アンラベル・ブルー

ミーンミンミンミーン

「……のか?」
あ、えっと。ん? (せみ)の声に気がそれていて、何と言われたのか聞き取れなかった。

「だから本当に大学は考えていないのか?」
顔を上げると正面に見えるのは、見慣れた担任の顔。快晴の空を背景にして、俺は進路指導の真っ最中だった。本来は三者面談なのだが、俺の隣の席は空席である。そのため実質進路指導、ということだ。目の前には、2枚の紙が並んでいた。向かって右側は1学期の成績表。5とわずかな4が縦一列に整列していた。そして左側には、つい1週間ほど前に提出した進路調査票。すでに「4.就職」に黒ボールペンで丸がついている。こんなぺらぺらな紙2枚に俺の人生は乗っかっているらしい。それを見て、担任は顔をしかめる。眉と眉の間に深い縦ジワが3本。こんなにくっきり皺って入るんだな、とじっと目で追ってしまう。この紙2枚は、担任をこんな顔にさせてしまうほどの効力があるようだ。

「俺は、就職する予定です。進学は考えてません」
1年の頃から変わらない。俺にとっては、何を今更、という話だ。この三者(二者)面談を終えれば夏休みだ。俺には受験勉強も、部活も、恋人も、ない。あるのは同じく夏休みに突入する弟たちとの時間である。

「でも、この成績なんだし、定期テストだって15位以内をキープしているじゃないか。350人中の15位だぞ!もっと自信をもっていいじゃないか。親御(おやご)さんともう一回ちゃんと話してみろ」
就職志望なのが、自分に自信がないからではないけれど。提出したはずの進路調査票が、成績表とともに返却されてしまった。

「ぜったい今日帰ったら親御さんに相談するんだぞ!明後日の終業式の後に聞くからな」
だから俺の中ではもう決まってるんですって。親のお墨付きがないと俺の意志はこんなにも受け入れてもらえないらしい。担任が俺のことを思って熱心に言ってくれているのはわかっている。その点では、本当に感謝しているが、俺の気持ちは揺るがない。高卒と大卒では生涯年収の差がある、という現実くらい理解している。それでも、少しでも早く社会に出て、稼ぎたい。万が一大学に行きたくなったら、行きたくなったときに行けばいい。今の時代は、高校卒業、大学卒業、就職、終身雇用、というレールに乗る時代ではないのに。

「わかりました。家に帰ったら話します。ありがとうございました」
俺は、形式だけの返事をして、席を立った。冷蔵庫、きゅうりは残っていたっけ。

コン、コン。包丁とまな板がぶつかり、リズミカルで心地のよい音がキッチンに響く。担任との面談を終えたあと、俺はスーパーで買い物を終え、帰宅した。青々とした一本のきゅうりが、右から順番に薄い楕円形(だえんけい)に変化していく。母みたいに素早く、均等に輪切りにすることはできない。もうすっかり慣れた包丁さばきだが、あのスピードは出せないのだ。あの速さは熟練のものなのだろうか、自分のようにたった数年やれば極められるものではない。包丁一つとっても、料理は奥深い。ゆっくりでも、ちゃんときれいに切れていれば満足だ。これは、あとで浅漬(あさづ)けにする用のきゅうりだ。一本目を切り終えたので、あと2本。合計3本切って漬けても、出来上がった浅漬けは冷蔵庫の中で一晩にして跡形もなく消えてしまう。うちは食べ(ざか)りがたくさんいるからな。戦犯たちの顔が浮かんで思わず笑みがこぼれてしまう。すると、

