夏休みが終わり、二学期が始まってからも、二人の関係は大きく変わらなかった。
朝、校門で顔を合わせれば少しだけ歩幅を緩めて並び、昼休みにはどちらかの教室へ迎えに行き、放課後に予定が合えば図書室で過ごす。付き合い始めたばかりの頃より人目を気にしなくなったぶん、廊下で肩が触れてもわざわざ離れなくなったし、帰り道では人通りの少ないところを選んで手を繋ぐことも増えた。
キスも、もう特別な出来事ではなくなっていた。
とはいえ学校ではしないし、駅前のような人目の多い場所でも避けているので、自然とどちらかの家へ行った時か、帰り道の途中で人気のない場所を見つけた時に限られる。それでも初めて触れた時のように互いに緊張して固まることはなくなり、理央のほうから「していい?」と尋ねることもあれば、湊が何となく近づいて短く重ねることもあった。
理央は相変わらず、そのたびに少しだけ嬉しそうな顔をする。
最初ほど大げさではない。けれど唇が離れたあとに目元が緩み、無意識のように湊へ近づいてくるので、喜んでいることはすぐ分かった。
湊はそんな理央を見るのが好きだった。
以前は「自分がしたことで喜ぶ理央が可愛い」という感覚のほうが強かったが、今はそれだけではない。自分自身も理央に触れたいと思うし、名前を呼ばれれば嬉しい。理央が他の誰かに囲まれているところを見ても嫉妬で苛立つほどではないものの、こちらを見つけた瞬間に笑うと、少しだけ特別扱いされている気分になる。
それが恋なのかと疑う理由は、もうほとんどなかった。
九月の半ば、文化祭の準備が始まると、学校はまた慌ただしくなった。
湊のクラスは喫茶店をやることになり、理央のクラスは演劇に決まったらしい。例によって理央は目立つ役を押しつけられそうになったものの、本人が裏方もやってみたいと言ったことで、最終的には大道具と役者の両方を手伝うことになった。
「絶対主役やらされると思ってた」
放課後、図書室へ行く代わりに準備の終わった教室で二人だけ残り、湊がテーブルクロス用の布を畳みながら言うと、理央は向かいで段ボールをまとめながら苦笑した。
「俺も少し思ってた。でも、今年は大道具やってみたかったんだよ。去年までずっと前に出るほうだったし」
「珍しいな。お前、何でもできるからって結局両方やってるじゃん」
「そこは仕方ない。人足りないって頼まれたから」
言いながらも嫌そうではなかった。
以前なら、頼られることに疲れていても平気な顔をしていたかもしれない。今はこうして、やりたいことと頼まれたことの両方について普通に話すようになった。
湊は畳んだ布を箱に入れながら、ふと思い出した。
「そういえば、劇って恋愛もの?」
「違うよ。コメディ。俺、王子役じゃないから安心して」
「誰も心配してない」
「湊、ちょっと嫌かなと思って」
「何が」
「俺が舞台で誰かと恋人役とかやるの」
湊は手を止めた。
想像してみる。
理央が誰かの手を取ったり、好きだと言ったり、芝居とはいえ恋人らしい距離で立つところ。
少しだけ面白くない。
ただ、演技なのだから仕方がないとも思う。
「嫌っていうより、多少は気になるかも。でも仕事なら別に」
「仕事じゃなくて文化祭だけど」
「似たようなもんだろ」
「湊ってその辺あっさりしてるよね」
理央は笑った。
「俺だったら、ちょっと嫌かもしれない」
「俺が誰かと恋人役?」
「うん。演技だって分かってても、たぶん少しだけ」
「嫉妬する?」
「すると思う」
意外に素直だった。
湊は少し面白くなって笑う。
「お前、独占欲あるんだ」
「あるよ。湊が思ってるより」
理央は段ボールをまとめ終わると、椅子に腰を下ろした。
