それで終わると思っていた。
湊としては、偶然正体を知られてしまったことは災難だったものの、理央が誰かに言いふらすつもりがないのなら大きな問題ではない。たまに感想を聞かされるくらいなら我慢できるし、同じ学校に自分の作品を一年半も読み続けてくれている人間がいるという事実は、恥ずかしい反面、少し嬉しくもあった。
だから翌日、昼休みになった途端、教室の後ろの扉から顔を出した理央を見つけた時には、自分の認識が甘かったことを悟った。
「朝倉いる?」
教室の空気が微妙に変わった。
女子だけではない。男子まで何人かが扉を見る。
理央は他クラスにも友人が多いので、彼が誰かを訪ねてくること自体は珍しくない。それでも、湊の名前を呼んだことには意外性があったらしい。
湊は机に肘をついたまま額を押さえた。
昨日、教室に来るなと言ったはずだ。
近くの席にいた友人の篠崎が、面白そうに振り返る。
「朝倉、瀬名と知り合いだった?」
「昨日から」
「何それ」
「俺も聞きたい」
無視するわけにもいかず、湊は席を立った。
廊下へ出ると、理央はコンビニの袋を二つ持っていた。
「教室来るなって言わなかった?」
「言われた」
「じゃあ何で来た」
「作者の話はしないから大丈夫かと思って」
「そういう問題じゃない」
「違った?」
「違うだろ」
理央は少し考え、それから素直に頷いた。
「ごめん。次から気をつける」
「次がある前提なの?」
「あるよ」
「なんで」
「朝倉と話したいから」
あまりにも自然に返されて、湊は言葉に詰まった。
昨日までほとんど他人だった人間の台詞ではない。
「これ」
理央が片方の袋を差し出す。
「何」
「昼飯」
「あるけど」
「昨日、俺のせいでちゃんと食べられなかったから」
「いや食ったよ。焼きそばパン」
「歩きながら?」
「そうだけど」
「だから今日の分」
意味が分からない。
湊は受け取らずに袋の中を覗いた。おにぎりが二つと紙パックのカフェオレ、それから小さなカップ入りのプリンが見える。
「多い」
「朝倉、昼いつもパン一個じゃない?」
「何で知ってるの」
「昨日パン一個だったから」
「昨日だけかもしれないだろ」
「じゃあ今日何持ってる?」
「パン」
「一個?」
「……一個」
「ほら」
勝ち誇ったように言われるほどのことだろうか。
「育ち盛りなんだからもっと食べたほうがいいよ」
「お母さん?」
「違う」
「知ってる」
理央の手から袋を押し返そうとしたが、受け取ってもらえなかった。
「昨日のお詫びだから」
「プリンまで?」
「甘いの嫌い?」
「好きだけど」
「よかった」
理央が嬉しそうに笑う。
また、その顔だった。
学校でよく見る、誰にでも向ける綺麗な笑顔とは少し違う。目元まで分かりやすく緩んで、口角が上がっている。そんなにプリンを受け取らせたいのかと思うほど喜んでいる。
「……分かった。もらう」
「うん」
「でも次はいいから」
「分かった」
本当に分かっているのか怪しい。
「じゃあ放課後、図書室いる?」
「たぶん」
「俺も行っていい?」
「何しに」
「本読む」
「普段行かないの?」
「行くよ。でも今日は朝倉もいるから」
「だから何で俺基準なんだよ」
「話したいから」
昨日から何度目か分からない同じ答えが返ってきた。
理央にとっては、それですべて説明できているらしい。
「小説の話は?」
「学校ではしない」
「じゃあ何話すの」
「何でも」
「何でもって」
「授業とか、好きな本とか、朝倉のこととか」
「最後おかしいだろ」
「おかしい?」
「俺のこと聞いてどうすんの」
理央は一瞬、意外そうな顔をした。
それから、少し考えるように視線を横へ逸らす。
「……知りたいから?」
「何で疑問形なんだよ」
「いや、俺も今考えた」
「考えてから喋れ」
「でも知りたいのは本当」
面倒なファンに捕まったかもしれない。
そう思った。
それなのに、不思議と嫌ではなかった。