「かずにい、わらってるー!」
キッチンの柱と柱に立てかけるようにして設置されたバリケードの向こう、背伸びしながらこっちを見る戦犯がいた。叶人だ。

「いやなんでもないよ。叶人(かなと)、ちゃんと体操服は洗濯機に入れた?」

「きゅうりだ!きゅうり!」
今度はしゃがんで、バリケードの隙間から顔を(のぞ)かせ、こちらをじっと見ている。叶人はきゅうりが大好き。この前のお祭りで一本まるまるの浅漬けきゅうりを買ってあげたところ、気に入ったらしい。まだ4歳なのに、一丁前にきゅうりの浅漬けの美味しさを知ってしまい、こうしてきゅうりの浅漬けが冷蔵庫の常備品になってしまっている。

「きゅうりはわかったから。体操着出して、そしたらきゅうりあげるから」

「えー、きゅうり!!」
口を文字通りへの字にして、その場で2回ほどジャンプする。これは地団駄(じたんだ)を踏んでいる。叶人はこうなってしまったら絶対に動かない。4歳児の扱いはうまくいかないもんだ。包丁を置いて、輪切りにしたきゅうりを摘み、叶人の大きく開けた口に入れてやる。ぷっくりしたほっぺたがぷにぷに動く。そして両目をぎゅーっとつむって笑顔を見せてくれる。本人はウインクをしているつもりだが、こちらからすると満面の笑みにしか見えない。4月から行き始めた幼稚園では日々いろいろなことを覚えて帰ってくる。ウインクも幼稚園で覚えてきたものだ。叶人の最近のマイブームみたいだ。

「はい、きゅうりを食べた叶人のミッションは何ですか?」
ご満悦の4歳児に問題を出す。しつけのつもりだが、先にきゅうりをあげてしまったので、もうすでに甘やかしてしまっている。

「たいそうぎ!」

「そう、体操着を洗濯機に入れてくださーい!」と言いながら、きゅうりを切る作業に戻る。夜ご飯までに漬からなければ叶人が機嫌を損ねる。トントン、と切っていると、ドアが開いた音がする。優人が部活から帰ってきた。

「おかえりー」
ドアの方に向かって、少し声を張り上げて言う。うん、と声が返ってくる。うんじゃないだろ、と思いながら、また手を動かす。優人(ゆうと)は最近ちょっと反応が(にぶ)くなってきた。ついに思春期到来だろうか。ドンドンと階段を上がっていく音がキッチンまで聞こえる。優人はリビングにくることなく2階の自室に行ってしまったようだ。そのすぐあと、またドアが開き、母親の声が聞こえた。

「ただいまー、あ、和人(かずと)、叶のきゅうりやってくれてるのね、ありがとね」
と言いながらも、リビングに放り出された体操着を手際よく回収していく母親の姿。母さんすげえ、帰宅早々マルチタスクだ。

「遥ちゃんただいま。塗り絵してたのね、上手ね。あれ?叶人どこいったんだー?どこかなー?」
と母さんがわざとらしい芝居(しばい)を打つ。右手は遥人(はると)の頭を()で、左手はおでこの近くで敬礼のようなポーズをしている。マルチタスクだ。待ち侘びた母さんに、我慢ができなくなったのか、叶人がきゃっきゃと声をあげる。見つけたー!と母さんが叶人のほっぺたをぷにぷにしていた。あ、いいな。後で俺もやろう。

きゅうりの下ごしらえを終え、冷蔵庫に入れ、リビングに向かい、遥人の隣に座った。俺の家族は、父さん、母さん、俺、優人、健人(けんと)、叶人、遥人の7人家族だ。もうお分かりだろうが、俺は、5人兄弟の長男で、高校生ながらに弟たちの面倒を見ることが多い。5人兄弟ということで、家の中は常に(さわ)がしい。家の中が綺麗だったころの記憶はほぼないくらい、毎日嵐が過ぎ去ったほどにものが散乱している。弟たちは生意気なところも多いが、本当にかわいい。次男の優人は中学1年生。ついに思春期が始まったのか、最近は口数が少ないが、俺におこづかいをせびりに来るときはいつも饒舌だ。そして三男の健人は小学校4年生。最近野球クラブを始めて、夜もキャッチボールして、と言いに来るのがかわいいが、この調子で家の中でキャッチボールし続けると、いつか家の窓を割りそうだとひやひやしている。小学校4年生のわりに弟たちがいるからなのか、達観(たっかん)している部分があって、見ていて面白い。背伸びしたいお年頃なのだ。そして四男と五男の叶人と遥人は双子だ。叶人は元気いっぱいで、好奇心旺盛(おうせい)だ。最近はきゅうり(特に浅漬け)が好きだ。その前はチータラや、さきいかにはまっていた。なかなか好みがおっさんじみている。そして五男の遥人は、あまり感情を表に出さない子だ。マイペースで、叶人とは双子なのに正反対だ。今は塗り絵に集中していたかと思えば、こちらを見て、なにか言いたげだ。

