愛という名の



「どうしたの?」


さっき「抱っこ」と言ったばかりの子供が、今度は「降りたい」と駄々をこねる。
仕方がなく地面にそっと足をつけてやると、いきなり走り出した。


「だめ――」


追いかけると、少し後ろにいた男性の足にしがみついていた。
男性は自分の足にいきなり巻き付いてきた子供の手をどうしたものか悩んでいるようで、下を向いて子供の後頭部を眺めていた。


「すみませんっ」


謝りながら駆け寄ると、男性がゆっくりと顔を上げ、わたしを見て驚いた表情をした。


「……結婚、したんだね」


戸惑ったような、それでいて悲しんでいるような笑みを向けられた。

お互い何年も顔を見ていなかったのに、向こうがわたしをすぐわかったように、わたしにも一目で分かった。

目の前にいるのは、間違いなく、遼……


「おともだち?」


子供が遼に向かって言った。


「……どうかな」

「おむかえ?」

「ん?」

「ママのひ」

「ママの日って?」

「わかんない」

「そっか」

「だっこぉ!」


遼に伺うような視線を向けられ、頷いた。
遼が子供を抱っこするのを見ながら話しかけた。


「元気だった?」

「うん……」


自分で聞いておきながら苦笑してしまう。
だってちっとも元気そうには見えない。
以前より痩せてるし、疲れて見える。
まだまだ若いはずなのに、髪の毛にたくさん白いものが混じってる。


「雲が黒くなってきたし、雨が降りそうだね」

「うん」

「ちゃんとご飯食べてるの?」

「どうだろ……あんまり、空腹を感じないから。髪の毛、切ったんだ。あんなに長かったのに」

「時間がね、惜しくて。髪の毛を洗う時間も、乾かす時間も、わたしにかかる時間は全て」


わたしのその答えに、遼は困った表情を見せる。
そうだよね。わかんないよね。


話さないといけないことがある。
それなのに、全然違うことばかりが言葉になる。

何を、どこから話せばいいのかわからない。


「借金返せた?」


わたしの急な問いかけに、遼が驚いた顔をした。
「どうして……?」

「聞いたの。常広さんから。聞いたっていうより、向こうはわたしが知ってるものだと思って話してたみたいだったけど」

「いつ?」

「いつだったかな……忘れちゃった」



大学で、遼の元同僚だった常広さんに偶然会った日、わたしは真実を知った。
遼が、どんな状況に置かれていたのか。

常広さんから遼の借金のことを聞いた時わたしは22歳で、どうして遼があの時何も言わずにわたしの前からいなくなったかを理解できる、十分な歳になっていた。
もし、18歳の時、遼の借金のことを知っても、その重い意味もわからずに、彼にすがったに違いない。
遼と一緒になるということは、わたしにも、生まれてくる子供にも、その借金がのしかかるという現実を、わたしはきっとわからなかった。

