朝、目を覚ました時、湊は最初、自分がどこにいるのか分からなかった。
見慣れない天井と、いつもより少し硬い枕、それから自分のものではない柔軟剤の匂いがする布団。ぼんやりした頭でそこまで認識してから、昨夜は理央の家へ泊まったのだと思い出した。
カーテンの隙間から朝の光が細く差し込んでいる。
部屋はまだ静かだった。
隣を見ると、理央が眠っている。
シングルベッドに二人で寝るには少し狭く、夜中に何度か目を覚ました気がする。最初は背中が触れるたびに気になっていたはずなのに、いつの間にか慣れてしまったらしい。今は理央の片腕が湊の腰に緩く回り、頭もこちらの肩口に寄せられている。
昨日、寝る前にはそれなりに緊張していた。
初めて恋人の家へ泊まり、いつもより長い時間二人きりで過ごして、何度もキスをして、抱きしめ合った。お互いにどこまで近づいていいのか分からず、そのたび確認して、少し進んでは照れて笑った。
お互いに当然初めてだったから、準備から何からすべてが手探りだった。階下には理央の母親がいるからなるべく音を立てないように、そして、おかしな声を上げないように必死になっていた。けれど漏れそうになるたびキスで塞がれてしまい、わけが分からないまま、とにかく体だけが熱かった。
結局、夜更かししたせいで眠くなり、最後には狭いベッドに並んで横になった。
そこまで思い出して、湊は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
寝てしまえば何でもない。
問題は、起きたあとだった。
こうして目を覚ましたら、すぐ隣に恋人がいる。
それだけのことが思った以上に特別だった。
理央はまだ眠っている。
普段なら綺麗に整えられている髪は少し乱れ、額に落ちている。目を閉じていれば学校で見かける時よりさらに幼く見え、女子の間で王子様だ何だと呼ばれている人間と同一人物とは思えない。
少し前なら、こんな顔を見て可愛いと思うこと自体に戸惑っていた。
今はもう何の抵抗もなかった。
湊はそっと手を伸ばし、額にかかった髪を指で避けた。
そのまま一度、頭を撫でる。
眠っていた理央が僅かに動いた。
「……湊?」
まだ寝ぼけた声だった。
「起こした?」
「ううん」
理央は目を開けたものの、すぐにまた閉じた。
腰に回っていた腕が少し強くなる。
「おはよう」
「おはよう。あと五分」
「お前の家だろ。俺に言うなよ」
「湊がいるから」
「理由になってない」
そう言いながらも、無理に起こす気にはならなかった。
昨夜遅くまで起きていたのは自分も同じで、日曜日なのだから急ぐ予定もない。
理央は湊の肩に顔を寄せたまま、しばらく動かなかった。
「こういうの、いいな」
不意に小さな声がする。
「何が?」
「起きたら湊いるの」
寝ぼけたまま言っているらしい。
普段より少し低く、言葉もゆっくりしている。
「昨日からいたけど」
「朝までいるのは初めてだから」
理央は目を閉じたまま笑った。
「前に湊の小説であったじゃん。朝起きたら好きな人が隣にいて、まだ寝てるから起こさないようにするやつ」
「よく覚えてるな」
「好きな場面だったし」
「でも今、起こされたのはお前だけど」
「それもいい」
「何でもいいんじゃん」
「湊がいるなら」
相変わらずだった。
恋人になって数か月が経っても、理央はこういうところだけはほとんど変わらない。
大事にされれば喜び、一緒にいる時間そのものを特別そうに扱う。
湊はもう一度髪を撫でた。
「そろそろ起きろよ。お母さん起きてるだろ」
「もうちょっと」
「五分って言ったじゃん」
「まだ三分くらい」
「計ってないくせに」
理央はようやく目を開けた。
それでも腕は離さない。
「湊」
「何」
「昨日楽しかった?」
少しだけ真面目な声だった。