「うり」
きゅうりだ。さっき叶人にあげたからだ。こういうちゃっかりしているところ、遥人のいいところだ。いいぞ、そのまま大人になるんだ、叶人に負けるんじゃないぞ。

「きゅうりだな、待ってろ兄ちゃん取ってくるから」
冷蔵庫に漬けたばかりのきゅうりをもって遥人のところへ戻る。一口分(叶人よりちょっと多め)を遥人に食べさせると、満足そうにんふー、と口角が三日月形になった。よかったよかった。

「母さん今日はご飯どうする?健人はまだ帰って来ないよな?」
「うん。お友達のお母さんが送ってくれるって。焼うどんとお好み焼きするかー、キャベツあったよね?」
「さっき買ってきたよ、お好み焼きの予感していたから」
「和人ナイス!さすが私の息子ー!」
叶人と同じノリで抱きしめようと母さんがするので、暑い、とひっぺがした。

「もう和人はぎゅーしてくれないのかー寂しいなあ」
「いやいくつだと思ってんだよ、17歳!」
そう、俺は17歳。といっても、早生まれの高校3年生だ。つまり、進路選択真っ只中の夏休みを迎えようとしている。午前中のしかめっ面の担任が頭をよぎる。カバンに入った調査票と成績表が、出番を待ち構えているだろう。

「あ、そうだ。今日、三者面談だったでしょ。いけなくてごめんね。成績表もらってきた?」
言われなければやり過ごそうとしていたのに、自分が考えていたことが見透かされていたのか。母さんは鋭い、いつも痛いところを突かれる。

「うん、返ってきたよ。まあまあかな」
「まあまあ、って、期末テストも点数良かったじゃない、見せて見せて!」
叶人のバイタリティは、母さん譲りだな。そんなことを考えながら、カバンから成績表を出して、母さんに渡す。

「どれどれ、おお、すごいじゃん。ほとんど5じゃん!みてみて遥人、お兄ちゃんすごいよ~」
塗り絵に夢中な遥人に成績表を見せるが、当の遥人はなにもわかってなさそうだ。その代わりに、お兄ちゃんすごい!と隣にいた叶人が連呼する。
この景色が続けば俺はいいんだけどな。成績表と同じクリアファイルに入れていた進路調査票はカバンの中にしまう。これは必要ない。

そんな俺の隠し事は所詮子供じみたものなのか、努力虚しく、固定電話が鳴り響く。母さんが出てしまい、相手が高校の担任であることが、話の内容から伝わってくる。時計を見ると2分くらいしか経っていないが、電話がやけに長く感じた。いたたまれなくなり、遥人が塗り絵をする姿を見つめる。林檎の部分、紫のクーピーを手に取ろうとする遥人。俺はつい「それじゃないよ」と、遥人が握っていた紫を取り上げ、赤いクーピーを渡してしまった。遥人は何のリアクションもなく、林檎を赤く塗っている。受話器を置くと、母さんがこっちを見て、左眉だけを上げた。母さんが困ったときにやる癖だ。

