学年一の王子様は俺の彼氏になりたがってる

 翌日、理央は学校を休んだ。
 熱は下がったと朝に連絡が来たが、大事を取って休むよう母親に言われたらしい。
 昼休み、湊は一人で中庭へ行った。篠崎に誘われたが、何となく教室にいる気になれなかった。
 いつものベンチに座る。一人分空いた隣が妙に広い。
 昼食を食べながらスマートフォンを見る。理央からは朝以来メッセージがない。寝ているのだろうし、自分から送るほどの用事もない。それなのに、数分おきに画面を確認してしまう。
 どう考えてもおかしかった。
 昨日、理央の家へ行った時のことを思い出す。
 嬉しそうに袋を受け取った顔。頭を撫でてほしいと素直に頼んだ声。自分の小説がなくても好きだと言ったこと。その全部が頭から離れない。
 湊は弁当箱を閉じた。
 理央が好きなのかもしれない。
 そう思うこと自体には、以前ほど抵抗がなかった。ただ、まだ確信がない。
 友人として大事なのか、恋人にしたいのか、その境目が分からない。
 自分の小説では、登場人物はもっと分かりやすく恋をする。
 会えなければ寂しい。触れたいと思う。誰かといるところを見れば嫉妬する。そういう感情を積み重ねて、読者にも本人にも恋だと分かるように書く。
 現実は、そんなに整理されていなかった。
 会えないと少し寂しい。理央が喜ぶと自分も嬉しい。疲れていたら甘やかしてやりたいと思う。昨日は熱を出していると知っただけで、わざわざ電車に乗って家まで行った。それでも、恋人になりたいかと聞かれると、まだ少し怖い。何が怖いのかもよく分からない。ただ、一度付き合えば今までと同じではいられない。
 その変化に踏み出す覚悟が、まだ足りなかった。

 二日後、理央は学校へ戻ってきた。
 昼休み、廊下で待っていた理央を見ると、湊は思っていた以上に安心した。
「もう平気?」
「うん。昨日ずっと寝てたから」
「顔色は戻ったな」
「朝倉のおかげ」
「俺はゼリー買っただけだよ」
「頭も撫でてくれた」
「学校で言うな」
 理央が笑う。
 その笑顔を見た瞬間、湊の胸の中にあった何かが少しだけほどけた。
 やっぱりこいつがいるほうがいい。そう思った。
 中庭へ向かう途中、理央は以前と同じようにどうでもいい話をしていた。
 小説の話はまだしない。恋愛の話も避けている。湊は隣を歩きながら、少し考えた。
「瀬名」
「何?」
「もう小説の話していいよ」
 理央が足を止めた。
「本当に?」
「うん。別にそこまで禁止しなくていい」
「でも」
「俺も気になるし。読んだなら感想聞きたい」
 理央の顔がぱっと明るくなった。
「読んだ。更新した日の夜に」
「読んでたんじゃん」
「感想送らないって決めてただけ」
「そこまでしなくてよかったのに」
「朝倉に信じてもらいたかったから」
 また胸が少し動いた。
 理央は本当に、自分が思っている以上に真面目なのかもしれない。
「じゃあ今日、図書室で話していい?」
「学校ではタイトル出すなよ」
「分かってる」
 嬉しそうに笑う。
 その顔を見て、湊はふと思った。
 ああ、可愛い。
 今度は誤魔化さなかった。
 褒められて喜ぶ時も、頭を撫でられて目を細める時も、甘いもの一つで嬉しそうにする時も同じだった。
 瀬名理央は、湊にとって少しずつ可愛い人になっている。
 それが恋なのかはまだ分からない。
 けれど、少なくとも最初に思っていたよりずっと大切な人になっていることだけは、もう認めてもいい気がした。