湊は昨夜のことを思い返してから頷いた。
「楽しかったよ。緊張したけど」
「俺も」
「お前、途中から結構普通だったじゃん」
「普通じゃなかった。ずっと緊張してた」
「そう見えなかったけど」
理央は少し考えたあと、どこか照れたように笑った。
「湊が嫌じゃなさそうだったから」
それを聞いて、湊は少しだけ黙った。
理央は甘えたがりだ。
恋人に頭を撫でてもらいたいと言い、疲れれば肩に寄りかかり、大事にされることを心から喜ぶ。
そのせいで、付き合い始める前の湊は、恋愛でも理央はもっと相手任せなのだろうと思っていた。
実際は違った。
理央は欲しいものを待つだけではない。
湊が嫌がっていないと分かれば、自分から距離を詰めるし、キスをしたい時には聞く。昨日も途中からは、湊のほうが何度か戸惑うくらい自然に手を取られ、抱き寄せられ、深く求められた。
「お前さ」
湊が言うと、理央が少し首を傾げた。
「俺、もっとお前が何でもされる側だと思ってた」
「何でも?」
「恋愛の話。甘やかしてほしいとか、大事にされたいとか、ずっと言ってたから」
理央は少し考えた。
「大事にはされたいよ」
「それは知ってる」
「でも、俺だって湊に何かしたいし、湊が嬉しいことしたいよ。恋人なんだから」
そこには何の矛盾も感じていないらしい。
当然のように答える。
「してもらうのが好きなのと、自分から何もしないのは別じゃない?」
「まあ、言われたらそうだけど」
「湊、俺のことどういう人だと思ってたの」
「……ものすごく甘やかされたい人」
「合ってる」
「合ってるのかよ」
思わず笑った。
理央も笑う。
「でも湊のことも甘やかしたい。俺ばっかりじゃ嫌だし」
「じゃあ今日は俺を甘やかして」
「何してほしい?」
「そこから俺に聞くの?」
「だって湊、あんまり言わないから」
確かにそうだった。
理央はしてほしいことをよく口にする。
湊は逆に、自分がしてほしいことについてあまり考えたことがない。
「じゃあ朝飯のあと考える」
「分かった。何でも言って」
「何でもは危ない」
「できる範囲で」
理央は笑いながら、ようやく腕を離した。
二人で狭いベッドから起き上がる。
たった一晩一緒にいただけなのに、昨日より少しだけ距離が近くなったような気がした。
朝食の席では、理央の母親が何事もなかったように二人分のトーストと目玉焼きを用意していた。
昨夜遅くまで話していたことには気づいていたらしく、「若いからって夜更かししすぎないようにね」と笑われ、湊だけが少し気まずくなった。
理央は平然としている。
こういうところは妙に強い。
「湊、ジャムどっち?」
苺とマーマレードの瓶を持って尋ねられ、湊は少し迷って苺を選んだ。
理央はすぐに瓶を開けて渡してくる。
その程度のことで、朝の会話を思い出した。
「甘やかしてくれるんじゃなかった?」
小声で言うと、理央の顔が一瞬固まった。
「今?」
「冗談」
湊が笑うと、理央は少し悔しそうにこちらを見る。
ところが数分後、食べ終えた湊が食器を持って立とうとすると、理央が先に手を伸ばした。
「置いといて。俺がやる」
「それはただの片づけじゃん」
「甘やかしてる」
「そういう判定なんだ」
「湊は座ってて」
妙に真剣なので従う。
理央の母親がその様子を見て、少し笑っていた。
「理央、張り切ってるね」
「今日は俺が湊を甘やかす日だから」
本人は普通に答えた。
湊は思わず額を押さえた。
「お母さんの前で言わなくていいだろ」
「なんで? 変なことじゃないじゃん」
「そうだけど」
理央の母親は気にした様子もなく、「じゃあ頑張って」と息子を応援している。
どうやらこの家では、恥ずかしがっている自分のほうが少数派らしい。
朝食を終えて部屋へ戻る頃には、湊も諦めていた。
結局、その日の午前中は理央にかなり甘やかされた。
