当時は、まだ高校生だった。
高校3年生。
周りの子は受験を意識し始めていたけれど、特にやりたいこともなく、大学は「受かるところでいい」ぐらいにしか考えていなかった。
だから同じように考えている子達と、「受験生」という肩書きなんか関係なしに、のんびりとしていた。
知り合ったのは偶然。
友達と行ったカラオケボックスで、トイレに立って戻った時、間違えて別の部屋のドアを開けかけた。
「部屋、間違えてるよ」
その声に振り向くと、スーツを着た、明らかに年上の男が立っていた。
「すみません」
部屋の場所、覚えてるつもりだったのに間違えるなんて恥ずかしい。
急いでその場を離れ、部屋の番号を教えてもらうためにスマホから友達にメッセージを送った。
しばらく待ったけれど返信がなくて、今度は電話をかけた。
それでも気づいてもらえず、呼び出し音だけが鳴り続ける。
どうしようかと思っていたら、後ろから声をかけられた。
「もしかして、部屋わかんなくなった?」
振り向くとさっきの男が立っていた。
「友達、電話に出てくれないんだ?」
話すつもりなんてなかったから、ずっと無視し続けた。
でも、わたしが行きたい方に立っていて、どいてくれそうにない。
「このままどっか行かない?」
「遠慮します」
横を取り過ぎようとしたら、慌てたように引きとめられた。
「ごめん、ちょっとかっこつけすぎた! 待って!」
どうしてあの時、立ち止まったりしたんだろう?
バカな好奇心。
一緒に遊んでる子達には彼氏がいて、わたしにだけいなかった。
今まで誰かと付き合ったこともなかった。
あんなふうに声をかけられたのも初めてで、少しだけ浮かれてたのかもしれない。
わたしに声をかけてきた男は、言葉の軽さとは裏腹に、「女なら誰でもいい」って感じの軽そうな人には見えなくて、ごく普通の人に見えた。
「会社のやつと来てるんだけど、すっごい飲まされるから理由見つけて帰りたかったんだ。のっかってくれると嬉しいんだけど?」
「のっかるって?」
「ちょっとだけ付き合って。お願い!」
「はい?」
了承もしていないのに、その人はわたしの肩を抱くと、さっき間違えて開けかけた部屋の前まで連れ行き、そのままドアを開けた。
途端に大きな音が廊下に溢れ出す。
入り口の一番近くに座っていた男性が、その人がドアを開けたまま入ろうとしないことに気が付いて近づいて来た。
「ドア、開けたままは良くないだろ?」
「悪いけど、オレ帰る」
「何で?」
「彼女に偶然会った」
「彼女いたとか……初めて聞くけど?」
「こいつ、同僚の常広」
男性がわたしの方をじっと見る。
あいさつしろってこと?
彼女のフリとかそんなの聞いてないのに。
「こ、こんにちは」
「社会人じゃないよね?」
「女子大生だよ。いいだろ?」
「マジか」
「そういうことだから、後、ヨロシク」
「まぁ、いいや。じゃあな」
ドアを閉めると、廊下はまたドアから漏れる小さな音楽だけになった。
「あの――」
「助かった。お礼に何か奢るよ」
「いいです。何も奢らなくっていいです」
「お腹空いてる? イタリアン、フレンチ、和食……何でも好きな物言って」
人の話聞いてない。
「遠慮します。もう帰ります」
「……ごめん。強引だった。どこだったらいい?」
そんなに悲しそうな表情されても……
「……すぐそこのファーストフードなら」
『わたしは大学生ではなくて、高校生です』
どうしてあの時、すぐにそう言わなかったんだろう?
