森が鳴いていた。
湿った霧を押しのけるように、どこか遠くで塔婆の幹が軋む。
その低い音は、大地そのものが寝返りを打つかのようで、巨木の呼吸が森全体に伝わってくるようだった。
呉国の樹海では、夜明け直前が、この森の息づかいがもっともよく響く。
虎嵐は、濡れた苔を踏み、木橋を渡っていた。
無造作に束ねた黒髪が、首筋に影を落としている。
黒髪をまとめているのは、職人が編んだ細い緑紐だ。
森虎道服――深緑の対襟上衣――は着古され、肩と肘の森虎革だけが鈍い光を放っている。
背には、茶色い革の背嚢──呉国の森虎革で作られた頑丈なやつ──を背負っており、さらにその上から、丸い編み笠が掛かっている。
見上げれば、塔婆の幹は霧を突き破り、赤銅色の皮を光らせていた。
人が何十人で抱えても足りない太さの幹は、霧の奥へと消えるほど高く、塔婆こそがこの森の空を支えているのだと錯覚させた。
巨木のところどころに家が張り付き、枝と枝を結ぶ吊り橋が蜘蛛の巣のように走る。
その上で茶屋の白い幟がゆらゆら揺れていた。
樹脂の甘い匂いが漂うなか、塔婆の根元には小さな祠がいくつも掘り込まれている。龍の木彫りもあれば、葉を抱いた女神の像もあり、同じ皿に供え物が置かれていた。
呉国らしい、龍と精霊が同列に祀られる土地柄だ。
通りすがりの老人が、虎嵐の歩調に合わせてぼそりと声をかけた。
「森に入るなら、木護の符を持っときな。昨夜、枝龍がうるさくてな」
虎嵐は軽くうなずくだけで、歩みを止めなかった。
革の半長靴が塔婆の根をまたぎ、林道に足跡だけが残っていく。
昼の気配が濃くなったころ、視界の霧が薄れ、拓けた土地が現れた。
――呉国の宿場町〈華陽〉。
森の国とはいえ、ここは旅人と馬が行き交う街道の重要地。
屋根の低い宿屋や商家が並び、広場では市が開かれている。
街そのものは開けているが、ところどころに塔婆の太い根が顔を出し、まるで地面の下に眠る巨獣の背骨のように道を押し上げていた。
塔婆はこの町を覆いつくすほど多くはないが、一本一本が森の主のような異様な存在感を放っている。
塔婆の大枝に吊された風鈴が、ちりんと鳴り、商人たちの呼び声が混じる。
この街では、塔婆は背景ではなく、ただ静かに息づく隣人のように在った。
「――よし。ここらでいいか」
虎嵐は市の奥まで行き、荷を下ろすと茣蓙を敷き、そこらにあった木箱を裏返して置いた。そして、背嚢の外ポケットから折りたたみ将棋盤を取り出した。
板のように薄いが、開いて木箱の上におくと、しっかりとした呉国彫りの渋い盤面になった。
手早く駒を並べ終えると、木札に殴り書きした看板をトンと立てた。
〈詰め将棋 一局・燐三枚(約三百円)〉
市でよく見られる、詰め将棋である。
子どもから老人まで誰でも知っていて、長い勝負が面倒な旅人にも人気だった。
虎嵐はいつのまにか、小さな人だかりの中心にいた。
「――おう、兄ちゃん。本気で打つぞ。何手だ?」
挑戦者の男が、鼻息荒く胡座をかく。
「三手詰めだ――駒を並べてから、この砂時計をひっくり返す。百五十数える間だ」
「それだけありゃ、十分だ!」
男が白銅貨三枚を卓に置く。
虎嵐は、詰め直前の形を手早く盤上に並べ、
「それッ!」
砂時計をひっくり返した。
「よし。こうだ!」
男は影衛(銀)を動かし、
虎嵐の覇(玉)が逃げる。
男は戦車(飛車)を直進させたが、
虎嵐の持ち駒でブロックされた。
「しまった」
砂時計は残り少ない。
虎嵐が、砂時計を横に倒し、元通りに駒を並べる。
「――え? いいのかい?」
「うちは、良心的な詰め将棋だからな」
並べ終わり、虎嵐は、とん、と砂時計を立て、
「さあ、速決といこうぜ」
と景気よく言った。
男は腕を組み懸命に考えたが、詰まず、砂が途切れた。
「うぇぇ……参った!」
男が頭を下げ立ち上がる。
