学年一の王子様は俺の彼氏になりたがってる

 瀬名(せな)理央(りお)の頭を撫でた翌日から、何かが大きく変わったわけではなかった。
 少なくとも、朝倉湊(あさくらみなと)の目に見える範囲では。
 理央は相変わらず昼休みになると湊のところへ来て、天気がよければ中庭で一緒に昼食を取り、放課後には図書室へ顔を出した。湊がノートへ向かっている間は自分も本を読み、帰る頃になれば当然のように鞄を持って隣に並ぶ。休日に一度出かけたことで以前より少し話題が増えたくらいで、付き合い方そのものはそれまでとほとんど同じだった。
 ただ、理央はあの日以降、頭を撫でてほしいとは言わなくなった。
 それが意外だった。
 一回では満足できずにもう一度とねだったくらいだから、味を占めて何度も要求してくるのではないかと少しだけ警戒していたのだが、本人はまるで忘れてしまったように何も言わない。湊からしてやる理由も当然ないので、図書室での出来事はそのまま一度きりのことになっていた。
 だから湊も、特に意識しないことにした。
 自分が一度だけ友人の頭を撫でたことも、その時、学校ではいつも余裕のある顔をしている理央が耳まで赤くして喜んだことも。
 それでも、完全に忘れられたわけではなかった。
 理央が隣で本を読んでいる時、前髪が少し目に掛かっているのを見ると、あの日触れた髪の柔らかさを思い出すことがある。そのたびに湊は自分でも理由が分からないまま視線をノートへ戻した。

 六月も半ばを過ぎた頃、二年生は体育祭の準備で妙に慌ただしくなっていた。
 湊の学校では秋に文化祭、初夏に体育祭を行うため、梅雨の最中にもかかわらず各クラスでは応援用の旗や横断幕を作り、体育委員が昼休みや放課後まで予定表を持って走り回っている。
 湊自身はこういう行事に特別な情熱を持つタイプではない。
 出る種目に出て、頼まれた作業をこなし、終わったら楽しかったと思えればそれで十分だった。
 理央は違った。
 本人が積極的に前へ出たがっているわけではないのに、人が集まるところにはなぜか瀬名理央がいる。
 昼休みに中庭へ向かおうと三組の前を通りかかった湊は、開いた扉の向こうに人だかりを見つけて足を止めた。
 中心にいるのは理央だった。
「瀬名、リレー出てよ。うち絶対勝てるって」
「いや、もう二種目出るから無理だって。体育委員にも一人に偏らせるなって言われてるし」
「じゃあ応援団」
「それも別の人決まっただろ」
 男女数人に囲まれながら、理央は困ったように笑っている。
 いつも湊へ向ける笑顔より少しだけよそ行きに見えた。
 別に作っているわけではないのだろう。誰かに頼られればちゃんと話を聞き、無理なものは理由を説明して断り、それでも場の空気を悪くしない。その辺りの立ち回りが自然にできるから、周囲も理央を頼るのかもしれない。
「瀬名くんなら応援団似合うのに」
 女子の一人が残念そうに言うと、別の女子もすぐ同意した。
「絶対格好いい。学ラン着てほしい」
「俺たち普通に制服ブレザーだけど」
「だから体育祭の時だけ借りようよ」
「どこから?」
 理央が笑うと、周囲も笑った。
 こういうところなのだろう。
 湊が学校で知っていた瀬名理央は。
 どこにいても目立って、誰かに声を掛けられて、何をしても様になりそうだと期待され、それを露骨に嫌がることもなく受け流せる。
 本人の意思とは関係なく、周囲が勝手に役柄を決めていく。
 王子様というあだ名も、その延長なのかもしれなかった。
 少し前までなら、その光景を見ても何とも思わなかった。
 瀬名はこういう奴だ、で終わっていた。
 けれど今は、放課後の図書室で眠そうに机に伏せていた理央も知っているし、頭を撫でたら真っ赤になってもう一度と頼んできた理央も知っている。
 同じ人間なのに、妙に繋がらなかった。
