科学室での浩也との一件があってから、深山の俺への態度は、絶望的なまでに冷え切っていた。
隣の席に座っていても一切こちらを向くことはなく、廊下ですれ違っても、存在すら認識していないレベルで完全に素通りされる。
自業自得だ。それは痛いほど分かっている。
前日まであいつを意図的に無視し、揺さぶろうとしていたのは俺の方だ。すべては深山の嫉妬心を煽るための作戦だった。
けれど、最大の誤算は、あいつの独占欲が俺の想像を遥かに超えるブラックホールだったことだ。
セキュリティホール(脆弱性)を見つけたつもりが、引きずり込まれた挙句、会話の権利すら剥奪されてしまった。
(やりすぎた……)
深山に透明人間のように扱われるたび、鋭い後悔が心臓をぐずぐずにえぐる。
あの保健室で、ダイレクトに脈打つ心音を聞かされてあいつの『本気』を証明されたばかりなのに、俺はなんて無神経な真似をしてしまったのか。
深山のプログラミングをバグらせることばかりに脳の容量を割かれ、大事なものを見失っていた。
だが、待て。
俺がこれだけ激しく消耗していることを、あの冷徹な観察者が察知していないわけがない。
この「断絶」すら、俺を新たな罠にはめるための計算(コード)だとしたら? わざと突き放して喪失感を煽り、深山統織という存在を失う恐怖を骨の髄まで植え付ける──。
あるいは、プログラミングなんて高尚なものではなく、単に俺に愛想を尽かして心底失望したか、そのどちらかだ。
そして俺は、悔しいことに、圧倒的に前者であってほしいと願ってしまっていた。
「み、深山……」
次の授業が始まり、静かに教科書を開く深山に、俺は消え入りそうな声で話しかけた。もちろんスルーされる。
こんな最悪な関係性の中で話しかけたくなどない。
だが、あろうことか次の時間の教科書を忘れるという致命的なミスを犯し、さらに運悪く左隣の奴が欠席という極限状態において、俺はプライドをドブに捨てて勇気を振り絞るしかなかった。
「あの、さ……深山。その……教科書、見せてほしいんだけど。忘れて、しまって」
ぎこちなく震える俺の頼みに、深山が教科書をめくる指先がピクリと跳ねた。
あいつはわざとらしく深い、ひどく冷ややかなため息を吐くと、無言のまま机の境界線を超えて教科書をスライドさせてくれた。
「……ありがとう」
いたたまれない気まずさの中、遠慮がちに紙面に視線を落とす。
けれど、すぐ真横にある深山の細く綺麗な指先がページをめくるたび、俺の目は無意識にその動きを追ってしまっていた。
ノートにシャープペンシルを走らせる右手。スッと軸が立ち、まるで習字のお手本のように気品のあるペンの持ち方。
そこから半袖の袖口へと伸びる、ほどよく引き締まった白い腕、衣服の隙間から覗く鋭い喉仏、彫刻のような横顔──。
(──綺麗だな)
息を呑み、完全に我を忘れて見とれていた、その瞬間だった。
ふいに、深山が視線をこちらへ転じた。
「っ……!?」
完全に油断していた俺は、突然向けられた切れ長の瞳に心臓が跳ね上がり、椅子ごと転げ落ちそうになった。
バッと前を向いたものの、耳の奥がうるさいくらいに脈打っている。
あんなに冷たくされているのに、一瞬目が合っただけで脳が焼き切れそうな高揚感を覚えてしまう自分が、最高に惨めで、悔しい。
授業が終わっても、深山の表情は鉄仮面のように硬いままだった。
もしあいつのプログラミング通りなら、そろそろお仕置き期間を終えて俺に接触してきてもいいはずだ。
なのに、気づけば期末試験が終わり、終業式の日を迎えてしまった。
あいつは、俺が頭を下げて謝るのを待っているのだろうか。そもそも付き合ってもいないのに、なぜ俺が謝罪しなければならないのか。
悶々と悩み抜いた挙句、俺の身体は、帰り支度を済ませて教室を出ていく深山の背中を無自覚に追いかけていた。
校舎を出た深山は、まっすぐ校門へ向かわず、なぜか人気の途絶えた校舎裏の敷地へと歩みを進めていく。不思議に思いながら角を曲がった瞬間──。
