――ここは朧隠の村。
山奥の里。
夜露の匂いが濃い。
囲炉裏の火がぱちぱちと弾け、その火の粉を見つめながら、風婆は口をひらいた。
腰まである長い銀色の髪。
皺だらけの顔。
歳を忘れるほど昔から生きている。
人か妖かも分からぬ古老。
「……よいか。いにしえの話じゃ。
「神々さえまだ生まれとらん頃のことじゃぞ」
子らが息を呑み、大人たちでさえ身を乗り出した。
「そのころはのう、時っちゅうもんがまだ、なかった
「――ほれ、日が昇ったり沈んだりせんのじゃから、朝も夜もありゃせん。
「古とも呼べん、なんとも妙な虚のときじゃった」
風婆はその情景を思い出すように、黒々とした梁を見上げた。
「――その虚の中に、二つの大いなる卵が浮かんでおった」
「……卵?」
と子どもが目を丸くする。
「そうじゃとも。鳥の卵でも魚の卵でもない。
「光と闇が、ぎゅうっと固まってできた天の卵じゃ。
「ひとつは白く──星々の歌を宿した光の卵。
「もうひとつは黒く──全てを呑み込む闇の卵。
「白き卵からは、光の龍・神羅が生まれた。
「黒き卵からは、闇の龍・玄象が這い出たのじゃ」
子どもが、体を震わせた。背筋を小さな蛇が這い上ったかのように。
「その後じゃ、朝と夜が生まれ、時が目を覚ましたのは……
「塵が湧いてきて固まり、星屑になったかと思えば、
「星になったりで、なんとも賑やかになりよった。
「二匹の龍は宙の塵や屑星をむさぼるように喰ろうて、どんどん育っていった。
「天の川は、あの二匹の遊び場じゃった。
「やがて、天の川さえ狭く感じるばかりの大きさになった。
「ほいでな……その神羅と玄象の二匹じゃが、
「最初のうちは仲睦まじうしておった。兄弟のようにな。
「互いの尾をからませて踊ったり、空に軌跡を描いて遊んだり、
「それはそれは、のう……」
ふ、と風婆の顔に影が差す。
「じゃが、喰らうもんが尽きてくると様子が変わってきた……」
塵や屑星ではない――命が宿った星を喰らってもいいのか?
神羅は、己が大きくなることより光をたたえ、星々を育てることにした。
玄象は闇を深め、すべてを呑み込んで永遠に変えることを求めた。
ある時、二匹はひとつの星を巡って争いを始めた。
それは蒼く輝く――古の我らの星だった。
神羅はその星を『育てよう』と言った。
玄象は『呑み込んで永遠にしよう』と言った。
――争いは万年に及んだ。
天は裂け、海は泡立った。
星はいつ砕けてもおかしくないほど消耗して行った。
そんな時、光の龍・神羅は戦いの渦の中で、ふと玄象を見つめた。
長大な蛇身を雲間にくねらせ、眼下の星を覆う影のような黒い龍。
その姿に神羅は静かに声をかけた。
『……玄象。このまま我らが争えば星は耐えられぬ』
『それがどうした。遅かれ早かれ、すべては闇へ帰す。この星も例外ではない』
玄象は大いなる蛇身をゆっくりと巻き取り、深淵のような眼を細めて言った。
『違う。この星は、まだ育つことを選べる』
『育とうが滅びようが最後には虚無へ落ち着く。それが理だ』
と玄象は言った。
「――ことわり?」
子どもが小声でつぶやく。
「おう、お前さんにゃ、まだ難しいかもしれんがの。世の在り方じゃ」
風婆はゆっくりとうなずく。
神羅は雲を巻き込み体を伸ばし、天と地をつなぐ柱のように立ち上がった。
『ならば――我らが理となればよい』
『……理だと?』
玄象の黒い鬣が、風もないのに揺れた。
『肉体を持てば争いは終わらぬ。だが、理は争わぬ。
『ただ在り続ける。光と闇が理として並び立つならば、この星は均を得る』
『……我が争いを捨てる、と?』
