体育祭当日は、梅雨の合間とは思えないほど晴れた。
朝から気温が上がり、グラウンドにはクラスカラーの旗とテントが並び、放送部が流す音楽と応援の声で普段の学校とはまるで違う場所のように騒がしい。
湊は午前中に二種目出たあと、自分のクラスのテントで飲み物を飲みながら他の競技を眺めていた。
理央のクラスは斜め向かいにある。
遠くからでも目立つので、探す必要がない。
クラスメイトと話し、競技に出る友人に声を掛け、教師に頼まれて器具を運んでいる。
結局、応援団には入らなかったらしい。
それでも目立つものは目立つ。
「瀬名、次リレーじゃなかった?」
隣に座っていた篠崎が言う。
「そうなの?」
「知らねえの? 結局出ることになったらしいぞ」
「へえ」
「お前最近仲いいのに知らないんだ」
「全部知ってるわけじゃない」
湊はスポーツドリンクを飲みながら答えた。
しばらくすると、選手が入場する。
確かに理央がいた。
クラス対抗のリレーは一番盛り上がる種目の一つで、周囲の声援もそれまでより大きくなる。
理央は第三走者だった。
速かった。
運動ができることは知っていたが、実際に走るところをまともに見るのは初めてだった。前の走者からバトンを受け取ると、ほとんど速度を落とさず走り出し、直線に入ったところで一人を抜く。
周囲から歓声が上がった。
湊も思わず目で追った。
「うわ、瀬名やっぱ速えな」
篠崎の声が隣から聞こえる。
確かに格好いい。
悔しいが、それ以外に表現がなかった。
走り終えて次の走者へバトンを渡した理央が、息を整えながらコースの外へ出る。
その時、ふとこちらを見た。
距離があるので目が合ったのか確信はない。
けれど理央はすぐに笑って、湊へ向けるように片手を上げた。
「……お前に振ってない?」
篠崎が言う。
「たぶん」
「何その仲良しアピール」
「知らん」
そう答えながら、湊も小さく手を上げた。
理央は満足そうにして自分のクラスへ戻っていった。
妙に目立つことをする。
周囲の何人かがこちらを見た気がしたが、今さらだった。
昼休憩に入ると、理央は自分のクラスではなく湊のところへ来た。
「朝倉、見てた?」
「リレー?」
「うん」
「見てたよ。速かったな」
ほんの一言だった。
それなのに理央は、さっき一人抜いた時より嬉しそうな顔をした。
「本当?」
「何で嘘つくんだよ」
「朝倉に褒められた」
「お前、ほんとそれ好きだな」
「好き」
理央は迷わず言った。
「格好よかった?」
「まあ」
「まあ?」
「格好よかったよ」
言い直すと、理央の顔がさらに緩んだ。
周囲の女子が見たらどう思うだろう。
走っている時はあれだけ格好よかった男が、同級生に褒められたくらいでこんな顔をしている。
その落差がおかしくて、湊は少し笑った。
「何」
「別に」
「絶対何か思っただろ」
「さっきまで王子様だったのになって」
「何それ」
「格好よく走ってた奴と同じに見えない」
理央は一瞬だけむっとしたような顔をしたが、すぐに笑った。
「朝倉の前なら別にいい」
そう言って、近くの空いていた椅子に座る。
またそれだった。
湊の前ならいい。
湊なら。
湊だから。
理由はまだ分からない。
ただ最近は、その言葉を聞くたびに胸のどこかが少しだけむず痒くなる。
午後の競技が終わる頃には、理央もさすがに疲れていた。
閉会式と片づけを終えたあと、湊は教室で荷物をまとめてから昇降口へ向かった。
外へ出ると、校舎脇の日陰に理央が立っていた。
「また待ってたの」
「今日は約束してないけど、たぶん一緒に帰れるかなと思って」
「疲れてるなら先帰れよ」
「朝倉も疲れてるだろ」
「まあ」
歩き出す。
さすがに二人とも口数は少なかった。
