しかし“遊ぶ”といっても一般客に迷惑のかかることはできない。
水鉄砲はもちろん水中に浮かべるボールの類もここにはないし、部長たちが高校のプールでしていた中でできることといえばこれくらいだろう。
僕は人がまばらな自由遊泳エリアのプールサイドに腰かけて足だけを水につけた。
触れた瞬間はひんやりとした冷たさだけど、徐々に体がその温度に慣れていき心地良くなっていく。
「先輩も隣にどうぞ」
そう言って隣の床を叩くと、先輩は背後の大会用レーンを振り返ったあとおずおずと座った。
僕と同じように水に足をつけて、でも視線はチラチラと後ろで小気味よく響く水の音を気にしている。
本当は今も、練習していたいんだろう。
時間ギリギリまで、少しでも。
だけど自分が緊張していることも分かっている。
このままじゃ力を出し切れないということも。
その募る焦りが隣から……僅かに触れた腕から直に伝わり、僕は口を開いた。
「優彗先輩はなんで小学生のとき、あの水泳大会に出たんですか?」
「え?」
「ちょっと気になって。僕の兄は習い事をしたら集大成として必ず大会に出る人で……それであの日の水泳大会も参加してたんです」
「へぇ……スゴいな恵流くんのお兄さん。子供のころからストイックだったんだね」
「ふふ、でしょう?自慢の兄なんです」
兄を褒められたことで口元がほころぶのを感じながら言葉を続けた。
「それで……先輩は?水泳を習ってたから、その力試しで参加してたとか?」
問いかけられた先輩はふるふると首を横に振る。
そして恥ずかしそうに視線を下へ落とした。
「……俺は、その……母さんのためだったんだ」
「先輩のお母様のため……?」
「うん、そもそも水泳を習い始めたのは、水で遊びたいっていう俺のワガママから始まったんだ……でも」
水泳教室に参加していく内、みるみるうちに泳ぎが上達していく先輩をお母様はずっと褒めて応援してくれていたらしい。
そのことに、先輩はずっと感謝していた。
「だから、ある日思ったんだ。“母さんに金メダルをあげたい”って……それで大会に出場したっていう子供っぽい理由なんだ、俺のは」
へらへらと笑う先輩を真っ直ぐに見つめて告げる。
「子供っぽくなんかないです、立派な理由ですよそれ。親孝行のためじゃないですか」
なにも恥ずかしがる必要なんてない。
優しい優彗先輩らしい決断で、素晴らしい考えそのものだった。
僕はニヤッと勝ち気な笑みを浮かべる。
「でも忘れないでください――今回はお母様のためでなく、僕のためですからね」
先輩の目がぱちくりと瞬く。
僕はズイッと顔を近づけて、ふふんと鼻から息をもらした。
「先輩は“僕のために”泳ぐんです!緊張でみっともない姿を他の高校水泳部に見せるなんて言語道断。華麗なワンツーフィニッシュを決めますよ」
もちろん僕が1位で先輩が2位だ。
その目論見を知ってか知らずか、先輩はようやく楽しげに笑ってくれた。
「ふっ……あははっ!そうだね、恵流くんはそういう子だった!」
「ん?それどういう意味ですか?」
「うーん、そうだな……キミといると、なんでも出来そうな気がするってことだよ」
「?」
こてんと首を傾げる僕に、先輩はクスクスと笑いながらグッと背伸びをする。
張り詰めていた緊張感は、もう感じない。
リラックスした空気の中、先輩が水中から足を上げて立ち上がった。
「ありがとう、恵流くんと話せて良かった」
「練習に戻るんですか?」
「うん、恵流くんはどうする?」
「僕は準備運動してます。イメトレはバッチリだし兄を前にして足がつるなんて自体は避けたいので」
「それがいいね、それじゃあ――また後で」
そう言って先輩は笑って大会用レーンに戻っていく。
さっきまでとはまるで別人のような自信に満ちあふれた目に、僕は安心して準備運動へと目的を移行した。
それから一時間後。
遂に大会の時間がやって来る。



