学年一の王子様は俺の彼氏になりたがってる

 朝倉湊(あさくらみなと)は、自分の書いた恋愛小説を同級生に読まれる可能性について、今まで一度も考えたことがなかったわけではない。
 インターネット上に公開している以上、誰に読まれてもおかしくない。日本中どころか日本語さえ読めれば世界中のどこからでも閲覧できる場所に自分から載せているのだから、同じ学校の生徒だけ都合よく避けて通ってくれるはずもなく、検索か何かの拍子に偶然辿り着く人間がいても不思議ではなかった。
 それでも、まず大丈夫だろうとは思っていた。
 朝倉湊という本名で書いているわけではない。プロフィールには年齢も性別も住んでいる場所も載せておらず、SNSにも日常生活についてはほとんど書かない。作品に添える後書きですら「今年も暑いですね」程度のことしか言わず、学校の行事や試験について触れたこともない。唯一、投稿時間だけは平日ならだいたい夜十時以降になるという規則性があったが、そんなものから高校生だと特定できる人間がいたら怖すぎるので考えないことにしていた。
 そもそも、湊が書いているのは女性向けの恋愛小説だった。
 十代後半から二十代前半くらいの女性を主人公にした、恋をして、悩んで、時々泣いて、それでも最後には好きな人と幸せになる話。異世界へ行くこともなければ殺人事件も起こらない。現代日本が舞台の、よくある恋愛小説だ。
 投稿を始めたのは中学三年の冬で、今では作品数も十本を超えていた。ありがたいことに固定で読んでくれる人も増え、新作を投稿すれば感想が届く程度には知られるようになったが、商業作家でもなければ動画配信者でもない。学校で誰かが話題にしているところなど聞いたことがなかった。
 だから、たとえ読者の一人が同じ学校にいたとしても、その人物が作者の正体まで突き止めるなどということは、まず起こらない。
 そう思っていた。
「朝倉」
 昼休み、購買で買った焼きそばパンを持って教室へ戻ろうとしていた湊は、廊下の途中で聞き覚えのない声に呼び止められた。
 聞き覚えがないといっても、声の主が誰なのかは振り返る前から予想がついていた。周囲の女子が一斉にそちらを見るような男子生徒は、この学校にそう何人もいない。
 予想どおり、少し離れたところに瀬名理央が立っていた。
 二年三組、瀬名(せな)理央(りお)
 同じ学年で彼の名前を知らない人間は、おそらくほとんどいない。
 身長は百八十を少し超えるくらい。癖のない黒髪は校則の範囲内できちんと整えられ、夏服の白いシャツも第一ボタンを開けているだけで着崩してはいない。脚が長く、肩幅もほどよくあり、制服の広告にそのまま載せても通用しそうな体型をしている。そこに目鼻立ちの整った顔と、話しかけられれば誰にでも感じよく応じる性格まで付くのだから、一年の春、入学して二ヶ月もしないうちに女子の間で王子様だの何だのと呼ばれ始めたのも、まあ分からなくはなかった。
 湊とは別のクラスで、これまで直接話したことは一度もない。
 正確には、全校集会の片づけで机を運んだ時に「そこ持つよ」と言われ、「ありがとう」と返したことならある。だが、それを会話に数えるなら湊には友人が百人くらいいることになってしまう。
「俺?」
「うん。ちょっといい?」
 理央は笑っていた。
 人当たりのいい、よく見かける笑顔だった。近くを通った一年生らしい女子二人が、露骨に速度を落としてこちらを見ている。
 湊は手の中の焼きそばパンを見た。
「昼飯食いたいんだけど」
「あ、ごめん。そんなにかからない。たぶん」
「たぶん?」
「俺が落ち着いて話せれば」
 妙な条件が付いた。
 しかも、よく見ると理央は笑っているわりに少しおかしかった。背筋はいつもどおり伸びているのに、片手が制服のポケットの中で何かを握っているらしく、布地が不自然に引っ張られている。
 緊張しているのだろうか。
 なぜ自分相手に。
「……まあ、いいけど」
「ありがとう」
 理央の顔が目に見えて明るくなった。
 その変化が意外で、湊は少しだけ眉を上げた。

 連れて行かれたのは特別教室棟へ繋がる渡り廊下だった。
 昼休みでもほとんど人が来ない場所で、開け放たれた窓から六月の湿った風が吹き込んでいる。階下から運動部らしい男子の笑い声が聞こえ、グラウンドでは体育の授業を終えた一年生が教師に急かされながら用具を片づけていた。
