学年一の王子様は俺の彼氏になりたがってる

 理央と付き合い始めたからといって、翌日から学校生活が劇的に変わったわけではなかった。
 そもそも二人は、付き合う前から昼休みを一緒に過ごし、放課後には図書室で隣り合い、帰れる日は同じ道を歩いていた。連絡もほとんど毎日取っていたし、休日に二人で出かけたこともある。恋人という名前がついたからといって、今まで存在しなかった時間が急に増えるわけではなく、外から眺める限りでは昨日と今日で何が違うのか分からない程度の変化しかなかった。
 変わったのは、同じことをしていても、その意味を考えるようになったことだった。
 朝、教室へ向かう途中で理央と会えば、以前なら単に知り合いを見つけたと思ったはずなのに、今は一瞬だけ、彼氏がいた、と思う。
 昼休みが近づけば、そろそろ理央が来る頃だと無意識に時計を見る。放課後の図書室で向かいに座る顔を眺めた時には、学校中の女子が格好いいと騒いでいる男が自分の恋人なのだという事実をふと思い出し、妙に落ち着かない気分になることもあった。
 それでも、湊よりは理央のほうがずっと分かりやすく浮かれていた。
 付き合って最初の月曜日、昼休みになるなり教室まで迎えに来た理央は、いつもと同じように中庭へ向かいながら、廊下に人がいなくなったところで急に湊の袖を軽く引いた。
「何」
 足を止めると、理央は周囲を一度見たあと、声を少しだけ落とした。
「昨日からずっと思ってるんだけど、俺、本当に朝倉の彼氏なんだよね」
「今さら確認する?」
「だって昨日の夜、一回寝たら夢だったことになるんじゃないかと思った」
 真面目な顔でそんなことを言うので、湊はしばらく何も返せなかった。
 付き合おうと言ったのは自分で、昨夜もメッセージの最後におやすみと送り合った。現実であることを疑う余地などほとんどないはずなのに、理央にとってはそれでもまだ実感が足りないらしい。
「夢だったら俺が今ここにいるのおかしいだろ。ちゃんと彼氏だから安心しろよ」
 呆れながら答えると、理央は見るからに嬉しそうに笑った。
 こういう顔をされると、湊のほうまで少し照れ臭くなる。
 付き合い始める前から知っていたことだが、理央は自分が思っている以上に恋愛に夢を見ている。恋人になれば毎日何か特別なことが起こると思っているわけではないものの、呼び方一つ、約束一つにも妙に大きな意味を感じるらしく、湊が何気なく口にする「彼氏」という言葉すら大事そうに受け取る。
 中庭へ着き、いつものベンチに腰を下ろしてからも、理央はまだ機嫌がよかった。
「朝倉、今日帰り一緒でいい?」
「今までだって大体一緒だっただろ」
「今までは友達としてだったじゃん。今日は彼氏として一緒に帰る」
「歩く道は変わらないけど」
「俺の気分が違う」
 言われてみればそうなのかもしれない。
 湊自身も、昨日までは隣を歩く理央を友人として見ていた。今は以前と同じ距離に座っていても、肩が触れそうになると少し意識するし、理央が笑えば以前より長く見てしまう。
 ただ、それをいちいち口にするほど素直ではなかった。
「好きにすれば」
「する。あと、放課後ちょっとだけ寄り道していい?」
「どこ」
「コンビニ。新しいアイス出たらしいから、朝倉と食べたい」
「それも前と変わってないじゃん」
「でも彼氏と食べるアイスは初めて」
 あまりに嬉しそうなので、湊はとうとう笑ってしまった。
「お前、当分何してもそれ言いそうだな」
「たぶん言う」
 理央も笑い、ようやく昼食へ手をつけた。
 学校では恋人同士だと公言していない。
 二人とも隠さなければならないと思っているわけではないものの、わざわざ教室で発表するようなことでもないし、理央の知名度を考えれば周囲が必要以上に騒ぐのは目に見えていた。だからしばらくは今までどおり過ごそうという話になっている。
 そのせいで、学校内では何も変わっていないように見える。
 しかし理央は、人目が少なくなると時々こうして嬉しさを隠しきれなくなる。
 湊はそれを見るのが嫌いではなかった。

 放課後、約束どおりコンビニへ寄ると、理央は目的のアイスを二つ買った。
 学校から駅へ向かう途中にある小さな公園へ入り、人の少ないベンチに並んで座る。梅雨が明けきらない七月の夕方はまだ湿気が多く、じっとしていても肌に薄く汗が浮いた。
 理央が選んだのは桃味のアイスだった。
「お前、桃好きだな」
「この前朝倉が買ってくれたジュース美味しかったから、なんかそれから好きになった」
「単純」
「朝倉にされたこと、結構引きずるんだよね」
「言い方が怖い」
 包装を開けながら笑う。
 理央は最初の一口を食べると、満足そうに目を細めた。
 こうしていれば、普通の高校生だった。
 学校で女子に囲まれている時の瀬名理央を知っているせいで、二人きりの時に見せる無防備な表情との落差は今でも時々妙に感じる。ただ最近は、その差に驚くよりも、こちらを見た時に顔が緩むことのほうに意識が向くようになっていた。
「朝倉も食べる?」
 理央が自分のアイスを差し出す。
「俺も同じの持ってるけど」
「一口交換とか」
「味同じじゃん」
「そうだった」
 理央は自分で言ってから笑った。
「恋人っぽいことしたかっただけ?」
「ちょっと」
「じゃあ今度違う味買えよ」
「今度はしてくれる?」
「嫌じゃなければ」
 答えると、理央はまた嬉しそうにした。
 付き合ってからまだ数日しか経っていないのに、湊はすでにこの顔に弱くなり始めていた。
 無理なことを頼まれているわけではない。
 一緒に帰る。アイスを食べる。好きな本の話をする。たまに頭を撫でる。どれも少し手を伸ばせばできる程度のことなのに、そのたび理央は大事にされたような顔をする。
 なら、してやってもいいかと思う。
 その繰り返しだった。

