学年一の王子様は俺の彼氏になりたがってる

 恋人になれば、キスをする。
 それくらいのことは、恋愛経験のない湊でも当然知っていた。
 むしろ恋愛小説を書いている以上、作中では何度も登場人物にさせている。初めて触れる時の緊張も、付き合いが長くなってから交わす気安いキスも、仲直りのためのものも、別れ際に名残惜しく重ねるものも、文章ならいくらでも書いてきた。
 ただし、自分でするとなると話は別だった。
 理央と付き合い始めて二週間近く経っても、二人はまだキスをしていなかった。
 手すらまともに繋いでいない。
 学校内では人目があり、帰り道も周囲にはそれなりに人がいる。休日に二人きりで出かける機会もまだなく、わざわざキスをするためだけに人目のないところへ行くのも気恥ずかしい。
 何より、理央が一度も急かさなかった。
 頭を撫でてほしいとは頼むし、もう少し一緒にいたいとも言う。けれど恋人になったのだから手を繋ぎたいとも、キスしたいとも言わない。
 それが逆に気になった。
 七月半ばの金曜日、図書室を出て駅へ向かう途中で、湊はとうとう尋ねた。
「お前、キスしたくないの?」
 言った直後、我ながら唐突すぎたと思った。
 理央も驚いたらしく、歩きながら一度足を止めかけた。
「したいけど」
「ならなんで何も言わないの」
「言っていいの?」
「それを俺に聞くなよ」
 理央は少し黙った。
 夕方の道を自転車が一台通り過ぎていく。駅へ向かう生徒も周囲にいるので、話している内容が聞こえないよう、自然と二人とも声を落とした。
「朝倉、まだ俺のこと好きになったばっかりだろ」
 理央は少し考えながら言葉を選んでいるようだった。
「付き合ってくれたのも、俺ほどはっきり恋人になりたいって思ってるか分からないって言ってたし、だから俺が最初からいろいろ求めすぎるのは違うかなと思ってる。頭撫でてもらうのとかは、付き合う前からしてもらってたから甘えてるけど」
 湊は黙って聞いた。
「キスとか、もっと恋人っぽいことは、朝倉もしたいって思うまで待とうかなって」
 そう言って、理央は少し照れたように笑った。
「別に急がなくても、もう彼氏にはなれたし」
 胸の奥を、何か柔らかいものが押した。
 理央はずっと、自分の望む恋愛についてたくさん話してきた。好きな人に甘えたい、大事にされたい、自分のために何かをしてもらいたいと何度も言っている。
 それでも、自分が欲しいものを得るために湊を急かすつもりはないらしい。
 待つと言えるのは、きっと理央が自分のことを大事にしようとしているからだ。
「……したいと思ってるけど」
 湊が言うと、理央の目が少し大きくなった。
「キス?」
「そう。だから聞いた」
「今?」
「ここではしない」
「だよね」
 周囲を見れば、駅へ向かう高校生が普通に歩いている。
 理央が少し笑った。
「じゃあ、いつかして」
「そのうちな」
「うん」
 それだけで満足したらしい。
 理央は先ほどより明らかに機嫌よく歩き始めた。
 湊はその横顔を見ながら、自分でもおかしいと思った。
 キスをしたいと言ったのは自分なのに、どうして相手のほうがこんなに嬉しそうなのだろう。

 その「いつか」は、思っていたより早く来た。
 翌日の午後、二人は図書館へ行く約束をしていた。
 学校の図書室ではなく、駅から少し離れた市立図書館である。夏休み前に借りたい資料があると湊が話したところ、理央も行きたいと言い出し、そのまま一緒に出かけることになった。
 目的の本を探したあとは近くの喫茶店で遅い昼食を取り、夕方まで本屋を見て回った。
 特別なデートらしい場所ではない。
 それでも恋人になってから初めて休日に会ったせいか、理央は朝からずっと楽しそうだった。
 駅へ戻る頃には日が傾き始めていた。
 途中、小さな川沿いの遊歩道を通る。住宅街から一本外れているため人通りは少なく、川面を渡る風が昼間より少し涼しかった。
「今日楽しかった」
 理央が言った。
「本見て飯食っただけだけど」
「それでいい。朝倉と出かけたかったから」
「付き合う前にも出かけたじゃん」
「彼氏になってからは初めて」
 またそれだった。
 湊は笑いながら、川沿いに並ぶ木の影へ入った。
 理央が少し後ろを歩いている。
「瀬名」
 呼ぶと、すぐに顔が上がった。
「何?」
「こっち来て」
 自分でも、なぜそこで決めたのか分からなかった。
 昨日キスの話をしたせいで意識していたのかもしれないし、一日中楽しそうにしていた理央を見ていたからかもしれない。
 理央が隣に来る。
 周囲には誰もいなかった。
 少し離れた車道から車の音はするが、遊歩道には自分たちだけだった。
 湊は一度だけ息を吐いた。
「目、閉じて」
 理央が固まった。
「……え」
「嫌ならやめるけど」
「嫌じゃない」
 返事は早かった。
 理央は急いで目を閉じ、それから緊張したように少しだけ肩を上げた。