「別に友達といるなとか、他の人と話すなとかは思わないけど。俺だけが知ってる顔は俺だけが知ってたいし、俺にしてくれることを他の人にもしてたら嫌かも」
「例えば?」
「頭撫でるとか」
「それ、お前がしてもらってる側じゃん」
「だから。湊が他の人の頭撫でてたら嫌」
想像したのか、理央は少し眉を寄せた。
湊は思わず笑った。
「そんな機会ないよ」
「分かってるけど」
「じゃあ安心しろ。今のところ、お前以外撫でる予定ないから」
「今のところって何」
「言葉の綾」
理央がまだ不満そうだったので、湊は近づいて頭に手を置いた。
数回撫でると、さっきまで眉を寄せていたくせにすぐ表情が緩む。
「単純」
「湊にされると仕方ない」
「それ便利な言葉だな」
「本当だから」
理央は少し笑ってから、そのまま湊の手に頭を預けた。
こういう時、湊は時々考える。
理央が自分に見せる顔の中で、どれが一番好きなのだろう。
学校で誰かに褒められて笑っている顔もいい。何かに集中している時の真剣な顔も、走っている時の格好いい顔も好きだ。
ただ、自分の手の下で安心しきっている顔を見ると、それらとは違う種類の気持ちが湧く。
この顔は自分が知っている。
そう思えることが、少し嬉しい。
「理央」
「何」
「お前、俺が初恋?」
何となく聞いた。
理央の目が開く。
「急だね」
「前から気になってた。彼女いたことないって言ってたし」
理央は少し考えた。
湊は手を離し、向かいの机に腰を預ける。
「好きだなと思った人ならいたことあるよ。小学校とか中学の時に。可愛いなとか、格好いいなとか。でも付き合いたいとか、自分のことも好きになってほしいって思ったのは湊が初めてかも」
「じゃあほぼ初恋じゃん」
「そうなのかな」
「そうだろ」
理央は少し照れたように笑った。
「だから俺、こんなに必死だったのかも」
「告白してから?」
「その前から。湊と話したくて毎日昼休み行って、放課後も図書室行って、休みの日まで誘って。今考えると結構すごいよね」
「今気づいたの?」
「ファンだから距離近くなってるだけだと思ってた時期もあった」
「お前も?」
「湊もそう思ってたでしょ」
「思ってた」
二人で少し笑った。
今振り返ると、お互いに随分遠回りをしていたらしい。
理央は自分の恋心を、湊は理央から向けられている感情を、それぞれ別のものとして説明しようとしていた。
「でも、あの頃は湊の小説みたいな恋愛がしたいって本気で思ってた」
「今は?」
何気なく聞いた瞬間、理央は少し黙った。
文化祭準備の終わった教室には、夕方の光が長く差し込んでいる。普段ならもう部活へ向かう生徒の声が聞こえる時間だが、今日は雨が降り出したせいか窓の外も静かだった。
「今は、全然違うと思ってる」
理央はゆっくり答えた。
湊は少しだけ眉を上げる。
「前にも言ってたな、それ」
「うん。でもその時よりもっと思う」
「そんなに俺、理想と違った?」
「そういう意味じゃないよ」
理央は椅子から立ち、少し近くへ来た。
「俺が想像してた恋愛って、好きな人にこうしてほしいとか、こう言ってほしいとか、そういうことばっかりだったんだと思う。頭撫でてほしいとか、迎えに来てほしいとか、頑張ったら褒めてほしいとか」
「全部やってるけど」
「してもらってる。すごく嬉しい」
理央は笑った。
「でも今は、それがなくても湊が好きだと思う」
その言葉に、湊は何も返さなかった。
「もし湊が頭撫でるの嫌になったとしても、もう別れようとは思わないし、毎回迎えに来てくれなくてもいい。俺が想像してた恋愛より、実際に湊と過ごすほうがずっと好きだから」
理央は少しだけ恥ずかしそうに視線を落とした。
「なんか、もっと普通なんだよね。毎日特別なことしてるわけじゃないし、喧嘩はまだしてないけど、たぶんこれから意見合わないこともあると思う。でもそれでも、湊といるほうがいい」
