その日言われた言葉をわたしは一生忘れない。
ずっと待っていた電話は、夜の12時を過ぎてからかかってきた。
「起きてた?」
「起きてたよ」
もうずっと……あんまり眠れてないから。
「ごめん、連絡が遅くなって」
あのね、遼からの電話を待つ間、わたしは学校へ行って、友達とバカな話をして、ちっとも笑えないのに笑って、家に帰って食べたくもないご飯を食べて……
何もないふりをし続けてたんだよ。
お腹の中の命は育ってるのに。
何も変わってないふりを続けてたんだよ。
「大事な話って、何?」
「あのね……」
本当は、電話なんかじゃなくて会って話したかった。
「あのね……」
ひとりでいたくない。
ひとりは嫌。
「……薬局行って、検査薬買って、そしたら……亅
「検査薬?」
「……陽性……だった亅
遼、怖いよ。
話せる人も、頼れる人も、わたしには遼しかいない。
「……どうしよう?亅
遼からの返事がないまま、長い時間が過ぎていく。
本当は数秒だったのかもしれない。
でも、すごくすごく、長い時間に感じた。
「病院へは行った? 病院でもう一度検査したら、間違ってたってこともありえるんじゃない?」
涙が、頬を伝うのがわかった。
欲しかったのは、そんな言葉じゃない……
「市販の検査薬でも……精度は99%だって」
「……菜々子、ごめん」
「……ごめんって?」
「ごめん」
「『ごめん』だけじゃわかんない」
「今は……無理」
「無理って何が?」
「ごめん」
「わかんない。ちゃんと言って」
「……堕して」
ぎゅっと身体中が押しつぶされるような恐怖。
ぞわぁっと広がっていく暗闇。
「……責任とるって……前に……言ってくれたよね? あれは……嘘だったの?」
「……あの時とは、状況が違う」
「何……その言い方……?」
「少しでも早い方が体の負担が少ないよね? 費用は全部払うから――」
「何……それ?」
この人は誰?
わたしの知ってる遼はこんなこと言わない。
わたしは誰と話してるの?
「同意書がいるよね? もらったら教えて。なるべく早く書くから」
「わかった。じゃあね」
それしか返事できなかった。
わたしは彼の何を見て、どこを好きだったんだろう?
わたしが「嫌だ」と拒否すれば、遼は聞いてくれた。
わたしの嫌がることは決してしない。
だから、自分に責任があるのもわかってる。
泣いても泣いても、涙がとまらない。
今更何を思ったって、自分の身に起きていることは、もう、なかったことにはできない。
相談できる人はいない。
こんなこと、友達にも親にも言えない。
頼れる人もいない。
ひとりで全部、やらないと……
泣いてても、誰も助けてなんかくれない。
そばにいて欲しい人は、ひどい言葉を投げかけただけだった。
行ったこともない、遠い街の産婦人科を探して受診した。
ほんの少しの希望は無惨に打ち砕かれ、病院で行った検査でも陽性を告げられ、選択を迫られる。
「中絶します」
医師にそう伝えた。
産めるわけがない。
相手は堕ろすことを望んでる。
この妊娠は望まれていない。
わたしのその言葉に、年配の医師はため息をついた。
「できました、いりませんって、命はそんなに簡単なものじゃないんだよ」
わかってる。
そんなのわかってる。
全身を抉るような言葉は、わたしが受けるべき当然の痛みで、もう、何も知らなかった頃に戻ることはできない。
「18歳以上は保護者の署名がいらなくなったけど、中絶同意書には、相手の署名が必要だから」
そう言えば、18歳は成人になったんだった。
わたしはついこの間18歳になった。
笑える。
おかげで親には言わなくて済むけど、こんな18歳になりたかったわけじゃない。
笑えるよね? バカみたい。バカみたい。バカみたい。バカみたい――
自分を嘲笑う声が頭の中をぐるぐると駆け回って行くうちに、目の前が暗く反転して、からだが自分のものじゃないみたいにグラグラと揺れた。
あの時のわたしは、自分のことばかりだった。
目を開けると、見たことのない天井があった。
自分の部屋とは違う。同じ白でもパネルになった天井。
横を向くとすぐそばに看護師さんがいて、体にかけられた白いシーツで、自分がベッドに横たわっていることを知った。
ゆっくりと起き上がると、その気配に看護師さんがこちらを向いた。
「気がついた? 軽い貧血。ちゃんとご飯食べて、夜眠ってる?」
「……すみません」
全てを知った上で、初めてかけてもらった優しい言葉に、目の前が霞んできた。
「簡単に考えてたわけじゃないんだよね?」
その言葉に我慢していた涙がこぼれた。
「産んでいいって……言われると思ってた……」
産む選択も、産まない選択も、どちらも怖かった。
でも、「中絶」という2文字は、一番遠いところにあるはずだった。
でも、泣いても泣いても、2つしかない選択肢のどちらかを選ばなければいけない。
「できても堕ろせばいいって、安易に考える人もいるから先生もきつくなるの。体にも心にも負担をかけることなんだから」
わたしが泣き止むまで果てしないくらいの時間だったのに、看護師さんはずっと背中をさすってくれていた。
<中絶同意書をここからダウンロードして 書いたら下の住所の郵便局留めにして送ってください>
事務的なメッセージにはしばらくして既読がついたけれど返信はなかった。
いつもすぐに返信をくれてたのに、こういうのは返信すらないんだ……
わたしが毎日のように泣いていることも、彼にとってはどうでもいいことなんだ。
<良かったね 18歳は成人の扱いになってて>
腹立ちまぎれに年齢を伝えた。
こんなふうな形で告げることになるなんて思ってもいなかった。
<わたしは18歳 高校3年生です 出会った頃は17歳でした>
何か、言ってくるかと思ったのに、既読がついただけで返信はなかった。
中絶同意書は速達で送られてきた。
それを郵便局で受け取って、自分の記入欄に記載を済ませると、封筒に入れてカバンの底板の下にセロテープで貼って隠した。
こんなもの家に置いておけないし、学校で万が一誰かに見られるわけにもいかない。
真っ暗な部屋の中で、スマホが振動する。
もうずっと浅い眠りでしかないから、そんな音ですら目が覚める。
枕元の時計を見たら、夜中の2時を過ぎた頃だった。
電話は遼からだった。
どうしてこんな時間に?