一日中外にいたせいで身体は重く、日差しに晒された肌も少し熱を持っている。
学校から駅までの道を半分ほど進んだところで、理央が自動販売機の前へ寄った。
「何か飲む?」
「まだある」
「俺、甘いの欲しい」
珍しく炭酸でもお茶でもなく、紙パックのミルクティーを買っている。
湊は少し考え、自分も自動販売機に硬貨を入れた。
選んだのは小さなペットボトルの桃ジュースだった。
自分用ではない。
「ほら」
理央へ投げると、慌てて受け取った。
「何?」
「今日頑張ってたから」
言ってから、少し照れ臭くなった。
理央は桃ジュースと湊を交互に見る。
「……俺に?」
「他に誰がいるんだよ」
「なんで?」
「だから頑張ってたから。前に言ってただろ。疲れてたら甘いもの買ってもらうの好きって」
理央が黙った。
湊は一瞬、まずかったかと思った。
飲み物くらいで大げさに考える必要もないと思ったのだが、理央は妙に静かだった。
「嫌いだった?」
「違う」
「じゃあ何」
理央はペットボトルを両手で持ったまま、少し俯いた。
耳が赤くなっている。
「……嬉しい」
「なら飲めば」
「すごく嬉しい」
「二回言わなくていい」
「だって朝倉が覚えてた」
「聞いたことくらい覚えてるよ」
「そういうのが嬉しい」
顔を上げた理央は、泣くほどではないのに、それに少し近いくらい柔らかい顔で笑っていた。
湊は一瞬、何も言えなくなった。
ただ桃ジュースを一本買っただけだった。
それなのに、どうしてこんな顔をするのだろう。
「……大げさだな」
結局それしか言えなかった。
「朝倉には分かんないと思う」
「何が」
「こういうの、俺がずっとしてほしかったやつだから」
理央はペットボトルの蓋を開けた。
一口飲んで、また嬉しそうに笑う。
「美味しい」
「そりゃよかった」
二人でまた歩き出す。
その横顔を見ながら、湊は少しだけ考えた。
迎えに来てもらう。
疲れたら甘いものを買ってもらう。
頭を撫でてもらう。
特別なことなど一つもない。
少なくとも湊にとっては。
けれど理央にとっては、どれもずっと憧れていたものらしい。
なら、それくらいしてやってもいいのかもしれない。
友人として。
そう思った。
数日後、湊は自分から理央の頭を撫でた。
図書室ではなかった。
放課後、体育祭の片づけで遅くなった理央を廊下で待っていた時のことだった。
正確には待とうと思っていたわけではない。
たまたま図書室を出たところで理央から「まだ学校いる?」とメッセージが来て、いると返したら「あと十分で終わるから一緒に帰りたい」と言われたので、階段近くの窓辺で本を読みながら待っていただけである。
十分のはずが二十分経った頃、理央が廊下の向こうから走ってきた。
「ごめん、遅くなった」
「いいよ。本読んでたし」
「先生に捕まった。体育倉庫の確認手伝ってって」
「お疲れ」
「疲れた」
理央は珍しく隠しもせずそう言った。
肩も少し落ちている。
湊は本を鞄にしまいながら、何となくその顔を見た。
そして本当に、深い意味などなく手を伸ばした。
「よく頑張りました」
理央の頭に掌を置き、二度ほど撫でる。
前回よりずっと自然にできた。
冗談半分だった。
疲れていると言うから、本人が好きだと言っていたことをしてやっただけ。
けれど理央は完全に止まった。
湊の手の下で目を見開き、数秒遅れて頬が赤くなる。
「……何その顔」
「だって」
「何」
「朝倉からしてくれた」
前回とはそこが違うらしい。
「お前、これ好きだろ」
「好き」
「じゃあ別にいいじゃん」
「いい。すごくいい」
理央はそれから、少しだけ迷うように目を伏せた。
「もうちょっと、駄目?」
以前なら調子に乗るなとすぐ手を離していたかもしれない。