放課後、湊はいつもどおり図書室へ向かった。
別に理央が来ると言ったからではない。
図書室はもともと、湊が家以外でもっとも文章を書きやすい場所だった。運動部の掛け声が遠くに聞こえる程度で騒がしくなく、かといって自室ほど静かでもない。誰かの気配がありながら誰とも話さなくていい空間は、物語を考えるのにちょうどよかった。
窓際の席に座り、鞄からノートを出す。
さすがに昨日のことがあるので、今日は小説用ではなく授業用のノートを一冊余計に持ってきた。表紙だけ見ればどれも同じなので、これなら誰かが近くを通っても何を書いているかまでは分からない。
開いて数分もしないうちに、向かいの椅子が引かれた。
顔を上げる。
理央だった。
「早いな」
「朝倉も」
「俺はいつもこのくらい」
「知ってる」
「……何で」
「前から何回か見たことあるから」
ひょっとして以前から存在自体は認識されていたのだろうか。
湊のほうは理央の存在を当然知っていたが、それは有名人だからであって、個人として意識したことなどほとんどない。
理央は鞄から文庫本を取り出した。
見覚えがある。
「それ」
「うん」
理央が表紙を見せる。
湊が以前、活動報告で紹介した恋愛小説だった。
「好きって書いてたから」
「買ったの?」
「去年」
「去年?」
「朝倉が紹介した時」
想像以上に筋金入りだった。
湊はもう何も言わずノートへ視線を戻した。
理央も話しかけてこなかった。読むと言った以上本当に読むつもりだったらしく、栞を挟んでいたページを開くと静かに文字を追い始める。
十分。
二十分。
思っていたより居心地は悪くない。
向かいに理央がいることだけは妙に気になるが、話しかけてこないので作業の邪魔にはならなかった。
湊は新作の続きを考えながら、ノートに短い文章を書いていく。
主人公の美琴が仕事で失敗する。帰宅して、一人で夕食を済ませようとしているところへ恋人の和樹が来る。何も聞かず、一緒にコンビニで買ったアイスを食べる。そのあと、落ち込んでいる美琴の髪を乾かしてやる。
そこまで書いて、ペンを止めた。
何となく顔を上げると、理央と目が合った。
「……何」
「いや」
「見てただろ」
「ごめん」
「ノート?」
「違う。朝倉を」
「もっと悪いだろ」
理央が小さく笑う。
図書室なので声を抑えているが、楽しそうなのは分かった。
「何」
「本当にいたんだなと思って」
「昨日からずっといるだろ」
「そうじゃなくて」
理央は文庫本を閉じた。
「一年半くらい、文章しか知らなかったから」
その言葉で、湊は少しだけ理解した。
自分にとって理央は、昨日突然話しかけてきた同級生だ。
けれど理央にとって自分は、そうではない。
もちろん作者が朝倉湊だと知ったのは最近だとしても、その文章自体とは一年以上付き合っている。湊が書いた物語で笑ったことも、続きを待ったことも、更新されない期間に何となくサイトを覗いたこともあったのかもしれない。
そう考えると、初対面から妙に距離が近い理由が少しだけ分かる気がした。
「そんなに好き?」
「好きだよ」
理央は迷わなかった。
「どういうところが」
聞いてから、我ながら格好悪い質問だと思った。
褒めてほしいと言っているようなものだ。
けれど理央はからかわなかった。
「大事にしてもらえるところ」
「……誰が?」
「主人公たち」
予想していなかった答えだった。
理央は机の上の文庫本に指を置きながら、少し考えて言葉を続けた。
「朝倉の話って、主人公がすごく頑張ってるじゃん。仕事だったり、学校だったり、家族のことだったり。ちゃんと一人でも生きていける人が多い。でも恋人ができたら、その人の前ではちょっと甘えてもいいことになる」
湊は黙って聞いた。
「風邪ひいた時に看病してもらったり、疲れてる時にご飯作ってもらったり、泣いたら抱きしめてもらったり。別に一人じゃ何もできないわけじゃないのに、好きな人がいるから、その人にしてもらえることが増える感じ」