「うわっ……!」
待ち伏せしていた深山の胸板に、文字通りぶつかりそうになった。
一歩も退かぬまま、深山は凍てつくような冷徹な視線で俺を見下ろす。退路を塞がれ、思わず「ごめん」という言葉が喉元まで突き上げてくる。
「木瀬くん。そろそろ、許してほしい?」
あいつが影を落とすように、壁際へさらに一歩詰め寄ってきた。
逃げ場のない、得体の知れない不気味な圧迫感。俺がどんな言葉を返しても、すべてチェックメイトにされる未来しか見えない。
俺が無言のまま、恐怖と期待の入り混じった呼吸を繰り返していると、深山は酷く昏い笑みをその薄い唇に浮かべた。
「許してほしかったら、──僕の言うこと、一つだけ聞いてくれる?」
「……お前の、言うこと?」
「うん。すごく、簡単なことだよ」
深山は、獲物が完全に罠の最奥に足を踏み入れたのを確認したように、満足げに目を細めた。
「今度、僕の家に来てよ」
「……っ!?」
想定の範囲外すぎる単語に、脳内で原子爆弾が炸裂したかのような衝撃が走った。
深山の家。男二人の密室。あいつの本拠地(サーバー)。いくらなんでも、それは一線を越えすぎている。
「深山、それは……さすがに、マズいって……」
「さすがに、何?」
深山の声から、瞬時に一切の体温が消え去った。
「別に、許してほしくないなら、無理に来なくてもいいけど。……じゃあね、木瀬くん」
踵を返そうとするあいつの冷淡さに、俺の心臓が恐怖で悲鳴を上げた。
明日から、あいつのいない長い夏休みが始まる。
あの綺麗な横顔も、低い声も、俺を狂わせるシステムログすら届かない、退屈でたまらない日々が──。
その瞬間、俺はすべてを悟ったのだ。
あいつの真の目的は、単なる喪失感の付与なんかじゃない。
この終業式という「しばらく会えなくなるタイムリミット」を利用し、俺を限界まで飢えさせ、断れない状況を作って『私的空間(自宅)』へ強制連行するためのプログラミングだったのだ──!
【フェーズ9:環境(クローズド)のハッキング(完了)】
・「無視(ディスタンス)」による飢餓感の最大化。
・夏休みというタイムリミットで焦燥を煽り、ターゲット(侑人)自らの足で、逃げ場のない「僕の領域(自宅)」へログインさせれば成功。
一番弱いところを正確に突かれ、全身の防壁(ファイアウォール)が一瞬でパニックを起こしていく。
拒絶という破滅の選択肢を奪う、あまりにも狂暴で巧妙なプログラミング。
「……分かったよ。行くから、待てって」
絞り出した声は震えていた。断ればこのままあいつを失う。
その恐怖に負けて言葉を吐き出した瞬間、胸の奥で嫌になるほど甘い安堵が広がった。もう俺の選択肢は、初めからあいつの手で奪われていたのだ。
俺の返答に、深山はふり返り、いつもの人懐っこい、極上の優等生の笑みを浮かべた。
「よかった。じゃあ、連絡先を交換しよう」
言われるがままにスマホを差し出すと、深山は俺の指先に指をかすめながらそれを冷ややかに受け取った。
手慣れた手つきで画面がフリックされ、俺のアドレス帳の最上部に『深山統織』の文字が書き込まれる。
学校という限定的なサーバーから、ついに俺のプライベートな通信領域(端末)にまで、あいつのウイルスが侵入を完了した瞬間だった。
「日時はまた後で連絡するね。じゃあ、また」
深山はスマートにスマホを返すと、今度こそ颯爽と去っていった。
──完全なる敗北。完膚なきまでに叩きのめされた。
けれど、激しく警鐘を鳴らす心臓の奥で、俺の『神視点』のプライドが、ドス黒い反逆の炎を静かに燃え上がらせていた。
家に行くということは、裏を返せば、あいつの本拠地にこちらから乗り込めるということだ。
謎に包まれた深山統織という怪物の生態系を、間近でハッキングする絶好のチャンスじゃないか。
深山、お前は勝った気でいるかもしれないが、本当の戦いはこれからだ。
お前の部屋で、その完璧なプログラミングを、骨の髄まで狂わせるバグを仕込んでやる。覚えてろ、次は絶対に負けない。
