その日の帰り際、玄関まで送ってきた理央が靴を履く湊の横で少し黙っていた。
「何?」
顔を上げると、理央は一度迷ってから口を開いた。
「今度、泊まっていかない?」
湊の手が止まった。
理央はすぐ続けた。
「変な意味じゃなくてもいい。母さんも、前に今度泊まってけばって言ってたし。次の日休みの時とか」
変な意味ではなくてもいい。
その言い方が少し気になった。
「変な意味でもいいの?」
聞くと、理央は一瞬固まった。
頬がじわじわ赤くなる。
「……湊が嫌じゃなければ」
声が少し小さくなった。
湊も意味は分かっていた。
付き合って数か月。
キスもする。
高校生とはいえ、恋人同士ならその先を意識すること自体は不自然ではない。
ただ、実際にそうなるところまではまだ具体的に考えていなかった。
「考えとく」
「うん」
「嫌ではないよ」
付け加える。
理央が少しほっとしたように笑った。
「急がなくていいから」
「分かってる」
理央はいつもそうだった。
自分が欲しいものは素直に言う。
それでも、湊が同じ気持ちになるまで待つ。
そのことを知っているからこそ、湊も少しずつ先へ進めるのだと思った。
十月の終わり、土曜日。
湊は初めて、理央の家へ泊まることになった。
翌日は日曜日で、互いに予定もない。理央の母親には普通に夕食に招かれ、食後もしばらく三人でテレビを見た。理央が以前から自分を恋人として話していることを知ってはいたものの、実際にその家へ泊まるとなれば湊のほうには多少の緊張があり、風呂を借りて持参した部屋着に着替え、理央の部屋へ戻った頃には、いつも見ているはずの室内まで少し違って見えた。
シングルベッドが一つしかないため、最初は床に布団を敷くという話も出た。
けれど、二人なら眠れないほどではないだろうということになり、狭ければその時に考えればいいと、結局一緒にベッドを使うことになった。
それからもしばらくは、普段とほとんど変わらなかった。
学校のことを話し、文化祭で撮った写真を見せ合い、冬休みにどこかへ行きたいと候補を探す。ただ、夜が深くなるにつれて、会話が途切れた時の沈黙だけがいつもより長くなった。
隣に座る理央の腿が触れている。
腕も時々当たる。
普段なら気にしない程度の距離なのに、今日は互いにそれを意識していることが分かった。
「湊」
名前を呼ばれて顔を向けると、理央もこちらを見ていた。
少し迷ったあと、キスをしていいかと尋ねられる。
「今さらそれで悩んでたの?」
「今日は泊まりだから、なんか違う」
「……それは俺も思ってる」
答えると、理央が少し安心したように笑った。
湊はスマートフォンをベッド脇に置き、身体を理央のほうへ向けた。
「じゃあ、して」
近づいてきた唇を受け入れる。
一度では終わらなかった。
短く触れて離れ、もう一度重なる。何度もしてきたはずなのに、今日は次に何が起こるのか互いに考えているせいで、いつもより触れている時間が長く感じられた。
理央の肩に手を置く。
そのまま少し力を掛ければ、たぶんベッドに倒せる。
湊は何となく、そうするのは自分なのだと思っていた。
これまでずっとそうだったからかもしれない。
理央は頭を撫でられたがり、可愛いと言われれば頬を赤くし、疲れた時には湊に寄りかかって甘えてくる。大事にされたいと何度も言っていたし、キスだって最初にしたのは湊だった。
だから、こういう時もたぶん自分が先に動くのだろうと、深く考えることもなく思っていた。
理央の肩に置いた手に少し力を込める。
ところが、倒れたのは理央ではなかった。
「え」
視界が動いた。
気づいた時には背中がベッドに沈み、理央がその上からこちらを見下ろしていた。
乱暴にされたわけではない。
むしろ驚くほど慎重だった。湊が倒れるより早く後頭部に手を添え、ベッドにぶつけないよう支えたうえで、逃げられないほどではない距離に理央がいる。
湊は数秒、状況を理解できなかった。
「……理央」
「ごめん。びっくりした?」
「した」
理央はいつものように少し頬を赤くしていた。
けれど、頭を撫でてほしいと頼む時のような頼りなさはない。緊張しているのは分かるのに、湊から目を逸らさず、むしろこちらの反応を確かめながら距離を決めている。
