学年一の王子様は俺の彼氏になりたがってる

 夏休みに入ってから、二人は学校で会えない分、休日に出かける回数が増えた。
 映画を観たり、図書館へ行ったり、駅前で待ち合わせて昼食だけ一緒に取る日もあった。高校生なので毎日のように金を使うわけにもいかず、どちらかの家で宿題をすることも増えた。
 理央の家へ行くのは、熱を出した時以来だった。
 その日は母親が在宅しており、玄関で簡単に挨拶をすると、特に驚かれることもなく部屋へ通された。
「友達来るって言ってたの?」
 階段を上がりながら小声で聞くと、理央は少し気まずそうに笑った。
「彼氏来るって言った」
「最初から?」
「うん」
「お前すごいな」
「隠す理由ないし。母さんも、そうなんだって感じだった」
 湊の家ではまだ母親に話していない。
 隠したいわけではないが、わざわざ宣言するほどの機会がなかった。
 理央の部屋へ入ると、以前来た時より片づいていた。
「掃除した?」
「した。湊来るから」
「前も別に汚くなかったけど」
「今日は彼氏として来るから」
 またそれである。
「お前、まだ言うんだな」
「たぶんずっと言う」
「慣れろよそろそろ」
「慣れたらもったいない」
 理央はそう言って笑った。
 机に二人分の教材を広げ、夏休みの課題を進める。
 最初の一時間ほどは真面目だった。
 ところが数学の問題集が一区切りついた頃、理央が椅子の背に大きく身体を預けて溜め息をついた。
「疲れた?」
「ちょっと休憩したい」
「じゃあ休めば」
 湊がペンを置くと、理央は机の上に突っ伏す代わりにベッドの端に腰を下ろした。
 そのままこちらを見る。
 何を求めているのか、もう分かる。
「こっち来る?」
 湊が言うと、理央は少し驚いてから嬉しそうに頷いた。
 隣に座ると、すぐ肩に頭が預けられる。
 こうして甘える時の理央は、本当に遠慮がなくなった。
「重くない?」
「これくらいなら平気」
「じゃあもう少し」
 身体が少し近づく。
 頭を撫でてやると、理央は満足そうに目を閉じた。
「湊の家でもこうしていい?」
「親いなければ」
「いたら駄目?」
「さすがに目の前でこれは恥ずかしいだろ」
「俺は別に平気」
「俺が平気じゃない」
 理央は笑いながらも、無理には言わなかった。
 しばらく静かな時間が続く。
 窓の外では蝉が鳴いている。冷房の風がゆっくり部屋を回り、机の上には途中まで解いた問題集が開いたままになっていた。
 湊は理央の髪を撫でながら、ふと思った。
 付き合い始める前、理央は何度も自分の小説に出てくるような恋愛がしたいと言っていた。
 頑張ったら褒めてもらいたい。
 疲れたら甘やかしてほしい。
 大事にされたい。
 今は、そのどれも少しずつ叶っているのだろうか。
「理央」
「何?」
「今、幸せ?」
 何気なく聞いた。
 理央がゆっくり目を開ける。
「急にどうしたの」
「前に、俺の小説みたいな恋愛したいって言ってただろ。今それできてるのかなと思って」
 理央は少し考えた。
 すぐ肯定すると思っていたので、その沈黙が意外だった。
「全然違うかも」
「え」
 湊の手が止まる。
 理央がこちらを見て、少し笑った。
「俺が想像してたのって、もっと分かりやすく恋人っぽい感じだった。毎回デートして、格好いいこと言ってもらって、何かあるたびに特別なことしてもらって」
「……してないな」
「してない」
 はっきり言われて少し落ち込む。
 そんな湊の顔を見たのか、理央はすぐ続けた。
「でも今のほうが好き」
 湊は黙った。
「湊って、俺が言わなくても疲れてるの気づくし、欲しいって言ったこと覚えてるし、どうでもいい話もちゃんと聞いてくれる。頭撫でてくれるのも、飲み物買ってくれるのも嬉しいけど、それだけじゃなくて」