「惜しかったな。もうちょっとだぜ」
虎嵐はあくまで軽い調子で言った。
客が入れ替わる中、ふと虎嵐の視線が横へ動く。
――向かいの露店。
地元の流氓(ならず者)三人組が、〈木符抜〉の卓を出していた。
――木符抜。
精霊・炎・影の印がある木符が二枚ずつ。
そして、ただ一枚だけ〈凶符〉が混ざる。
親と客が交互に同じペアを抜いていき、
最後に凶符を引いた者の負け。
「さぁさぁ、木符抜よ! 龍も精霊も関係ねぇ、運の勝負だ!」
……ひと勝負が終わり、
「――畜生、やられた。も、もう一度だ!」
客がムキになっていた。
伏せられた木符が卓上で混ぜられて、適当な間隔で並べられる。
(……ひでぇイカサマだな)
虎嵐が立ち上がろうか迷ったその時、次の挑戦者が座った。
「――兄ちゃん、次は俺だ!」
「おう。どうぞ」
三手詰めは一見簡単そうに見えたが、案外手強い。しかも時間制限という〝枷〟もある。
客は何度か手を戻しては考え、青くなった。
(次は? どうしたら?)と悩むうちに
――砂が落ちきった。
「残念だったな。燐三枚、頂戴するぜ」
虎嵐が客に右掌を差し出す。
「……ちょ、ちょっと待て……これ、本当に詰めるのか?」
「ああ、よく見て。まず、飛狼(桂)跳ねて、成りだ。
「それを覇が取る。
「そしたら、虎眼(角)が鋭く斜めに切り込んで
「――どうだい?」
「はぁー、なるほど……」
その時──木符抜の客が、卓を叩いて立ち上がる。
「おい! 今、札すり替えただろ!」
「なんだとコラ! 文句あんなら、証拠見せてみろよ!」
流氓の怒声が響いた。
客の男が胸ぐらを掴まれている。
人々がざわつく。
「またやってるよ、あいつら……」
「絶対イカサマだってのに……」
「……お客さん。銭は卓に置いといてくれ」
虎嵐はゆっくりと立ち上がって伸びをした。
「お、おい! 止めとけ、兄さん」
客が銭を置いて立ち上がる。
「……ちょいと、ムカつく連中がいてよ」
言うや否や、虎嵐は真っ直ぐ流氓の露店へ歩き出した。
「お、おい……あの兄ちゃん行ったぞ……」
「ケンカになるぞ、これ!」
周囲のざわめきが、一瞬だけ止まった。
「――よお、市で荒事は良くねぇなぁ」
虎嵐は、客と流氓の間に割って入った。
「――んだ? てめぇは?」
「俺は、向かいで詰め将棋の屋台をやってる者だ」
「そうかい、てめぇこそ、将棋なんかで客を騙してんじゃねぇだろうな? ええっ?」
黒い対襟上衣の男たちが三人、木符の束を手に歩み出てきた。
背中に入った紋は、地元の流氓〈影牙門〉のもの。
「こちとら木符抜で客を回してる最中なんだ。賭け将棋なんぞに、文句を言われる筋合いは、ねえっ!!」
親分格の巨漢が、唇の端だけで笑う。
さっきまで詰め将棋を見ていた人々が息を飲む。
「こっちこそ、イカサマ野郎に将棋を舐められたら、ムカつくぜ……」
虎嵐は眉を上げた。
「へぇ……ずいぶん余裕だな、兄ちゃん」
巨漢はニヤつきながら、木符の束をこれ見よがしに切ってみせる。
凶符が、一瞬だけ覗いた。
その雑なイカサマに、虎嵐はたまらずため息をついた。
「凶符だけ香りがする。塔婆の樹脂だ」
「なんだと?」
巨漢の笑顔がスッと消える。
空気が少しだけ張りつめた。
「木符に樹脂つけたり、傷つけたりか? んな奴が、俺様に客を騙してんじゃねぇかたぁ、よく言えたな」
「おい、兄ちゃん……死ぬぞ!」
「影牙門に喧嘩売っちゃ!」
周囲の人々が一気にざわつく。
「文句があるなら……拳で来い」
虎嵐は、右拳を顔の前にかかげた。
「てめぇ……調子に乗りやがって!!」
巨漢の眉が跳ね上がる。
次の瞬間、流氓の一人が怒号と共に飛びかかってきた。
流氓の右拳が、虎嵐の顔面にあたった。
――はずが、
流氓の目の前に虎嵐の姿はない。
「うしろだよ!」
虎嵐の声に振り向いたとき、
パ、パァン!!
