学年一の王子様は俺の彼氏になりたがってる

 夕方の電車は朝より混んでいた。
 二人ともドアの近くへ立ち、乗り込んでくる人を避けるうちに肩が触れるほど距離が近くなる。理央は一日歩き回ったせいか少し疲れているらしく、学校にいる時より口数が少なかった。
「疲れたなら無理して喋らなくていいよ。お前の駅になったら言うから」
 何気なくそう言うと、理央は一度こちらを見てから、柔らかく笑った。
「じゃあ少しだけ甘える。朝倉いるなら寝ても大丈夫そう」
「乗り過ごしても責任取らないけどな」
 そう言いつつ、結局起こすつもりではいた。
 電車が大きく揺れた拍子に理央の頭が肩に触れ、そのまま離れきらずに少し体重が預けられる。最初は単に揺れのせいだと思ったが、しばらくすると呼吸がゆっくりになったので、本当に眠ったらしい。
 制服を着て学校の廊下を歩いている時には、どうしても瀬名理央という有名人に見える。
 女子に騒がれ、教師からも信頼され、いつも余裕のある笑顔を浮かべている、学年一の王子様。
 けれど今は、遊び疲れて友人の肩で眠っているだけの高校二年生だった。
 次の次が理央の降りる駅になり、湊は肩に乗っている頭を軽く押した。
「瀬名、そろそろ着くぞ」
 何度か呼ぶと、理央はようやく目を開けた。
 寝起きで状況が分かっていないらしく、普段の整った表情がすっかり消えている。少し乱れた前髪の下で目を細め、それから自分が湊に寄りかかっていたことに気づいて慌てて体を起こした。
「ごめん。重かった?」
「別に。このくらいなら」
「……ありがとう」
 それだけのことなのに、理央はまたひどく嬉しそうに笑った。
 ホームへ降りてからも、閉まるドアの向こうで手を振っている。
 湊も小さく片手を上げながら、つくづく変な男だと思った。
 肩を貸したくらいで、あんなに喜ぶものだろうか。

 翌週、その疑問の理由を少しだけ知ることになった。
 昼休みに中庭へ向かう途中、廊下の角を曲がったところで理央を見つけた。向かいには知らない女子生徒が立っている。俯いてスマートフォンを握りしめている様子と、理央が真面目な顔で話を聞いているところを見れば、何をしているのかはだいたい分かった。
 告白だろう。
 聞き耳を立てる趣味はないので、そのまま別の階段から中庭へ向かった。
 数分遅れて来た理央は、いつもより少しだけ静かだった。
「さっきの、告白?」
 湊が聞くと、理央は見られていたことに驚いたあと、小さく頷いた。
 断ったのだという。
「好きって言ってもらえるのは嬉しいんだけど、俺が同じ気持ちじゃないなら付き合えないし。でも、泣かせた」
「それは仕方ないだろ。嘘ついて付き合うほうが相手に悪い」
「分かってるんだけどね」
 理央は購買の袋を指先で折りながら、しばらく黙っていた。
 やがて少し困ったような顔で言う。
「告白される時、俺って大体、何かしてあげる側なんだよね。瀬名くんなら彼女を大事にしてくれそうとか、デートならこういうところ連れていってほしいとか、迎えに来てくれそうとか。別に嫌じゃないし、俺だって好きな人ができたら大事にしたい。でも、俺も大事にされたいんだよ」
 以前から何度も聞いていた言葉だった。
 ただ、今日初めて少しだけ意味が分かった気がした。
 理央は単純に、可愛がられる恋愛描写が好みなのではない。
 普段から周囲に、格好いい側、頼られる側、何かを与える側として見られているからこそ、好きな相手にだけは自分も甘えてみたいのだ。
「普通、付き合ったら両方だろ。大事にするし、大事にされるんじゃないの」
 湊がそう言うと、理央が顔を上げた。
「朝倉も?」
「俺だって恋人できたらそうすると思うけど。相手が疲れてたら気にするし、してほしいことがあるなら、無理じゃない範囲でやるだろ」
「頭撫でてって言われても?」
「またそれかよ」
 思わず笑ってしまった。
 どうやらそこだけはかなり憧れているらしい。
「一回くらいならやるよ。そんな大層なことでもないだろ」
「じゃあ今やってみる?」
「なんでここでお前にするんだよ。周り見ろ」
 中庭には他にも生徒がいる。
 理央もさすがにそれ以上は言わず、少し残念そうに笑った。
 ただ、その表情が妙に記憶に残った。

