大学3年生まであっという間だった。
わたしの配属希望先は元々ECUだったけれど、実際に実習を経験し、それは堅固なものとなった。
命は、救わなければいけない。
鉗子セットが入っている包装パックを汚染させないように開封し、清潔区域に置いた。
その時はちょっとしたコツがあって、気を付けないと清潔区域外に落としてしまうことがある。
落とした物は「汚染されている」とみなされ、もう使うことが出来ない。
医師から指示された器具を扱うために、素手から滅菌手袋へ、また素手になって、滅菌手袋へ。
それらを何度も繰り返す間、医師がずっと見ていた。
患者さんにふれるものに、汚染されたものを触ってしまった手でふれることは許されない。
だから、医師がわたしを見ているのは、患者さんのため。
「針とってくれる?」
「はい」
針の入った包装パックを開け、清潔区域に置いたら急いで滅菌手袋をはめ、先ほどの針を手に持って渡す。
「早いじゃん」
医師は軽口をたたいていたけれど、顔は真剣で、手元に迷いはなく、あっという間に患部を縫い終えた。
「傷口見るの怖い?」
「いいえ」
「じゃあ、ここ広げて持っておいて」
言われた通り、手で傷口を広げるようにして持つ。
その間、医師は自分の処置を進める。
全てが終わった後、再び声をかけられた。
「学生さん、名前は?」
「森川菜々子です」
「志望はどこ?」
「ECUです」
「わかった。名前覚えておくから、来年、採用試験に合格しなさい」
「はい」
東奈大学病院のECUには「教授に名前を聞かれたら配属が決まったようなもの」という噂があった。あくまで噂だけれど。
その前に採用試験があるし、そこで採用通知をもらっても、まだ看護師国家試験がある。喜んではいられないけれど、それでもやっぱり、例えそれが蜘蛛の糸くらいの望みでも、掴んでいたい。
「国立に行け」と言った父の真意をようやく理解した。
ECUは、他の科と比べて3年目から給料がぐんっと上がる。
そして大学病院のECUに行くには、その国立大学を出ていることが絶対的に有利だった。
それに大学卒は、専門学校卒と比べて給与がいい。
父の言葉は、どうしても安定が欲しかったわたしのためだった。
郊外に行った実習では、お昼休憩が10分もなくて、移動の途中におむずびを急いで食べたこともあった。
でも、大学病院での実習では、「学生」ということで休憩時間をちゃんともらえる。
今日は実習で同じグループの相模さんと時間が合ったので、一緒に休憩をとることが出来た。
実習中の昼休憩は、ついている看護師さんの裁量で決まるから、同じ時間にとれることはめずらしい。
学生は、看護師の人たちが使う休憩室を使えないので、病院に隣接する大学まで戻らないといけない。
急いで校舎まで戻り、空いている教室を見つけて、2人でお弁当を広げた。
「森川さんって、いつもお弁当持って来てるよね。自分で作ってるの?」
「みんなの分作るついでに」
「私なんてはお母さんに作ってもらってるから尊敬する」
「尊敬されたぁ。嬉しい」
同級生といっても、わたしは相模さんの1つ上になる。
年齢のことも含めて、入学当初はいろいろ気負っていたのだけれど、そんなこと誰も気にしなくて、妙に肩に力が入っていた自分が恥ずかしくなった。
「ねぇ、森川さん、実習の時、何かやらせてもらってなかった?」
「うん? 指示されて傷口を広げておくのと、先生が気管挿管した後、スタイレットを抜いたのと……」
「え? 待って、それやらせてもらえたの? 私なんて普通の手袋つけてるところでもたもたしちゃって、『もういい』って言われて、その後は壁になってたよ」
「たまたま看護師さんの手が離せなくて、近くにわたししかいなかったから」
「何か言われた?」
「『滅菌手袋つけるの早いね』」
「尊敬する」
「また尊敬された。ありがとう」
相模さんは笑いながら、水筒のお茶を飲むと、水筒をじっと見た。
「そう言えばさぁ、医者がガムシロをそのまま飲むシーンがあるドラマ見たことある?」
「あるよ。派遣の女医さんのやつだよね?」
「あれ、マジなんだよ! 手術見学した日、終わった後、医者が水筒に入れたガムシロ飲むのを見た」
「水筒?」
「ちまちま飲むんじゃなくて、ガーって一気飲みしたいから、手術の日は、わざわざ水筒に入れて持って来るんだって」
「勉強したら甘いもの欲しくなるみたいなやつなのかなぁ? でも、あれは食べたら食べただけ太るよね?」
「その医者、全然太ってないの。糖分はどこに消えてるんだろーねー」
話を聞きながら、わたしが箸でウィンナーを摘むのを見た相模さんが言った。
「森川さんのウィンナー、タコさんだ。ちゃんと黒ゴマの目までついてる。それも朝早くに起きてやったの?」
「そうだよー、褒めて」
「えらいね。がんばりましたね」
「それ、小児科で言うセリフでしょ?」
相模さんが笑ったので、つられてわたしも笑った。
時々、わたしがこうして笑ったりすることは、赦されるのだろうか?