と両頬を貼り飛ばされ、流氓は、思わずしゃがみ込み、
「な、なんだ今の速さ!?」
両手で頬を押さえながら涙目になった。
「てめぇ、調子に乗るなよ!」
残る二人が青ざめ、それでも面子のために吠える。
「囲め、囲めぇッ!」
巨漢の方が叫んだ。
虎嵐は肩をすくめただけで、一歩も動かなかった。
「――ハイィィッツ!! 影牙拳!」
二人が左右から同時に飛びかかる。
「「阿吽挟撃だぁッ!!」」
虎嵐を圧殺すべく、二人の肩からの体当たり。
その瞬間──虎嵐の姿が消えた。
互いに、思い切りぶつかる。
自らの突撃で、二人は見事に反対方向へ吹っ飛んだ。
「ぐえっ!」
「ひぃっ!」
二人の流氓が、地べたに転がる。
広場にどっと笑いが起き、塔婆の枝につるされた風鈴がちりんと鳴った。
「……将棋なめんなよ。イカサマもなしだかんな」
虎嵐は、右手の人差し指をピンと立てた。
「――兄さん。ホント助かったよ。へへ……」
カモられていた客が、虎嵐に頭を下げる。
周囲から歓声が起こっていた。
――と、
周囲の空気が静まった。
今まで騒いでいた人々が、声を潜めて通り道を開けていく。
倒れた流氓たちの後ろから、静かに歩み出る細身の男がいた。
頬がこけ、青白い肌に、細長く垂れた口髭。黒い頭巾。黒い長衣と長裙、腰帯、いずれも着古されている。
無駄のない足運び。
腰の剣は安物ではない。
周囲の空気が、塔婆の影ごと沈んだように感じられる。
男は胸の前で右拳を左掌にあて、静かに礼をした。
──抱拳礼
「……影牙門武侠、痩狼だ」
「ふうん。用心棒かい? 本名か?」
虎嵐は片眉を上げた。
男は小さく笑った。
笑ったが、その目は冷えている。
「かつての名は捨てた。今の俺には……痩狼というあだ名が相応しい」
「そういう生き方か。嫌いじゃない」
虎嵐も抱拳礼を返す。
「虎嵐だ」
「覚えておこう──では、剣で相まみえよう」
痩狼は、両手をだらりと垂らし、腰を落とした。
――吼ッ!
虎嵐の右拳が走り、痩狼の右手が光った。
「――速いな。いつもなら右手は落ちてる」
痩狼は言った。
――しゃあッ!
虎嵐は拳を突いた。が、これはフェイント。
ゴムのように、後退した。
合わせて、痩狼が直剣を抜き、
斬る、
斬る、
斬る!