隣の席に座っていても一切こちらを向くことはなく、廊下ですれ違っても、存在すら認識していないレベルで完全に素通りされる。
自業自得だ。それは痛いほど分かっている。
前日まであいつを意図的に無視し、揺さぶろうとしていたのは俺の方だ。すべては深山の嫉妬心を煽るための作戦だった。
けれど、最大の誤算は、あいつの独占欲が俺の想像を遥かに超えるブラックホールだったことだ。
セキュリティホール(脆弱性)を見つけたつもりが、引きずり込まれた挙句、会話の権利すら剥奪されてしまった。
(やりすぎた……)
深山に透明人間のように扱われるたび、鋭い後悔が心臓をぐずぐずにえぐる。
あの保健室で、ダイレクトに脈打つ心音を聞かされてあいつの『本気』を証明されたばかりなのに、俺はなんて無神経な真似をしてしまったのか。
深山のプログラミングをバグらせることばかりに脳の容量を割かれ、大事なものを見失っていた。
だが、待て。
俺がこれだけ激しく消耗していることを、あの冷徹な観察者が察知していないわけがない。
この「断絶」すら、俺を新たな罠にはめるための計算(コード)だとしたら? わざと突き放して喪失感を煽り、深山統織という存在を失う恐怖を骨の髄まで植え付ける──。
あるいは、プログラミングなんて高尚なものではなく、単に俺に愛想を尽かして心底失望したか、そのどちらかだ。
そして俺は、悔しいことに、圧倒的に前者であってほしいと願ってしまっていた。
「み、深山……」
次の授業が始まり、静かに教科書を開く深山に、俺は消え入りそうな声で話しかけた。もちろんスルーされる。
こんな最悪な関係性の中で話しかけたくなどない。
だが、あろうことか次の時間の教科書を忘れるという致命的なミスを犯し、さらに運悪く左隣の奴が欠席という極限状態において、俺はプライドをドブに捨てて勇気を振り絞るしかなかった。
「あの、さ……深山。その……教科書、見せてほしいんだけど。忘れて、しまって」
ぎこちなく震える俺の頼みに、深山が教科書をめくる指先がピクリと跳ねた。
あいつはわざとらしく深い、ひどく冷ややかなため息を吐くと、無言のまま机の境界線を超えて教科書をスライドさせてくれた。
「……ありがとう」
いたたまれない気まずさの中、遠慮がちに紙面に視線を落とす。
けれど、すぐ真横にある深山の細く綺麗な指先がページをめくるたび、俺の目は無意識にその動きを追ってしまっていた。
ノートにシャープペンシルを走らせる右手。スッと軸が立ち、まるで習字のお手本のように気品のあるペンの持ち方。
そこから半袖の袖口へと伸びる、ほどよく引き締まった白い腕、衣服の隙間から覗く鋭い喉仏、彫刻のような横顔──。
(──綺麗だな)
息を呑み、完全に我を忘れて見とれていた、その瞬間だった。
ふいに、深山が視線をこちらへ転じた。
「っ……!?」
完全に油断していた俺は、突然向けられた切れ長の瞳に心臓が跳ね上がり、椅子ごと転げ落ちそうになった。
バッと前を向いたものの、耳の奥がうるさいくらいに脈打っている。
あんなに冷たくされているのに、一瞬目が合っただけで脳が焼き切れそうな高揚感を覚えてしまう自分が、最高に惨めで、悔しい。
授業が終わっても、深山の表情は鉄仮面のように硬いままだった。
もしあいつのプログラミング通りなら、そろそろお仕置き期間を終えて俺に接触してきてもいいはずだ。
なのに、気づけば期末試験が終わり、終業式の日を迎えてしまった。
あいつは、俺が頭を下げて謝るのを待っているのだろうか。そもそも付き合ってもいないのに、なぜ俺が謝罪しなければならないのか。
悶々と悩み抜いた挙句、俺の身体は、帰り支度を済ませて教室を出ていく深山の背中を無自覚に追いかけていた。
校舎を出た深山は、まっすぐ校門へ向かわず、なぜか人気の途絶えた校舎裏の敷地へと歩みを進めていく。不思議に思いながら角を曲がった瞬間──。
「うわっ……!」