宿題を少し進めようとすれば飲み物を持ってこられ、読みかけの本を探せば本棚から取って渡され、ベッドで横になって読んでいたら「疲れた?」と聞かれてクッションを追加された。
「やりすぎ」
三度目くらいに言うと、理央は不満そうだった。
「湊がいつも俺にしてるの、こんな感じじゃない?」
「俺ここまでやってないよ」
「やってる。俺が疲れてたら飲み物買ってくれるし、眠かったら帰ろうって言うし、何も言わなくても頭撫でてくれるようになった」
「それとクッション三個は違う」
「快適?」
「快適だけど」
「じゃあいいじゃん」
どうやら理央なりに楽しいらしい。
湊は笑いながら本を閉じた。
「じゃあ一個お願い」
「何?」
理央がすぐこちらを見る。
湊は少し考えてから、自分の隣を軽く叩いた。
「ここ座って」
理央は一瞬だけ目を丸くしたものの、素直にベッドに腰を下ろした。
「それで?」
「何もしなくていい」
「甘やかしてなくない?」
「一緒にいてくれたらいい」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
いつも理央が似たようなことを平然と言うから、自分もできる気がしたのだが、実際に口に出すと妙に落ち着かない。
理央は何も言わなかった。
少しだけ頬を赤くして、湊の隣に座っている。
「……何」
「嬉しい」
「また?」
「湊からそういうこと言ってくれるの、まだ慣れてない」
「お前が言えって言ったんだろ」
「もっと言って」
「要求増やすな」
笑いながら、理央が少し身体を寄せてくる。
肩が触れた。
そのまま並んで本を読む。
会話はなくても居心地がよかった。
理央が求めていた恋愛も、結局こういうものなのかもしれない。
何か特別なことを毎回するのではなく、同じ部屋でそれぞれ好きなことをしながら、ふとした時に隣にいることを確認する。
湊自身も、そういう時間がかなり好きになっていた。
二学期が進むにつれ、周囲も二人が付き合っていることに完全に慣れた。
最初の頃のように廊下で呼び止められて質問されることもほとんどなくなり、理央が湊の教室へ来ても誰も騒がない。
ただし、相変わらず周囲から見える二人と実際の二人には少しずれがあった。
「朝倉、これ瀬名に渡しといて」
昼休み前、篠崎からプリントを渡された。
「何これ」
「昨日休んだ奴の分。瀬名のクラスの先生に渡せって言われたけど、お前どうせ昼一緒だろ」
「便利に使うなよ」
「彼氏便」
「捨てるぞ」
言いながらも受け取る。
昼休み、いつもの場所で理央に渡すと、本人は笑っていた。
「彼氏便だって」
「便利だね」
「喜ぶな」
そう言いながら弁当を広げる。
少しすると、理央が湊の顔をじっと見た。
「何?」
「今日眠そう」
「昨日ちょっと遅かった」
「小説?」
「うん。切りのいいところまで書いてたら二時」
「寝不足じゃん」
「今日は早く寝るよ」
理央はしばらく湊を見たあと、自分の弁当から小さな卵焼きを一つ箸で取り、湊の弁当箱に入れた。
「何これ」
「甘やかしてる」
「まだ続いてるの?」
「ずっとするって決めた」
「頼んでない」
「でも食べるでしょ」
「食べるけど」
理央は満足そうだった。
少し離れたところから女子の声が聞こえた。
「瀬名くん、朝倉くんのお弁当に入れてあげてる。優しい」
聞こえてしまい、二人で顔を見合わせる。
湊は小さく笑った。
「今日だけは周りのイメージ通りだな」
「いつも俺は優しいよ」
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
理央も笑った。
周囲がどう思っていようと、もう訂正する必要も感じなかった。
理央が甘える日もあれば、湊が甘やかされる日もある。
どちらか一方だけではないことを、自分たちが分かっていればそれでよかった。
