愛という名の



恐らく平均的な父と母。

2人を前に座ったわたしは、畳に額をつけたまま声を発する。


「どうか、わたしを助けてください」


静かな時間だけが流れていく。


「あなたが思ってるほど簡単なことじゃないのよ?」


母は静かな声だったけれど、怒りをにじませていることがわかる。


「そうだと思います。わたしの覚悟なんてちっぽけで、打算的で図々しいことをわかった上でお願いしています。かかったお金は絶対に働いて返します」

「バカバカしい。話にならん」


父はあからさまに怒りを面に出した。


「……ごめんなさい。今までありがとうございました」

「菜々子?」

「高校を辞めて働きます。お金を貯めます。その後――」

「自分が言ってることをわかってるのか!」

「そうよ。辞めるって……卒業まで半年もないのに……」

「どうして看護師になりたいのか教えなさい」

「生きていくために」


看護師になろうと思った理由を、安易だと言われても、打算的だと思われても構わない。


ずっと額は畳につけたままの状態でいたから、父や母がどんな顔でわたしを見ていたのかはわからない。

長い沈黙が流れた。

何か言葉をもらうまで、それがどういう結果であろうと、頭をあげることはできない。


でもやがて、父は重い口を開いた。


「……条件がある」

「条件?」

「お前が本気なら、地元の国立大学の看護科へ行け。そうしたら、金銭面もそれ以外も援助してやる」


わたしがいきなり進路変更を言い出したから、もらっていた学校推薦は蹴ることになる。そのため学校へ謝罪をしに行かなければいけない。
授業料の支払いはまだだったけれど、入学金は払ってしまっていて、これは入学をやめても戻って来ない。

全てがどんなに勝手なことか、わかった上でのお願いだった。

でも看護専門学校ではなく国立大学の看護科……

父が国立大学へ進むことを条件としたのは、わたしの成績では到底受かることができないことを知っているからなんだと思った。

専門学校なら3年で卒業できるのに、大学の看護科だと4年かかる。
その間援助をしてくれるなんて、そんな両親にだって負担がかかることを言い出すなんて、国立大学へ合格するのが無理だとわかってるからだ。


それでも、わたしはこのチャンスが欲しい。


「わかりました。お願いします」

「お父さん、こんなの認めるなんて……今ならまだ……」

「『今ならまだ』?」


黙り込む母に父は言った。


「本当にそう思うのか?」


父のその言葉に母は首を振った。


「この子をこんなふうに育てたのは私達なんだから。その責任を果たすしかない」

「……そうですね」


父が居間を出て行ってから、母はわたしを見て言った。


「バカね」

「ごめんなさい、お母さん」



元々大学は行くつもりでいたけれど、「みんなが行くから」なんていい加減な理由で、行きたいところがあるわけではなかった。
だから「受かるところ」が第一志望で、推薦で学校が決まる前も、決めた後も、勉強なんてして来なかった。

看護師になるためには専門の勉強が必要となる。学校に通う間も、全てを親に甘えようなんて身勝手にもほどがある。
自分でもそんなことわかっている。

記念受験のつもりで出していた共通テストの願書が、こんなところで役に立つなんて思ってもみなかった。



遼にメッセージを送ったけれど、やっぱり返信はないまま。
やることは無限にあった。

でも時間は有限で、誰にでも平等だから、わたしが周りに追いつくのは簡単なことじゃない。

幸い体調は良かった。

自分では頑張ってたつもりだったのに、最後の模試でもE判定でしかなく、父の条件をクリアできる望みはなかった。

使っていた問題集が終わりまできて、何の気無しに「あとがき」に書かれていたことに目を向けた。


「人間、やる気を出せば1ヶ月で偏差値なんて簡単にあげられます。それを無理だと思ってあきらめるのか、そうか!と思い頑張れるかが別れ道です」


きっとこれまでのわたしなら、こんな根性論みたいなこと笑い飛ばしてた。

でも、今は、信じたい。

わたしは、頑張れるよね?