けれど今日は、別に誰も見ていなかった。
何より理央があまりに期待した顔をしているので、断る理由も思いつかなかった。
「少しだけな」
もう一度、今度はゆっくり髪を撫でる。
理央は目を閉じた。
口元が自然に緩み、肩から力が抜けていく。
前に図書室で見た時よりも、さらに無防備だった。
「……ほんと好きだな」
湊が呆れ混じりに言うと、理央は目を閉じたまま笑った。
「好き。朝倉にしてもらうの、すごい好き」
「分かった分かった」
「もっと大事にされてる感じする」
その言葉で、湊の手が少しだけ止まった。
理央が目を開ける。
「何?」
「いや」
湊はまた一度だけ髪を撫でてから、手を離した。
「前から言ってるけどさ」
「うん」
「お前、本当に俺の小説の主人公みたいに扱われたいんだな」
理央は少し考え、それから頷いた。
「たぶん」
「女主人公なのに?」
「そこ関係ある?」
「いや、ないけど」
聞き方が悪かった。
「何ていうか、俺が書く主人公って、大体恋人に大事にされてるだろ」
「うん」
「お前はそういうふうにされたいってこと?」
理央はしばらく黙った。
廊下の窓から夕方の光が差し込み、床に長い影を作っている。
部活動の声も遠くなり、校内には少しずつ静けさが戻り始めていた。
やがて理央は、少し照れたように笑った。
「されたいよ」
声は小さかったが、迷いはなかった。
「朝倉の小説の子たちみたいに、ちゃんと大事にされたい。頑張ったら頑張ったねって言ってほしいし、疲れたら甘やかしてほしい。格好いいって言われるのも嬉しいけど、好きな人には可愛いって思ってもらえたら、たぶんもっと嬉しい」
湊は何も言わず聞いていた。
「俺、学校だとあんまりそういう側じゃないから」
「そうだな」
「誰かを迎えに行くほうだと思われるし、守る側だと思われるし、何でもできると思われる。でも」
理央はそこで一度言葉を切った。
少し恥ずかしいのか、視線が窓の外へ逃げる。
「好きな人の前くらい、甘えてもいいじゃんって思う」
その言葉が、妙に素直に胸に入った。
「いいんじゃない」
湊は答えた。
「別に。甘えたら」
「……朝倉は嫌じゃない?」
「何で俺が嫌なんだよ」
「そういう男」
「そういうって?」
「撫でられたいとか、大事にされたいとか言う男」
湊は少し考えた。
考えるまでもなかった。
「別に何とも思わない。人によるだろ、そんなの」
「変だと思わない?」
「思わない」
理央がこちらを見る。
少しだけ安心したような顔だった。
その表情を見て、湊は何となく腹が立った。
「というか、お前が何したいかなんてお前が決めればいいだろ。周りが王子様とか言ってるからって、ずっと格好つけてなきゃいけない理由ないし」
少し言い方が強くなった。
理央は目を丸くしたあと、ゆっくり笑った。
「朝倉、そういうこと言うから好き」
「何が」
「そういうところ」
「意味分からん」
理央はまだ笑っている。
その顔を見ながら、湊はふと、以前なら絶対に思わなかったことを考えた。
瀬名理央は、可愛いのかもしれない。
顔立ちの話ではない。
もちろん顔は整っているし、一般的には格好いいと言われる部類だろう。
けれどそれとは別に、褒められれば嬉しそうにし、頭を撫でれば蕩けそうに目を細め、甘い飲み物一本で大事にされたと喜ぶところが、なんとなく可愛い。
そう思った自分に少し驚いた。
男の友人に向ける感想として、今までほとんど使ったことのない言葉だったからだ。
「帰るか」
湊はそれ以上考えないことにして、階段へ向かった。
「うん」
理央がすぐ隣に並ぶ。
その歩幅が合うことにも、もう慣れていた。
その日の夜、湊は自室で新作の続きを書いていた。
主人公の美琴が、仕事で失敗して恋人の部屋へ行く場面だった。