そこまで考えて読んでいるとは思わなかった。
書く時に明確な理論として考えているわけではない。ただ湊は、自分の足で立っている人が、好きな相手にだけ少し体重を預ける瞬間が好きだった。一人でも歩けることと、誰かと歩きたいと思うことは別なのだと、そういう話を書くのが好きだった。
「……よく読んでるな」
「何回も読んだから」
「何回も?」
「好きなやつは」
また恥ずかしくなる。
「特に『冬の窓辺』は五回くらい」
「やめてくれ」
「なんで」
「五回も粗を探されたと思うと死にたくなる」
「粗なんて探してないよ」
「あるんだよ、初期作だから」
「俺は好き」
「分かったから」
理央が笑う。
湊はノートへ視線を落とした。
さっきまで書いていた、美琴が髪を乾かしてもらう場面が目に入る。
「瀬名って」
「うん」
「そういう恋愛したいの」
「そういう?」
「今言ってたような」
何となく聞いただけだった。
理央ほど見た目がよければ、恋愛など選び放題だろう。実際、告白されたという噂は何度も聞いたことがある。すでに誰かと付き合った経験があっても不思議ではない。
だから答えも、まあできたらいいね、くらいの軽いものを想像していた。
理央は少しだけ目を伏せた。
「したい」
「へえ」
「すごく」
思ったより強かった。
「朝倉の小説みたいな恋愛、一回してみたい」
「俺のはフィクションだよ」
「分かってる」
「現実であんな都合よくいかないって」
「それも分かってる」
「じゃあ」
「でも、いいなって思うくらいはいいだろ」
理央が笑う。
窓から差し込んだ夕方の光が、横顔を照らしていた。
そうして黙っていれば、本当に絵になる男だと思う。
湊の小説に理央のような男を出したなら、きっと雨の日には傘を持って駅まで行き、仕事で疲れた恋人には夕食を作り、泣いていたら何も言わず抱きしめるだろう。読者から「こんな彼氏がほしい」と感想をもらうような男。
実際、学校でもそう見られているのだろう。
「瀬名ならできるんじゃない」
「そうかな」
「相手いくらでもいるだろ」
「そういう意味じゃなくて」
理央はそこで言葉を切った。
何か言おうとして、結局やめたようだった。
「まあ、いつか」
「いつか?」
「俺も、あんなふうに大事にされてみたい」
穏やかな声だった。
湊は一瞬だけ黙った。
目の前の男と、自分の小説の主人公たちが、頭の中で上手く重ならなかった。
理央はそんな湊の戸惑いには気づいていないらしく、また文庫本を開く。
「いいよね。好きな人に大事にされるの」
「……まあ」
「頭撫でてもらうのとかも、一回やってみたい」
「お前が?」
「うん」
思わず理央の頭を見た。
綺麗に整えられた黒髪。
「似合わなそう」
「ひどい」
「だって瀬名、撫でる側っぽいじゃん」
「みんなそう言う」
理央は少しだけ口を尖らせた。
その顔があまりにも普通の高校生らしくて、湊は初めて、この男が王子様でも何でもないのかもしれないと思った。
ただ顔がよくて、少し目立って、それゆえに周囲から勝手な役割を与えられているだけの、同い年の男子高校生。
「俺は、されたいんだけどな」
理央が小さく呟いた。
湊はその横顔を少しだけ見て、それからノートへ視線を戻した。
美琴の髪を乾かす和樹の場面に、新しい一文を足す。
理央はそれ以上何も言わず、静かに本を読んでいた。
放課後の図書室にはページを捲る音と、湊がペンを走らせる音だけが続いていた。
その時の湊はまだ、瀬名理央の言った「大事にされたい」という言葉を、ただ少し意外な趣味としてしか受け取っていなかった。
少なくとも翌日から毎日のように待ち伏せされることになるとも、その王子様が自分の書いた恋愛を片っ端から実践したがるとも、ましてや、その相手としてなぜか自分を選ぶことになるとも、知るはずがなかった。