直剣は痩狼の息づかいと同じ速さで迫った。
前進しつつの連撃。
単調で直線的な動きではない。
柔軟な手首の返しにより、直剣が鞭を振るうがごとき軌道を描く。
虎嵐は防戦一方となる。
下がり、横に避け、のけぞり、お辞儀のように、頭をさげる。
その度に、虎嵐の後ろ髪が激しくゆれた。
痩狼は一つ突いてから、直剣を鞘に収めた。
「――いつまで遊ぶか!」
痩狼は動きを止め、苛立った声で言った。
「そうだな。見切りの稽古と思ったが――」
言うなり、虎嵐は走った。
痩狼も走る。
虎嵐は己の屋台――荷物の元へ。
背嚢に手を掛けるのと、ほぼ同時に、痩狼が虎嵐に剣を振り下ろした。
――ぎぃん。
虎嵐が両手で持ち上げた背嚢が、痩狼の剣を受け止めている。
正確には、背嚢に付けられた〝武器〟が、剣を受け止めたのである。
虎嵐が木箱を蹴り飛ばし、乗っていた将棋盤と駒が飛び散った。
痩狼が木箱を避けた瞬間、虎嵐は横へ前転し、素早く立ち上がる。
しゅりん、
と、剣を抜くような金属音がして、
立ち上がった虎嵐の両手には、愛用の武器が握られていた。
――〈月虎爪〉
それは、右手に装備する場合、
右(正)向きの三日月状の刃――〈月牙〉と、
左(逆)向きの三日月状の刃――〈虎爪〉とを、組み合わせた形を成す。
形状としては、〝)〟と〝( 〟を向かい合わせに重ねたような構造であり、二つの刃は互いの内側へ食い込むように配置されている。
月牙の中央部には革が巻かれており、ここを握って縦に構えると、両端の刃が相手に向く。
なお、月牙側の上端は、下端よりもわずかに長く作られている。
「……面白い」
痩狼の目が細くなる。
「その武器を持つ者と、過去に一度、戦ったことがある」
痩狼が、ぼそっと言った。
「へぇ? どうなった?」
と、言いながら、虎嵐は両手の月虎爪を、拳法の場合と同じく構え、右足をわずかに引き、重心を沈めた。
「――殺した。俺は生きている」
にいぃっ、
と痩狼は、獣じみた笑みを浮かべた。
そして、剣を腰の鞘に戻すと、すぐさま体勢を切り替えた。両腕を伸ばし、掌を地面に向け、腰を落とし膝を軽く曲げた構えをとる。
発条をギリギリと上から押しつぶす映像が、痩狼、虎嵐、両者から見えるようであった。
――風が止まる。
塔婆の枝に吊られた風鈴が、音を失った。
――次の刹那、
痩狼の剣が光り、弧を描いた。
虎嵐が剣を受けようが、受けまいが、痩狼が舞う。
上下、
左右、
切れ目のない連撃で、独楽のように回転し続ける。
月虎爪と剣が交差し、白い閃光が迸る。
――と、
痩狼が回転を利用して、虎嵐の死角へ、一瞬で動いた。
〈夢影牙突〉
死角からの突き。
ぎしっ、
剣が虎嵐の腹を貫く寸前で、月虎爪が上から絡め止めた。
互いに、後方へ跳び退り、間合いを取る。
――痩狼は、にっと笑った。
剣を持った腕を、弓を引くような形に構え、左掌を虎嵐へ向け、顔前に伸ばす。
虎嵐の瞳が爛々とした。
――次の刹那、
二人は、同時に前へ飛び出した。
痩狼の剣が、虎嵐の左目に奔った。
虎嵐は左肘をL字に保ったまま、上腕を縦に外旋した。
左の月虎爪が剣に絡み、パキン! と音がした。
同時に、虎嵐は地を蹴り、塔婆の枝を越える高さまで跳躍した。
虎が獲物の背を噛みにいく、その一瞬の加速。
〈虎跳兎狩〉
落下の力が加わった右の虎爪――〝(〟が、一直線に痩狼の頭上へ落ちた。
虎嵐は痩狼の頭上を越え、向こう側へ降り立った。
痩狼は頭から血を吹き上げ、前のめりに倒れた。
その右手に握られた剣には、先の部分はなかった。
周りから、歓声と拍手が沸き起こった。
「――騒ぐなっ!!」
虎嵐は吼えた。
誰かが息を呑む音が、やけに大きく響いた。
「俺は、立派なことをした訳じゃねぇ……」
虎嵐は痩狼の側に寄って、仰向けにすると、掌で瞳を閉じてやった。
