学年一の王子様は俺の彼氏になりたがってる

 瀬名(せな)理央(りお)が、自分に対して少し特別な態度を取っているのではないか。
 そんなことを考えるようになったのは、体育祭が終わってからだった。
 それまでも、昼休みになれば教室まで来るし、放課後は図書室へ顔を出し、休日には一緒に出かけたがる。湊が何を好きなのかよく覚えていて、何気なく言ったことまで後から拾い上げてくるし、褒めれば分かりやすく喜ぶくせに、同じことを他人から言われてもそれほど嬉しそうにはしない。
 ただ、理央自身があまりにも自然にやるので、湊も深く考えないようにしていた。
 もともと人との距離を詰めるのが上手いのだろう。誰とでもすぐ仲良くなれる人間には、湊のような人付き合いの狭い人間には分からない種類の距離感があるのかもしれない。
 そう思えば、大体のことには説明がついた。
 少なくとも、そういうことにしておくほうが楽だった。
 ところが六月最後の金曜日、放課後の図書室で理央があまりにも普通の顔で言ったことで、その言い訳はとうとう使えなくなった。
「朝倉、俺と付き合って」
 湊は書いていた文章の途中でペンを止めた。
 窓の外では、昼過ぎから降り始めた雨が校舎の屋根を細かく叩いている。梅雨らしい湿気の多い夕方で、図書室の冷房は動いているのに、開閉の多い出入口から生ぬるい空気が時折入り込んでいた。
 向かいに座った理央は、いつものように文庫本を開いている。
 告白にしてはあまりにも普段どおりだったので、湊はしばらく何を言われたのか理解できなかった。
「……何と?」
「俺と」
「何を」
「付き合って」
 今度は顔を上げて、理央がはっきり言った。
「恋人として」
 理解してしまった。
 湊はペンを机に置いた。
「なんで?」
 聞いてから、もっと他に言うことがあった気もしたが、最初に出たのはそれだった。
 理央は少しだけ困ったように笑った。
「好きだから」
「俺が?」
「朝倉が」
「お前、男もいけるの?」
「そこから?」
「そこからだろ。今まで一度も聞いてない」
「別に性別で考えたことない。今好きなのは朝倉」
 あっさりしていた。
 理央の中では、自分が男であることはさほど大きな問題ではないらしい。
 湊のほうも、男から告白されたこと自体に嫌悪感があるわけではなかった。ただ、相手が理央であることも、自分がその相手に選ばれたことも、あまりに想定外だった。
「いつから?」
「いつからだろ」
「分かんないのに告白したの?」
「今は好きだって分かってるから、それでよくない?」
「よくないというか……」
 湊は額を押さえた。
 理央は黙って待っている。
 こういう時まで急かさないのが腹立たしい。
 少し前までなら、理央の言葉や行動をすべて人懐っこさで片づけることができた。朝倉と一緒にいたい。朝倉に褒められると嬉しい。朝倉に撫でてもらうのが好き。そういう言葉も全部、ファンとして懐かれているだけだと思っていた。
 今になって振り返れば、むしろ自分のほうが鈍かったのかもしれない。
「前から俺のこと好きだった?」
「小説はずっと好きだった。でも朝倉本人のことは、話すようになってから」
「それ、俺じゃなくて作者が好きなんじゃないの」
 口にした途端、理央の表情が少し変わった。
 傷ついたのだと、すぐに分かった。
 けれど湊には、そこを曖昧にしたまま付き合うこともできなかった。
「だって、最初に話しかけてきた理由だって小説だろ。俺のこと知りたいって言うようになったのも、作者だったからだし」
「それはそうだけど」
「お前が好きなのって、俺が書く話とか、俺の恋愛観とか、そういうのなんじゃない?」
 理央はすぐには答えなかった。
 机の上に置いた指先が、文庫本の端を少し押さえる。
「違うって言ったら、信じる?」
「今すぐは無理」
「そっかぁ」
 短く答えたあと、理央は視線を落とした。
 その顔を見て、湊は少しだけ胸が痛んだ。
 わざと傷つけたいわけではない。
 むしろ逆だった。
 これまで何度も理央が、自分の小説のような恋愛をしてみたいと言っていたことを覚えている。大事にされたい。甘やかされたい。頭を撫でてもらいたい。そういう願いを少しずつ聞いて、湊もそれを叶えるようなことをするようになった。
 その結果、理央が自分を好きになったのだとしたら。
 それは本当に朝倉湊を好きになったことになるのだろうか。
 理央が欲しかったものを自分が偶然与えただけではないのか。
「ごめん」
 湊が言うと、理央が顔を上げた。