ずっと遼からの連絡はないままだったけれど、そんなものなくたって頑張れる。

頑張るしかない。




冬休みが始まると同時に、3年生は自由登校になる。
そこまでは学校に行かなくてはいけない。


HRが終わり、席を立ったところで、心春が近づいて来た。


「ねぇ、菜々子ちょっと太ったんじゃない?」

「バレた? 夜中に勉強してるとつい甘いもの欲しくなって」

「やっばー」

「だよねー。受験終わったらダイエットする」

「いきなり国立目指すとか言い出した時はびっくりしたけど、応援してるよ」

「ありがとう」

「もう帰る?」

「英語をみてもらってから帰る」

「ん。じゃあ先帰るね」


心春と別れて、英語の先生のところへ行く。


こんなに先生達と話すようになるとは思わなかった。

特に英語の桶井先生は結構な年で、黒板に書かれた文字も読み取れないくらい汚いから、授業ではノートに書き写すのもいつからかやめてしまったくらいだった。

でも、真面目に勉強に取り組むようになって、質問に行ったらとっても丁寧に教えてくれて、今ではほぼ毎日先生のところへ通っている。


「……悪くないかな。変に難しい文法使ってミスるより、簡単な文章でいいからミスらないようにね」

「はい」

「他の科目の成績見たよ。理科も社会も酷いね」

「……はい」

「あきらめるしかないかな」

「嫌です!」

「違う違う、そうじゃない。言い方悪かったね。もう本番まで時間がないから、やることを絞ろう。森川さん、国語は平均よりいいから、そこは現状維持。数学は2次対策も兼ねて勉強するとして、英語をもっとやろう。暗記してる単語量が少なすぎる。ここを頑張って、長文対策しよう。問題文を早く読めればその分考える時間ができるから」


「藁にでもすがる思い」って、きっとこういうやつだ。
でも、可能性があるなら何だってする。


「東奈大学の看護科は、足切りがない上に1次と同じくらい2次も配点が高いから、2次で高得点取れれば可能性があるからね。最後までやりきろう」


桶井先生に勧められて、今まで怖いと思っていた竹中先生に数学を聞きに行くようになった。
驚くことに、竹中先生の教え方は自分に合っていたみたいで、土壇場で数学が伸びた。

それに、桶井先生と同様、親身になって教えてくれた。
共通テストは900点満点で、東奈大学の看護学科には1次で7?8割はとらなければ厳しいと、受験サイトに書いてあった。



でも、共通テストの本番、わたしは自己採点で6割もとれていなかった。

でも、まだ3月に2次がある。

あきらめたくない。

東奈大学には足切りがないから、どんなに1次の点数が悪くても、2次で高得点がとれれば、1次と2次の合計で合否が決定されるのだからチャンスはある。

そのために、数学と英語だけ特に力を入れてやってきた。

どうしても、あきらめるわけにはいかない。

未来に、責任を持つために。




自由登校になったのを最後に学校へ行くのをやめた。卒業式にも出なかった。
友達に心配されたけど「面倒くさくて」と、適当に返事を返した。




3月の頭、合格発表の日。

自分の部屋でスマホを握りしめた。

合格は、発表時間がきたら特設サイトに受験番号を入力することで簡単にわかる。
合格者には発表後、自宅に入学手続きに必要な書類が郵送される。


大袈裟なんかじゃなく、文字通り、わたしの人生を決める瞬間。

特設サイトに自分の受験番号を入力して、「結果」のボタンを押す。



不合格。



そうだよね。
そんなに甘くない。
このために、長い時間をかけてがんばってきてた人がたくさんいるのを知っている。
わたしはそんなクラスメートを横目に、遊んできたのだから。
それでも、やっぱりくやしくて、しばらく泣いた。


涙がとまってから、リビングでテレビを見ていた父のところへ報告に行った。


「だめだった」

「そうか」


父はわたしの方なんか見向きもしないでそう言った。
わたしがリビングを出ようとしたところで、父が言った。


「それで?」


それで?

そっか。
家を出て行くって自分で言ったんだった。

いつ出て行くのかは決めていなかった。
父はその答えを欲しがっている。


「まだ――」

「あきらめるのか?」

「え?」

「あきらめるのか?と聞いてるんだ」

「でも、お父さんは国立じゃないと、って……」

「今年受かるとでも思ってたのか? ろくに勉強もしてこなかったくせに、ちょっとくらいやって受かるわけがない」


あ……


「来年、もう一回受けていいの?」

「母さんも最初からそのつもりだ。ただし、これまでとは環境が変わる。大変なことには変わりない」

「うん……ありがとう……」

「やるべきことをやりなさい」

「……ありがとう」


わたしの味方でいてくれてありがとう。