待ち伏せしていた深山の胸板に、文字通りぶつかりそうになった。
一歩も退かぬまま、深山は凍てつくような冷徹な視線で俺を見下ろす。退路を塞がれ、思わず「ごめん」という言葉が喉元まで突き上げてくる。
「木瀬くん。そろそろ、許してほしい?」
あいつが影を落とすように、壁際へさらに一歩詰め寄ってきた。
逃げ場のない、得体の知れない不気味な圧迫感。俺がどんな言葉を返しても、すべてチェックメイトにされる未来しか見えない。
俺が無言のまま、恐怖と期待の入り混じった呼吸を繰り返していると、深山は酷く昏い笑みをその薄い唇に浮かべた。
「許してほしかったら、──僕の言うこと、一つだけ聞いてくれる?」
「……お前の、言うこと?」
「うん。すごく、簡単なことだよ」
深山は、獲物が完全に罠の最奥に足を踏み入れたのを確認したように、満足げに目を細めた。
「今度、僕の家に来てよ」
「……っ!?」
想定の範囲外すぎる単語に、脳内で原子爆弾が炸裂したかのような衝撃が走った。
深山の家。男二人の密室。あいつの本拠地(サーバー)。いくらなんでも、それは一線を越えすぎている。
「深山、それは……さすがに、マズいって……」
「さすがに、何?」
深山の声から、瞬時に一切の体温が消え去った。
「別に、許してほしくないなら、無理に来なくてもいいけど。……じゃあね、木瀬くん」
踵を返そうとするあいつの冷淡さに、俺の心臓が恐怖で悲鳴を上げた。
明日から、あいつのいない長い夏休みが始まる。
あの綺麗な横顔も、低い声も、俺を狂わせるシステムログすら届かない、退屈でたまらない日々が──。
その瞬間、俺はすべてを悟ったのだ。
あいつの真の目的は、単なる喪失感の付与なんかじゃない。
この終業式という「しばらく会えなくなるタイムリミット」を利用し、俺を限界まで飢えさせ、断れない状況を作って『私的空間(自宅)』へ強制連行するためのプログラミングだったのだ──!
【フェーズ9:環境(クローズド)のハッキング(完了)】
・「無視(ディスタンス)」による飢餓感の最大化。
・夏休みというタイムリミットで焦燥を煽り、ターゲット(侑人)自らの足で、逃げ場のない「僕の領域(自宅)」へログインさせれば成功。
一番弱いところを正確に突かれ、全身の防壁(ファイアウォール)が一瞬でパニックを起こしていく。
拒絶という破滅の選択肢を奪う、あまりにも狂暴で巧妙なプログラミング。
「……分かったよ。行くから、待てって」
絞り出した声は震えていた。断ればこのままあいつを失う。
その恐怖に負けて言葉を吐き出した瞬間、胸の奥で嫌になるほど甘い安堵が広がった。もう俺の選択肢は、初めからあいつの手で奪われていたのだ。
俺の返答に、深山はふり返り、いつもの人懐っこい、極上の優等生の笑みを浮かべた。
「よかった。じゃあ、連絡先を交換しよう」
言われるがままにスマホを差し出すと、深山は俺の指先に指をかすめながらそれを冷ややかに受け取った。
手慣れた手つきで画面がフリックされ、俺のアドレス帳の最上部に『深山統織』の文字が書き込まれる。
学校という限定的なサーバーから、ついに俺のプライベートな通信領域(端末)にまで、あいつのウイルスが侵入を完了した瞬間だった。
「日時はまた後で連絡するね。じゃあ、また」
深山はスマートにスマホを返すと、今度こそ颯爽と去っていった。
──完全なる敗北。完膚なきまでに叩きのめされた。
けれど、激しく警鐘を鳴らす心臓の奥で、俺の『神視点』のプライドが、ドス黒い反逆の炎を静かに燃え上がらせていた。
家に行くということは、裏を返せば、あいつの本拠地にこちらから乗り込めるということだ。
謎に包まれた深山統織という怪物の生態系を、間近でハッキングする絶好のチャンスじゃないか。
深山、お前は勝った気でいるかもしれないが、本当の戦いはこれからだ。
お前の部屋で、その完璧なプログラミングを、骨の髄まで狂わせるバグを仕込んでやる。覚えてろ、次は絶対に負けない。