すぐに言ってたら何か違っていたかもしれないのに。
カラオケボックスから1番近いファーストフードのお店に入り、狭い2人席に向かい合って座った。
「小島遼です」
座るとすぐに名前を名乗られ、そのまま期待するような目で見続けられる。
「森川……菜々子……です」
名前を告げると、さっきまでこちらを伺うようだった表情が、嬉しそうな笑顔になった。
「菜々子ちゃん、何でも奢るって言ったのに、ホントにファーストフードで良かった?」
「はい」
「謙虚なんだ」
「謙虚」と言われても、普段ファミレスやファーストフードのお店くらいしか行かないから、高いお店を知らないだけ。
それに、あまり帰りが遅くなるわけにもいかないから、ここはサクッとファーストフードで終わらせたかった。
ナンパされて、カラオケボックスからちょっと強引に連れ出され、最初はドキドキしたものの、冷静になると自分のやってることが怖くなった。
無視して帰れば良かった。
捕まえられて逃げられない、というわけでもなかったのに。
ちょっと目を離した隙に、飲み物に変な薬入れられたらどうしよう? なんて考えたら、手に持ったジンジャエールのカップをテーブルに置くことすらできないでいる。
それに、初めて会った男と向かい合ってポテトを食べるとか、わたしの人生には今までなかったこと。
名前を聞かれて、咄嗟に本名を言ってしまったけれど、偽名を使えば良かった。
全部「今更」な後悔ばかり。
ずっと緊張していたから、急にポケットに入れていたスマホからメッセージを受信する着信音が鳴って、ビクリとした。
「見たら?」
本名かどうかわからないけれど、「小島遼」と名乗った男は、そう言うと自分のコーヒーに口をつけた。
メッセージは一緒にカラオケに行っていた心春だった。
わたしの帰りが遅くて、スマホを見て着信があったことを初めて知ったと書かれていた。
カラオケボックスを出て随分時間は経っていたのに、今頃気が付いたらしく、続けて「ごめんね」のスタンプが送られてきた。
<ごめん 気分が悪くなって帰ることにした いくらか教えて 送金する>
返事は「OK」のスタンプ。
「大丈夫そう?」
「はい」
「この後どうする?」
この後?
この後なんて、なくていい。あって欲しくもない。
「帰ります」
「そう……じゃあ、連絡先交換しようよ?」
「遠慮します」
「エンリョ?」
「はい」
席を立とうとして、「待って!」と、慌てたような声を出され、周りの人の注目を浴びる羽目になった。
「頼むから行かないで」
拝むような仕草をされ、弱気な声を出される。
すぐ近くに座っていた女性に「座ってあげなよ」というような視線を投げかけられた気がして、いたたまれずまた座った。
女性はわたしがイスに座るのを見届けると、軽く息を吐き、自分のテーブルの方に向き直った。
「実はナンパとか初めてで……」
そういうセリフも実は「手」なんじゃないかとか思ってしまう。
「また、会いたい」
どうして?
「どうして?」
初めて会ったばかりで、どうしてそんなふうに思えるの?
「……カラオケボックスの廊下で初めて見た時……と……思った」
「よく聞こえなかったんですけど?」
「あーっと……」
さっきまでわたしの顔を見て話していたのに、急に目を逸らされた。
耳……赤い……?
「えっと……二度と会えないのは嫌だと思った」
そんなこと、今までの人生で一度も言われたことがない。
同級生の男子とは全然違う。
改めてよく見ると、ちょっとかっこいい?
そんな人が自分に興味を持ってくれてることに浮かれてしまった。
「お願いしますっ」
今度は頭を下げられた。
スーツ姿も、ネクタイを緩めるしぐさも、さっきまで大人に見えたのに、下げた頭をゆっくりと上げた時の、照れくさそうな上目遣いの顔がかわいく見えた。
それでも連絡先を教えることに躊躇していると、
「そうだ、これ」
そう言ってテーブルの上に名刺を置かれ、その隣に免許証と社員証を並べられた。
「社員証と免許証は無理だけど、名刺はあげられる。これで身元が証明できると思うんだけど?」
並べられた名刺と免許証と社員証は3つとも同じ名前で、免許証と社員証の写真は、目の前に座っている人と同一人物で間違いなかった。
「いつもこんな感じなんですか?」
「いつも? 女の子に声をかけるのは初めてだけど?」
わたしの質問に不思議そうな顔をされたので、それを見て自然と笑みが溢れた。ちょっとカマをかけてみたのだけれど、本当にナンパは初めてみたいだった。
「テレビで見たやつ真似したんだけど……失敗だった、よね?」
「失敗ですね」
「もうやめます。素でいきます。連絡先教えてください」
「メッセージIDでいいですか?」
「電話番号も! 両方交換して!」
なんでそんなに必死になるの?
教えないという選択肢も、そのまま席を立つという選択肢もあった。
いくつもある分岐点で、進む道を選んだのは自分自身。
駅で別れた後、自分は「高校生」だと訂正していなかったことに気が付いた。
でも、本当に連絡してくるかどうかなんてわからない。
お酒を飲んでるみたいだったし、酔いが覚めて冷静になったら鼻で笑われておしまいかもしれない。
だから、まぁいいか、くらいに軽く捉えることにした。
電車に乗ると空いている席を探して座り、自分の服装を改めて見なおした。
高校の制服を着ていないわたしは女子大生に見えるんだろうか?