湊は静かに聞いていた。
最初に理央から、自分の小説のような恋愛がしたいと言われた時のことを思い出す。
好きな人に大事にされたい。
頑張ったら頑張ったねと言ってほしい。
甘えたい。
可愛いと思ってほしい。
あれだけはっきり理想を語っていた理央が、今はそれより自分との現実のほうが好きだと言う。
「……よかった」
気づけば、そんな言葉が出ていた。
理央が顔を上げる。
「何が?」
「俺、お前の理想に付き合ってるだけじゃないって分かったから」
「まだ気にしてた?」
「少しは」
告白された時に抱いた疑問は、ほとんど消えていた。
それでも心のどこかには残っていたのだろう。
自分がたまたま理央の欲しかったものを与える人間だったから好かれただけではないのか。
もっと上手に理想を叶えてくれる誰かが現れたら、そちらへ行ってしまうのではないか。
そんな不安を、湊は自分でもはっきり自覚していなかった。
「湊」
理央が手を伸ばす。
指先が湊の手に触れ、そのままゆっくり握った。
「俺、湊じゃないと嫌だよ」
その言い方があまりにも真っ直ぐで、湊は少しだけ困った。
「そういうのさらっと言うなよ」
「大事だから言ってる」
「分かってる」
握られた手を、今度は自分から握り返す。
理央が少し笑った。
その顔を見ながら、湊は思った。
たぶん自分も同じだった。
理央が可愛くなくなったら嫌なのかと聞かれれば、違う。
頭を撫でた時に喜ばなくなっても、学校で今よりもっと余裕のある顔をするようになっても、それだけで気持ちが消えるとは思えない。
理央だから好きなのだと、ようやく自然に考えられるようになっていた。
文化祭当日、理央のクラスの演劇は予想以上に盛況だった。
湊は自分のクラスのシフトが空いた時間に見に行き、後方の席から舞台を眺めた。
理央は主役ではなかったものの、舞台上へ出ればやはり目立った。台詞も聞き取りやすく、身振りも自然で、周囲から笑い声が起きる場面ではちゃんと間を取っている。
終演後、教室の外へ出ると、理央はすぐに湊を見つけた。
まだ衣装のままで、人に囲まれながらもこちらへ向かってくる。
「見てた?」
「見てた。普通に上手かった」
「本当?」
「うん。途中で噛んだけど」
「そこ覚えてる?」
「一瞬止まってた」
「最悪」
理央は苦笑した。
「でも格好よかったよ」
湊が続けると、すぐに表情が変わる。
やっぱり嬉しいらしい。
「じゃあ後で可愛いも言って」
「欲張り」
「両方ほしい」
「分かったよ」
そんなやり取りをしていると、理央のクラスの女子が近くから笑った。
「瀬名くん、朝倉くんの前だとほんと違うね」
理央は特に否定しなかった。
「そう?」
「分かりやすい。今めちゃくちゃ嬉しそう」
言われて、理央は少し照れた。
湊はその横顔を見ながら、自分も同じなのかもしれないと思った。
以前なら人前でこんな会話をするだけで落ち着かなかったはずなのに、今はもうそこまで気にしていない。
理央が自分の恋人であることを、知られて困るとも思わなくなった。
文化祭が終わった翌週、二人は久しぶりに理央の家で過ごしていた。
学校行事が続いたせいで課題も溜まっており、午後までは真面目に机へ向かっていたが、夕方になる頃には二人とも集中力が切れていた。
理央が先に問題集を閉じ、ベッドに仰向けに倒れ込む。
「もう無理」
「あと三ページじゃん」
「明日やる」
「俺の小説の主人公ならここで頑張るけど」
「恋人が休んでいいって言ってくれるところまでセットじゃない?」
「都合よく使うなよ」
笑いながら、湊も椅子から立った。
ベッドの端に腰を下ろすと、理央が身体を起こして隣へ移動してくる。