 理央は少し言葉を探すように目を伏せた。
「俺が格好よくなくても、普通に好きでいてくれるのが一番嬉しい」
 その言葉が、思っていたより深く胸に入った。
「学校だと、みんな瀬名理央っていうのを先に見るから。顔とか、成績とか、運動できるとか。別にそれが嫌なわけじゃないけど、ちゃんとしてないといけない気がする時がある」
「俺の前だと?」
「何も考えてない」
「それはそれでどうなんだ」
「いい意味で」
 理央は笑った。
「眠かったら眠いって言えるし、疲れたら疲れたって言えるし、可愛いって言ってほしいって言える。湊は変だって言わないから」
 湊はもう一度髪を撫でた。
「別に変じゃないし」
「うん。そう言ってくれるのが好き」
 理央が目を細める。
 湊はしばらくその顔を見ていた。
 この男は、自分が思っていた以上に「普通に扱われること」を求めていたのかもしれない。
 学校中の憧れであることより、誰か一人の前で気を抜けること。
 格好いいと思われることより、可愛いと言われても笑っていられること。
 自分にとって何でもない対応が、理央には大切だった。
「じゃあ、もっと普通に扱う」
「今より?」
「今より。眠かったら寝かせるし、疲れてたら甘やかすし、格好悪かったら普通に笑う」
「最後いらなくない?」
「必要だろ。特別扱いしてほしくないんだから」
「大事にはしてほしい」
「注文多いな」
 笑いながら言うと、理央も笑った。
「でも湊ならできる」
「何その信頼」
「彼氏だから」
 またその言葉だった。
 最初は少し照れた。
 今は、言われるたびにどこか嬉しくなる。

 その日の夕方、理央の母親が買い物へ出たあと、二人は宿題を切り上げてベッドへ並んで座っていた。
 別に何をするつもりもなかった。
 理央がスマートフォンで旅行動画を見せてきて、夏休みのうちに水族館へ行きたいとか、海は暑いから秋がいいとか、そんな話をしていただけだった。
 動画が終わり、理央が画面を消す。
 少しだけ静かになった。
「湊」
「何」
「キスしていい?」
 以前とは逆だった。
 初めてのキスは湊からした。
 その後は何度かしているものの、理央から先に聞かれたのは初めてだった。
「いいよ」
 答えると、理央が少し近づく。
 もう最初の時ほど緊張してはいない。
 それでも触れる直前には少しだけ目を伏せ、確認するようにこちらを見る。
 湊が逃げないのを見てから、ゆっくり唇を重ねてきた。
 短いキスだった。
 離れたあとも距離は近いままで、理央が少し笑う。
「自分からするのもいい」
「何その感想」
「どっちも好き」
「欲張り」
「湊がいいって言ったから」
 また近づく。
 二度目は最初より少し長かった。
 湊も自然に目を閉じる。
 触れ合うだけのキスでも、回数を重ねれば少しずつ慣れてくる。緊張よりも、理央の唇の柔らかさや、近くにいる体温のほうを意識するようになっていた。
 離れると、理央が額を湊の肩に預けた。
「……幸せ」
「大げさ」
「本当だよ」
 声が少し低い。
 湊はその頭に手を置いた。
「今日何回撫でられてる?」
「数えてない」
「俺も」
「じゃあもう一回」
「はいはい」
 髪を撫でる。
 理央がまた満足そうに目を閉じる。
 その横顔を見ながら、湊はふと笑った。
「何」
「いや。学校の奴ら、絶対想像してないだろうなって」
「何を?」
「瀬名理央がこんなに頭撫でられるの好きだってこと」
「言わなくていいよ」
「言わないけど」
「湊だけ知ってればいい」
 さらりと返された。
 湊の手が少し止まる。
 理央は目を閉じたままだった。
「そういうこと普通に言うよな、お前」