湊としては、偶然正体を知られてしまったことは災難だったものの、理央が誰かに言いふらすつもりがないのなら大きな問題ではない。たまに感想を聞かされるくらいなら我慢できるし、同じ学校に自分の作品を一年半も読み続けてくれている人間がいるという事実は、恥ずかしい反面、少し嬉しくもあった。
だから翌日、昼休みになった途端、教室の後ろの扉から顔を出した理央を見つけた時には、自分の認識が甘かったことを悟った。
「朝倉いる?」
教室の空気が微妙に変わった。
女子だけではない。男子まで何人かが扉を見る。
理央は他クラスにも友人が多いので、彼が誰かを訪ねてくること自体は珍しくない。それでも、湊の名前を呼んだことには意外性があったらしい。
湊は机に肘をついたまま額を押さえた。
昨日、教室に来るなと言ったはずだ。
近くの席にいた友人の篠崎が、面白そうに振り返る。
「朝倉、瀬名と知り合いだった?」
「昨日から」
「何それ」
「俺も聞きたい」
無視するわけにもいかず、湊は席を立った。
廊下へ出ると、理央はコンビニの袋を二つ持っていた。
「教室来るなって言わなかった?」
「言われた」
「じゃあ何で来た」
「作者の話はしないから大丈夫かと思って」
「そういう問題じゃない」
「違った?」
「違うだろ」
理央は少し考え、それから素直に頷いた。
「ごめん。次から気をつける」
「次がある前提なの?」
「あるよ」
「なんで」
「朝倉と話したいから」
あまりにも自然に返されて、湊は言葉に詰まった。
昨日までほとんど他人だった人間の台詞ではない。
「これ」
理央が片方の袋を差し出す。
「何」
「昼飯」
「あるけど」
「昨日、俺のせいでちゃんと食べられなかったから」
「いや食ったよ。焼きそばパン」
「歩きながら?」
「そうだけど」
「だから今日の分」
意味が分からない。
湊は受け取らずに袋の中を覗いた。おにぎりが二つと紙パックのカフェオレ、それから小さなカップ入りのプリンが見える。
「多い」
「朝倉、昼いつもパン一個じゃない?」
「何で知ってるの」
「昨日パン一個だったから」
「昨日だけかもしれないだろ」
「じゃあ今日何持ってる?」
「パン」
「一個?」
「……一個」
「ほら」
勝ち誇ったように言われるほどのことだろうか。
「育ち盛りなんだからもっと食べたほうがいいよ」
「お母さん?」
「違う」
「知ってる」
理央の手から袋を押し返そうとしたが、受け取ってもらえなかった。
「昨日のお詫びだから」
「プリンまで?」
「甘いの嫌い?」
「好きだけど」
「よかった」
理央が嬉しそうに笑う。
また、その顔だった。
学校でよく見る、誰にでも向ける綺麗な笑顔とは少し違う。目元まで分かりやすく緩んで、口角が上がっている。そんなにプリンを受け取らせたいのかと思うほど喜んでいる。
「……分かった。もらう」
「うん」
「でも次はいいから」
「分かった」
本当に分かっているのか怪しい。
「じゃあ放課後、図書室いる?」
「たぶん」
「俺も行っていい?」
「何しに」
「本読む」
「普段行かないの?」
「行くよ。でも今日は朝倉もいるから」
「だから何で俺基準なんだよ」
「話したいから」
昨日から何度目か分からない同じ答えが返ってきた。
理央にとっては、それですべて説明できているらしい。
「小説の話は?」
「学校ではしない」
「じゃあ何話すの」
「何でも」
「何でもって」
「授業とか、好きな本とか、朝倉のこととか」
「最後おかしいだろ」
「おかしい?」
「俺のこと聞いてどうすんの」
理央は一瞬、意外そうな顔をした。
それから、少し考えるように視線を横へ逸らす。
「……知りたいから?」
「何で疑問形なんだよ」
「いや、俺も今考えた」
「考えてから喋れ」
「でも知りたいのは本当」
面倒なファンに捕まったかもしれない。
そう思った。
それなのに、不思議と嫌ではなかった。
