。
『昼ごはん』
それだけを入力し終えると、真歩はそっとノートパソコンの画面を閉じた。車窓の外を流れる街並みは、すっかり夜の闇に包まれ始めていた。
第2話 予定表の「昼ごはん」
翌朝のオフィスは、相変わらず静かな打鍵音に包まれていた。昨日訪れた明石の、魚の匂いと威勢のいい掛け声が飛び交う商店街とは、まるで別世界だった。
真歩はデスクに着くと、ルーティン通りにノートパソコンを起動させた。画面の右下に並ぶ通知メッセージが次々とポップアップし、チャットツールの赤い未読バッジが数字を増やしていく。
「高鳥、おはよう。昨日の件だけど」
デスクの横に立ったのは、直属の上司である部長の佐伯だった。腕を組み、険しい眉根を寄せたまま真歩の画面を見下ろしてくる。
「明石の件、報告書見たよ。……というか、昨日のうちに送られてこなかったからどうしたのかと思ったが」
「申し訳ありません。昨夜は帰りの新幹線で考えを整理し、今朝一番で送信いたしました」
真歩は席を立ち、ゆっくりと頭を下げた。昨日の新幹線の中では、真歩は報告書を書かずに魚の棚の写真を見ていた。報告書を書き上げたのは、今朝少し早く出社してからのことだ。以前の自分なら、昨夜のうちに睡眠時間を削ってでも提出していただろう。
佐伯は小さく鼻を鳴らし、手元のメモ帳を指で叩いた。
「まあいい。で、報告書にもあったが、先方が言っていた『現場の運用イメージ』ってやつだな。先方に合わせすぎる必要はないだろう。基本パッケージを納得させるのも営業の仕事だ」
けれど、真歩の脳裏に、昨日の魚屋のおじさんの言葉が不意に蘇った。
『今日獲れたもんを、今日食べる。一番贅沢なことやろ?』
決まった型に相手を当てはめるのではなく、その場にあるものを見る。
先方が求めていたのは、そういうことなのかもしれない。
「……部長」
真歩は佐伯の目を真っ直ぐに見返した。
「先方の現場は、工場ごとの職人さんの手作業や長年の経験則に強く依存しています。効率化の数値を提示するだけでは、彼らにとって『自分たちの仕事が否定された』と感じられるのかもしれません。もう少し、現場の作業フローに寄り添った再提案の形を考えさせていただけないでしょうか」
佐伯は一瞬驚いたように目を見開いた。普段なら「わかりました、なんとか説得してみます」と答えるはずの真歩が、はっきりと意見を口にしたからだ。
「……まあ、再提案のチャンスがあるならやってみろ。ただし、今週中に修正案を出せよ。スケジュールは遅らせるな」
そう言い残して、佐伯は自分の席へと戻っていった。
☆ ☆ ☆
午前中の業務は、怒涛のような打ち合わせとメール対応で飛ぶように過ぎていった。気づけば時計の針は十二時を回っていた。
普段なら、この時間帯もデスクでパソコン画面を睨みながら、片手でコンビニのサンドイッチを口に押し込んでいるところだ。空いた時間は資料作成に充てる。それが真歩のスタイルだった。
だが、今日の真歩のカレンダーには、昨日新幹線の中で入力した予定がそのまま残っていた。
『12:00 - 13:00 昼ごはん』
隣の席の同僚・小林が、キーボードを激しく叩きながら溜め息をつく。
「あー、もう十二時か。高鳥さん、午後の顧客会議の準備、もう終わりました? 私、全然終わらなくて昼食べる時間なさそうですわ……」
「小林さん」
真歩は立ち上がり、バッグを手にした。
「少し外で食べてきます。帰ってきたら、準備手伝いますね」
「えっ、高鳥さんが外食? 珍しいですね……」
小林が目を丸くするのを背に、真歩はオフィスを出た。エレベーターで一階まで下り、ビルを出る。蒸し暑い都心の風が吹き抜けたが、ビル街の隙間に広がる青空がやけに鮮やかに見えた。