虎嵐の瞳は暗かった。
湿った霧を押しのけるように、どこか遠くで塔婆の幹が軋む。
その低い音は、大地そのものが寝返りを打つかのようで、巨木の呼吸が森全体に伝わってくるようだった。
呉国の樹海では、夜明け直前が、この森の息づかいがもっともよく響く。
虎嵐は、濡れた苔を踏み、木橋を渡っていた。
無造作に束ねた黒髪が、首筋に影を落としている。
黒髪をまとめているのは、職人が編んだ細い緑紐だ。
森虎道服――深緑の対襟上衣――は着古され、肩と肘の森虎革だけが鈍い光を放っている。
背には、茶色い革の背嚢──呉国の森虎革で作られた頑丈なやつ──を背負っており、さらにその上から、丸い編み笠が掛かっている。
見上げれば、塔婆の幹は霧を突き破り、赤銅色の皮を光らせていた。
人が何十人で抱えても足りない太さの幹は、霧の奥へと消えるほど高く、塔婆こそがこの森の空を支えているのだと錯覚させた。
巨木のところどころに家が張り付き、枝と枝を結ぶ吊り橋が蜘蛛の巣のように走る。
その上で茶屋の白い幟がゆらゆら揺れていた。
樹脂の甘い匂いが漂うなか、塔婆の根元には小さな祠がいくつも掘り込まれている。龍の木彫りもあれば、葉を抱いた女神の像もあり、同じ皿に供え物が置かれていた。
呉国らしい、龍と精霊が同列に祀られる土地柄だ。
通りすがりの老人が、虎嵐の歩調に合わせてぼそりと声をかけた。
「森に入るなら、木護の符を持っときな。昨夜、枝龍がうるさくてな」
虎嵐は軽くうなずくだけで、歩みを止めなかった。
革の半長靴が塔婆の根をまたぎ、林道に足跡だけが残っていく。
昼の気配が濃くなったころ、視界の霧が薄れ、拓けた土地が現れた。
――呉国の宿場町〈華陽〉。
森の国とはいえ、ここは旅人と馬が行き交う街道の重要地。
屋根の低い宿屋や商家が並び、広場では市が開かれている。
街そのものは開けているが、ところどころに塔婆の太い根が顔を出し、まるで地面の下に眠る巨獣の背骨のように道を押し上げていた。
塔婆はこの町を覆いつくすほど多くはないが、一本一本が森の主のような異様な存在感を放っている。
塔婆の大枝に吊された風鈴が、ちりんと鳴り、商人たちの呼び声が混じる。
この街では、塔婆は背景ではなく、ただ静かに息づく隣人のように在った。
「――よし。ここらでいいか」
虎嵐は市の奥まで行き、荷を下ろすと茣蓙を敷き、そこらにあった木箱を裏返して置いた。そして、背嚢の外ポケットから折りたたみ将棋盤を取り出した。
板のように薄いが、開いて木箱の上におくと、しっかりとした呉国彫りの渋い盤面になった。
手早く駒を並べ終えると、木札に殴り書きした看板をトンと立てた。
〈詰め将棋 一局・燐三枚(約三百円)〉
市でよく見られる、詰め将棋である。
子どもから老人まで誰でも知っていて、長い勝負が面倒な旅人にも人気だった。
虎嵐はいつのまにか、小さな人だかりの中心にいた。
「――おう、兄ちゃん。本気で打つぞ。何手だ?」
挑戦者の男が、鼻息荒く胡座をかく。
「三手詰めだ――駒を並べてから、この砂時計をひっくり返す。百五十数える間だ」
「それだけありゃ、十分だ!」
男が白銅貨三枚を卓に置く。
虎嵐は、詰め直前の形を手早く盤上に並べ、
「それッ!」
砂時計をひっくり返した。
「よし。こうだ!」
男は影衛(銀)を動かし、
虎嵐の覇(玉)が逃げる。
男は戦車(飛車)を直進させたが、
虎嵐の持ち駒でブロックされた。
「しまった」
砂時計は残り少ない。
虎嵐が、砂時計を横に倒し、元通りに駒を並べる。
「――え? いいのかい?」
「うちは、良心的な詰め将棋だからな」
並べ終わり、虎嵐は、とん、と砂時計を立て、
「さあ、速決といこうぜ」
と景気よく言った。
男は腕を組み懸命に考えたが、詰まず、砂が途切れた。
「うぇぇ……参った!」
男が頭を下げ立ち上がる。