すぐに肩が触れた。
「今日、撫でてもらってない」
「数えてんの?」
「なんとなく」
「はいはい」
髪に手を置く。
理央は満足したように目を閉じる。
これもすっかり日常になった。
最初は頭を撫でること自体に少し抵抗があったのに、今では理央が言わなくても手を伸ばすことがある。
「理央」
「何?」
「俺、お前のことかなり甘やかしてるよな」
「うん」
「即答」
「でも俺も湊のこと甘やかしてるからいいだろ」
「そう?」
「湊が宿題分かんないところ教えてって言ったら教えるし、飲み物も買うし、朝寝坊したら起こすし」
「最後まだ一回もない」
「今後あるかもしれない」
理央は目を閉じたまま笑った。
湊もつられて笑う。
こんなふうに何でもない会話をしている時間が、一番楽なのかもしれない。
しばらくして理央が目を開けた。
「湊」
「今度は何」
「キスしていい?」
「いいけど」
理央が少し身体を起こす。
何度もしているのに、今でもちゃんと聞く。
湊はそれが好きだった。
近づいた唇を受け入れる。
一度、短く触れて離れ、理央がこちらを見る。
もう一度近づく気配がしたので、今度は湊のほうから少し距離を詰めた。
二度目は長かった。
唇が触れたまま数秒過ぎ、離れたあとも互いの呼吸が近い。
理央の頬が少し赤い。
「慣れてきた?」
湊が聞くと、理央は笑った。
「キスには。でも湊にされるのはまだ毎回嬉しい」
「それは慣れないんだ」
「慣れたくないかも」
その返事が理央らしくて、湊は少し笑った。
もう一度だけ、今度はこちらから短くキスをする。
理央が驚いて目を見開いたあと、すぐに笑った。
「今の何」
「したかったから」
「……そういうのもっとやって」
「調子乗るな」
言いながらも、湊自身も嫌ではなかった。
以前は理央が喜ぶから触れていた。
今は自分からも触れたい。
その違いが、少し嬉しかった。
朝、校門で顔を合わせれば少しだけ歩幅を緩めて並び、昼休みにはどちらかの教室へ迎えに行き、放課後に予定が合えば図書室で過ごす。付き合い始めたばかりの頃より人目を気にしなくなったぶん、廊下で肩が触れてもわざわざ離れなくなったし、帰り道では人通りの少ないところを選んで手を繋ぐことも増えた。
キスも、もう特別な出来事ではなくなっていた。
とはいえ学校ではしないし、駅前のような人目の多い場所でも避けているので、自然とどちらかの家へ行った時か、帰り道の途中で人気のない場所を見つけた時に限られる。それでも初めて触れた時のように互いに緊張して固まることはなくなり、理央のほうから「していい?」と尋ねることもあれば、湊が何となく近づいて短く重ねることもあった。
理央は相変わらず、そのたびに少しだけ嬉しそうな顔をする。
最初ほど大げさではない。けれど唇が離れたあとに目元が緩み、無意識のように湊へ近づいてくるので、喜んでいることはすぐ分かった。
湊はそんな理央を見るのが好きだった。
以前は「自分がしたことで喜ぶ理央が可愛い」という感覚のほうが強かったが、今はそれだけではない。自分自身も理央に触れたいと思うし、名前を呼ばれれば嬉しい。理央が他の誰かに囲まれているところを見ても嫉妬で苛立つほどではないものの、こちらを見つけた瞬間に笑うと、少しだけ特別扱いされている気分になる。
それが恋なのかと疑う理由は、もうほとんどなかった。
九月の半ば、文化祭の準備が始まると、学校はまた慌ただしくなった。
湊のクラスは喫茶店をやることになり、理央のクラスは演劇に決まったらしい。例によって理央は目立つ役を押しつけられそうになったものの、本人が裏方もやってみたいと言ったことで、最終的には大道具と役者の両方を手伝うことになった。