最初は弱音を吐かずに笑っている。
大丈夫だと言い、何でもないと言い、いつもどおり振る舞おうとする。
けれど恋人はそれを信じず、無理に事情を聞き出すのでもなく、温かい飲み物を渡し、隣に座って髪を撫でる。
美琴がそこでようやく泣く。
書きながら、今日の理央の言葉が何度も浮かんだ。
――好きな人の前くらい、甘えてもいいじゃん。
以前なら、美琴の気持ちだけを考えて書いていた場面だった。
今は少し違う。
普段は周囲からしっかりしていると思われている人間が、誰か一人の前でだけ気を抜くこと。
その相手がいるから、初めて弱い顔を見せられること。
理央の話を聞いたあとでは、それが以前より少し具体的に分かる気がした。
湊は数行書き足し、手を止めた。
何となくスマートフォンを見る。
ちょうどメッセージが届いた。
『今日は待っててくれてありがとう』
続けて、少し間を置いてもう一件。
『頭撫でてもらったのも嬉しかった』
湊は思わず笑った。
どれだけ好きなのだろう。
『よかったな』
それだけ返す。
すぐ既読がついた。
『またしてくれる?』
湊は少し考えた。
前なら、調子に乗るなと返していたと思う。
今はそこまで嫌ではなかった。
『たまにな』
送る。
数秒後。
『やった』
さらにそのあと、犬が尻尾を振っているスタンプが送られてきた。
「犬じゃん」
誰もいない部屋で呟き、湊はまた笑った。
スマートフォンを伏せ、ノートパソコンへ向き直る。
画面の中では、主人公が恋人の肩に頭を預けている。
湊は少しだけ考えてから、新しい文章を書き加えた。
――一人で立てることと、誰かに寄りかかりたいと思うことは、きっと矛盾しない。
書いたあと、悪くないと思った。
そしてなぜか、その一文を読んだ時に最初に浮かんだのは、自分が作った主人公ではなく、嬉しそうに目を細めていた瀬名理央の顔だった。
朝から気温が上がり、グラウンドにはクラスカラーの旗とテントが並び、放送部が流す音楽と応援の声で普段の学校とはまるで違う場所のように騒がしい。
湊は午前中に二種目出たあと、自分のクラスのテントで飲み物を飲みながら他の競技を眺めていた。
理央のクラスは斜め向かいにある。
遠くからでも目立つので、探す必要がない。
クラスメイトと話し、競技に出る友人に声を掛け、教師に頼まれて器具を運んでいる。
結局、応援団には入らなかったらしい。
それでも目立つものは目立つ。
「瀬名、次リレーじゃなかった?」
隣に座っていた篠崎が言う。
「そうなの?」
「知らねえの? 結局出ることになったらしいぞ」
「へえ」
「お前最近仲いいのに知らないんだ」
「全部知ってるわけじゃない」
湊はスポーツドリンクを飲みながら答えた。
しばらくすると、選手が入場する。
確かに理央がいた。
クラス対抗のリレーは一番盛り上がる種目の一つで、周囲の声援もそれまでより大きくなる。
理央は第三走者だった。
速かった。
運動ができることは知っていたが、実際に走るところをまともに見るのは初めてだった。前の走者からバトンを受け取ると、ほとんど速度を落とさず走り出し、直線に入ったところで一人を抜く。
周囲から歓声が上がった。
湊も思わず目で追った。
「うわ、瀬名やっぱ速えな」
篠崎の声が隣から聞こえる。
確かに格好いい。
悔しいが、それ以外に表現がなかった。
走り終えて次の走者へバトンを渡した理央が、息を整えながらコースの外へ出る。
その時、ふとこちらを見た。
距離があるので目が合ったのか確信はない。
けれど理央はすぐに笑って、湊へ向けるように片手を上げた。
「……お前に振ってない?」
篠崎が言う。
「たぶん」
「何その仲良しアピール」
「知らん」