「和人、進路どうするの?進路調査、もってかえってきているんだよね?先生言ってたよ」
あー、めんどくさいなあ。担任との第一ラウンドを終えたばかりなのに。第二ラウンドがはじまろうとしている。きっと父さんが帰ってきたら第三ラウンドも待っているだろう。

「就職で出すよ」
叶人と同じく、口がへの字になる母さん。不本意そうだ。

「前も言ったけれど、うちは大丈夫だから。和人は和人のやりたいことをやってほしいの。大学だって、行きたいなら行くべきよ。和人勉強できるんだから」
「わかってるって、俺は就職したいから」
「就職なんて、大学行ってからでもできるでしょう、学費だって心配しないでいいから」
それは心配する。俺が大学行ったら家計が火の車になることは目に見えている。これから、叶人や遥人もお金がかかってくるようになるだろうに。手持ち無沙汰で、テーブルの木目を意味もなく指でなぞった後、キッチンに逃げてキャベツを切り始める。

「ねえ和人、先生も、成績が良いんだからもったいないって言ってたよ」
俺を追うようにして、母さんがキッチンに来る。俺が切り終えたキャベツをボウルに入れ、お好み焼きのタネを作り始めた。隣に並ぶ姿は、少し小さくなったように見える。

「母さん身長縮んだ?」
「なっ、縮んでない!和人がまた大きくなったんでしょ。もう180cmあるんじゃない?」
母さんは身長153cm(自称)なので、身長をイジると必ずムキになる。

「ねーよ、この前測って178」
「ほぼ180じゃん!」
「2cmは偉大なんじゃないの?」
「そ!そうだけど!」
母さんの身長はたぶん150cmぐらいだと踏んでいる。だから2cmの差は母さんにとって偉大なものだ。そのうち健人にも身長を抜かされるだろう。この小さな体が、5人兄弟を支えている。早くこの小さな背中を支えられるようになりたい。

下ごしらえを終え、帰ってきた健人もまとめて夜ご飯を食べさせて風呂に入れる。なんやかんやしているうちに時刻は23時を回っていた。弟たちの相手をしていると、時間が溶けるように過ぎていく。すでに配布された夏休みの宿題をやろうと、2階の自室に戻ったとき、下で玄関のドアが開く音がした。父さんが帰ってきたのだ。父さんは、飲料メーカーで管理職をしている。夏はどうしても忙しいみたいで、朝早く会社に行き、帰ってくるのは23時を過ぎている。毎日疲れ果てた顔で帰ってきては、俺が寝ている時間に会社へ行っている。俺は暑さで水分が欲しくなり、一階のキッチンへ向かうために階段を忍び足で降りた。大きな音を出すと遥人が起きてしまうからだ。
冷蔵庫から水を取り出すと、スーツ姿の父さんがリビングに来る。それを追うようにして部屋着姿の母さんもいた。まずい。

「ねぇ、和人、進路のことなんだけど」
はじまった。母さんは忘れていなかったようだ。クタクタの父さんを巻き込まないでくれ。

「和人、ほんとに就職するのか?」
被せるようにして、父さんが聞いてきた。父さんと視線がかち合う。タレ目の下に浮かぶのは青いクマ。前見たときより、色濃くなっている気がする。

「うん。するよ。決めたことだから」
「なんで?」
なんで?そういうものだと思っていたから理由なんてなかった。テレビで取り上げられる大家族の長男や長女は決まって高卒で働いている。それを見てきたのだから、そういうものだと思っていた。やりたいことはないけれど、大学に行かない理由もない。だって親は大学を、勧めているのだから。強いて言うなら、自分の半端な学生生活の延長により、親に負担をかけたくない。親だけでなく、俺が大学へ行けば、今後弟たちの選択肢を狭めてしまうかもしれない。それが何より耐えられなかった。