「嫌だったら言って。すぐやめるから」
真面目な声だった。
そこで初めて、湊は理解した。
理央は自分が思っていたような、何でも相手に任せたい人間ではない。
大事にされたい。
甘えたい。
頭を撫でてもらいたい。
可愛いと言ってほしい。
その全部と、自分から恋人に近づきたいことは、理央の中では最初から何も矛盾していなかったのだ。
「……待って」
「うん?」
「お前がそっちなの?」
理央が目を瞬いた。
「そっちって?」
「いや、だから……こういう時に押し倒すほう」
言いながら自分でも妙な表現だと思った。
けれど他にうまく言葉が見つからない。
理央は少し考えたあと、本気で不思議そうな顔をした。
「俺、そのつもりだったけど」
「いつから?」
「いつからって……付き合ったころから?」
「嘘だろ」
思わず声が出た。
理央が吹き出す。
「なんでそんな驚くの」
「驚くだろ。お前ずっと、頭撫でてほしいとか可愛いって言われたいとか、甘やかしてほしいとか言ってたじゃん」
「それとこれは別じゃない?」
理央は笑いながらも、湊の上から退こうとはしなかった。
「俺は湊に大事にされたいし、甘やかしてもらうのも好き。でも湊のことは俺が大事にしたいし、こういう時は俺から行きたい」
「……聞いてない」
「聞かれなかったから」
「普通そこまで確認しないだろ」
「俺も湊が同じこと考えてると思ってなかった」
どうやら認識が食い違っていたのはお互い様らしい。
あまりに馬鹿らしくなって、湊は片手で顔を覆った。
「俺、完全に逆だと思ってた」
「俺が湊に押し倒されると思ってた?」
「……うん」
「それはそれでちょっと見てみたかったけど」
「おい」
笑っている。
しかも楽しそうだった。
湊は手を下ろし、改めて理央を見る。
学校では王子様。
自分の前では甘えたがりで、頭を撫でられれば蕩けそうに目を細め、可愛いと言えば何度でも喜ぶ。
それなのに今は、完全に湊を見下ろす位置にいて、自分から距離を詰めることにほとんど迷いがない。
この男についてはもうかなり知ったつもりでいたのに、まだこんなものを隠し持っていたらしい。
「……ずるくない?」
「何が?」
「普段との落差」
「湊が勝手に勘違いしてただけだろ」
「そうだけど」
否定できない。
理央は少し笑ったあと、表情を柔らかくした。
「でも本当に、嫌なら言って。湊が嫌なことはしたくないし、俺だけ先に行くつもりもないから」
その言葉には、これまで何度も見てきた理央らしさがあった。
欲しいものは欲しいと言う。
自分から手を伸ばす。
それでも、相手が同じところまで来るのを待つ。
湊がこの男を好きになった理由の一つでもある。
「嫌じゃない」
答えると、理央の目元が少し緩んだ。
「びっくりしただけ」
「じゃあ、このままでいていい?」
「聞くんだ、そこは」
「聞くよ。大事だから」
湊は少しだけ笑った。
「いいよ」
今度は自分から理央の肩に腕を回す。
理央が近づき、額が触れた。
唇を重ねる直前、湊はまだ少し納得できずに言った。
「でも明日からも頭撫でろって言うんだろ」
「言う」
「可愛いも?」
「言ってほしい」
「今こんなふうに俺に跨ってる奴が?」
「関係ないだろ」
あまりにも迷いなく返されて、とうとう湊は笑った。
確かに関係ないのだろう。
甘えたいことも、可愛がられたいことも、自分から恋人を可愛がりたいことも、全部同じ瀬名理央の中にある。
湊が勝手に一つの型に収めようとしていただけだった。
「分かった。明日も撫でてやる」
「やった」
一瞬で嬉しそうな顔になった。
今、こうして湊を自分のベッドに押し倒しているくせに。
「ほんとお前、面白いな」
「何それ」
「好きって意味」
理央が少しだけ目を見開いた。
そのあと、どうしようもなく嬉しそうに笑う。
「俺も大好き」
そう言って近づいてきた理央を、今度は湊も迷わず受け入れた。
自分たちがどんな恋人同士なのか、少し分かった気がした。
少なくとも、周囲から見えるほど単純でも、湊が今まで想像していた形でもない。
そしてその予想外の部分まで含めて、瀬名理央という恋人を好きになっている。