「嫌いってわけじゃないんだよ。むしろ、お前と一緒にいるのは好きだし、最近は普通に会うの楽しみにしてる。でも、それで付き合えるかって言われたら、まだ分かんない」
「じゃあ、嫌ではない?」
「嫌ではない」
「好きになる可能性はある?」
「……そこまで俺に聞く?」
「大事だから」
 理央の表情は真剣だった。
 湊は少し考えた。
 もし全く可能性がないのなら、ここではっきり断るべきなのだろう。中途半端な期待を持たせるほうが残酷だ。
 けれど、理央にもう会わないと言われたら嫌だった。
 昼休みに来なくなるのも、放課後の図書室で向かいに座らなくなるのも、帰り道を一緒に歩かなくなるのも困る。
 それが恋愛なのかどうかは分からない。
 ただ、理央が自分の日常からいなくなるところを想像した時、思っていた以上に寂しかった。
「あると思う」
 正直に言った。
 理央の目が少し大きくなる。
「でも、今付き合うのは違う。俺、お前が本当に俺を好きなのか分かんないし、自分がお前をどう好きなのかもまだ分かってない」
「分かった」
 理央は思ったより素直に頷いた。
 もっと食い下がられるかと思っていたので、逆に拍子抜けした。
「それでいいの?」
「よくはないけど、無理に付き合ってもらっても嬉しくないし」
 理央は少し笑った。
「じゃあ証明する」
「何を」
「俺が朝倉の小説じゃなくて、朝倉本人を好きだってこと」
「どうやって?」
「考える」
「今決めてないのかよ」
「告白するので頭いっぱいだったから」
 そう言って困ったように笑う顔が、妙にいつもの理央らしかった。
 湊も少しだけ笑った。
 重かった空気が、ようやく少し緩む。
「じゃあ、今日一緒に帰っていい?」
「そこはいつもどおりなんだ」
「付き合ってくれないからって急に友達やめるほうがおかしいだろ」
「それもそうか」
 理央は本を閉じた。
「あと一個だけ聞いていい?」
「何」
「俺が朝倉のこと好きなの、迷惑?」
 湊は少し考えてから首を振った。
「迷惑ではない」
 その瞬間、理央の顔がほっと緩んだ。
 ああ、こいつ本当に不安だったのか。
 そう思ったら、少しだけ胸が温かくなった。

 理央は翌日から、本当に小説の話をしなくなった。
 最初はただ学校で作品について触れないという約束を守っているだけかと思ったが、メッセージでも感想を送ってこなくなり、更新した新作についても何も言わない。以前なら投稿して一時間もしないうちに感想が届いていたのに、その日は夜になっても翌朝になっても理央からの連絡はなかった。
 湊は少し落ち着かなかった。
 自分から疑ったのだから当然の反応だと分かっている。
 理央なりに、作者としてではなく個人として付き合おうとしているのだろう。
 それでも、今まで当たり前にあったものが急になくなると気になる。
 翌週の月曜日、昼休みに理央が来るまでの間、湊は何度も教室の扉へ視線を向けてしまった。
「朝倉、今日瀬名待ってんの?」
 斜め前の席から篠崎に言われ、思わず顔を上げる。
「別に」
「さっきから入口見てるけど」
「時計見てただけ」
「時計、反対側だけど」
「うるさい」
 適当に追い払ったところで、廊下から理央の声が聞こえた。
 それだけで少し安心した自分に気づき、湊は余計に苛立った。
「行ってくる」
「はいはい」
 篠崎が面白そうに笑っている。
 廊下へ出ると、理央はいつもと変わらない顔で待っていた。
「中庭行く?」
「今日は暑いから教室でもいいけど」
「じゃあ空き教室探そう。静かなところ」
 並んで歩く。
 理央は昨日見たテレビの話をして、湊は適当に相槌を打った。
 小説の話は本当にしない。
 恋愛の話もしない。
 これまでなら必ず一度くらい「朝倉ならどうする?」と聞かれていたのに、それもなかった。
 代わりに、数学の教師が宿題を出しすぎるとか、体育祭で日に焼けたところがまだ少し痛いとか、コンビニで新しいアイスが出ていたとか、どうでもいい話ばかりする。
 最初のうちは少し変な感じがした。
 けれど何日か続くうちに、それも自然になった。
 理央は小説の話をしなくても、普通に湊のところへ来た。
 昼食を一緒に食べ、放課後には図書室で本を読み、一緒に帰った。
 湊の好きな作家の新刊が出れば教えてくれたが、「これ好きそう」と言うだけで作者としての感想は聞かない。
 新作が更新されても、読んだとも読んでいないとも言わなかった。