放課後、湊はいつもどおり図書室へ向かった。
別に理央が来ると言ったからではない。
図書室はもともと、湊が家以外でもっとも文章を書きやすい場所だった。運動部の掛け声が遠くに聞こえる程度で騒がしくなく、かといって自室ほど静かでもない。誰かの気配がありながら誰とも話さなくていい空間は、物語を考えるのにちょうどよかった。
窓際の席に座り、鞄からノートを出す。
さすがに昨日のことがあるので、今日は小説用ではなく授業用のノートを一冊余計に持ってきた。表紙だけ見ればどれも同じなので、これなら誰かが近くを通っても何を書いているかまでは分からない。
開いて数分もしないうちに、向かいの椅子が引かれた。
顔を上げる。
理央だった。
「早いな」
「朝倉も」
「俺はいつもこのくらい」
「知ってる」
「……何で」
「前から何回か見たことあるから」
ひょっとして以前から存在自体は認識されていたのだろうか。
湊のほうは理央の存在を当然知っていたが、それは有名人だからであって、個人として意識したことなどほとんどない。
理央は鞄から文庫本を取り出した。
見覚えがある。
「それ」
「うん」
理央が表紙を見せる。
湊が以前、活動報告で紹介した恋愛小説だった。
「好きって書いてたから」
「買ったの?」
「去年」
「去年?」
「朝倉が紹介した時」
想像以上に筋金入りだった。
湊はもう何も言わずノートへ視線を戻した。
理央も話しかけてこなかった。読むと言った以上本当に読むつもりだったらしく、栞を挟んでいたページを開くと静かに文字を追い始める。
十分。
二十分。
思っていたより居心地は悪くない。
向かいに理央がいることだけは妙に気になるが、話しかけてこないので作業の邪魔にはならなかった。
湊は新作の続きを考えながら、ノートに短い文章を書いていく。
主人公の美琴が仕事で失敗する。帰宅して、一人で夕食を済ませようとしているところへ恋人の和樹が来る。何も聞かず、一緒にコンビニで買ったアイスを食べる。そのあと、落ち込んでいる美琴の髪を乾かしてやる。
そこまで書いて、ペンを止めた。
何となく顔を上げると、理央と目が合った。
「……何」
「いや」
「見てただろ」
「ごめん」
「ノート?」
「違う。朝倉を」
「もっと悪いだろ」
理央が小さく笑う。
図書室なので声を抑えているが、楽しそうなのは分かった。
「何」
「本当にいたんだなと思って」
「昨日からずっといるだろ」
「そうじゃなくて」
理央は文庫本を閉じた。
「一年半くらい、文章しか知らなかったから」
その言葉で、湊は少しだけ理解した。
自分にとって理央は、昨日突然話しかけてきた同級生だ。
けれど理央にとって自分は、そうではない。
もちろん作者が朝倉湊だと知ったのは最近だとしても、その文章自体とは一年以上付き合っている。湊が書いた物語で笑ったことも、続きを待ったことも、更新されない期間に何となくサイトを覗いたこともあったのかもしれない。
そう考えると、初対面から妙に距離が近い理由が少しだけ分かる気がした。
「そんなに好き?」
「好きだよ」
理央は迷わなかった。
「どういうところが」
聞いてから、我ながら格好悪い質問だと思った。
褒めてほしいと言っているようなものだ。
けれど理央はからかわなかった。
「大事にしてもらえるところ」
「……誰が?」
「主人公たち」
予想していなかった答えだった。
理央は机の上の文庫本に指を置きながら、少し考えて言葉を続けた。
「朝倉の話って、主人公がすごく頑張ってるじゃん。仕事だったり、学校だったり、家族のことだったり。ちゃんと一人でも生きていける人が多い。でも恋人ができたら、その人の前ではちょっと甘えてもいいことになる」
湊は黙って聞いた。
「風邪ひいた時に看病してもらったり、疲れてる時にご飯作ってもらったり、泣いたら抱きしめてもらったり。別に一人じゃ何もできないわけじゃないのに、好きな人がいるから、その人にしてもらえることが増える感じ」