 理央は周囲に誰もいないことを確認すると、ようやく足を止めた。
 告白でもされるのか、と一瞬だけ思った。
 もちろん本気ではない。同性だからという以前に、瀬名理央と朝倉湊では接点がなさすぎる。もし理央が男を好きになる人間だったとしても、数ある男子の中からわざわざ湊を選ぶ理由がない。
 それでも、人気のない場所へ呼び出され、相手が妙に緊張しているとなれば、形式だけはそれらしく見えた。
 理央はポケットからスマートフォンを取り出した。
「あのさ」
「うん」
「変なこと聞くけど」
「うん」
「違ったら、本当にごめん」
 前置きが長い。
 湊が焼きそばパンの袋を開けながら待っていると、理央は一度息を吸い、それからスマートフォンの画面をこちらへ向けた。
 見慣れたページが表示されていた。
 白い背景。上部には投稿サイトのロゴ。その下に作品タイトルと作者名。
 『雨のあとには君がいる』。
 作者、ミナト。
 焼きそばパンを口へ運ぼうとしていた湊の手が止まった。
「これ」
 理央が言う。
「朝倉が書いてる?」
 世界が終わった、と思った。
 実際には終わっていない。グラウンドでは一年生がまだボール籠を運んでいるし、少し離れた校舎からは放送委員が昼の音楽を流している。湿った風も吹いている。手の中の焼きそばパンからはソースの匂いがする。
 何ひとつ終わっていないのに、湊の高校生活だけがたった今終了したような気がした。
「……何のこと」
 とりあえず否定した。
 理央が困ったように眉を下げる。
「やっぱり違う?」
「違う」
「そっか」
「うん」
「じゃあ、これも違うかな」
 画面が操作される。
 表示されたのは作品本文ではなく、作者の活動報告だった。
『新しい話を書き始めました。今回は幼馴染ものです。幼馴染って、ずっと一緒にいるせいで距離の詰め方が分からなくなるところがいいですよね』
 たったそれだけの文章である。
「これが何」
「この投稿、五月十三日の二十二時四十七分なんだけど」
「……うん」
「その日の放課後、図書室で朝倉がノートに同じこと書いてた」
 心臓が嫌な跳ね方をした。
 覚えている。
 新作の構想を練っていた時、何となく思いついた一文を授業用のノートの隅に書いた。放課後の図書室で、窓際の席に座って。
「見たの?」
「見ようとしたわけじゃない。俺、隣の席にいたから。朝倉が消しゴム落として、それ拾った時にたまたま目に入った」
 そういえば誰かに拾ってもらった気がする。
 顔など見ていなかった。
「それだけで?」
「それだけなら偶然だと思った。作者名もミナトだし、もしかして、くらいで。でも、そのあと新作が始まって」
 理央の指が画面を滑る。
 今度は連載中の作品が表示された。
『君の隣で春を待つ』。
 高校時代からの幼馴染だった男女が大学進学を機に離れ、数年後に再会して恋に落ちる話である。
「三話で出てくる喫茶店のクリームソーダ」
「……」
「図書室にいた日、朝倉がノートに描いてたやつと同じだった」
「お前、よく見てるな」
「ごめん」
「いや、責めてるわけじゃないけど」
 責めたい気持ちは少しある。
 だが、ノートを机の上へ広げていたのは自分だし、見ようとして覗き込んだわけでもないのなら理央に非はない。
 問題は、そこから作者の正体へ辿り着いた執念のほうだった。
 湊は焼きそばパンの袋を閉じた。今は食べる気になれない。
「他に誰か知ってる?」
「誰にも言ってない」
「本当に?」
「本当。言うわけないだろ」
 即答だった。
 それまでどこか申し訳なさそうにしていた理央の表情が、そこだけ少し真剣になる。
「朝倉が隠してることなら、俺が勝手に人に言うことじゃないし」
 思っていたよりまともな答えが返ってきた。
 湊はほんの少し肩の力を抜いた。
「……じゃあ、何で俺に言ったの」
「確認したくて」
「確認してどうするつもりだった?」
「もし合ってたら」
 理央が口を閉じた。
 また緊張している。
 今度こそ本当に告白前みたいな顔をしているので、湊はかえって落ち着いてきた。どうせ聞かれることなど、なぜ男なのに女性主人公の恋愛小説を書いているのかとか、モデルはいるのかとか、その程度だろう。
 理央はスマートフォンを胸元へ引き寄せた。