見慣れない天井と、いつもより少し硬い枕、それから自分のものではない柔軟剤の匂いがする布団。ぼんやりした頭でそこまで認識してから、昨夜は理央の家へ泊まったのだと思い出した。
カーテンの隙間から朝の光が細く差し込んでいる。
部屋はまだ静かだった。
隣を見ると、理央が眠っている。
シングルベッドに二人で寝るには少し狭く、夜中に何度か目を覚ました気がする。最初は背中が触れるたびに気になっていたはずなのに、いつの間にか慣れてしまったらしい。今は理央の片腕が湊の腰に緩く回り、頭もこちらの肩口に寄せられている。
昨日、寝る前にはそれなりに緊張していた。
初めて恋人の家へ泊まり、いつもより長い時間二人きりで過ごして、何度もキスをして、抱きしめ合った。お互いにどこまで近づいていいのか分からず、そのたび確認して、少し進んでは照れて笑った。
お互いに当然初めてだったから、準備から何からすべてが手探りだった。階下には理央の母親がいるからなるべく音を立てないように、そして、おかしな声を上げないように必死になっていた。けれど漏れそうになるたびキスで塞がれてしまい、わけが分からないまま、とにかく体だけが熱かった。
結局、夜更かししたせいで眠くなり、最後には狭いベッドに並んで横になった。
そこまで思い出して、湊は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
寝てしまえば何でもない。
問題は、起きたあとだった。
こうして目を覚ましたら、すぐ隣に恋人がいる。
それだけのことが思った以上に特別だった。
理央はまだ眠っている。
普段なら綺麗に整えられている髪は少し乱れ、額に落ちている。目を閉じていれば学校で見かける時よりさらに幼く見え、女子の間で王子様だ何だと呼ばれている人間と同一人物とは思えない。
少し前なら、こんな顔を見て可愛いと思うこと自体に戸惑っていた。
今はもう何の抵抗もなかった。
湊はそっと手を伸ばし、額にかかった髪を指で避けた。
そのまま一度、頭を撫でる。
眠っていた理央が僅かに動いた。
「……湊?」
まだ寝ぼけた声だった。
「起こした?」
「ううん」
理央は目を開けたものの、すぐにまた閉じた。
腰に回っていた腕が少し強くなる。
「おはよう」
「おはよう。あと五分」
「お前の家だろ。俺に言うなよ」
「湊がいるから」
「理由になってない」
そう言いながらも、無理に起こす気にはならなかった。
昨夜遅くまで起きていたのは自分も同じで、日曜日なのだから急ぐ予定もない。
理央は湊の肩に顔を寄せたまま、しばらく動かなかった。
「こういうの、いいな」
不意に小さな声がする。
「何が?」
「起きたら湊いるの」
寝ぼけたまま言っているらしい。
普段より少し低く、言葉もゆっくりしている。
「昨日からいたけど」
「朝までいるのは初めてだから」
理央は目を閉じたまま笑った。
「前に湊の小説であったじゃん。朝起きたら好きな人が隣にいて、まだ寝てるから起こさないようにするやつ」
「よく覚えてるな」
「好きな場面だったし」
「でも今、起こされたのはお前だけど」
「それもいい」
「何でもいいんじゃん」
「湊がいるなら」
相変わらずだった。
恋人になって数か月が経っても、理央はこういうところだけはほとんど変わらない。
大事にされれば喜び、一緒にいる時間そのものを特別そうに扱う。
湊はもう一度髪を撫でた。
「そろそろ起きろよ。お母さん起きてるだろ」
「もうちょっと」
「五分って言ったじゃん」
「まだ三分くらい」
「計ってないくせに」
理央はようやく目を開けた。
それでも腕は離さない。
「湊」
「何」
「昨日楽しかった?」
少しだけ真面目な声だった。
湊は昨夜のことを思い返してから頷いた。