 何だその顔、と笑いそうになる。
 学校では何をするにも余裕があるように見える男が、キス一つでこんなに緊張している。
 湊も緊張していないわけではなかった。
 自分だって初めてだ。
 けれど相手のほうがあまりに分かりやすいので、少しだけ落ち着いた。
 顔を近づける。
 触れる直前、理央の睫毛が僅かに震えた。
 唇を重ねる。
 本当に一瞬だった。
 柔らかい、と感じる暇があるかどうかというほど短く触れ、すぐに離れる。
 理央は目を開けなかった。
「終わったけど」
 声をかけると、ようやくゆっくり瞼が上がった。
 顔が赤かった。
 頬だけではなく、耳まで赤い。
「……理央?」
 名前を呼んだのはほとんど無意識だった。
 普段は名字で呼んでいるのに、今だけは何となく近い呼び方が出た。
 それが追い打ちになったらしい。
 理央の目がさらに見開かれ、次の瞬間、目元が少し潤んだ。
「え、なんで泣くの」
「泣いてない」
「いや、泣きそうじゃん」
「嬉しいだけ」
 理央は困ったように笑った。
 本当に泣いているわけではない。
 ただ、目の縁が少しだけ赤くなっていて、笑っているのに今にも涙が零れそうに見えた。
「そんなに?」
「そんなに」
 以前にも同じやり取りをした気がする。
 付き合うことを受け入れた時も、理央は似た顔をしていた。
「朝倉からしてくれた」
「昨日したいって言っただろ」
「でも本当にしてもらえるの、もっと先だと思ってた」
「待たせたほうがよかった?」
「嫌」
 理央はすぐに首を振った。
 そのあと少し迷ってから、湊の袖を指先で掴む。
「もう一回は、さすがに欲張り?」
 湊はしばらくその顔を見た。
 頬を赤くして、泣きそうなくらい嬉しそうにして、それでももう一度ほしいとちゃんと言う。
 本当に、可愛い。
 その感想がごく自然に浮かんだ。
「欲張り」
 そう言いながら、湊は今度はこちらから理央の手を取った。
 驚いた理央の指を軽く握る。
「でも今日はいい」
 二度目のキスは、最初より少し長かった。
 それでもほんの数秒で、唇を重ねるだけのものだった。
 離れると、理央は完全に言葉を失っていた。
「お前さ」
「……何」
「俺にキスされただけで、そんな幸せそうな顔する?」
「するよ」
 理央は握られた手に少し力を込めた。
「好きな人にキスしてもらったんだから、普通に嬉しいだろ」
「普通以上に見えるけど」
「朝倉のせい」
 そう言って、理央は笑った。
 もう泣きそうな顔ではなかった。
 ただ、本当に幸せそうだった。
 湊はその顔を見た瞬間、胸の奥に生まれた感情に、今度は少しだけ明確な名前をつけられる気がした。
 可愛いだけではない。
 喜ばせたい。
 この顔をもっと見たい。
 自分がしたことで理央が幸せになってくれるのなら、それが嬉しい。
 それはたぶん、愛しいという感情に近かった。
「理央」
 今度は意識して名前を呼ぶ。
 また理央が少し驚いた。
「何?」
「これから名前で呼んでもいい?」
「……急に?」
「嫌?」
「嫌じゃない。全然嫌じゃない」
 むしろまた泣きそうになりかけている。
 湊は笑った。
「じゃあ理央」
「うん」
「俺のことも湊でいいよ」
 理央はしばらく何も言わなかった。
 唇を一度開き、閉じ、何かを確かめるようにこちらを見る。
「……湊」
 初めて呼ばれた。
 ただ名前を呼ばれただけなのに、思っていたよりずっと近くなった気がした。
「何」
「大好き」
 理央が笑う。
 頭を撫でられた時よりも、付き合えると分かった時よりも、もしかすると今までで一番柔らかい顔だった。
 湊はほんの少し照れながら、その頭に手を置いた。
「はいはい」
「流さないでよ」
「分かってるって」
「湊は?」
 聞かれる。
 まだ理央と同じ熱量で「大好き」と返せるかと言われれば、少しだけ迷う。
 それでも、以前のように分からないとは思わなかった。
「好きだよ」
 正直に答えた。
 理央はそれだけで十分だったらしい。
 嬉しそうに目を細め、湊の手の下に少しだけ頭を預ける。
「可愛い」
 今度は自然に口にした。
 理央の頬がまた赤くなった。
 それでも以前のようにもう一度と言う代わりに、繋いでいた手を少し強く握る。
 二人はそのまましばらく川沿いを歩いた。
 高校生同士の初めての恋人関係など、きっとこんなものなのだろう。
 何をしても少し恥ずかしく、名前を呼ぶだけでも意識して、手を繋いだ程度で今までとはまるで違うことをしている気分になる。
 湊の小説なら、もっと綺麗な言葉を使って書くのかもしれない。
 けれど実際にその中へ入ってみると、格好のいい台詞などほとんど出てこない。
 代わりにあるのは、隣を歩く手の温度や、自分が呼んだ名前に嬉しそうに振り返る顔や、ほんの短いキスをいつまでも大事そうに抱えている男だった。
 そして湊は、そういうもののほうが今はずっと好きだった。