「惜しかったな。もうちょっとだぜ」
虎嵐はあくまで軽い調子で言った。
客が入れ替わる中、ふと虎嵐の視線が横へ動く。
――向かいの露店。
地元の流氓(ならず者)三人組が、〈木符抜〉の卓を出していた。
――木符抜。
精霊・炎・影の印がある木符が二枚ずつ。
そして、ただ一枚だけ〈凶符〉が混ざる。
親と客が交互に同じペアを抜いていき、
最後に凶符を引いた者の負け。
「さぁさぁ、木符抜よ! 龍も精霊も関係ねぇ、運の勝負だ!」
……ひと勝負が終わり、
「――畜生、やられた。も、もう一度だ!」
客がムキになっていた。
伏せられた木符が卓上で混ぜられて、適当な間隔で並べられる。
(……ひでぇイカサマだな)
虎嵐が立ち上がろうか迷ったその時、次の挑戦者が座った。
「――兄ちゃん、次は俺だ!」
「おう。どうぞ」
三手詰めは一見簡単そうに見えたが、案外手強い。しかも時間制限という〝枷〟もある。
客は何度か手を戻しては考え、青くなった。
(次は? どうしたら?)と悩むうちに
――砂が落ちきった。
「残念だったな。燐三枚、頂戴するぜ」
虎嵐が客に右掌を差し出す。
「……ちょ、ちょっと待て……これ、本当に詰めるのか?」
「ああ、よく見て。まず、飛狼(桂)跳ねて、成りだ。
「それを覇が取る。
「そしたら、虎眼(角)が鋭く斜めに切り込んで
「――どうだい?」
「はぁー、なるほど……」
その時──木符抜の客が、卓を叩いて立ち上がる。
「おい! 今、札すり替えただろ!」
「なんだとコラ! 文句あんなら、証拠見せてみろよ!」
流氓の怒声が響いた。
客の男が胸ぐらを掴まれている。
人々がざわつく。
「またやってるよ、あいつら……」
「絶対イカサマだってのに……」
「……お客さん。銭は卓に置いといてくれ」
虎嵐はゆっくりと立ち上がって伸びをした。
「お、おい! 止めとけ、兄さん」
客が銭を置いて立ち上がる。
「……ちょいと、ムカつく連中がいてよ」
言うや否や、虎嵐は真っ直ぐ流氓の露店へ歩き出した。
「お、おい……あの兄ちゃん行ったぞ……」
「ケンカになるぞ、これ!」
周囲のざわめきが、一瞬だけ止まった。
「――よお、市で荒事は良くねぇなぁ」
虎嵐は、客と流氓の間に割って入った。
「――んだ? てめぇは?」
「俺は、向かいで詰め将棋の屋台をやってる者だ」
「そうかい、てめぇこそ、将棋なんかで客を騙してんじゃねぇだろうな? ええっ?」
黒い対襟上衣の男たちが三人、木符の束を手に歩み出てきた。
背中に入った紋は、地元の流氓〈影牙門〉のもの。
「こちとら木符抜で客を回してる最中なんだ。賭け将棋なんぞに、文句を言われる筋合いは、ねえっ!!」
親分格の巨漢が、唇の端だけで笑う。
さっきまで詰め将棋を見ていた人々が息を飲む。
「こっちこそ、イカサマ野郎に将棋を舐められたら、ムカつくぜ……」
虎嵐は眉を上げた。
「へぇ……ずいぶん余裕だな、兄ちゃん」
巨漢はニヤつきながら、木符の束をこれ見よがしに切ってみせる。
凶符が、一瞬だけ覗いた。
その雑なイカサマに、虎嵐はたまらずため息をついた。
「凶符だけ香りがする。塔婆の樹脂だ」
「なんだと?」
巨漢の笑顔がスッと消える。
空気が少しだけ張りつめた。
「木符に樹脂つけたり、傷つけたりか? んな奴が、俺様に客を騙してんじゃねぇかたぁ、よく言えたな」
「おい、兄ちゃん……死ぬぞ!」
「影牙門に喧嘩売っちゃ!」
周囲の人々が一気にざわつく。
「文句があるなら……拳で来い」
虎嵐は、右拳を顔の前にかかげた。
「てめぇ……調子に乗りやがって!!」
巨漢の眉が跳ね上がる。
次の瞬間、流氓の一人が怒号と共に飛びかかってきた。
流氓の右拳が、虎嵐の顔面にあたった。
――はずが、
流氓の目の前に虎嵐の姿はない。
「うしろだよ!」
虎嵐の声に振り向いたとき、
パ、パァン!!