その質問の答えは誰も教えてくれないから、わからないまま。
過去を思い出すたびに、全身に痛みを感じる。
この感情はきっと一生消えることはない。
それでも、わたしは大学3年生になったし、看護師になるための勉強をしている。
時間はどんな人にも平等で、誰もが同じ月日を重ねている。
ECUの実習期間を終えた後は、呼吸器外科での実習だった。
呼吸器外科は、ECUほどはバタバタした忙しさはなくて、入浴介助や患者さんがリハビリを兼ねて行っている、いわゆる「お散歩」に付き合うことが多かった。
スタッフステーションの中で、カルテを見せてもらって、お薬を調べていると、話しかけられた。
「ここの前はどこに行ってたの?」
「ECUです」
「忙しかったでしょ? あそこは一人で受け持つ患者さんの数が他よりだいぶ多いから。看護師の数より医者の数の方が多いくらいだもんね」
「いいえ。まだお役に立てることなんてないに等しいから」
「将来はどこを希望してるの?」
「ECUです」
「森川さんもフライトナース希望?」
「いえ、違います」
「最近はフライトナース目指してECU行きたがる子多いから。ずっとECUの人もいるけど。10年愛の永瀬さんには会った?」
「永瀬さんという方にはお会いしてませんけど、『10年愛』って何ですか?」
「ECUにすごく綺麗な看護師さんがいて、その女、結婚するまで1年に1回の電話だけで10年近くもお互い想い合ってたんだって」
「10年も……」
「まぁ、10年は言い過ぎかもね。正確にはいろいろ違うかもしれない。でもかなり長い間会ってなかったのは確かみたい」
「どうしてそんなプライベートなことご存知なんですか?」
「週刊誌に出たから」
「週刊誌に?」
「永瀬さんって、野球選手の永瀬陸の奥さんだから。結婚した時、ニュースになったの。『永瀬陸 10年愛を実らせて結婚』ってタイトルで。それであだ名がついちゃった」
「そうなんですね……」
そんなに長い間、会えない相手を信じていられるなんてすごい。
そこまで信じられる相手に出会えるなんて……わたしとは大違い。
実習を終えた後、ひとりで更衣室のある校舎へ向かった。
休憩も終わる時間も、ついている看護師さんの裁量によるため、今日はみんなより帰りが少し遅くなった。
エレベーターを使ってはいけないから、階段へ向かって廊下を歩いていると、前から来た男性にすれ違い際、声をかけられた。
「菜々子ちゃん?」
「森川さん」でも、「菜々子さん」でもなく、「菜々子ちゃん」と、親しみを込めて下の名前を呼ばれたのだから、知り合いに違いない。
でも、声に聞き覚えはなく、その顔にも見覚えはなかった。
返事に困って軽く会釈をした。
「あっ、ごめん。会ったのは一回だけだから、そっちは覚えてないよね。こっちはよく写真を見せてもらってたから。常広です。小島の同僚……元同僚の」
「小島……さんの……」
ずくんと鈍い痛みを胸に感じた。
決して忘れることのできない過去がよみがえる。
「お団子って言うんだっけ? 髪の毛結んでるから、ちょっと自信なかったんだけど、あってて良かった。人違いだったらイタイ人になるとこだった」
「どうしてここにいらっしゃるんですか?」
愚問。
ここは病院なんだから、病院関係者でない以上、患者かその関係者でしかないのに。
「仕事関係の人が入院しててお見舞いに来てたんだ。そっかぁ、看護師さんになったんだ。じゃあ、あの頃は看護学生だったんだ」