「絶対主役やらされると思ってた」
放課後、図書室へ行く代わりに準備の終わった教室で二人だけ残り、湊がテーブルクロス用の布を畳みながら言うと、理央は向かいで段ボールをまとめながら苦笑した。
「俺も少し思ってた。でも、今年は大道具やってみたかったんだよ。去年までずっと前に出るほうだったし」
「珍しいな。お前、何でもできるからって結局両方やってるじゃん」
「そこは仕方ない。人足りないって頼まれたから」
言いながらも嫌そうではなかった。
以前なら、頼られることに疲れていても平気な顔をしていたかもしれない。今はこうして、やりたいことと頼まれたことの両方について普通に話すようになった。
湊は畳んだ布を箱に入れながら、ふと思い出した。
「そういえば、劇って恋愛もの?」
「違うよ。コメディ。俺、王子役じゃないから安心して」
「誰も心配してない」
「湊、ちょっと嫌かなと思って」
「何が」
「俺が舞台で誰かと恋人役とかやるの」
湊は手を止めた。
想像してみる。
理央が誰かの手を取ったり、好きだと言ったり、芝居とはいえ恋人らしい距離で立つところ。
少しだけ面白くない。
ただ、演技なのだから仕方がないとも思う。
「嫌っていうより、多少は気になるかも。でも仕事なら別に」
「仕事じゃなくて文化祭だけど」
「似たようなもんだろ」
「湊ってその辺あっさりしてるよね」
理央は笑った。
「俺だったら、ちょっと嫌かもしれない」
「俺が誰かと恋人役?」
「うん。演技だって分かってても、たぶん少しだけ」
「嫉妬する?」
「すると思う」
意外に素直だった。
湊は少し面白くなって笑う。
「お前、独占欲あるんだ」
「あるよ。湊が思ってるより」
理央は段ボールをまとめ終わると、椅子に腰を下ろした。
「別に友達といるなとか、他の人と話すなとかは思わないけど。俺だけが知ってる顔は俺だけが知ってたいし、俺にしてくれることを他の人にもしてたら嫌かも」
「例えば?」
「頭撫でるとか」
「それ、お前がしてもらってる側じゃん」
「だから。湊が他の人の頭撫でてたら嫌」
想像したのか、理央は少し眉を寄せた。
湊は思わず笑った。
「そんな機会ないよ」
「分かってるけど」
「じゃあ安心しろ。今のところ、お前以外撫でる予定ないから」
「今のところって何」
「言葉の綾」
理央がまだ不満そうだったので、湊は近づいて頭に手を置いた。
数回撫でると、さっきまで眉を寄せていたくせにすぐ表情が緩む。
「単純」
「湊にされると仕方ない」
「それ便利な言葉だな」
「本当だから」
理央は少し笑ってから、そのまま湊の手に頭を預けた。
こういう時、湊は時々考える。
理央が自分に見せる顔の中で、どれが一番好きなのだろう。
学校で誰かに褒められて笑っている顔もいい。何かに集中している時の真剣な顔も、走っている時の格好いい顔も好きだ。
ただ、自分の手の下で安心しきっている顔を見ると、それらとは違う種類の気持ちが湧く。
この顔は自分が知っている。
そう思えることが、少し嬉しい。
「理央」
「何」
「お前、俺が初恋?」
何となく聞いた。
理央の目が開く。
「急だね」
「前から気になってた。彼女いたことないって言ってたし」
理央は少し考えた。
湊は手を離し、向かいの机に腰を預ける。
「好きだなと思った人ならいたことあるよ。小学校とか中学の時に。可愛いなとか、格好いいなとか。でも付き合いたいとか、自分のことも好きになってほしいって思ったのは湊が初めてかも」
「じゃあほぼ初恋じゃん」
「そうなのかな」
「そうだろ」
理央は少し照れたように笑った。
「だから俺、こんなに必死だったのかも」
「告白してから?」
「その前から。湊と話したくて毎日昼休み行って、放課後も図書室行って、休みの日まで誘って。今考えると結構すごいよね」