年齢を言うと驚かれたことは2回や3回じゃないから、全くの他人から見れば実年齢より上に見えるのかもしれない。
降りる駅まではまだ時間がある。
カバンからスマホを取り出そうとしたところでメッセージを受信する音がした。
ドキドキしながら画面を見ると、心春からだった。
<一人750円になったよ>
すぐにお金を送金して、アプリを開かないまま「送ったよ」と返信した。
それと同時に、またメッセージを受信した。
まだ何かあるのかな?
画面に表示されていたのは見たことのないアイコンだったけれど、IDはさっき交換したばかりのもの。
メッセージが表示されていないってことはスタンプだ。
メッセージアプリを開くと、目を潤ませたうさぎの絵に「また会いたいです」と書かれていた。
社会人の人でもこんなの使うんだ。
うっかり既読をつけてしまったから、返事をしないとスルーしたと思われてしまう。
それは、ちょとだけ嫌。
でも、なんて返そう?
悩んでいたら、続けてメッセージが届いた。
<いつが暇?>
「聞かれたことに答えにくい時は、聞かれたことをそのまま聞き返せばいい」って、誰かが言っていたのを思い出して、もらったメッセージと同じ言葉を返信した。
<いつが暇ですか?>
<休みは土曜と日曜>
え?
返信早いんですけど?
<同じです>
<土曜に映画はどう?>
また返信が早い。
どうしよう……
映画って、デートみたい。
<嫌だったら断って もう連絡しないから>
どうしよう……
「もう連絡しない」という言葉を寂しいと思う自分がいる。
続けて、さっきと同じうさぎの絵に「チャンスをください」と書かれたスタンプが送られてきて、それをかわいいなんて思ってしまった。
もう一度会うくらい、いいよね?
お酒を飲んでいない時に会ったら、向こうも「あれ? こんな子だった?」とか思って、そこで終わるかもしれないし。
教えたのは名前と電話番号とメッセージIDだけだから、もう一度会って、嫌だと思ったらすぐに着拒して、メッセージもブロックしてしまえばいい。
会っても自分のことを話さなければいい。
<何を観ますか?>
<苦手なのは?>
好きなものを聞かれたら考えてしまうけれど、好きじゃないものならすぐに言える。
<悲しいやつ>
<だったらそれ以外で 洋画と邦画なら?>
<洋画>
<ホラーとアクションとSFなら?>
<ホラー以外で>
さっきまで早かった返信が止まってしまった。
しばらくスマホを握りしめたまま画面をじっと見ていたけれど、いつまで待っても返信はなかった。
ホラーが好きだったのかもしれない。だから、趣味が合わないと思ってやめちゃったのかも。
あっけない終わりだった。
やっぱり、軽い人だったんだ。
だからこれで良かったんだ……
「何でもいい」って言えば良かった……
降りる駅が近づいて、ずっと手に持っていたスマホをカバンに入れた時、スマホが振動した。
気のせいじゃない。
カバンからスマホを出す間にも次々とメッセージを受信している。
スマホの画面に表示されているのは小島さんのアイコン。
またスタンプ?
アプリを開くと、「見て!」というスタンプと、「どれがいい? 選んでみた」というメッセージの下に、映画のタイトルと簡単なあらすじの書かれた画像が5つほど表示された。
その画像は、どこかからコピーしてきたものではなく、自分で作ったもののようだった。
これを作ってたから返信がなかったの?
5つの画像を順番に見ると、聞いたことがあるものと、知らないものがあった。そして、1つだけ「おすすめ!」と書かれて、丸印がついていた。
<おすすめのがいいです>
<土曜日13時にTOYOシネマズAの前でどうですか?>
また返信が早い。
<大丈夫です>
<来てくれるまでずっと待ってます>
<ずっとってどのくらい?>
間があった。
考えてる?
<ずっとは言い過ぎました 仕事は休めないので 次の日の朝8時位までしか無理です>
次の日の朝8時まで?
冗談で言ってるのはわかったけれど、ちょっと意地悪したくなった。
<7時半までには着くようにしますね>
<30分でも会えるならいいよ>
またうさぎのスタンプ。
今度は「嬉しい」と書かれている。
<嘘ですよ>
<からかわないで 泣くよ?>
「泣くよ」なんて、そんな脅し聞いたことないよ?
こういうの、きっと慣れてるんだ。
それでも、スマホを見ながら笑ってる自分がいた。
メッセージのやり取りは家に着くまで続いた。
いつだって引き返せた。
でも選んだのは自分自身。
高校生のわたしは、あまりにもいろんなことに無知で、愚かで――
だから消えない罪を負うことになった。