 その日の放課後、いつも使っている図書室の窓際の席には先客がいた。
 仕方なく奥にある二人掛けの机へ座ると、遅れて来た理央も当然のように隣へ腰を下ろした。向かいではなく横なので、互いに腕を動かせば触れそうな距離だったが、最初のうちは特に気にならなかった。
 湊はノートへ向かい、理央は本を読む。
 静かな時間が三十分ほど続いたところで、隣から長い息が漏れた。
 見ると、理央は片肘を机につき、こめかみを押さえている。
「眠そうだな。昨日寝てないの?」
「課題やってたら遅くなった。帰ったほうがいいんだろうけど、朝倉まだいるし、一緒に帰りたいからもう少しいる」
「そこまで俺に合わせなくてもいいのに」
「嫌なら帰るけど」
「嫌とは言ってない。眠いならちょっと寝てれば。帰る時には起こすから」
 そう言うと、理央は目に見えて安心したようだった。
「じゃあ五分だけ。起こして」
「五分で起きる奴がそんな眠そうな顔しないだろ」
 呆れながらも放っておくと、理央は腕を枕にして机へ伏せ、本当に数分も経たないうちに寝息を立て始めた。
 湊はしばらく自分の作業を続けた。
 新作では、仕事で失敗した主人公が帰宅し、恋人に髪を乾かしてもらう場面を書こうとしている。落ち込んでいる理由を無理に聞き出すのではなく、温かい飲み物を渡して、濡れた髪にドライヤーを当てながら、話したくなった時だけ聞くような場面。
 何行か書いたところで、隣から小さく身じろぎする音がした。
 顔を向ける。
 理央はまだ眠っている。
 腕に半分顔を埋め、いつもより幼く見える寝顔を晒していた。
 今日の昼休みの話が、ふと頭へ蘇った。
 頭を撫でてほしい。
 何度も言うほど憧れているくせに、どういうものなのか本人にもよく分かっていないらしい。
 別に難しいことではない。
 髪に手を置いて、少し撫でるだけだ。
 湊はしばらく眠る理央を眺めてから、周囲へ何となく目をやった。奥まった席なのでこちらを見ている人間はいない。
 一回くらいならやると言ってしまった。
 それなら、試してみてもいい気がした。
 深い意味など何もない。
 そう自分に言い訳をしてから、湊は右手を伸ばした。
 掌を理央の頭に置く。
 整えられている髪は、見た目より柔らかかった。
 子供をあやすほど雑ではなく、かといって特別丁寧にするつもりもなく、頭頂部から後ろへ一度ゆっくり撫でてみる。
 理央がわずかに動いた。
 起こしたかと思って手を離しかけたが、顔は上がらない。それどころか、寝ぼけているのか、湊の掌にもう少し頭を預けるように僅かに動いた。
 犬みたいだ。
 そう思ったら少しおかしくなって、もう一度だけ髪を梳くように撫でる。
 今度は理央がゆっくりと顔を上げた。
 視線がぶつかる。
 湊の手はまだ、その頭の上に置かれたままだった。
「悪い。起こした?」
 理央はすぐには答えなかった。
 何が起きたのか確かめるように湊を見て、それから自分の頭に置かれた手を意識するように、視線を少し上へ動かした。
「……今、撫でた?」
「昼にやってほしいって言ってただろ。一回くらいならやるって言ったし」
 説明してやると、理央の頬が目に見えて赤くなっていった。
 さっきまで眠そうだった目まで大きく開き、耳にも少しずつ赤みが差していく。
 予想していなかった反応に、湊のほうが戸惑った。
「そんなに驚くなら頼むなよ。もう満足した?」
 少しからかうように言うと、理央はしばらく黙っていた。
 やがて、恥ずかしそうに視線を落としながら小さく首を振る。
「……もう一回してほしい」
 一回くらいならやるつもりだったのに、ずいぶん早く二度目をねだられた。
 湊は呆れたものの、あまりに真剣に頼まれると断るほどのことでもない。
「これで最後な」
 もう一度手を置き、先ほどより少しだけゆっくりと髪を撫でる。
 理央は今度こそ目を閉じた。
 それまで残っていた寝不足の気怠さとは違う形で肩の力が抜け、頬はまだ赤いのに、口元だけがどうしようもなく緩んでいく。
 学校で女子に囲まれている時には見たことのない顔だった。
 人目を引く整った笑顔でも、誰にでも向ける穏やかな表情でもない。
 ただ、してほしかったことをしてもらえて嬉しいという、それだけがあまりにも分かりやすく顔に出ている。
「……そんなにいいもの?」
 湊が思わず尋ねると、理央は目を開けた。
「分かんない。でも、朝倉にされるのはすごく好き」
 その返事が妙にまっすぐで、今度は湊のほうが手を引いた。
「はい、終わり。これ以上は調子に乗るから駄目」
 理央は少し残念そうにしながらも、さすがに三度目を要求することはなかった。ただ、本へ視線を戻してからもしばらく口元が緩んだままで、どう考えても文字など頭に入っていない。
 湊もノートへ向き直った。
 ところがこちらも、さっきまで考えていた文章にすぐには戻れなかった。
 頭を撫でた。
 ただそれだけである。
 それなのに理央は、ひどく驚いて、真っ赤になって、もう一度してほしいと頼み、実際に撫でてやればあれほど嬉しそうな顔をした。
 瀬名理央という人間について、湊はまだ何も知らない。
 これまで知っていたのは、学年一の王子様と呼ばれていることと、顔がよくて、誰にでも感じがよくて、女子から人気があるという外側の情報だけだった。
 実際に話してみれば、思っていたよりよく笑い、少し子供っぽいところもあり、好きなものについて話す時にはかなり熱くなる。そして恋愛に関しては、誰かを格好よく迎えに行くより迎えに来てもらいたがり、看病するより看病される話に目を輝かせ、頭を撫でられることひとつで耳まで赤くなる。
 知れば知るほど、最初に持っていた像から遠ざかっていく。
 湊はペンを動かしながら、隣でまだ機嫌よく本を開いている理央を横目で見た。
 王子様というより、思っていた以上に単純な奴なのかもしれない。
 今は、まだそのくらいの認識だった。