 その代わり、湊が新しいシャープペンシルを使っていれば気づき、体育の後に疲れていれば飲み物を買ってきて、鞄の持ち手がほつれているのを見つけた時には裁縫セットを持っている女子から針と糸を借りて直してくれた。
「何でお前ができるんだよ」
 図書室の机で、理央が鞄の持ち手を縫っているところを見ながら湊が言う。
「母さんが何でも自分でできるようになれって」
「王子様は裁縫もできるんだな」
「その呼び方やめて」
「上手いじゃん」
「褒めても何も出ないよ」
 そう言いながら、理央は少し嬉しそうだった。
 結局そこは変わらない。
 褒めれば喜ぶ。
 湊はその顔を見ながら、小さく笑った。
「何」
「いや。やっぱ分かりやすいなと思って」
「朝倉相手だけだよ」
 理央は作業を続けながら、ごく自然に言った。
 告白された後なので、その意味はもう分かる。
 以前なら聞き流せた言葉が、今は妙に胸に残った。
「はい。たぶんこれで大丈夫」
 戻された鞄を見る。
 ほつれていたところは綺麗に縫い直されていた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 理央は満足そうに笑った。
 湊は鞄を受け取りながら、少しだけ考えた。
 小説の話など一言もしなかった。
 理央はただ、湊の鞄が壊れかけていたから直した。
 それだけだった。

 その週の水曜日、理央は昼休みに来なかった。
 珍しいと思いながらも、湊は篠崎たちと教室で昼食を取った。
 別に毎日会わなければならない約束をしているわけではない。
 午後の授業が始まり、放課後になってもメッセージはなかった。
 図書室へ行っても理央は来ない。
 何となく落ち着かないまま一時間ほど過ごし、帰ろうとしたところでようやくスマートフォンが震えた。
『ごめん。今日先帰ってて』
 それだけだった。
 普段なら理由も書く。
 湊は少し迷ってから、『分かった』と返した。
 校門を出たところで、三組の男子生徒二人が前を歩いていた。
「瀬名、保健室行ったんだって?」
「熱あるらしい。朝から顔色悪かったのに体育出てたらしいぞ」
 思わず足が止まった。
 熱。
 保健室。
 朝から体調が悪かった。
 湊は反射的にスマートフォンを取り出した。
『熱あるの?』
 送る。
 数分経っても既読がつかない。
 帰宅してからも気になった。
 夕食を食べ、風呂へ入り、自室へ戻った頃になってようやく返信が来た。
『少し。もう家いるから大丈夫』
 湊は画面を見ながら眉を寄せた。
『何度』
『38.2』
『それ少しじゃないだろ』
『寝れば治る』
 いつもの理央なら、ここで看病してほしいだの、ゼリーを買ってきてほしいだの言いそうなものだった。
 ところが何も言わない。
 むしろ会話を切ろうとしているように見えた。
『ちゃんと食った?』
『あんまり』
『薬は』
『飲んだ』
『水分取って寝ろ』
『うん。ありがとう』
 そこで終わった。
 湊はしばらくスマートフォンを見ていた。
 頭の中に、以前の会話が浮かぶ。
 風邪を引いたら看病されたい。
 甘いものやゼリーを買ってきてもらいたい。
 ベッドの傍にいてほしい。
 好きな人に大事にされたい。
 今の理央は、そういうことを一つも言わなかった。
 自分が小説のような恋愛をしたいだけではないと証明すると言ったからだろう。
 なら、自分に何かを求めればまた疑われると思っているのかもしれない。
「面倒くさいな」
 誰もいない部屋で呟いた。
 理央ではなく、自分に向けた言葉だった。
 疑ったのは自分だ。
 そのせいで、あれほど何でも言っていた男が、熱を出しても何も頼まなくなった。
 湊は机の上の財布を掴んだ。

 理央の家の最寄り駅は知っていた。
 休日に出かけた帰り、電車で寝た理央を起こした駅だ。
 住所までは知らないので、最寄り駅に着いてからメッセージを送った。
『家どこ』
 既読がつくまで三分ほどかかった。
『なんで?』
『いいから』
『駅から遠いよ』
『だから住所』
 さらに少し間が空き、住所が送られてくる。
 駅前のコンビニでスポーツドリンク、ゼリー飲料、カップの果物、冷却シートを買った。
 ついでにプリンを手に取りかけて、理央はゼリーのほうが好きだったことを思い出し、戻して別のゼリーを追加する。
 そこまでしてから、自分が何をしているのだろうと思った。
 告白を保留にしている相手の家へ、夜に看病用品を持って行こうとしている。
 どう考えても思わせぶりだった。
 けれど、このまま帰る選択肢はなかった。
 駅から十五分ほど歩き、教えられたマンションへ着く。