「楽しかったよ。緊張したけど」
「俺も」
「お前、途中から結構普通だったじゃん」
「普通じゃなかった。ずっと緊張してた」
「そう見えなかったけど」
理央は少し考えたあと、どこか照れたように笑った。
「湊が嫌じゃなさそうだったから」
それを聞いて、湊は少しだけ黙った。
理央は甘えたがりだ。
恋人に頭を撫でてもらいたいと言い、疲れれば肩に寄りかかり、大事にされることを心から喜ぶ。
そのせいで、付き合い始める前の湊は、恋愛でも理央はもっと相手任せなのだろうと思っていた。
実際は違った。
理央は欲しいものを待つだけではない。
湊が嫌がっていないと分かれば、自分から距離を詰めるし、キスをしたい時には聞く。昨日も途中からは、湊のほうが何度か戸惑うくらい自然に手を取られ、抱き寄せられ、深く求められた。
「お前さ」
湊が言うと、理央が少し首を傾げた。
「俺、もっとお前が何でもされる側だと思ってた」
「何でも?」
「恋愛の話。甘やかしてほしいとか、大事にされたいとか、ずっと言ってたから」
理央は少し考えた。
「大事にはされたいよ」
「それは知ってる」
「でも、俺だって湊に何かしたいし、湊が嬉しいことしたいよ。恋人なんだから」
そこには何の矛盾も感じていないらしい。
当然のように答える。
「してもらうのが好きなのと、自分から何もしないのは別じゃない?」
「まあ、言われたらそうだけど」
「湊、俺のことどういう人だと思ってたの」
「……ものすごく甘やかされたい人」
「合ってる」
「合ってるのかよ」
思わず笑った。
理央も笑う。
「でも湊のことも甘やかしたい。俺ばっかりじゃ嫌だし」
「じゃあ今日は俺を甘やかして」
「何してほしい?」
「そこから俺に聞くの?」
「だって湊、あんまり言わないから」
確かにそうだった。
理央はしてほしいことをよく口にする。
湊は逆に、自分がしてほしいことについてあまり考えたことがない。
「じゃあ朝飯のあと考える」
「分かった。何でも言って」
「何でもは危ない」
「できる範囲で」
理央は笑いながら、ようやく腕を離した。
二人で狭いベッドから起き上がる。
たった一晩一緒にいただけなのに、昨日より少しだけ距離が近くなったような気がした。
朝食の席では、理央の母親が何事もなかったように二人分のトーストと目玉焼きを用意していた。
昨夜遅くまで話していたことには気づいていたらしく、「若いからって夜更かししすぎないようにね」と笑われ、湊だけが少し気まずくなった。
理央は平然としている。
こういうところは妙に強い。
「湊、ジャムどっち?」
苺とマーマレードの瓶を持って尋ねられ、湊は少し迷って苺を選んだ。
理央はすぐに瓶を開けて渡してくる。
その程度のことで、朝の会話を思い出した。
「甘やかしてくれるんじゃなかった?」
小声で言うと、理央の顔が一瞬固まった。
「今?」
「冗談」
湊が笑うと、理央は少し悔しそうにこちらを見る。
ところが数分後、食べ終えた湊が食器を持って立とうとすると、理央が先に手を伸ばした。
「置いといて。俺がやる」
「それはただの片づけじゃん」
「甘やかしてる」
「そういう判定なんだ」
「湊は座ってて」
妙に真剣なので従う。
理央の母親がその様子を見て、少し笑っていた。
「理央、張り切ってるね」
「今日は俺が湊を甘やかす日だから」
本人は普通に答えた。
湊は思わず額を押さえた。
「お母さんの前で言わなくていいだろ」
「なんで? 変なことじゃないじゃん」
「そうだけど」
理央の母親は気にした様子もなく、「じゃあ頑張って」と息子を応援している。
どうやらこの家では、恥ずかしがっている自分のほうが少数派らしい。
朝食を終えて部屋へ戻る頃には、湊も諦めていた。
結局、その日の午前中は理央にかなり甘やかされた。