「今気づいたの?」
「ファンだから距離近くなってるだけだと思ってた時期もあった」
「お前も?」
「湊もそう思ってたでしょ」
「思ってた」
二人で少し笑った。
今振り返ると、お互いに随分遠回りをしていたらしい。
理央は自分の恋心を、湊は理央から向けられている感情を、それぞれ別のものとして説明しようとしていた。
「でも、あの頃は湊の小説みたいな恋愛がしたいって本気で思ってた」
「今は?」
何気なく聞いた瞬間、理央は少し黙った。
文化祭準備の終わった教室には、夕方の光が長く差し込んでいる。普段ならもう部活へ向かう生徒の声が聞こえる時間だが、今日は雨が降り出したせいか窓の外も静かだった。
「今は、全然違うと思ってる」
理央はゆっくり答えた。
湊は少しだけ眉を上げる。
「前にも言ってたな、それ」
「うん。でもその時よりもっと思う」
「そんなに俺、理想と違った?」
「そういう意味じゃないよ」
理央は椅子から立ち、少し近くへ来た。
「俺が想像してた恋愛って、好きな人にこうしてほしいとか、こう言ってほしいとか、そういうことばっかりだったんだと思う。頭撫でてほしいとか、迎えに来てほしいとか、頑張ったら褒めてほしいとか」
「全部やってるけど」
「してもらってる。すごく嬉しい」
理央は笑った。
「でも今は、それがなくても湊が好きだと思う」
その言葉に、湊は何も返さなかった。
「もし湊が頭撫でるの嫌になったとしても、もう別れようとは思わないし、毎回迎えに来てくれなくてもいい。俺が想像してた恋愛より、実際に湊と過ごすほうがずっと好きだから」
理央は少しだけ恥ずかしそうに視線を落とした。
「なんか、もっと普通なんだよね。毎日特別なことしてるわけじゃないし、喧嘩はまだしてないけど、たぶんこれから意見合わないこともあると思う。でもそれでも、湊といるほうがいい」
湊は静かに聞いていた。
最初に理央から、自分の小説のような恋愛がしたいと言われた時のことを思い出す。
好きな人に大事にされたい。
頑張ったら頑張ったねと言ってほしい。
甘えたい。
可愛いと思ってほしい。
あれだけはっきり理想を語っていた理央が、今はそれより自分との現実のほうが好きだと言う。
「……よかった」
気づけば、そんな言葉が出ていた。
理央が顔を上げる。
「何が?」
「俺、お前の理想に付き合ってるだけじゃないって分かったから」
「まだ気にしてた?」
「少しは」
告白された時に抱いた疑問は、ほとんど消えていた。
それでも心のどこかには残っていたのだろう。
自分がたまたま理央の欲しかったものを与える人間だったから好かれただけではないのか。
もっと上手に理想を叶えてくれる誰かが現れたら、そちらへ行ってしまうのではないか。
そんな不安を、湊は自分でもはっきり自覚していなかった。
「湊」
理央が手を伸ばす。
指先が湊の手に触れ、そのままゆっくり握った。
「俺、湊じゃないと嫌だよ」
その言い方があまりにも真っ直ぐで、湊は少しだけ困った。
「そういうのさらっと言うなよ」
「大事だから言ってる」
「分かってる」
握られた手を、今度は自分から握り返す。
理央が少し笑った。
その顔を見ながら、湊は思った。
たぶん自分も同じだった。
理央が可愛くなくなったら嫌なのかと聞かれれば、違う。
頭を撫でた時に喜ばなくなっても、学校で今よりもっと余裕のある顔をするようになっても、それだけで気持ちが消えるとは思えない。
理央だから好きなのだと、ようやく自然に考えられるようになっていた。
文化祭当日、理央のクラスの演劇は予想以上に盛況だった。
湊は自分のクラスのシフトが空いた時間に見に行き、後方の席から舞台を眺めた。