「やりたいことないし」
「それでいいんだな?」
父さんの含みある言い方。いつも、多くを語らない父さんがここまで言うことなんてない。じゃあどうしたらいいんだよ。喉まで出かけた言葉は、父さんの顔の中心に居座るクマによって引っ込んでしまった。父さんをこれ以上すり減らしてまで、大学に行きたいと思わない。

「お前一人が行くくらいの学費、なんとかなる。長男だからって我慢すんな」
肩に手をぽんと置いたあと、父さんは風呂に入ってしまった。一瞬見えた父さんの手はいつの間にかシワが増えた気がする。あんな手だったっけ。たしかに苦労を重ねて生きてきた証だ。母さんは、そういうことだからね、和人。といって2階へ上がっていった。手に持ったコップを飲み干し、シンクにコップを置く。思ったより、ドンとシンクが音を立ててしまった。2階の自室へと向かおうとすると、父さんがシャワーを浴びる音がする。時刻は0時を回っていた。階段を一段ずつ登る。子供の頃は、一段が崖と思うくらいに高かった段差。今は軽く超えられる。大学に行きたい理由もないけれど、行かない理由もない。なんで。

自室の扉を閉めると、静けさが俺を迎えた。夕方から今に至るまでのバタバタした家とは別の場所みたいだ。のろのろと歩き、ベッドへうつ伏せになだれ込む。俺の選択はそんなに間違っていることなのだろうか、それなら何が正しい?両親に負担かけて、弟たちの可能性を狭めることが俺の正解なのか?俺はそうとは思わない。たしかに、友達はみんな大学に進学希望だ。みんな志望校合格へ向けて、勉強や部活に打ち込んでいる。じゃあ俺はどうすればいい?行き場のない感情が、右往左往して、暗闇へと消える。顔を上げ、ベッドに沈んでいたスマホの画面をつける。だらだらと時間を消費しているうちに、Q&Aサイトにたどり着いていた。
Q&Aであなたのお悩みを、解決できます!知恵&知識を共有しませんか?という謳い文句に誘われ、新規投稿欄ボタンをタップする。

『今、高校3年の17歳で、5人兄弟の長男です。進路に迷っているので、アドバイスいただけませんか。弟たちのこともあり、親に負担をかけたくないです。就職で考えています。でも親は大学も視野に入れろと言っています』

入力欄に等身大の思いを綴り、投稿ボタンを押した。「投稿されました」という無機質な文字が表示されると、行き場のない感情がスッと消えていき、無性にホッとしてしまう。冷たい画面の明かりが消えるのと同時に、安心しきった俺の意識も深い眠りへと溶けていった。

翌日。遠くで聞こえる甲高い声。顔面が布で覆われていると気づいた途端、息が苦しくなって飛び起きた。どうやら、うつ伏せのまま眠ってしまっていたようだ。
左手には、昨日操作していたスマホが握りしめられたままだった。それを机に置こうとして、昨夜の自分の行動を思い出す。

そうだ、Q&Aサイトを開いて、勢いだけで投稿してしまったんだ。今考えれば、自分のことさえ自分で考えずに、顔も知らない誰かに相談してしまった自分の軽さに後悔する。

投稿を消さなきゃ。
すぐにロックを解除して、昨日開いたままだったサイトの画面を見ると、そこには『あなたの質問に回答が来ています』の文字。

見るか見ないか逡巡したあと、俺は確認ボタンをタップしてしまった。

回答は1件ではなく、7件も来ていた。数分前に書き込まれたものから、深夜の3時に回答されたものまである。投稿してからまだ8時間ほどしか経っていないはずなのに。俺が開いた門扉は、想像以上に大きく開かれてしまっていたようだ。

もう、全世界に向けて開かれた扉を閉ざすには遅いらしい。不安と同時に、すでに俺の胸は好奇心でいっぱいになっていた。

だが、あらわれた言葉たちにスクロールする手が止まる。

「それはヤングケアラーですね。然るべきところでサポートを受ける必要があると思います」
カテゴリマスターからの回答だ。アイコンをタップすると、子どもや若年層の家庭環境に対する質問に多く答えている人みたいだ。すでにその回答には、いいねマークが6件もついている。