「ずっと好きでした」
「……俺を?」
「小説を」
「だよな」
 分かっていたのに、条件反射で聞いてしまった。
 理央が一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「ごめん」
「何で謝るんだよ」
「いや、言い方が告白みたいだった」
「自覚あったのかよ」
「言ってから気づいた」
 笑っている理央を見ながら、湊はため息をついた。
 さっきまでの緊張は何だったのだろう。
「そんなに?」
「え?」
「俺の小説。そんな緊張して作者確認するほど好きなの」
 聞くと、理央は笑うのをやめた。
 少し間を置き、静かに頷く。
「好き」
 その言い方が予想以上にまっすぐで、湊のほうが目を逸らしたくなった。
 感想は普段からもらっている。
『今回もよかったです』とか、『二人が幸せになって嬉しい』とか、『更新楽しみにしています』とか。嬉しくないわけではない。むしろ、誰かが自分の作った話を読んで何かを感じてくれたことが嬉しいから、一年半以上も書き続けている。
 けれど、感想欄の文字と、目の前にいる人間の口から直接言われる「好き」はまるで違った。
「最初に読んだの、中三の時」
「そんな前から?」
「うん。『冬の窓辺』」
「……古いやつじゃん」
「一番好き」
 よりによって処女作に近い作品だった。
 今読み返すと文章も構成も粗く、恥ずかしくなって途中で閉じたくなる。何度か非公開にしようかと思ったものの、昔の作品も好きだと言ってくれる読者がいるので残していた。
 その読者が目の前にいた。
「最後、紗季が駅まで走るところが好き。雪降ってるのに傘も持たないで走って、ホームに着いたら直人がまだいて」
「待って」
「うん?」
「やめて」
「なんで?」
「恥ずかしい」
「俺、そこ本当に好きなんだけど」
「作者の前で細かく語らないでくれ」
 自分で公開しておきながら勝手な話だとは思う。
 それでも、画面の向こうにいる読者なら平気なのに、同じ制服を着た男子高校生から自作の一場面を暗唱されるのは耐えがたい。
 しかも相手は瀬名理央である。
 教室へ戻れば女子に囲まれ、廊下を歩けば誰かに声をかけられ、学年集会で壇上へ上がればあとで写真を撮った女子がいるだの何だのと噂になる男が、自分の一年以上前の恋愛小説を熱心に語っている。
 現実感がなかった。
「じゃあ、何なら話していい?」
「普通、作者だと分かっても知らないふりするもんじゃないの」
「それも考えた」
「じゃあそうしてほしかった」
「でも無理だった」
「なんで」
「本人いるのに?」
「いるけど」
「一年半くらいずっと読んでる人が、同じ学校にいるんだよ」
「だから?」
「話したいだろ」
 当然のように言われた。
 湊にはその感覚がよく分からない。
 好きな作家が同じ学校にいるとして、会いたいかと聞かれれば多少は興味があるだろう。けれど正体を隠していると分かってまで話しかけに行くかと言われると、たぶん行かない。
 理央は行く人間らしい。
「迷惑だった?」
 黙っていると、不意にそう聞かれた。
 先ほどまで楽しそうだった表情が少し曇っている。
 さすがに迷惑だと言えば傷つくのだろう。そう分かるくらい分かりやすい顔だった。
「……別に」
「本当?」
「正体ばらされないなら」
「絶対言わない」
「あと学校で作品名出すの禁止」
「分かった」
「教室にも来るなよ」
「分かった」
「廊下で作者名呼ぶのもなし」
「それは俺も無しだと思う」
「ならいい」
 理央の顔がまた明るくなる。
 感情が顔に出る人間なのだと初めて知った。
 普段遠くから見ている時にはいつも穏やかに笑っていて、困っているところも怒っているところも見たことがなかったので、もっと何を考えているのか分からない人間なのかと思っていた。
「じゃあ、小説の話してもいい?」
「今?」
「駄目?」
「昼休み終わるけど」
「あ」
 理央が廊下の時計を見る。
 あと十五分ほどあったはずの昼休みが、いつの間にか五分を切っていた。
「ごめん。昼飯食わせてない」
「今さらだな」
「本当にごめん」
「教室戻りながら食うからいいよ」
「行儀悪くない?」
「誰のせいだよ」
「俺です」
 理央は素直に頭を下げた。
 その様子がおかしくて、湊は少し笑った。