「はい」
「菜々子? 起きてた?」
平日の2時過ぎに電話をかけてきて「起きてた?」て……普通は寝てると思うよ?
「何?」
「手術いつ?」
「……来週の金曜日」
「行くから」
「本当?」
「そばにいる。そのくらいしかできないから」
「うん……」
「もうずっとこっちにいられるの?」
「……当分……帰れないんだ。だからその日だけ」
「そう……」
あんなに腹が立っていたはずなのに、声が聞けて嬉しかった。
そばにいてくれるんだと思ったらほっとした。
「18……って、本当?」
「黙っててごめんなさい」
「18だったんだ……」
「うん」
「そっか」
「怒ってない?」
「どうして?」
「ずっと隠してたから」
「怒ってなんかないよ……」
「こんな時間にどうしたのかと思った」
「こんな時間?」
「2時過ぎだから」
「あ……ごめん。もう寝て」
「ううん、まだ――」
「おやすみ」
唐突に電話は切れてしまったけれど、久しぶりに遼の声が聞けて安心した。
以前と変わらない優しい声だった。
ちゃんと会って話がしたいよ。
夢も見ないで朝まで眠れたのはいつぶりだっただろう?
行きたくないけれど学校に行く。
何も変わっていないフリをする。
金曜日が来るのが怖い。
もう今までの自分とは違ってしまう。
クラスメートの誰も、わたしと同じ思いをしている人はいない。
心春が彼氏とデートした時の話を聞かせてくれた。
こんなに羨ましいと思ったことは今までなかった。
わたしだけがみんなと違ってる。
お昼休憩にスマホが鳴ったので、見ると遼からだった。
「ごめん、金曜日、どうしても行けなくなった」
「ど……して……?」
「仕事で……頼んでみたんだけど、オレが抜けるのは絶対にダメだって言われて。ごめん……」
どうにか来ようとはしてくれたんだよね?
そんな言葉に、まだわたしはすがって……
「わかった。いいよ」
「また連絡する」
「ん……」
自分の身は自分で守るしかない。誰も助けてなんかくれない。
どんなに泣いても過去は変えられない。
何度同じ言葉を呪文のようにつぶやいたかわからない。
夜、自分の部屋で、布団にくるまって泣いた。
朝が来れば、また普通に学校へ行き、友達とふざけあって、お弁当を食べる。
怖い。
何度も遼へメッセージを送ったけれど、既読すらつかなくなって、当然返信もない。
怖いよ。
遼と話したかった。
せめて優しい言葉が欲しかった。
勇気を出して電話をしたら、いつまでもコールされるばかりで、そのうちあきらめた。
嘘つき。
連絡するって言ったくせに。
ひとりで病院へ行った。
前みたいに私服を持ってでて、一度学校へ行ってから早退し、駅で着替えた。
眠っている間に全てが終わるんだと思ってた。
CMをスキップで飛ばすみたいに、起きたら終わってる、そんなふうに考えてた。
でも、麻酔は全身ではなくて、局所麻酔だと説明された。
意識を保ったまま手術すると言うことは、自分の中の命を、わたし自身が奪うという罪を心に刻みつけるということ。
目が覚めたら、何事もなかったかのように、全部が終わってるわけじゃない。
当然の報い。
手術の前に見せてもらったエコー写真に映っていたのは、小さな丸い点でしかなかったけれど、それは確かに一つの命で、わたしがこれから行うのは、中絶という名の「人殺し」――
その命は、半分はわたしで、半分は遼からできている。
遼はその半分をいらないと言う。
じゃあ、わたしは?
ずっと「怖い」とばかり思ってきたけれど……
わたしは本当にこれでいいの?
今はまだ小さな丸い点だけど、確かにわたしの中で生きているのに……
「行こうか」
看護師さんに言われて、病院の廊下を歩いた。
これはわたしの、無知という名の罪……