また別の回答。
「親が長男への負担をわかっていませんね。大家族というのは、子どもたちへの負担をわかっていない親のせいですね」
「親の責任をあなたが背負う必要はありません」
「がんばれ」
「家を出る一択」

あとは、どの回答よりも長文なAIからの回答。そこには、子ども相談センターや悩み相談窓口の電話番号が羅列されていた。

画面越しに投げつけられた見ず知らずの他人の言葉は、どれもぐうの音も出ないほどの「正論」だった。客観的に見れば、俺の置かれている状況は彼らの言う通りなのだろう。世間一般の正しい答えが、そこには並んでいた。
でも。
俺は、好きで弟たちの面倒見てるだけだから。だから……。だから?俺は、自己犠牲を、やりたいことがない、と言い換えていたのか?そんなはずはない。俺は、自分の意志で……自分の意志?

俺は気づいたときには長男として、父さんと母さんのためにしっかりしなきゃと思って……。小さいころから、父さんがドーナツを買ってきてくれたときは弟たちが選ばなかったものを食べるようにしていたし、半分に割ったアイスは大きいものを譲ってきた。俺が大学に行くという選択肢を最初から自分に許していなかったのに。なのに、なのに父さんも母さんも、俺の進学を勧める。絶対心の中では就職してほしいと思っているはずなのに、進学したら家計が苦しくなるとわかっているのに。俺の選択肢を消すわけにはいかないから。ずるい。俺の気持ちを汲み取ってくれない。俺がちゃんとやってきた「兄ちゃん」は何だったんだよ。父さんと母さんは俺の何を見てきたんだよ。俺は便利屋かよ。俺は、俺は、これから何をしたい?何になりたいんだ……?「5人兄弟の長男」の役割を引っぺがしたら、何が残る?自分がこんなにも空っぽだったことを、何気なく投稿したQ&Aサイトから突きつけられるとは思わなかった。俺は、自分が何もないことから、ただ逃げていただけだ。5人兄弟の長男として、正しい道に進んだように見える立派な長男像に無理やり当てはめていたのは紛れもなく自分だった。自分の浅はかさと小賢しさにがっかりした。朝から嫌な気分になり、二度寝をしようとスマホを投げてみたものの、次の瞬間には自室の扉が開け放たれ、「兄ちゃんまだ寝てるのーおはよう~起きようよ、健人は学校行っちゃうよ、兄ちゃん学校は?いってらっしゃいしないの?」と健人が腹の上に乗っかってくる。そうだ、あと2日で高校は夏休みに突入する。あと2日頑張らないと。先ほどまでの憂鬱はどこへやら。すぐにスイッチが入り、「わかった。兄ちゃん起きるから!重い重い!」と、優しい兄を演じ始めている自分を鼻で笑った。

その日の夕方。高校から帰ると、なにも考えたくなくて無心で夜ごはんの下ごしらえをしていた。両親は仕事、弟たちは学童や幼稚園などで、両親が仕事帰りに迎えに行くことになっている。今日は健人のリクエストで餃子(ぎょうざ)だ。大量のタネを少しずつ手にとり、皮にのせては包む作業を繰り返す。今の自分にはこの単純作業さえ心地よかった。健人は明日、野球の試合がある。俺も明日、終業式のあとに駆け付ける予定だ。健人のために元気が出る餃子を作らなければならない。餃子のひだを作りながら、ふと思いつく。ひだの数や、餡の量を少しずつ変えてみるか。具材も冷蔵庫にあるもので工夫してみよう。きっと弟たちが喜ぶはずだ。これはネギ多め、これはひだの数を倍にしてみよう。これには、チョコチップを入れてみるか。おいしいかどうかはさておき、きっと食べる時間を楽しめるだろう。キャッキャッと喜ぶ弟たちの顔を浮かべながら、一つひとつ丁寧に作っていった。バットに並んだ餃子はいつもより個性的で、見た目が明らかに不揃いだ。でもそれでいい。作るときも、食べるときも楽しいご飯が一番だ。一人黙々と作業する時間には、まるでうちじゃないみたいな静けさが広がっていた。弟たちのために作るからこそ、この静けさも心地よく、嘘なんてない、心から俺にとってあたたかい時間だった。