「何?」
顔を上げると、理央は一度迷ってから口を開いた。
「今度、泊まっていかない?」
湊の手が止まった。
理央はすぐ続けた。
「変な意味じゃなくてもいい。母さんも、前に今度泊まってけばって言ってたし。次の日休みの時とか」
変な意味ではなくてもいい。
その言い方が少し気になった。
「変な意味でもいいの?」
聞くと、理央は一瞬固まった。
頬がじわじわ赤くなる。
「……湊が嫌じゃなければ」
声が少し小さくなった。
湊も意味は分かっていた。
付き合って数か月。
キスもする。
高校生とはいえ、恋人同士ならその先を意識すること自体は不自然ではない。
ただ、実際にそうなるところまではまだ具体的に考えていなかった。
「考えとく」
「うん」
「嫌ではないよ」
付け加える。
理央が少しほっとしたように笑った。
「急がなくていいから」
「分かってる」
理央はいつもそうだった。
自分が欲しいものは素直に言う。
それでも、湊が同じ気持ちになるまで待つ。
そのことを知っているからこそ、湊も少しずつ先へ進めるのだと思った。
十月の終わり、土曜日。
湊は初めて、理央の家へ泊まることになった。
翌日は日曜日で、互いに予定もない。理央の母親には普通に夕食に招かれ、食後もしばらく三人でテレビを見た。理央が以前から自分を恋人として話していることを知ってはいたものの、実際にその家へ泊まるとなれば湊のほうには多少の緊張があり、風呂を借りて持参した部屋着に着替え、理央の部屋へ戻った頃には、いつも見ているはずの室内まで少し違って見えた。
シングルベッドが一つしかないため、最初は床に布団を敷くという話も出た。
けれど、二人なら眠れないほどではないだろうということになり、狭ければその時に考えればいいと、結局一緒にベッドを使うことになった。
それからもしばらくは、普段とほとんど変わらなかった。
学校のことを話し、文化祭で撮った写真を見せ合い、冬休みにどこかへ行きたいと候補を探す。ただ、夜が深くなるにつれて、会話が途切れた時の沈黙だけがいつもより長くなった。
隣に座る理央の腿が触れている。
腕も時々当たる。
普段なら気にしない程度の距離なのに、今日は互いにそれを意識していることが分かった。
「湊」
名前を呼ばれて顔を向けると、理央もこちらを見ていた。
少し迷ったあと、キスをしていいかと尋ねられる。
「今さらそれで悩んでたの?」
「今日は泊まりだから、なんか違う」
「……それは俺も思ってる」
答えると、理央が少し安心したように笑った。
湊はスマートフォンをベッド脇に置き、身体を理央のほうへ向けた。
「じゃあ、して」
近づいてきた唇を受け入れる。
一度では終わらなかった。
短く触れて離れ、もう一度重なる。何度もしてきたはずなのに、今日は次に何が起こるのか互いに考えているせいで、いつもより触れている時間が長く感じられた。
理央の肩に手を置く。
そのまま少し力を掛ければ、たぶんベッドに倒せる。
湊は何となく、そうするのは自分なのだと思っていた。
これまでずっとそうだったからかもしれない。
理央は頭を撫でられたがり、可愛いと言われれば頬を赤くし、疲れた時には湊に寄りかかって甘えてくる。大事にされたいと何度も言っていたし、キスだって最初にしたのは湊だった。
だから、こういう時もたぶん自分が先に動くのだろうと、深く考えることもなく思っていた。
理央の肩に置いた手に少し力を込める。
ところが、倒れたのは理央ではなかった。
「え」
視界が動いた。
気づいた時には背中がベッドに沈み、理央がその上からこちらを見下ろしていた。
乱暴にされたわけではない。
むしろ驚くほど慎重だった。湊が倒れるより早く後頭部に手を添え、ベッドにぶつけないよう支えたうえで、逃げられないほどではない距離に理央がいる。
湊は数秒、状況を理解できなかった。
「……理央」
「ごめん。びっくりした?」
「した」
理央はいつものように少し頬を赤くしていた。
けれど、頭を撫でてほしいと頼む時のような頼りなさはない。緊張しているのは分かるのに、湊から目を逸らさず、むしろこちらの反応を確かめながら距離を決めている。