 それからさらに一週間が過ぎた。
 七月に入り、期末試験が近づいたことで図書室も普段より混み始めた。
 理央と湊も放課後は小説ではなく勉強することが増え、分からないところを教え合いながら問題集を進める。
 理央は文系科目も理系科目もだいたいできる。
 そのくせ古典だけは少し苦手らしく、助動詞の活用で何度も間違えるので、湊が笑った。
「何でもできる瀬名くんにも弱点あるんだな」
「あるよ。朝倉が知らなかっただけ」
「今知ったよ」
「じゃあもっと知って」
 何気ない言葉だった。
 湊は顔を上げた。理央は問題集へ視線を落としたまま、続ける。
「俺、朝倉のこともっと知りたいし、朝倉にも俺のこと知ってほしい」
「……お前まだ諦めてないんだ」
「諦める理由ないから」
 理央は笑った。
「嫌われてないし、好きになる可能性あるって言ってもらったし」
「覚えてたの」
「忘れるわけない」
 それもそうかもしれない。
 理央にとっては大事な返事だったのだろう。
「朝倉」
「何」
「もう一回だけ言っていい?」
 少し声が低くなった。
 湊は何となく分かった。
「何を」
「好き」
 前回よりずっと静かな告白だった。
「今すぐ付き合ってって言わない。でも、俺は朝倉が好きだから」
 理央は少し照れたように笑った。
「だから、俺のこと好きになってよ」
 湊は何も言えなかった。
 こんな台詞、自分の小説に書いたら少し甘すぎると思って消すかもしれない。それなのに、理央が言うと不思議と嫌ではなかった。
 むしろ胸の奥に残る。
「……努力するものなの、それ」
「俺が頑張る」
「何を」
「好きになってもらう」
「十分やってるだろ」
「まだ足りない?」
「知らないよ」
 湊は視線を問題集へ戻した。
 文字が少しだけ読みにくい。
 自分の頬が熱くなっていることには気づいていた。
 理央はそれ以上何も言わず、古典の問題へ戻った。
 少ししてから、隣でまた助動詞を間違えた。
「そこ違う」
「え、また?」
「だから未然形に接続」
「覚えられない」
「さっき教えただろ」
「朝倉、もう一回教えて」
「仕方ないな」
 問題集を少しこちらへ引き寄せる。
 肩が触れる。
 以前なら何とも思わなかった距離だった。
 今は少しだけ意識する。
 それでも離れようとは思わなかった。

 試験最終日の放課後、二人は久しぶりに何も勉強道具を広げず、図書室の奥で本を読んでいた。
 理央はずっと読みたかった新刊を開き、湊はノートへ次の話の構想を書いている。
 一時間ほど過ぎた頃、理央がふと窓の外を見た。
「夏休み、どこか行こう」
「急だな」
「学校なくなると毎日会えないから」
 あまりにも自然に言われて、湊は少しだけ笑った。
「毎日会ってる前提だったんだ」
「今ほぼ毎日会ってるじゃん」
「まあ」
「海とかは?」
「暑い」
「映画」
「見たいのあれば」
「水族館」
「それはいいかも」
 理央がすぐスマートフォンを取り出した。
「調べる」
「今決めなくていいだろ」
「忘れる前に」
 楽しそうに画面を見ている。
 湊はその横顔を眺めた。
 夏休みにも会う。
 当たり前のように予定を立てている。
 それが嫌ではない。むしろ少し楽しみだった。
 以前なら、理央が自分の小説のファンだからこうしているのだと思えた。
 今は違う。
 小説がなくても、理央はここにいる。そして自分も、それを望んでいる。
「瀬名」
「何?」
 理央が顔を上げる。
 湊は一瞬迷った。それでも、今言わなければまた考えすぎる気がした。
「……付き合う?」
 理央が動かなくなった。
 あまりにも完全に止まったので、湊のほうが不安になる。
「嫌ならいいけど」
「嫌じゃない」
 返事が早すぎた。
 理央は本を閉じ、椅子を少しこちらへ向けた。
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん?」
「俺、まだお前ほどはっきり分かってないから。好きだとは思う。でも、お前みたいに最初から恋人になりたいって思えてるかは分かんない」
 理央は黙って聞いていた。
「それでもいいなら」
「いい」
「即答だな」
「だって付き合ってくれるんだろ?」
「うん」
 言った瞬間、理央の目元が緩んだ。
 笑ったのだと思った。
 けれど、その表情はいつもの笑顔よりずっと頼りなくて、少しだけ泣きそうにも見えた。
「……そんなに?」
「そんなに」
 理央は小さく息を吐いた。
「嬉しい」
 声まで少し震えていた。
 湊はその顔を見ているうちに、胸の奥が熱くなった。
 まだ恋人になった実感はない。
 何をすればいいのかも分からない。
 ただ、自分が一言付き合うと言っただけで、理央がこんなに喜んでいる。
 それが嬉しかった。
「瀬名」
「何」
「頭」
 理央が少し目を見開いた。
 湊は手を伸ばし、髪に触れた。
 もう何度かしていることなのに、恋人になった直後だと思うと妙に恥ずかしい。
 それでもゆっくり撫でる。
 理央はすぐに目を細めた。
 頬が赤くなり、安心したように力が抜けていく。
「……彼氏になって最初にすることがこれなんだ」
「好きだろ」
「大好き」
 理央は笑った。
 泣きそうなくらい嬉しそうに。
 その顔を見た時、湊はようやく少しだけ理解した。
 自分はたぶん、こうして理央を喜ばせるのが好きなのだ。
 誰にでもではない。
 瀬名理央が、自分のしたことで幸せそうな顔をするのを見るのが好きだった。
「これからよろしく」
 湊が言うと、理央は目を閉じたまま頷いた。
「うん。よろしく、彼氏」
 その呼び方に少しだけ照れた。
 けれど、訂正はしなかった。