実習生のユニフォームと看護師のユニフォームは色が違う。
でも、常広さんはそれを知らないらしく、わたしのことを看護師だと思っているようだった。
普段なら訂正するところだけれど、そうすると当時わたしが高校生だったことまで話さなくてはいけなくなる。
長話は避けたい。
ずくずくとした痛みが体中に広がっていく。
この場から走って逃げ出してしまいたい。
「小島と……別れたんだよね?」
常広さんの方が遼の話を持ち出した。
「別れよう」とはっきり言われたわけじゃない。フェードアウトされた。
連絡しても返事をもらえなくて、わたしもしなくなって……
遼の話なんて聞きたくないはずなのに、遼がどうしているのか聞きたいという気持ちと、聞かない方がいいという気持ちと、全部がぐちゃぐちゃに混ざり合って、頭の中に浮かんでは消える。
「あいつ、菜々子ちゃんのことすごく大事にしてたから」
でも、妊娠がわかると同時に捨てられた。
その現実を再びつきつけられる。
「大切だから別れるなんて理由は納得できないよね。あんなことなかったら、そんな選択、あいつの中でありえないはずだから」
「あんなこと」って、わたしが妊娠してしまったこと……だよね……?
この人に話してたんだ。
それって、妊娠がなかったら、わたしは大切にされてたってこと……?
そんなの……卑怯。
結局、わたしは都合がいい相手にすぎなかったんだ。
遼の言葉を疑いもせず信じていたわたしは何て愚かだったんだろう。
わたしは信じる相手を間違えた。
今ならそれが冷静に判断出来る。
わたしは、あの頃とは違う。
「……連絡、とったりする?」
「とったりしません。もういいですか? 帰るところだったので」
「ごめん、引きとめて。遼が菜々子ちゃんのことすごく好きなの知ってたから、なんかくやしくてさ。でも、まぁ……菜々子ちゃんが受け入れられないのは当然だから……仕方ないんだよね。じゃあ」
最後の……何? どういう意味?
わたしが「受け入れられない」って? 遼じゃなくて?
遼は、自分の都合がいいようにこの人に話してたの?
そんなのひどい。
「あのっ!」
「何?」
「『受け入れられない』って、どういうことですか?」
「え? あのこと――」
常広さんと話をした後、急いで更衣室で着替え、大学の売店へ行った。
早く行かないとパンが売り切れる。
帰るのが遅れるお詫びに、小さなパンのセットを買いたい。
モチモチした食感のそのパンは、前に買って帰った時喜んでくれたから。
最後の1つだったそのパンの袋を手に取って、レジへ並んだ。
自分の番が来て支払いをする時になって、どうしてだか涙が出そうになり、決済を済ませたら、パンの袋をカバンにも入れず、手に持ったまま急いで売店を出た。
もう一度看護科の校舎まで走って行って、裏へ回ってしゃがんだ。
何度「わたしを捨てた人なんだから」って思ったかわからない。
何度「あんな人好きになるんじゃなかった」って泣いたかわからない。
「信じたわたしがバカだった」って、何度も何度も口にした。
すごく腹を立てた。
許せないと思った。
どうして……
どうして……
どうして……
今頃になって遼のことを……
誰にも聞かれないように、声を押し殺して泣いた。
泣いても何も変わらないことを、わたしは知っているはずなのに。
遼と、最後に会ってからもう4年以上が経つ。
それなのにわたしは、ちっとも彼のことを忘れられないでいることを思い知らされた。
遼……会いたいよ。