 付き合い始めて一週間ほど経つと、湊自身も少しずつ理央の扱いに慣れてきた。
 理央が疲れていれば、本人が何も言わなくても顔を見れば分かる。機嫌がいい日は歩く速度まで少し軽くなるし、何か話したいことがある時には、こちらがノートへ向かっていても視線だけ何度も寄越してくる。褒められたがっている時には分かりやすく期待した顔をするし、甘えたい時には用もないのにいつもより近くに座る。
 最初はその一つひとつへ戸惑っていたが、今では先回りできることも増えた。
 ある日の放課後、図書室で理央が英語の問題集を開いたまま何度も同じ行を読み返しているのを見て、湊はノートから顔を上げた。
「今日もうやめたら。全然頭に入ってないだろ」
「分かる?」
「分かる。さっきから同じところ見てるし、三回くらい溜め息ついてる」
「そんなに?」
 理央は苦笑して問題集を閉じた。
 昼休みに教師から頼まれた仕事を手伝い、そのあと委員会まであったらしい。普段ならそれでも平気な顔をしているところだが、最近は湊の前で無理に隠さなくなった。
「ちょっと疲れた」
「じゃあ帰る?」
「朝倉まだ書く?」
「今日は俺ももういい」
 荷物を片づけながら答えると、理央はほっとしたようだった。
 図書室を出て、人のいない階段を下りる途中、理央が少しだけ湊の後ろを歩く。いつもなら横へ並ぶのに珍しいと思って振り返ると、相手は眠そうに目を擦っていた。
「お前、昨日ちゃんと寝た?」
「寝たけど、今日はなんか眠い」
「なら帰ったらさっさと寝ろよ。夕飯食って風呂入ってからな」
「朝倉、お母さんみたい」
「じゃあ放っとく」
「それは嫌」
 すぐに返され、湊は呆れながら足を止めた。
 理央も一段下で立ち止まる。
 身長差のせいで、階段では珍しく目線が近かった。
「はいはい。今日は頑張ったな」
 何となく手を伸ばし、髪を二度ほど撫でる。
 以前なら、それだけでも理央は驚いて固まっていた。
 今は湊がしてくれる可能性を覚えているらしく、目を見開く代わりにすぐ頬を緩める。それでも嬉しいことには変わりないらしく、手を離そうとすると、手を追うように少しだけ頭を動かした。
「……もうちょっと」
「やっぱり調子乗るようになったな」
「だって彼氏なんだから、前より頼んでもいいかなって」
「何でも許可される立場じゃないぞ」
 そう言いながらも、湊はもう一度ゆっくり撫でた。
 理央が目を閉じる。
 学校ではあれだけ目立つ顔が、手の下では驚くほど柔らかくなる。頬にはまだ少し疲れが残っているのに、表情だけは満たされたように緩んでいて、そんな顔を見ているうちに、湊の口から何気なく言葉が落ちた。
「可愛いな」
 理央の目が開いた。
 湊も自分で言ってから気づいた。
 思ったことがそのまま口に出ただけだった。
 訂正するほど間違っているとも思わないが、さすがに少し恥ずかしい。
「……何」
 理央は一段下からこちらを見上げたまま動かなかった。
「聞こえただろ」
「もう一回言って」
「嫌だ」
「なんで。今、可愛いって言った」
「言ったけど一回でいいだろ」
 理央の頬がみるみる赤くなっていく。
 しかし恥ずかしそうにしながらも、嫌がっている様子はまるでなく、それどころか湊の手がまだ髪に触れていることを確認するように少しだけ首を傾けた。
「俺、格好いいって言われるより、それのほうが嬉しいかもしれない」
「知ってる。前に言ってたもんな」
「でも本当に言ってもらえると思ってなかった」
「思ったから言っただけ」
「じゃあ、また思ったら言って」
「要求多いな」
「お願い」
 理央は照れたまま、それでも嬉しさを隠せずに笑った。
 その顔を見た瞬間、湊は先ほどよりはっきり、可愛いと思った。
 もう偶然浮かんだ感想ではない。
 この男が自分に甘えるところも、何気ない一言で喜ぶところも、恥ずかしそうなくせに欲しいものはきちんと欲しいと言うところも、全部まとめて可愛いと思っている。
 学校中が理央を格好いいと評価していることに異論はない。
 それでも自分にとっては、それだけではなくなっていた。
「分かったから、そろそろ帰るぞ。眠いんだろ」
「うん」
「あと今日は早く寝ること」
「分かった」
「返事だけじゃなくて本当に」
 歩き出すと、理央がすぐ隣に並んだ。
 少しして肩が触れたが、どちらも離れなかった。