理央は主役ではなかったものの、舞台上へ出ればやはり目立った。台詞も聞き取りやすく、身振りも自然で、周囲から笑い声が起きる場面ではちゃんと間を取っている。
終演後、教室の外へ出ると、理央はすぐに湊を見つけた。
まだ衣装のままで、人に囲まれながらもこちらへ向かってくる。
「見てた?」
「見てた。普通に上手かった」
「本当?」
「うん。途中で噛んだけど」
「そこ覚えてる?」
「一瞬止まってた」
「最悪」
理央は苦笑した。
「でも格好よかったよ」
湊が続けると、すぐに表情が変わる。
やっぱり嬉しいらしい。
「じゃあ後で可愛いも言って」
「欲張り」
「両方ほしい」
「分かったよ」
そんなやり取りをしていると、理央のクラスの女子が近くから笑った。
「瀬名くん、朝倉くんの前だとほんと違うね」
理央は特に否定しなかった。
「そう?」
「分かりやすい。今めちゃくちゃ嬉しそう」
言われて、理央は少し照れた。
湊はその横顔を見ながら、自分も同じなのかもしれないと思った。
以前なら人前でこんな会話をするだけで落ち着かなかったはずなのに、今はもうそこまで気にしていない。
理央が自分の恋人であることを、知られて困るとも思わなくなった。
文化祭が終わった翌週、二人は久しぶりに理央の家で過ごしていた。
学校行事が続いたせいで課題も溜まっており、午後までは真面目に机へ向かっていたが、夕方になる頃には二人とも集中力が切れていた。
理央が先に問題集を閉じ、ベッドに仰向けに倒れ込む。
「もう無理」
「あと三ページじゃん」
「明日やる」
「俺の小説の主人公ならここで頑張るけど」
「恋人が休んでいいって言ってくれるところまでセットじゃない?」
「都合よく使うなよ」
笑いながら、湊も椅子から立った。
ベッドの端に腰を下ろすと、理央が身体を起こして隣へ移動してくる。
すぐに肩が触れた。
「今日、撫でてもらってない」
「数えてんの?」
「なんとなく」
「はいはい」
髪に手を置く。
理央は満足したように目を閉じる。
これもすっかり日常になった。
最初は頭を撫でること自体に少し抵抗があったのに、今では理央が言わなくても手を伸ばすことがある。
「理央」
「何?」
「俺、お前のことかなり甘やかしてるよな」
「うん」
「即答」
「でも俺も湊のこと甘やかしてるからいいだろ」
「そう?」
「湊が宿題分かんないところ教えてって言ったら教えるし、飲み物も買うし、朝寝坊したら起こすし」
「最後まだ一回もない」
「今後あるかもしれない」
理央は目を閉じたまま笑った。
湊もつられて笑う。
こんなふうに何でもない会話をしている時間が、一番楽なのかもしれない。
しばらくして理央が目を開けた。
「湊」
「今度は何」
「キスしていい?」
「いいけど」
理央が少し身体を起こす。
何度もしているのに、今でもちゃんと聞く。
湊はそれが好きだった。
近づいた唇を受け入れる。
一度、短く触れて離れ、理央がこちらを見る。
もう一度近づく気配がしたので、今度は湊のほうから少し距離を詰めた。
二度目は長かった。
唇が触れたまま数秒過ぎ、離れたあとも互いの呼吸が近い。
理央の頬が少し赤い。
「慣れてきた?」
湊が聞くと、理央は笑った。
「キスには。でも湊にされるのはまだ毎回嬉しい」
「それは慣れないんだ」
「慣れたくないかも」
その返事が理央らしくて、湊は少し笑った。
もう一度だけ、今度はこちらから短くキスをする。
理央が驚いて目を見開いたあと、すぐに笑った。
「今の何」
「したかったから」
「……そういうのもっとやって」
「調子乗るな」
言いながらも、湊自身も嫌ではなかった。
以前は理央が喜ぶから触れていた。
今は自分からも触れたい。
その違いが、少し嬉しかった。