玄象は尾をゆっくりとうねらせ、砕け散った空の欠片を見下ろした。
『争うのをやめるのではない。争いを、生き物のような衝突から世界を支える理へと昇華するのだ』
『……肉体を捨て、理として残る……か』
黒い雲が玄象の周囲で渦を巻いた。
『星が滅ぶよりは良い。お前もそう思っておるはずだ。理は永遠だぞ』
長い沈黙が落ちた。
やがて玄象は黒い鬣を揺らし、うなずいた。
――囲炉裏の火がぱちんと爆ぜ、子どもらが、びくりと肩を震わせた。
『……神羅よ。お前と争う日々は嫌いではなかった』
『我もだ。玄象』
『ならば――最後くらい共に並ぶとしよう。この星に我らの理を託すためにな』
こうして二柱の龍は、初めて互いを見たまま静かに身を寄せた。
神羅は光の奔流となった。
玄象は深淵の影となった。
二柱の巨大な蛇身は、無数の欠片へ砕け散った。
――光の欠片は大地へ降り注いだ。
大地の奥底へ潜り卵となった欠片は、龍を育てた。
「……二匹が死んでも、また龍が生まれたの?」
子どもがぽつりと言う。
「そうじゃとも」
風婆が笑い、
「婆が死んでも、また、子どもが生まれてくるじゃろがい?」
と火をつついた。
――闇の欠片も地中深くへ沈んだ。
卵には成らなかった。
魑魅魍魎――総じて〝妖〟となった。
――こうして大地には、光と闇の理が根を張った。
「龍は守り手。妖は世を壊そうとする者だわい」
一呼吸おいて、
「ま、ここから先は……お前さんらの物語よ。
「光の理を呼ぶか、闇の影を揺らすか……
「それを決めるのは、いつだって人じゃ……」
風婆は火を見つめ呟いた。
山奥の里。
夜露の匂いが濃い。
囲炉裏の火がぱちぱちと弾け、その火の粉を見つめながら、風婆は口をひらいた。
腰まである長い銀色の髪。
皺だらけの顔。
歳を忘れるほど昔から生きている。
人か妖かも分からぬ古老。
「……よいか。いにしえの話じゃ。
「神々さえまだ生まれとらん頃のことじゃぞ」
子らが息を呑み、大人たちでさえ身を乗り出した。
「そのころはのう、時っちゅうもんがまだ、なかった
「――ほれ、日が昇ったり沈んだりせんのじゃから、朝も夜もありゃせん。
「古とも呼べん、なんとも妙な虚のときじゃった」
風婆はその情景を思い出すように、黒々とした梁を見上げた。
「――その虚の中に、二つの大いなる卵が浮かんでおった」
「……卵?」
と子どもが目を丸くする。
「そうじゃとも。鳥の卵でも魚の卵でもない。
「光と闇が、ぎゅうっと固まってできた天の卵じゃ。
「ひとつは白く──星々の歌を宿した光の卵。
「もうひとつは黒く──全てを呑み込む闇の卵。
「白き卵からは、光の龍・神羅が生まれた。
「黒き卵からは、闇の龍・玄象が這い出たのじゃ」
子どもが、体を震わせた。背筋を小さな蛇が這い上ったかのように。
「その後じゃ、朝と夜が生まれ、時が目を覚ましたのは……
「塵が湧いてきて固まり、星屑になったかと思えば、
「星になったりで、なんとも賑やかになりよった。
「二匹の龍は宙の塵や屑星をむさぼるように喰ろうて、どんどん育っていった。
「天の川は、あの二匹の遊び場じゃった。
「やがて、天の川さえ狭く感じるばかりの大きさになった。
「ほいでな……その神羅と玄象の二匹じゃが、
「最初のうちは仲睦まじうしておった。兄弟のようにな。
「互いの尾をからませて踊ったり、空に軌跡を描いて遊んだり、
「それはそれは、のう……」
ふ、と風婆の顔に影が差す。
「じゃが、喰らうもんが尽きてくると様子が変わってきた……」
塵や屑星ではない――命が宿った星を喰らってもいいのか?