 インターホンを押すと、しばらくして理央の声が聞こえた。
『朝倉?』
「うん」
『本当に来たの?』
「来たから開けて」
 少ししてオートロックが解除された。
 玄関まで上がると、ドアがゆっくり開いた。
 理央は部屋着姿だった。
 Tシャツにスウェットという何でもない格好で、髪も少し乱れている。頬は熱で赤く、普段より目元が重そうだった。
「……何してんの」
 第一声がそれだった。
「病人に言われたくない」
「だって来ると思わなかった」
「俺も来ると思ってなかったよ」
 袋を差し出す。
「これ」
 理央は受け取らず、中身を見た。
「なんで」
「熱あるから」
「それは分かるけど」
「食えそうなの買ってきた。冷却シートも。家にあるなら使わなくていい」
 理央はしばらく黙った。
「いらなかった?」
「違う」
 声が少し掠れていた。
 理央はようやく袋を受け取った。
「……すごく嬉しい」
「ならいい」
「入ってく?」
「親いるだろ」
「母さん今日遅い。父さん単身赴任」
「じゃあ少しだけ」
 玄関へ入る。
 理央の部屋は思っていたより普通だった。
 教科書や本が並んだ棚、机、ベッド。学校で見る印象より生活感があり、椅子の背には脱いだパーカーが掛かっている。
 湊は袋の中身を机に出した。
「何か食えそう?」
「ゼリーなら」
「じゃあ食って薬飲んで寝ろ」
「もう飲んだ」
「なら水分だけ取って」
 理央はベッドに腰を下ろした。
 湊も近くの椅子を借りる。
 少しの間、互いに黙った。
「朝倉」
「何」
「なんで来たの」
「だから熱あるから」
「友達が熱出すたびに家行く?」
「行かない」
「じゃあ何で俺には来たの」
 逃げ道を塞ぐような質問だった。
 湊は少し考えた。
 正直に言うしかない。
「心配だったから」
 理央が俯いた。
「お前、前なら看病してほしいとか絶対言ってただろ」
「……言わないって決めた」
「何で」
「朝倉に、俺が小説みたいな恋愛したいだけかもしれないって言われたから」
 やはりそうだった。
「だから?」
「そういうこと全部やめたら、俺が朝倉本人を好きだって分かってもらえるかと思った」
「極端なんだよ」
 思わずため息が出た。
 理央が少しだけ顔を上げる。
「別に、してほしいこと言うなって言ったわけじゃない」
「でも」
「俺が疑ったのはそこじゃない。お前が俺を好きなのか、俺の書く恋愛が好きなのか分かんなかっただけで、大事にされたいって思うことまでやめろとは言ってない」
 理央は黙って聞いていた。
「むしろ今みたいに、しんどいのに何も言わないほうが嫌だ」
「嫌?」
「心配するだろ」
 言ったあと、自分の声が思ったより強かったことに気づいた。
 理央も少し驚いたようだった。
「熱あるなら熱あるって言えよ。帰れって言われれば帰るけど、何も知らせないで一人で我慢されるほうが嫌だ」
「……朝倉」
「何」
「頭撫でてほしい」
「今?」
「今」
 熱のせいか、理央はいつもより弱い声で言った。
 湊は一瞬呆れた。
 さっきまで真面目な話をしていたはずなのに、結局そこへ戻る。
 けれど嫌ではなかった。
「寝ろよ」
 そう言いながらベッドの端へ移動する。
 理央が枕に頭を乗せる。
 湊は横に座り、額に手を当てた。
「熱い」
「熱あるから」
「知ってる」
 冷却シートを一枚開け、額に貼る。
 理央はされるがまま目を閉じていた。
 その髪に手を置き、ゆっくり撫でる。
 何度かそうすると、理央の表情が少しずつ緩んだ。
「満足?」
「まだ」
「病人だからって調子乗ってるな」
「今日だけ」
「今日だけな」
 言いながら、もう少し続ける。
 熱で弱っているせいか、いつもよりずっと無防備だった。
「朝倉」
「今度は何」
「好き」
「熱ある時に言うなよ」
「熱なくても好き」
「知ってる」
「朝倉の小説がなくても好き」
 湊の手が少し止まった。
 理央は目を閉じたままだった。
「小説の話しなくなっても、一緒にいるの楽しかった。昼飯食べるのも、帰るのも、普通の話するのも。鞄直した時にありがとうって言ってもらったのも嬉しかったし、今日来てくれたのも嬉しい」
 ゆっくり言葉を繋いでいく。
「俺、朝倉が書かなくなっても好きだと思う」
 そこまで言って、理央は少し笑った。
「書くのやめたら困るけど」
「結局困るんじゃん」
「ファンだから」
 湊も笑った。
 理央の髪をもう一度撫でる。
 今の言葉が証明になるのかは分からない。
 けれど、不思議と前ほど疑う気持ちはなかった。