と両頬を貼り飛ばされ、流氓は、思わずしゃがみ込み、
「な、なんだ今の速さ!?」
両手で頬を押さえながら涙目になった。
「てめぇ、調子に乗るなよ!」
残る二人が青ざめ、それでも面子のために吠える。
「囲め、囲めぇッ!」
巨漢の方が叫んだ。
虎嵐は肩をすくめただけで、一歩も動かなかった。
「――ハイィィッツ!! 影牙拳!」
二人が左右から同時に飛びかかる。
「「阿吽挟撃だぁッ!!」」
虎嵐を圧殺すべく、二人の肩からの体当たり。
その瞬間──虎嵐の姿が消えた。
互いに、思い切りぶつかる。
自らの突撃で、二人は見事に反対方向へ吹っ飛んだ。
「ぐえっ!」
「ひぃっ!」
二人の流氓が、地べたに転がる。
広場にどっと笑いが起き、塔婆の枝につるされた風鈴がちりんと鳴った。
「……将棋なめんなよ。イカサマもなしだかんな」
虎嵐は、右手の人差し指をピンと立てた。
「――兄さん。ホント助かったよ。へへ……」
カモられていた客が、虎嵐に頭を下げる。
周囲から歓声が起こっていた。
――と、
周囲の空気が静まった。
今まで騒いでいた人々が、声を潜めて通り道を開けていく。
倒れた流氓たちの後ろから、静かに歩み出る細身の男がいた。
頬がこけ、青白い肌に、細長く垂れた口髭。黒い頭巾。黒い長衣と長裙、腰帯、いずれも着古されている。
無駄のない足運び。
腰の剣は安物ではない。
周囲の空気が、塔婆の影ごと沈んだように感じられる。
男は胸の前で右拳を左掌にあて、静かに礼をした。
──抱拳礼
「……影牙門武侠、痩狼だ」
「ふうん。用心棒かい? 本名か?」
虎嵐は片眉を上げた。
男は小さく笑った。
笑ったが、その目は冷えている。
「かつての名は捨てた。今の俺には……痩狼というあだ名が相応しい」
「そういう生き方か。嫌いじゃない」
虎嵐も抱拳礼を返す。
「虎嵐だ」
「覚えておこう──では、剣で相まみえよう」
痩狼は、両手をだらりと垂らし、腰を落とした。
――吼ッ!
虎嵐の右拳が走り、痩狼の右手が光った。
「――速いな。いつもなら右手は落ちてる」
痩狼は言った。
――しゃあッ!
虎嵐は拳を突いた。が、これはフェイント。
ゴムのように、後退した。
合わせて、痩狼が直剣を抜き、
斬る、
斬る、
斬る!