そこまで考えて読んでいるとは思わなかった。
書く時に明確な理論として考えているわけではない。ただ湊は、自分の足で立っている人が、好きな相手にだけ少し体重を預ける瞬間が好きだった。一人でも歩けることと、誰かと歩きたいと思うことは別なのだと、そういう話を書くのが好きだった。
「……よく読んでるな」
「何回も読んだから」
「何回も?」
「好きなやつは」
また恥ずかしくなる。
「特に『冬の窓辺』は五回くらい」
「やめてくれ」
「なんで」
「五回も粗を探されたと思うと死にたくなる」
「粗なんて探してないよ」
「あるんだよ、初期作だから」
「俺は好き」
「分かったから」
理央が笑う。
湊はノートへ視線を落とした。
さっきまで書いていた、美琴が髪を乾かしてもらう場面が目に入る。
「瀬名って」
「うん」
「そういう恋愛したいの」
「そういう?」
「今言ってたような」
何となく聞いただけだった。
理央ほど見た目がよければ、恋愛など選び放題だろう。実際、告白されたという噂は何度も聞いたことがある。すでに誰かと付き合った経験があっても不思議ではない。
だから答えも、まあできたらいいね、くらいの軽いものを想像していた。
理央は少しだけ目を伏せた。
「したい」
「へえ」
「すごく」
思ったより強かった。
「朝倉の小説みたいな恋愛、一回してみたい」
「俺のはフィクションだよ」
「分かってる」
「現実であんな都合よくいかないって」
「それも分かってる」
「じゃあ」
「でも、いいなって思うくらいはいいだろ」
理央が笑う。
窓から差し込んだ夕方の光が、横顔を照らしていた。
そうして黙っていれば、本当に絵になる男だと思う。
湊の小説に理央のような男を出したなら、きっと雨の日には傘を持って駅まで行き、仕事で疲れた恋人には夕食を作り、泣いていたら何も言わず抱きしめるだろう。読者から「こんな彼氏がほしい」と感想をもらうような男。
実際、学校でもそう見られているのだろう。
「瀬名ならできるんじゃない」
「そうかな」
「相手いくらでもいるだろ」
「そういう意味じゃなくて」
理央はそこで言葉を切った。
何か言おうとして、結局やめたようだった。
「まあ、いつか」
「いつか?」
「俺も、あんなふうに大事にされてみたい」
穏やかな声だった。
湊は一瞬だけ黙った。
目の前の男と、自分の小説の主人公たちが、頭の中で上手く重ならなかった。
理央はそんな湊の戸惑いには気づいていないらしく、また文庫本を開く。
「いいよね。好きな人に大事にされるの」
「……まあ」
「頭撫でてもらうのとかも、一回やってみたい」
「お前が?」
「うん」
思わず理央の頭を見た。
綺麗に整えられた黒髪。
「似合わなそう」
「ひどい」
「だって瀬名、撫でる側っぽいじゃん」
「みんなそう言う」
理央は少しだけ口を尖らせた。
その顔があまりにも普通の高校生らしくて、湊は初めて、この男が王子様でも何でもないのかもしれないと思った。
ただ顔がよくて、少し目立って、それゆえに周囲から勝手な役割を与えられているだけの、同い年の男子高校生。
「俺は、されたいんだけどな」
理央が小さく呟いた。
湊はその横顔を少しだけ見て、それからノートへ視線を戻した。
美琴の髪を乾かす和樹の場面に、新しい一文を足す。
理央はそれ以上何も言わず、静かに本を読んでいた。
放課後の図書室にはページを捲る音と、湊がペンを走らせる音だけが続いていた。
その時の湊はまだ、瀬名理央の言った「大事にされたい」という言葉を、ただ少し意外な趣味としてしか受け取っていなかった。
少なくとも翌日から毎日のように待ち伏せされることになるとも、その王子様が自分の書いた恋愛を片っ端から実践したがるとも、ましてや、その相手としてなぜか自分を選ぶことになるとも、知るはずがなかった。

