「今回はお互い勝ちを譲る結果になりましたけど……当然、先輩もこのままでは終われませんよね?」
ニヤリと聞けば、先輩はこくりと力強く頷いた。
顔にかけたあの黒いサングラスの奥では、虚空を見つめる瞳が輝いていることだろう。
「もちろんだよ、これからまた特訓して……今度こそ公式の大会で――万全の状態で恵流くんのお兄さんに勝ってみせる」
「それまでに古代魚の呪いが解けなくてもですか?」
「うん、呪いが解けなくても水泳を続ける。……俺には恵流くんっていう頼もしい味方がついていてくれるからね」
「へぇ、言うようになりましたね……僕のサポート料は高品質ゆえに高いですよ?」
「それでも、キミに……恵流くんにお願いしたい。自分でも図々しいこと言ってるって分かってるけど……キミじゃないと俺、ダメみたいなんだ」
先輩のその純粋で真っ直ぐな言葉が、僕の胸の深い部分に熱を灯した。
暗闇でポッとロウソクに火がついたような感覚に、僕は瞳を揺らす。
諦めていた想いが、らしくもなく強張る体を突き動かした。
「――じゃあ、これは前払いってことで」
「え?」
キョトンと首を傾ける先輩のサングラスを取る。
白いマスクに指をかけて、下へとずらした。
辺りには二人だけの静かな空間。
未だ当たり前のように存在する呪いの象徴、間抜けた白黒の両目と逆三角形の口のパーツを貼り付けた顔がそこにあった。
僕は顔を近づけて。
目を閉じて。
その呪われた唇に、自分の唇をチョンと重ねた。
ほんの一瞬の出来事だ。
急に後輩からキスなんてされて、先輩は驚いてるだろうな。
なんて誤魔化せば納得してくれるだろう。
そんなことを思い浮かべながら、唇を離して目を開いた――その、瞬間だった。
「……え……?」
目の前に、真っ赤に染まった優彗先輩がいた。
だけどその顔は……顔の、パーツは。
水に濡れたとき限定でしか見られないはずの“顔面国宝”の整ったもので。
「先輩っ……その顔――」
「だ、ダメだよ恵流くんっ!!」
「は?」
重大な指摘をしようとするなり、顔を両手で覆い隠しながら赤い顔の先輩が首をブンブンと左右に振り出した。
「こ、こういうのはまずお互いに告白をしてっ!デデデデートとか何回かしたあとに俺の方からするべきというかなんというか、いや、あのその!」
「せ、先輩?それは正論かもですがちょっと落ち着いてくださ――」
「でもその、嫌とかそんなんじゃなくて本当は嬉しいんだけど!俺まだなにもカッコいいところ見せられてないし呪われてるし告白する勇気も――」
「だから!落ち着いてくださいってば!」
なんか僕の軽率な行動で一気に騒がしくなってしまった。
主に先輩が、だけど。
キッチンカーの入り口から感じる視線に目を逸らしながら、僕はカバンに常備している手鏡を先輩へと向ける。
「ほら先輩!ご自分の今の顔、見てください!」
「えっ――顔がどうし……え?」
ようやく先輩も現状を把握したようだった。
彼は僕の向けた手鏡に映る自分を見つめたまま、その顔を確かめるように手で触っている。
そして困惑したように「え、え?」と呟いたあと……噛み締めるように事実を口にした。
「俺……顔が、元に戻ってる……?」
一足先にその理由を理解した僕は、目を伏せて微笑む。
「神主さんの言ってた通りでしたね」
生涯の伴侶となる相手……“番”と結ばれることが呪いを解く唯一の方法。
どうやら結ばれる方法はキスで充分だったらしい。
「キスで満足して呪いが解けるなんて、意外にもロマンチックな古代魚でしたね。その相手が男でもいいなんて思いもしませんでしたけど」
僕がクスクスと笑うと、先輩はまだ赤い顔で呟いた。
「呪いが解けたのは、キスした相手が恵流くんだったからだよ」
先輩の真剣な瞳が、僕を射貫く。
「キミは……俺がずっと好きだった、一目惚れしたあの子なんでしょう?他の誰でもダメだったよ、恵流くんじゃなければ、きっと……」
優彗先輩の大きな手のひらが、僕の手に重なる。
じんわり伝わる体温に、彼は再び口を開いた。