結論から言うと、餃子は大好評だった。弟たちは餃子に何が入っているか予想したり、今度はフルーツを入れてほしいとリクエストしてきたり。両親までも子どものような顔をして喜んでくれた。何よりも嬉しかったのは、優人が食事を終えたあと、「また作って」と言ってくれたことだ。餃子はうちの家にかなりの頻度で登場するメニューだから、正直飽きている部分もあるだろうに。ちょっとの工夫で虜になってくれた弟たちがたまらなく愛おしかった。

さっきの夕食のことを思い出しながら、今はまたきゅうりを切っている。時計は23時を過ぎていた。すでに弟たちは寝静まり、また束の間の静けさが家の中を覆っていた。母さんはすでに弟たちと寝ており、父さんはリビングでテレビを見ていた。最近、静音では音が聞こえづらくなったらしく、テレビにやたらと長いコードでイヤホンをつないで聞いている。キッチンから見えるその姿は少しシュールで、俺のお気に入りの景色だ。視線をきゅうりに戻し、またきゅうりを輪切りにしていく。できるだけ均等に、不公平感がないように。トントン、と自分だけに聞こえる音は静寂に響きわたり、着実に時間を刻んでいった。今朝のQ&Aサイトのことが、もう遠い昔の出来事のように感じる。今日も弟の子守りや家事、夕食のことなどで激動の一日だった。毎日が目まぐるしく過ぎるも、それさえも心地よかった。このきゅうりを刻む時間と同等に。

「なあ和人。まだ寝ないのか?明日まで高校あるんだろ?」
テレビを見ていたはずの父さんがすぐ横に立っていた。いつの間にか冷蔵庫からビールを取り出し、手に持っている。きゅうりに集中するあまり気づかなかった。

「これ切って漬けたら寝るよ」

「そうか、ありがとな」
空いたもう片方の手で、頭をわしゃわしゃと撫で回されて、手が止まる。

「俺、子どもじゃないんだから……」
父さんらしくない行動にツッコミを入れてみる。弟たちと同じテンションで頭を撫でられたことに驚きつつも、ちょっぴりだけ嬉しかった。

「子どもだよ。和人はずっと俺の子どもだ。いつも弟たちのために一生懸命やってくれているのに、自分のことは後回しにして、なにも考えていない。一生懸命大人になろうとしている、誰よりもまっすぐな子どもだよ。優人たちは、そんな和人だから尊敬しているし、大好きなんだよ。そんな和人だから、父さんも母さんも安心して甘えてしまう。でも父さんも母さんも、和人には子どもでいてほしい。わがままを言ってほしい。もし、和人を追い詰めてしまっているなら、父さんも母さんも改めなければならないな」
これ一個食べていい? と父さんが切ったきゅうりをつまむ。父さんの俺に対する評価がなんだか意外性しかなくて拍子抜けする。俺は大人ぶっていた、背伸びしただけの子どもなのか。17歳は、子どもか。

「別に俺は何も我慢していないよ」
父さんがあまりにもあっさりと告げるので、反論する。

「そうやって突っかかっている時点で、自覚があるんだろ。素直さを表に出せない時点で我慢しているよ。ちゃんと言ってみな。今なら、俺以外聞いていないから」
そう言う父さんは昨日の父さんとは違った。家族を養うため、必死に頑張ってきた、大人の顔だ。自分が必死に取り繕ってきた皮を少しずつはがす。それはあっけなくはがれ、薄いものだったとわかった。