神羅は、己が大きくなることより光をたたえ、星々を育てることにした。
玄象は闇を深め、すべてを呑み込んで永遠に変えることを求めた。
ある時、二匹はひとつの星を巡って争いを始めた。
それは蒼く輝く――古の我らの星だった。
神羅はその星を『育てよう』と言った。
玄象は『呑み込んで永遠にしよう』と言った。
――争いは万年に及んだ。
天は裂け、海は泡立った。
星はいつ砕けてもおかしくないほど消耗して行った。
そんな時、光の龍・神羅は戦いの渦の中で、ふと玄象を見つめた。
長大な蛇身を雲間にくねらせ、眼下の星を覆う影のような黒い龍。
その姿に神羅は静かに声をかけた。
『……玄象。このまま我らが争えば星は耐えられぬ』
『それがどうした。遅かれ早かれ、すべては闇へ帰す。この星も例外ではない』
玄象は大いなる蛇身をゆっくりと巻き取り、深淵のような眼を細めて言った。
『違う。この星は、まだ育つことを選べる』
『育とうが滅びようが最後には虚無へ落ち着く。それが理だ』
と玄象は言った。
「――ことわり?」
子どもが小声でつぶやく。
「おう、お前さんにゃ、まだ難しいかもしれんがの。世の在り方じゃ」
風婆はゆっくりとうなずく。
神羅は雲を巻き込み体を伸ばし、天と地をつなぐ柱のように立ち上がった。
『ならば――我らが理となればよい』
『……理だと?』
玄象の黒い鬣が、風もないのに揺れた。
『肉体を持てば争いは終わらぬ。だが、理は争わぬ。
『ただ在り続ける。光と闇が理として並び立つならば、この星は均を得る』
『……我が争いを捨てる、と?』
玄象は尾をゆっくりとうねらせ、砕け散った空の欠片を見下ろした。
『争うのをやめるのではない。争いを、生き物のような衝突から世界を支える理へと昇華するのだ』
『……肉体を捨て、理として残る……か』
黒い雲が玄象の周囲で渦を巻いた。
『星が滅ぶよりは良い。お前もそう思っておるはずだ。理は永遠だぞ』
長い沈黙が落ちた。
やがて玄象は黒い鬣を揺らし、うなずいた。
――囲炉裏の火がぱちんと爆ぜ、子どもらが、びくりと肩を震わせた。
『……神羅よ。お前と争う日々は嫌いではなかった』
『我もだ。玄象』
『ならば――最後くらい共に並ぶとしよう。この星に我らの理を託すためにな』
こうして二柱の龍は、初めて互いを見たまま静かに身を寄せた。
神羅は光の奔流となった。
玄象は深淵の影となった。
二柱の巨大な蛇身は、無数の欠片へ砕け散った。
――光の欠片は大地へ降り注いだ。
大地の奥底へ潜り卵となった欠片は、龍を育てた。
「……二匹が死んでも、また龍が生まれたの?」
子どもがぽつりと言う。
「そうじゃとも」
風婆が笑い、
「婆が死んでも、また、子どもが生まれてくるじゃろがい?」
と火をつついた。
――闇の欠片も地中深くへ沈んだ。
卵には成らなかった。
魑魅魍魎――総じて〝妖〟となった。
――こうして大地には、光と闇の理が根を張った。
「龍は守り手。妖は世を壊そうとする者だわい」
一呼吸おいて、
「ま、ここから先は……お前さんらの物語よ。
「光の理を呼ぶか、闇の影を揺らすか……
「それを決めるのは、いつだって人じゃ……」
風婆は火を見つめ呟いた。