直剣は痩狼の息づかいと同じ速さで迫った。
前進しつつの連撃。
単調で直線的な動きではない。
柔軟な手首の返しにより、直剣が鞭を振るうがごとき軌道を描く。
虎嵐は防戦一方となる。
下がり、横に避け、のけぞり、お辞儀のように、頭をさげる。
その度に、虎嵐の後ろ髪が激しくゆれた。
痩狼は一つ突いてから、直剣を鞘に収めた。
「――いつまで遊ぶか!」
痩狼は動きを止め、苛立った声で言った。
「そうだな。見切りの稽古と思ったが――」
言うなり、虎嵐は走った。
痩狼も走る。
虎嵐は己の屋台――荷物の元へ。
背嚢に手を掛けるのと、ほぼ同時に、痩狼が虎嵐に剣を振り下ろした。
――ぎぃん。
虎嵐が両手で持ち上げた背嚢が、痩狼の剣を受け止めている。
正確には、背嚢に付けられた〝武器〟が、剣を受け止めたのである。
虎嵐が木箱を蹴り飛ばし、乗っていた将棋盤と駒が飛び散った。
痩狼が木箱を避けた瞬間、虎嵐は横へ前転し、素早く立ち上がる。
しゅりん、
と、剣を抜くような金属音がして、
立ち上がった虎嵐の両手には、愛用の武器が握られていた。
――〈月虎爪〉
それは、右手に装備する場合、
右(正)向きの三日月状の刃――〈月牙〉と、
左(逆)向きの三日月状の刃――〈虎爪〉とを、組み合わせた形を成す。
形状としては、〝)〟と〝( 〟を向かい合わせに重ねたような構造であり、二つの刃は互いの内側へ食い込むように配置されている。
月牙の中央部には革が巻かれており、ここを握って縦に構えると、両端の刃が相手に向く。
なお、月牙側の上端は、下端よりもわずかに長く作られている。
「……面白い」
痩狼の目が細くなる。
「その武器を持つ者と、過去に一度、戦ったことがある」
痩狼が、ぼそっと言った。
「へぇ? どうなった?」
と、言いながら、虎嵐は両手の月虎爪を、拳法の場合と同じく構え、右足をわずかに引き、重心を沈めた。
「――殺した。俺は生きている」
にいぃっ、
と痩狼は、獣じみた笑みを浮かべた。
そして、剣を腰の鞘に戻すと、すぐさま体勢を切り替えた。両腕を伸ばし、掌を地面に向け、腰を落とし膝を軽く曲げた構えをとる。
発条をギリギリと上から押しつぶす映像が、痩狼、虎嵐、両者から見えるようであった。
――風が止まる。
塔婆の枝に吊られた風鈴が、音を失った。
――次の刹那、
痩狼の剣が光り、弧を描いた。
虎嵐が剣を受けようが、受けまいが、痩狼が舞う。
上下、
左右、
切れ目のない連撃で、独楽のように回転し続ける。
月虎爪と剣が交差し、白い閃光が迸る。
――と、
痩狼が回転を利用して、虎嵐の死角へ、一瞬で動いた。
〈夢影牙突〉
死角からの突き。
ぎしっ、
剣が虎嵐の腹を貫く寸前で、月虎爪が上から絡め止めた。
互いに、後方へ跳び退り、間合いを取る。
――痩狼は、にっと笑った。
剣を持った腕を、弓を引くような形に構え、左掌を虎嵐へ向け、顔前に伸ばす。
虎嵐の瞳が爛々とした。
――次の刹那、
二人は、同時に前へ飛び出した。
痩狼の剣が、虎嵐の左目に奔った。
虎嵐は左肘をL字に保ったまま、上腕を縦に外旋した。
左の月虎爪が剣に絡み、パキン! と音がした。
同時に、虎嵐は地を蹴り、塔婆の枝を越える高さまで跳躍した。
虎が獲物の背を噛みにいく、その一瞬の加速。
〈虎跳兎狩〉
落下の力が加わった右の虎爪――〝(〟が、一直線に痩狼の頭上へ落ちた。
虎嵐は痩狼の頭上を越え、向こう側へ降り立った。
痩狼は頭から血を吹き上げ、前のめりに倒れた。
その右手に握られた剣には、先の部分はなかった。
周りから、歓声と拍手が沸き起こった。
「――騒ぐなっ!!」
虎嵐は吼えた。
誰かが息を呑む音が、やけに大きく響いた。
「俺は、立派なことをした訳じゃねぇ……」
虎嵐は痩狼の側に寄って、仰向けにすると、掌で瞳を閉じてやった。
虎嵐の瞳は暗かった。