ビルから徒歩五分ほど離れた路地裏にある、小さな定食屋に入った。オフィス街の中心から少し外れたそこは、近所の会社員や地域の人々が集まる、飾らない雰囲気の店だった。
「いらっしゃい! 日替わりはサバの味噌煮ね!」
威勢のいい店主の声。真歩はカウンター席に座り、日替わり定食を注文した。
料理が運ばれてくるまでの数分間、真歩はスマートフォンをポケットから取り出さなかった。いつもならSNSのチェックやメールの返信で埋めてしまう「待ち時間」だ。
店内を見渡すと、少し離れたテーブル席では老夫婦が仲良く小鉢を突ついており、隣のサラリーマンは新聞を読んでいる。厨房からは、魚を煮付ける甘辛い醤油の香りと、出汁の湯気が立ち上っていた。
(……あ、出汁の匂い)
昨日、魚の棚の小さな店で食べた玉子焼を思い出す。熱々で、出汁の中に沈めて少し冷めるのを待った、あの十数秒間。
「はい、サバ味噌定食お待たせ!」
運ばれてきたサバ味噌定食から、湯気と甘辛い香りが立ち上っていた。
真歩はまず味噌汁を一口すすった。温かな旨味が、じわりと体に染みていく。
急いで食べない。一口ずつ、味わう。
たった三十分ほどの食事だったが、スマートフォンを見ずに目の前の料理だけに向き合っていると、不思議なくらい頭がすっきりしてきた。
(私は、今までどれだけの時間を『こなす』ためだけに消費してきたんだろう)
食事を終え、お会計を済ませて外に出ると、午後からの仕事に対する嫌なプレッシャーが、不思議と軽くなっていることに気づいた。頭の中がすっきりと整理され、さっき佐伯部長と話した明石の案件についても、新しいアイデアがふつふつと湧いてくる。
☆ ☆ ☆
オフィスに戻ると、真歩は昼食前よりずっと落ち着いて仕事に向き合えた。
困っていた小林の資料にも目を通し、いくつか助言する。
「高鳥さん、今日はなんか余裕ありますね」
そう言われて、真歩はフッと微笑んだ。
そうかもしれない。昼食のために空けた時間は、思っていた以上に真歩の中にも余白を作っていた。
定時を少し過ぎた頃、真歩は明石のメーカー向け再提案資料の骨子を書き上げた。
今度は数字だけではなく、現場で働く人たちの姿を思い浮かべながら作った資料だった。
『ちょっと待ったらええねん』
魚の棚のおばちゃんの声が、再び耳の奥で再生される。
急いで答えを出そうとせず、相手のペースを待ち、寄り添うこと。
真歩は満足のいく出来になった骨子案をファイルに保存すると、パソコンをシャットダウンした。
このまま残って完成版まで仕上げようと思えばできた。けれど、今日はここまでにしておこうと決めた。頭を休ませ、明日またフレッシュな目で確認する方が、良い仕事ができると知ったからだ。
バッグを肩にかけ、オフィスを出る。
エレベーターを待つ間、真歩はスマートフォンのカレンダーを開いた。明日の十二時にも、やはり「昼ごはん」の予定が入っている。
(明日は、何を食べようかな)
東京の喧騒へと続く夜の街へ踏み出しながら、真歩はほんの少しだけ、足取りが軽くなっている自分を感じていた。
第3話 潮風と出汁の再会
一週間後、真歩は再び明石へ向かっていた。
膝の上のブリーフケースには、この一週間かけて練り上げた明石の製造メーカーへの再提案資料が入っている。
☆
JR明石駅のホームに降り立つと、ほのかに湿り気を帯びた潮風が頬を撫でた。一週間前に感じた焦燥感はもうない。真歩の足取りは、前回の訪問時とは比べものにならないほど確かだった。
「高鳥さん、わざわざ再提案に来ていただけるとは」
役員の木村が、現場責任者の山下とともに真歩を迎えた。