そう答えながら、湊も小さく手を上げた。
理央は満足そうにして自分のクラスへ戻っていった。
妙に目立つことをする。
周囲の何人かがこちらを見た気がしたが、今さらだった。
昼休憩に入ると、理央は自分のクラスではなく湊のところへ来た。
「朝倉、見てた?」
「リレー?」
「うん」
「見てたよ。速かったな」
ほんの一言だった。
それなのに理央は、さっき一人抜いた時より嬉しそうな顔をした。
「本当?」
「何で嘘つくんだよ」
「朝倉に褒められた」
「お前、ほんとそれ好きだな」
「好き」
理央は迷わず言った。
「格好よかった?」
「まあ」
「まあ?」
「格好よかったよ」
言い直すと、理央の顔がさらに緩んだ。
周囲の女子が見たらどう思うだろう。
走っている時はあれだけ格好よかった男が、同級生に褒められたくらいでこんな顔をしている。
その落差がおかしくて、湊は少し笑った。
「何」
「別に」
「絶対何か思っただろ」
「さっきまで王子様だったのになって」
「何それ」
「格好よく走ってた奴と同じに見えない」
理央は一瞬だけむっとしたような顔をしたが、すぐに笑った。
「朝倉の前なら別にいい」
そう言って、近くの空いていた椅子に座る。
またそれだった。
湊の前ならいい。
湊なら。
湊だから。
理由はまだ分からない。
ただ最近は、その言葉を聞くたびに胸のどこかが少しだけむず痒くなる。
午後の競技が終わる頃には、理央もさすがに疲れていた。
閉会式と片づけを終えたあと、湊は教室で荷物をまとめてから昇降口へ向かった。
外へ出ると、校舎脇の日陰に理央が立っていた。
「また待ってたの」
「今日は約束してないけど、たぶん一緒に帰れるかなと思って」
「疲れてるなら先帰れよ」
「朝倉も疲れてるだろ」
「まあ」
歩き出す。
さすがに二人とも口数は少なかった。
一日中外にいたせいで身体は重く、日差しに晒された肌も少し熱を持っている。
学校から駅までの道を半分ほど進んだところで、理央が自動販売機の前へ寄った。
「何か飲む?」
「まだある」
「俺、甘いの欲しい」
珍しく炭酸でもお茶でもなく、紙パックのミルクティーを買っている。
湊は少し考え、自分も自動販売機に硬貨を入れた。
選んだのは小さなペットボトルの桃ジュースだった。
自分用ではない。
「ほら」
理央へ投げると、慌てて受け取った。
「何?」
「今日頑張ってたから」
言ってから、少し照れ臭くなった。
理央は桃ジュースと湊を交互に見る。
「……俺に?」
「他に誰がいるんだよ」
「なんで?」
「だから頑張ってたから。前に言ってただろ。疲れてたら甘いもの買ってもらうの好きって」
理央が黙った。
湊は一瞬、まずかったかと思った。
飲み物くらいで大げさに考える必要もないと思ったのだが、理央は妙に静かだった。
「嫌いだった?」
「違う」
「じゃあ何」
理央はペットボトルを両手で持ったまま、少し俯いた。
耳が赤くなっている。
「……嬉しい」
「なら飲めば」
「すごく嬉しい」
「二回言わなくていい」
「だって朝倉が覚えてた」
「聞いたことくらい覚えてるよ」
「そういうのが嬉しい」
顔を上げた理央は、泣くほどではないのに、それに少し近いくらい柔らかい顔で笑っていた。
湊は一瞬、何も言えなくなった。
ただ桃ジュースを一本買っただけだった。
それなのに、どうしてこんな顔をするのだろう。
「……大げさだな」
結局それしか言えなかった。
「朝倉には分かんないと思う」
「何が」
「こういうの、俺がずっとしてほしかったやつだから」
理央はペットボトルの蓋を開けた。
一口飲んで、また嬉しそうに笑う。
「美味しい」
「そりゃよかった」
二人でまた歩き出す。
その横顔を見ながら、湊は少しだけ考えた。
迎えに来てもらう。