 しばらく扉の外から眺めていると、理央がこちらに気づいた。
 一瞬だけ目を見開き、それから明らかに表情が変わる。
「朝倉」
 さっきまで囲んでいた同級生たちに何か一言断り、すぐにこちらへ歩いてきた。
「待った?」
「いや。今来たとこ」
「じゃあ行こう」
 あっさり教室を出る。
 湊は少しだけ三組の中を振り返った。
 残された生徒たちが何となくこちらを見ている。
「いいの?」
「何が?」
「頼まれてただろ」
「話終わったし。俺、昼食べたい」
「お前、こういう時あっさりしてるな」
「何が?」
「いや、別に」
 本人には自覚がないらしい。
 湊と一緒にいることを優先したと言えば大げさだが、少なくともあのまま教室に残って話すより、こちらへ来るほうを選んだのは確かだった。
 最近、理央はそういうことを自然にする。
 誰かと話していても湊を見つければ手を振るし、放課後に友人から遊びに誘われても「今日は図書室行くから」と断っているところを見たこともある。
 それを特別扱いだと思うほど自惚れてはいないものの、少なくとも理央の中で自分の優先順位が低くないことだけは、少しずつ分かってきていた。

 中庭へ着くと、いつものベンチは珍しく空いていた。
 二人並んで座り、昼食を広げる。
 今日は湊が弁当で、理央は購買のパンだった。
「さっきは人気者だったな」
 湊が言うと、理央はパンの袋を開けながら苦笑した。
「体育祭前だけだよ。人足りないところに入れられそうになってるだけ」
「応援団やればよかったのに。学ラン似合いそうって」
「聞いてた?」
「少し」
「恥ずかしいな」
「何が。いつも言われてるだろ」
「朝倉に聞かれるのは違う」
 またそれだった。
 湊に言われるのは違う。
 湊にされるのは違う。
 理央は時々そう言う。
 何がどう違うのかは、いまだによく分からない。
「でも、瀬名って本当に期待されるんだな」
「期待?」
「何でもできそうって。体育祭もそうだし、普段も」
 理央は少し考えてから、曖昧に笑った。
「まあ、頼まれることは多いかも」
「嫌じゃない?」
「別に。できることならやればいいし」
 そこで話が終わるかと思ったが、理央は一口パンを食べたあと、少しだけ声を落とした。
「でも、たまに疲れる」
 意外な言葉だった。
 湊が横を見ると、理央は別に深刻そうな顔をしているわけではない。
「何しても瀬名ならできるでしょって言われるのは、ちょっとだけ困る。俺だってできないことあるし、失敗することもあるのに」
「言えば?」
「言ってるよ。でも冗談だと思われる」
「日頃の行いだな」
「ひどい」
 理央は笑った。
 それでも、ほんの少しだけ肩から力が抜けたように見えた。
「朝倉は俺に何も期待しないよね」
「急に失礼だな」
「違う。いい意味で」
「いい意味で期待しないって何」
「瀬名ならできるでしょって言わないし、顔がいいから何とかなるとかも言わない」
「言う時あるだろ。モテるとか」
「それは事実として言ってるだけじゃん」
「違いが分からん」
「俺は分かる」
 妙にきっぱり言われた。
「朝倉って、俺が疲れてたら普通に疲れてるって思うし、眠かったら寝ればって言うだろ。変に瀬名らしくないとか言わない」
「眠い奴が寝るのに瀬名らしいも何もないだろ」
「そういうところ」
 理央が笑う。
 湊にはまだよく分からなかった。
 ただ、本人にとっては何か重要らしい。
 しばらく黙って食べていると、理央が今度は思い出したように口を開いた。
「朝倉の小説ってさ」
「学校で作品の話するなって言っただろ」
「タイトルとか言わないから」
「なら小声で」
「うん。主人公、結構仕事できる人多いよね。何でも自分でやろうとするし」
「そうかもな」
「でも恋人の前だと甘えるじゃん」
「それ、この前も言ってたな」
「好きだから」
 理央は少し照れたように笑った。