「嫌だったら言って。すぐやめるから」
真面目な声だった。
そこで初めて、湊は理解した。
理央は自分が思っていたような、何でも相手に任せたい人間ではない。
大事にされたい。
甘えたい。
頭を撫でてもらいたい。
可愛いと言ってほしい。
その全部と、自分から恋人に近づきたいことは、理央の中では最初から何も矛盾していなかったのだ。
「……待って」
「うん?」
「お前がそっちなの?」
理央が目を瞬いた。
「そっちって?」
「いや、だから……こういう時に押し倒すほう」
言いながら自分でも妙な表現だと思った。
けれど他にうまく言葉が見つからない。
理央は少し考えたあと、本気で不思議そうな顔をした。
「俺、そのつもりだったけど」
「いつから?」
「いつからって……付き合ったころから?」
「嘘だろ」
思わず声が出た。
理央が吹き出す。
「なんでそんな驚くの」
「驚くだろ。お前ずっと、頭撫でてほしいとか可愛いって言われたいとか、甘やかしてほしいとか言ってたじゃん」
「それとこれは別じゃない?」
理央は笑いながらも、湊の上から退こうとはしなかった。
「俺は湊に大事にされたいし、甘やかしてもらうのも好き。でも湊のことは俺が大事にしたいし、こういう時は俺から行きたい」
「……聞いてない」
「聞かれなかったから」
「普通そこまで確認しないだろ」
「俺も湊が同じこと考えてると思ってなかった」
どうやら認識が食い違っていたのはお互い様らしい。
あまりに馬鹿らしくなって、湊は片手で顔を覆った。
「俺、完全に逆だと思ってた」
「俺が湊に押し倒されると思ってた?」
「……うん」
「それはそれでちょっと見てみたかったけど」
「おい」
笑っている。
しかも楽しそうだった。
湊は手を下ろし、改めて理央を見る。
学校では王子様。
自分の前では甘えたがりで、頭を撫でられれば蕩けそうに目を細め、可愛いと言えば何度でも喜ぶ。
それなのに今は、完全に湊を見下ろす位置にいて、自分から距離を詰めることにほとんど迷いがない。
この男についてはもうかなり知ったつもりでいたのに、まだこんなものを隠し持っていたらしい。
「……ずるくない?」
「何が?」
「普段との落差」
「湊が勝手に勘違いしてただけだろ」
「そうだけど」
否定できない。
理央は少し笑ったあと、表情を柔らかくした。
「でも本当に、嫌なら言って。湊が嫌なことはしたくないし、俺だけ先に行くつもりもないから」
その言葉には、これまで何度も見てきた理央らしさがあった。
欲しいものは欲しいと言う。
自分から手を伸ばす。
それでも、相手が同じところまで来るのを待つ。
湊がこの男を好きになった理由の一つでもある。
「嫌じゃない」
答えると、理央の目元が少し緩んだ。
「びっくりしただけ」
「じゃあ、このままでいていい?」
「聞くんだ、そこは」
「聞くよ。大事だから」
湊は少しだけ笑った。
「いいよ」
今度は自分から理央の肩に腕を回す。
理央が近づき、額が触れた。
唇を重ねる直前、湊はまだ少し納得できずに言った。
「でも明日からも頭撫でろって言うんだろ」
「言う」
「可愛いも?」
「言ってほしい」
「今こんなふうに俺に跨ってる奴が?」
「関係ないだろ」
あまりにも迷いなく返されて、とうとう湊は笑った。
確かに関係ないのだろう。
甘えたいことも、可愛がられたいことも、自分から恋人を可愛がりたいことも、全部同じ瀬名理央の中にある。
湊が勝手に一つの型に収めようとしていただけだった。
「分かった。明日も撫でてやる」
「やった」
一瞬で嬉しそうな顔になった。
今、こうして湊を自分のベッドに押し倒しているくせに。
「ほんとお前、面白いな」
「何それ」
「好きって意味」
理央が少しだけ目を見開いた。
そのあと、どうしようもなく嬉しそうに笑う。
「俺も大好き」
そう言って近づいてきた理央を、今度は湊も迷わず受け入れた。
自分たちがどんな恋人同士なのか、少し分かった気がした。
少なくとも、周囲から見えるほど単純でも、湊が今まで想像していた形でもない。
そしてその予想外の部分まで含めて、瀬名理央という恋人を好きになっている。