疲れたら甘いものを買ってもらう。
頭を撫でてもらう。
特別なことなど一つもない。
少なくとも湊にとっては。
けれど理央にとっては、どれもずっと憧れていたものらしい。
なら、それくらいしてやってもいいのかもしれない。
友人として。
そう思った。
数日後、湊は自分から理央の頭を撫でた。
図書室ではなかった。
放課後、体育祭の片づけで遅くなった理央を廊下で待っていた時のことだった。
正確には待とうと思っていたわけではない。
たまたま図書室を出たところで理央から「まだ学校いる?」とメッセージが来て、いると返したら「あと十分で終わるから一緒に帰りたい」と言われたので、階段近くの窓辺で本を読みながら待っていただけである。
十分のはずが二十分経った頃、理央が廊下の向こうから走ってきた。
「ごめん、遅くなった」
「いいよ。本読んでたし」
「先生に捕まった。体育倉庫の確認手伝ってって」
「お疲れ」
「疲れた」
理央は珍しく隠しもせずそう言った。
肩も少し落ちている。
湊は本を鞄にしまいながら、何となくその顔を見た。
そして本当に、深い意味などなく手を伸ばした。
「よく頑張りました」
理央の頭に掌を置き、二度ほど撫でる。
前回よりずっと自然にできた。
冗談半分だった。
疲れていると言うから、本人が好きだと言っていたことをしてやっただけ。
けれど理央は完全に止まった。
湊の手の下で目を見開き、数秒遅れて頬が赤くなる。
「……何その顔」
「だって」
「何」
「朝倉からしてくれた」
前回とはそこが違うらしい。
「お前、これ好きだろ」
「好き」
「じゃあ別にいいじゃん」
「いい。すごくいい」
理央はそれから、少しだけ迷うように目を伏せた。
「もうちょっと、駄目?」
以前なら調子に乗るなとすぐ手を離していたかもしれない。
けれど今日は、別に誰も見ていなかった。
何より理央があまりに期待した顔をしているので、断る理由も思いつかなかった。
「少しだけな」
もう一度、今度はゆっくり髪を撫でる。
理央は目を閉じた。
口元が自然に緩み、肩から力が抜けていく。
前に図書室で見た時よりも、さらに無防備だった。
「……ほんと好きだな」
湊が呆れ混じりに言うと、理央は目を閉じたまま笑った。
「好き。朝倉にしてもらうの、すごい好き」
「分かった分かった」
「もっと大事にされてる感じする」
その言葉で、湊の手が少しだけ止まった。
理央が目を開ける。
「何?」
「いや」
湊はまた一度だけ髪を撫でてから、手を離した。
「前から言ってるけどさ」
「うん」
「お前、本当に俺の小説の主人公みたいに扱われたいんだな」
理央は少し考え、それから頷いた。
「たぶん」
「女主人公なのに?」
「そこ関係ある?」
「いや、ないけど」
聞き方が悪かった。
「何ていうか、俺が書く主人公って、大体恋人に大事にされてるだろ」
「うん」
「お前はそういうふうにされたいってこと?」
理央はしばらく黙った。
廊下の窓から夕方の光が差し込み、床に長い影を作っている。
部活動の声も遠くなり、校内には少しずつ静けさが戻り始めていた。
やがて理央は、少し照れたように笑った。
「されたいよ」
声は小さかったが、迷いはなかった。
「朝倉の小説の子たちみたいに、ちゃんと大事にされたい。頑張ったら頑張ったねって言ってほしいし、疲れたら甘やかしてほしい。格好いいって言われるのも嬉しいけど、好きな人には可愛いって思ってもらえたら、たぶんもっと嬉しい」
湊は何も言わず聞いていた。
「俺、学校だとあんまりそういう側じゃないから」
「そうだな」
「誰かを迎えに行くほうだと思われるし、守る側だと思われるし、何でもできると思われる。でも」
理央はそこで一度言葉を切った。