テーブルの上に提示したのは、数値の削減目標を前面に出した以前の資料とは一線を画す内容だ。現場の職人たちの作業手順に合わせ、彼らの「長年の勘」を補助するためのシンプルな画面設計と、余剰時間でどのように現場の安全や品質管理を向上させるかというストーリーを丁寧に盛り込んでいた。
山下が手元の資料をじっくりとめくり、ふっと眉間のシワを緩めた。
「……うん。これなら現場の連中も“自分たちの仕事が否定された”とは思わんだろうな。うちの手順をよく考えてくれたのが伝わるよ」
「ありがとうございます」
真歩は深く頭を下げた。
「数値の効率化は、現場で働く方々の“ゆとり”を生み出すためのものです。そのゆとりが、御社の質の高いものづくりを支えるのだと考えています」
木村役員も満足そうに頷いた。
「前回の商談の時とは、目の輝きが違うね、高鳥さん。良い提案をありがとう。もちろん、現場との細かな調整や社内での確認はまだ必要だが、この方向で前向きに進めたいと思う」
☆ ☆ ☆
打ち合わせを終え、確かな手応えを胸に、真歩はメーカーのオフィスを後にした。時計を見ると、時刻は午後一時を回ったところだった。
足は自然と、あの商店街へと向かっていた。アーケードの入口に掲げられた「魚の棚 UONTANA」の看板が見えると、真歩の口元がゆるんだ。
昼過ぎのアーケード内は、買い出しの客や観光客でにぎわっている。活気ある声が行き交う通路を進み、真歩は先日立ち寄った小さな玉子焼店を目指した。
赤いのれんをくぐると、店内はちょうど一巡目の客が引けたところだった。焼き台の前で銅板を拭いていたおばちゃんが、真歩の姿を見るなり破顔した。
「あら! お姉さん、また来てくれたん! 東京に帰ったと思ってたわ」
「お久しぶりです。今日は打ち合わせの帰りに、どうしてもここの玉子焼が食べたくて」
カウンター席に腰を下ろすと、おばちゃんは手際よく生地を混ぜ、焼き台へと流し込んでいく。カチャカチャという心地よい金属音とともに、出汁と焼き上がる卵の芳しい香りが店内に広がった。
「仕事、うまくいったんか?」
「はい。おばちゃんが前に『ちょっと待ったらええねん』って言ってくれたおかげです。相手のペースを待って、寄り添う気持ちを持てました」
おばちゃんは焼き上がりつつある玉子焼をくるりと返しながら笑った。
「そりゃよかったわ。人間、焦ってもええことないからな。ほい、お待たせ!」
木の板に乗せられた熱々の玉子焼が目の前に運ばれてきた。三つ葉が浮かぶ温かい出汁にそっと潜らせる。出汁がじんわりと生地に染み込むのを一呼吸待ってから口に運んだ。
ふんわりとした食感と、明石ダコのぷりっとした噛みごたえ。そして口いっぱいに広がる優しい出汁の味。前回来た時よりも、ずっと深くその美味しさを味わえている自分がいた。
☆ ☆ ☆
店を出た後、真歩はすぐには駅に向かわず、少し遠回りをして魚の棚の裏路地へと足を踏み入れた。
古びた木造の建物や小料理屋が並ぶ細い路地には、アーケードの喧騒とは異なる静かな時間が流れていた。ふと足をとめると、路地の隙間から明石海峡大橋の雄大な姿と、光る海が見えた。
スマートフォンを取り出し、予定表を開く。びっしりと詰まったスケジュールの間に、ポツンと残された「余白」。かつての自分にとって恐ろしい空白だったものは、今では次の思考を生み出し、自分自身を取り戻すための大切な「居場所」になっていた。
「迷うのも、悪くないな」
通り抜ける潮風をいっぱいに吸い込みながら、真歩は呟いた。
そして、ゆっくりとJR明石駅へ向かって歩き出した。バッグの中の書類は重かったが、足取りは軽かった。
(了)