「嫌?」
「嫌じゃない」
 むしろ嬉しい。
 それを口にするのはまだ少し恥ずかしかった。
 けれど理央はたぶん、言わなくても分かっている。
 以前よりずっと自然に自分に体重を預け、安心しきった顔で目を閉じているのだから。
 学校中が知っている瀬名理央と、自分だけが知っている理央。
 どちらが本物というわけではない。
 どちらも理央で、どちらも好きだった。
 ただ、自分にしか見せないほうを知っていることに、少しだけ優越感があるのは否定できなかった。

 夏休みの終わりが近づいた頃、二人の関係はもう同学年ではほとんど知られていた。
 それでも大きな問題は起こらなかった。
 たまに好奇心で聞かれることはあっても、理央が堂々としているせいか必要以上に騒ぐ人間も減り、いつの間にか「瀬名と朝倉は付き合っている」というのが一つの事実として受け入れられていた。
 ただ、周囲の認識だけは相変わらずだった。
 夏期講習で久しぶりに学校へ行った日、理央と別れて教室へ戻ろうとしたところで、顔見知りの女子に呼び止められた。
「朝倉くん」
「何?」
「瀬名くん、今日ちょっと疲れてたみたいだから優しくしてあげてね」
「……分かった」
「本当に大事にしてね」
「してるよ」
 今度は自然に答えられた。
 女子は満足そうに笑って去っていく。
 その後ろ姿を見送りながら、湊も少し笑った。
 どうやら自分は完全に、瀬名理央を大事にする係だと思われているらしい。
 否定するほど間違ってはいない。
 むしろ本人が聞いたら喜ぶだろう。
 そう思いながら廊下を歩き始める。
 すると後ろから足音が近づいた。
「湊」
 振り返ると、さっき別れたはずの理央が戻ってきていた。
「忘れ物?」
「違う。これ」
 差し出されたのは小さなペットボトルだった。
 湊がよく飲むカフェオレ。
「何」
「今日暑いから。湊、さっき喉乾いたって言ってたし」
 また自然にやる。
 特別なことだという顔もしない。
「ありがとう」
 受け取る。
「どういたしまして」
 理央が笑う。
 湊はペットボトルを見てから、さっき女子に言われたことを思い出した。
「お前も俺のこと大事にしてるじゃん」
「してるよ。当たり前だろ」
 理央は不思議そうだった。
「俺ばっかり大事にされたいわけじゃないよ。湊にも同じくらい幸せでいてほしい」
 それはたぶん、理央にとって本当に当たり前のことなのだろう。
 だからこそ、湊は少しだけ嬉しかった。
「そっか」
「何、その反応」
「別に。再確認しただけ」
 カフェオレを持っていないほうの手を伸ばし、理央の髪を軽く撫でる。
 廊下には人がいたので一度だけだった。
 それでも理央はすぐに笑った。
「可愛い」
 今では言うことにも慣れた。
 理央は頬を少し赤くしながら、以前ほど大げさには驚かない。それでも嬉しそうにするところは変わらなかった。
「湊も可愛いよ」
「それは違う」
「俺はそう思ってる」
「勝手にしろ」
 言いながら、湊も笑った。
 周囲からどんなふうに見えているかなど、今はもうあまり気にならなかった。
 誰がどちらを守る側だと思おうと、どちらが甘やかされる側に見えようと、実際の二人がどういう関係なのかは自分たちが知っていればいい。
 理央は大事にされることを喜ぶし、湊はそんな理央を可愛いと思う。
 その一方で、理央もまた湊のことをよく見て、必要な時には何も言わず手を差し出してくれる。
 どちらか一方だけが与えているわけではない。
 二人とも、自分なりのやり方で相手を大事にしている。
 それが分かるようになった今では、周囲から「瀬名をよろしく」と言われることすら、少し面白く感じられるようになっていた。