少し恥ずかしいのか、視線が窓の外へ逃げる。
「好きな人の前くらい、甘えてもいいじゃんって思う」
その言葉が、妙に素直に胸に入った。
「いいんじゃない」
湊は答えた。
「別に。甘えたら」
「……朝倉は嫌じゃない?」
「何で俺が嫌なんだよ」
「そういう男」
「そういうって?」
「撫でられたいとか、大事にされたいとか言う男」
湊は少し考えた。
考えるまでもなかった。
「別に何とも思わない。人によるだろ、そんなの」
「変だと思わない?」
「思わない」
理央がこちらを見る。
少しだけ安心したような顔だった。
その表情を見て、湊は何となく腹が立った。
「というか、お前が何したいかなんてお前が決めればいいだろ。周りが王子様とか言ってるからって、ずっと格好つけてなきゃいけない理由ないし」
少し言い方が強くなった。
理央は目を丸くしたあと、ゆっくり笑った。
「朝倉、そういうこと言うから好き」
「何が」
「そういうところ」
「意味分からん」
理央はまだ笑っている。
その顔を見ながら、湊はふと、以前なら絶対に思わなかったことを考えた。
瀬名理央は、可愛いのかもしれない。
顔立ちの話ではない。
もちろん顔は整っているし、一般的には格好いいと言われる部類だろう。
けれどそれとは別に、褒められれば嬉しそうにし、頭を撫でれば蕩けそうに目を細め、甘い飲み物一本で大事にされたと喜ぶところが、なんとなく可愛い。
そう思った自分に少し驚いた。
男の友人に向ける感想として、今までほとんど使ったことのない言葉だったからだ。
「帰るか」
湊はそれ以上考えないことにして、階段へ向かった。
「うん」
理央がすぐ隣に並ぶ。
その歩幅が合うことにも、もう慣れていた。
その日の夜、湊は自室で新作の続きを書いていた。
主人公の美琴が、仕事で失敗して恋人の部屋へ行く場面だった。
最初は弱音を吐かずに笑っている。
大丈夫だと言い、何でもないと言い、いつもどおり振る舞おうとする。
けれど恋人はそれを信じず、無理に事情を聞き出すのでもなく、温かい飲み物を渡し、隣に座って髪を撫でる。
美琴がそこでようやく泣く。
書きながら、今日の理央の言葉が何度も浮かんだ。
――好きな人の前くらい、甘えてもいいじゃん。
以前なら、美琴の気持ちだけを考えて書いていた場面だった。
今は少し違う。
普段は周囲からしっかりしていると思われている人間が、誰か一人の前でだけ気を抜くこと。
その相手がいるから、初めて弱い顔を見せられること。
理央の話を聞いたあとでは、それが以前より少し具体的に分かる気がした。
湊は数行書き足し、手を止めた。
何となくスマートフォンを見る。
ちょうどメッセージが届いた。
『今日は待っててくれてありがとう』
続けて、少し間を置いてもう一件。
『頭撫でてもらったのも嬉しかった』
湊は思わず笑った。
どれだけ好きなのだろう。
『よかったな』
それだけ返す。
すぐ既読がついた。
『またしてくれる?』
湊は少し考えた。
前なら、調子に乗るなと返していたと思う。
今はそこまで嫌ではなかった。
『たまにな』
送る。
数秒後。
『やった』
さらにそのあと、犬が尻尾を振っているスタンプが送られてきた。
「犬じゃん」
誰もいない部屋で呟き、湊はまた笑った。
スマートフォンを伏せ、ノートパソコンへ向き直る。
画面の中では、主人公が恋人の肩に頭を預けている。
湊は少しだけ考えてから、新しい文章を書き加えた。
――一人で立てることと、誰かに寄りかかりたいと思うことは、きっと矛盾しない。
書いたあと、悪くないと思った。
そしてなぜか、その一文を読んだ時に最初に浮かんだのは、自分が作った主人公ではなく、嬉しそうに目を細めていた瀬名理央の顔だった。