「俺、ああいうの羨ましいんだと思う」
「羨ましい?」
「ちゃんとしてる人が、好きな人の前ではちゃんとしなくてもいい感じ」
 湊は箸を止めた。
 前にも似た話を聞いた。
 大事にされたい。
 甘えたい。
 可愛がられたい。
 ただ今日は、それが少しだけ理央自身と繋がった。
「お前、普段ちゃんとしてるもんな」
「そう見える?」
「見える。というか周りがそう思ってるだろ」
「朝倉も?」
「最初は」
「今は?」
 湊は理央を見た。
 聞き方が妙に真剣だった。
「……意外と普通」
「それ褒めてる?」
「褒めてるよ。眠くなれば電車で寝るし、甘いもの好きだし、褒めればすぐ嬉しそうな顔するし」
「最後は余計」
「本当だろ」
「朝倉だって褒めると照れるくせに」
「話逸らすな」
 少しだけ笑い合う。
 理央はそのあと、ぽつりと呟いた。
「俺、普通でいたいのかも」
 湊は何も返さなかった。
 返す言葉がすぐには見つからなかったからだ。
 その代わり、さっき教室で囲まれていた理央の姿を思い出した。
 王子様。
 格好いい。
 何でもできる。
 頼れば応えてくれる。
 周囲から勝手に積み上げられていく理想像の中で、理央自身はどのくらい楽にしていられるのだろう。
 湊といる時に見せる顔のほうが本当だと言うつもりはない。
 教室で笑っている理央も嘘ではないだろう。
 ただ、少なくともここでは少し力を抜いている。
 そう思うと、自分が理央の中で妙に居心地のいい場所になっているらしいことが、少しだけ嬉しかった。

 体育祭の準備が本格化すると、放課後の図書室へ行けない日も増えた。
 湊のクラスでは応援旗の制作が遅れており、美術が得意でもないのになぜか塗り作業に駆り出された。教室の床に新聞紙を敷き、何人かで大きな布に絵の具を塗る作業を続けていると、気づけば夕方になっている。
 その日もようやく作業を終えた頃には、図書室が閉まる時間が近かった。
 今日は理央にも行けないと伝えてある。
 だからそのまま帰ろうと鞄を持って教室を出たところで、廊下の先に見慣れた人影を見つけた。
 窓際に寄りかかりながらスマートフォンを見ていた理央が、湊に気づいて顔を上げる。
「終わった?」
「……何してんの」
「待ってた」
「何で」
「一緒に帰ろうと思って」
 あまりにも当然のように言われた。
「今日図書室行かないって言っただろ」
「知ってる。だから教室の近くで待ってた」
「ずっと?」
「そんなに長くないよ。俺も体育祭の打ち合わせあったし」
 それでも二十分くらいは待ったらしい。
 湊は少し呆れた。
「先帰ればよかったのに」
「でも朝倉と帰りたかったから」
 理央はまた、何でもないことのように言う。
 少し前なら、その度に何でと聞き返していた。
 今はもう聞かなくなった。
 理央にとってはそれが理由なのだと分かり始めていたからだ。
「じゃあ帰るか」
「うん」
 並んで階段を下りる。
 昇降口へ向かう途中、理央が湊の手元を見た。
「絵の具ついてる」
「どこ」
「手」
 見ると、右手の甲に青い絵の具が少し乾いて残っていた。
「あとで洗う」
「顔にも」
「嘘」
「本当。ほっぺ」
 理央が指を伸ばしかけ、途中で止めた。
「取っていい?」
「どうぞ」
 わざわざ聞くほどのことでもないと思いながら顔を少し向けると、理央の指先が頬に軽く触れた。
 乾いた絵の具を擦るように数回動く。
 近い。
 そう思ったのは、触れられた後だった。
 理央の顔が目の前にある。
 学校で遠くから見れば整っていると思うだけだった顔が、こうして近づくと睫毛までよく見える。
「取れた」
「あ、ありがと」
「どういたしまして」
 理央は何とも思っていないらしく、すぐに手を離した。
 湊もそれ以上気にしないことにして歩き出した。
 少しだけ頬が熱い気がしたが、体育祭準備で疲れているせいだと思った。