宿題を少し進めようとすれば飲み物を持ってこられ、読みかけの本を探せば本棚から取って渡され、ベッドで横になって読んでいたら「疲れた?」と聞かれてクッションを追加された。
「やりすぎ」
三度目くらいに言うと、理央は不満そうだった。
「湊がいつも俺にしてるの、こんな感じじゃない?」
「俺ここまでやってないよ」
「やってる。俺が疲れてたら飲み物買ってくれるし、眠かったら帰ろうって言うし、何も言わなくても頭撫でてくれるようになった」
「それとクッション三個は違う」
「快適?」
「快適だけど」
「じゃあいいじゃん」
どうやら理央なりに楽しいらしい。
湊は笑いながら本を閉じた。
「じゃあ一個お願い」
「何?」
理央がすぐこちらを見る。
湊は少し考えてから、自分の隣を軽く叩いた。
「ここ座って」
理央は一瞬だけ目を丸くしたものの、素直にベッドに腰を下ろした。
「それで?」
「何もしなくていい」
「甘やかしてなくない?」
「一緒にいてくれたらいい」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
いつも理央が似たようなことを平然と言うから、自分もできる気がしたのだが、実際に口に出すと妙に落ち着かない。
理央は何も言わなかった。
少しだけ頬を赤くして、湊の隣に座っている。
「……何」
「嬉しい」
「また?」
「湊からそういうこと言ってくれるの、まだ慣れてない」
「お前が言えって言ったんだろ」
「もっと言って」
「要求増やすな」
笑いながら、理央が少し身体を寄せてくる。
肩が触れた。
そのまま並んで本を読む。
会話はなくても居心地がよかった。
理央が求めていた恋愛も、結局こういうものなのかもしれない。
何か特別なことを毎回するのではなく、同じ部屋でそれぞれ好きなことをしながら、ふとした時に隣にいることを確認する。
湊自身も、そういう時間がかなり好きになっていた。
二学期が進むにつれ、周囲も二人が付き合っていることに完全に慣れた。
最初の頃のように廊下で呼び止められて質問されることもほとんどなくなり、理央が湊の教室へ来ても誰も騒がない。
ただし、相変わらず周囲から見える二人と実際の二人には少しずれがあった。
「朝倉、これ瀬名に渡しといて」
昼休み前、篠崎からプリントを渡された。
「何これ」
「昨日休んだ奴の分。瀬名のクラスの先生に渡せって言われたけど、お前どうせ昼一緒だろ」
「便利に使うなよ」
「彼氏便」
「捨てるぞ」
言いながらも受け取る。
昼休み、いつもの場所で理央に渡すと、本人は笑っていた。
「彼氏便だって」
「便利だね」
「喜ぶな」
そう言いながら弁当を広げる。
少しすると、理央が湊の顔をじっと見た。
「何?」
「今日眠そう」
「昨日ちょっと遅かった」
「小説?」
「うん。切りのいいところまで書いてたら二時」
「寝不足じゃん」
「今日は早く寝るよ」
理央はしばらく湊を見たあと、自分の弁当から小さな卵焼きを一つ箸で取り、湊の弁当箱に入れた。
「何これ」
「甘やかしてる」
「まだ続いてるの?」
「ずっとするって決めた」
「頼んでない」
「でも食べるでしょ」
「食べるけど」
理央は満足そうだった。
少し離れたところから女子の声が聞こえた。
「瀬名くん、朝倉くんのお弁当に入れてあげてる。優しい」
聞こえてしまい、二人で顔を見合わせる。
湊は小さく笑った。
「今日だけは周りのイメージ通りだな」
「いつも俺は優しいよ」
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
理央も笑った。
周囲がどう思っていようと、もう訂正する必要も感じなかった。
理央が甘える日もあれば、湊が甘やかされる日もある。
どちらか一方だけではないことを、自分たちが分かっていればそれでよかった。