社会に出て働くと言うことも、ひとつの命を育てると言うことも、どんなに大変なことなのか、頭でしかわかっていなかったみたいに。

だから、遼はひどい方法でわたしを捨てたんだよね。
わたしが、遼に微塵も未練を残さないように。

でもね、常広さんから話を聞いた日、いつか遼に会って、その口から真実を聞くまでは、遼がわたしに言った言葉は本心じゃないって、そう思うことに決めたんだよ。

必ずもう一度会えると信じて。



「借金は……まだ残ってるけど、来年の3月には返し終える……どうしてた? ……って、オレが聞ける立場じゃないんだけど……」

「高校を卒業した後、1年遅れて大学に進学したから、この4月に社会人になったばかり」

「1年遅れ?」

「女の子だからかな? その子、パパに似てる」


遼は子供の顔が自分に向くように抱きなおした。


「寝ちゃったみたいだ」

「子供って、眠ると急に重くなるんだよね。遼は……誰か、いい(ひと)できた?」

「そんなのいない。寝てる時以外は仕事しかしてなかったし。そっちは……今、幸せ? 相手はいいやつ? オレみたいなんじゃなくて、大切にしてもらってる?」

「……あの日ね、一人で病院に行くのが怖かった」


遼の顔が曇る。


「許してもらえるなんて思ってない」

「ねぇ、もし、借金のことがなかったら、何て言ってた?」

「……それを言う資格はないから」

「教えて」

「言えない」

「言って。ほんの少しでもわたしのことを気にかけてくれてたなら教えて。わたしが前に進むために」

「……もし……あの時、借金のことがなかったら……」

「なかったら?」
遼は言葉を発する前に、自分の腕の中にいる子供が眠っていることを確認した。


「迷わず言ってたよ。『結婚しよう』って。菜々子とオレの子供なんだ。大切に決まってる。すぐにでも菜々子の両親に、お父さんには殴られる覚悟で結婚を認めて欲しいと言いに行った」


遼は子供が眠っていることを再び確認してから、わたしに言った。


「菜々子、全てオレのせいだから。菜々子は何も悪くない。菜々子が体に負った傷を代わることはできないけれど、それ以外の罪は全てオレのせいで、オレだけが罰を受けるものだから」

「さっきの質問の答えはNO。結婚はしてない。その子、小柄だけどもうすぐ5歳になるの。今は4歳」

「4歳……?」

「心配しなくていいよ」

「4……」

「何も求めたりしない」

「もうすぐ……5歳……」


わたしが頷くと、遼は自分の腕の中にいる子供の顔をじっと見つめた。


「勝手に産んでおいて、いきなり『あなたの子供です』なんて何かを求めたりしないから安心して。わたし、この子が将来困らないように、ちゃんとした仕事に就いてるし、安定した収入もあるんだから」

「違う……そうじゃない」

「……病院には行ったんだけど、どうしても……できなかったの。ひとりで育てるなんて言っておきながら、両親に迷惑ばかりかけてしまった」

「どうして……」

「……命だから。この子を産んだことは間違ってなかったと思ってる。でも、一度は……無かったことにしようとしたから、その罪はずっと背負うつもりでいる。わたしがこの子の……命を奪おうとした罪は、一生消えない」

「オレは……ずっと何の連絡もしないでいた……それなのに……」

「でも、着拒もブロックもされてなかった」

「それは……」

「どうして今日ここに来たの?」

「それは……たまたま休みで……」

「そんなことが聞きたいんじゃない。答えて」

「……多額の借金を背負ったオレのことなんか忘れた方がいいと思って冷たくした。声が聞きたかったけど電話に出ないようにした。でも、着信があるのを見るのだけで嬉しかった……何度もメッセージを書いては消した」

「ここで会おうってメッセージをくれたよ」

「……毎日すごく疲れてて、いつもだったら書いたものをすぐに消すのに、送ってしまった。既読がつかなかったから……もう……他の誰かと幸せになってるんだと思ってた」

「その方が良かった?」

「菜々子が幸せでいることを望んでいるくせに、菜々子に会いたかった。ずっと、その夢だけを見てた。働いても働いても借金が減らなくて、何度も無理だと思った。でもその度に、全部終わったら菜々子に会えるからって、自分に言い聞かせてきたんだ」

カバンの内ポケットのファスナーを開け、初めてドライブに行った時に買った、縁結びのお守りを出した。

手が届きそうなくらいの距離まで遼に近づいて、手のひらのそれを見せた。


「オレの……左のポケットに……」


遼はしっかりと子供を抱いているから手が離せない。

慣れてたら、片方の腕だけで抱くことができるのだけれど、おそらく小さな子供を初めて抱っこする遼は、落とすまいとしっかりと、両方の腕で子供を支えている。

ジャケットの、左のポケットに手を入れると、手にふれるものがあった。
それを指先で掴んで出した。


「ずっと持ち歩いてたの?」


わたしの手の中にある遼のそれは、少し汚れてしまっていた縁結びのお守り。


「大切なものは全部失って、もうそれだけしかなかったから」

「わたしはずっと捨てられたんだと思ってた。でも、常広さんから当時の話を聞いて、違うってわかった。遼にメッセージをもらってからは……ここにいたら、いつか遼に会えるかもしれないと思って……今日会えなかったら、来年も、再来年も、その先も……ずっと待ってるつもりだった」

「……ずっと会いたかった。会って話がしたかった。ここに来れば……会えるかもしれないって……思ったんだ」

「会えたね」