「俺は、ヤングケアラーだって、家族のために進学をあきらめようとしていたのかも。でも実際はそうじゃなくて、長男っていう自分の肩書に甘えて、自分の進路に向き合うことから逃げていたことに気付いた。父さんの言う通り、俺、めちゃくちゃ子どもだわ。ねえ、進路どうしようかな。なにもしたいことがないんだよね。でもさ、そんな気持ちで大学行きたくないんだ。そんななあなあで学生延長するような兄でいたくない」

「そんな重荷(おもに)を背負わしていたんだな。ごめん和人。俺は気づけていなかったな。和人を無理やり大人にさせていたのは俺たちだったんだな」
父さんの視線の先、母さんがいつの間にかそこにいた。目には涙が浮かんでいる。
それに続けて父さんは言葉をつないだ。
「でも兄、じゃなくて自分だろ。優人たちからこう見て、じゃなくて、自分から見てどうしたい?和人がどういう選択をしようと、きっと優人たちは和人のことをすごい、って思うよ。いつまでもかっこいい兄ちゃんだ」

誰かにどう見られたいんじゃなくて、自分が。自分がどうしたいのか。

「俺は、家族が好きで、弟たちは本当にかわいい。自分が、工夫して作ったご飯を喜んでもらえること、そして作ったご飯を食べてもらえることがうれしい。でも、家事をやる中で、俺は本当に料理が好きだって気づけたんだ。まだ下手だけど。でも自分が好きかもって思うようになったのは、間違いなくこの家が、家族がいたから。家族のためじゃなく、俺自身のために、食の現場で働きたい。だから、早く社会人になって、稼ぎたい」

「やっと言った、和人の話!ずっと、聞きたかったよ。今まで、無理させていたね。和人教えてくれてありがとう。応援するよ」
ずっと黙っていた母さんが口を開く。ああ、いつもの母さんだ。安心して涙がこみ上げてくる。俺は家族が好きだ。この家は、俺はヤングケアラーじゃない。俺は自己犠牲なんてしていない。
ぎゅっと手を広げた母さんが、勢いよく抱きしめてくれる。俺の胸元くらいしかない身長。こんな母さんに俺は、ずっと守られてきた。

「和人、よく言ったよ。ちゃんと自分で決めたんだな、えらい」と言って、また頭をかき乱された。だから子供じゃないってば。
目からあふれる涙をぬぐいながら、ちょっとはにかむ。にじんだ視界から見える両親は、ずっと変わらない、俺をどんな時でも丸ごと受け止めてくれる「父さんと母さん」の顔だった。
母さんの小さな背中に手を回す。また父さんが頭をわしゃわしゃしてきた。いつかこの背中を、そしてこの手を、支えられる人になりたい。これは俺の意志だ。

次の日。今日は高校の終業式だ。相変わらず朝からうちは騒がしい。
「健人!野球クラブに行く用意ちゃんとしたの?今日は試合あるから、もう家出るよ!」
母さんが叶人と遥人の幼稚園の用意をしながら言う。
「ふええええん」
泣き声のする方をみると、遥人が泣いている。叶人が遥人の皿の上にあったブルーベリーを取ったようだ。遠くからは、ダンダンとやたらと大きな音を立てながら階段を下りる音が聞こえる。きっと優人だ。
嵐のような静けさだった昨日の夜が嘘みたいだ。これがうちの家。この賑やかさは何物にも代えられない、かけがえのない俺の居場所だ。すーっと息を吸い、叶人と遥人の間に入る。

「叶人ー!それなにもってんだ?いいのもってんな!」
と声をかけて、俺は叶人が持っていたブルーベリーをひょいとつまみ上げ、口にいれた。
「うまいなー、遥人が叶人からとったブルーベリー」
なにが起きたのかわからず叶人はぽかんとしている。遥人も涙が引っ込み呆然としている。間抜けな顔がそっくりだ。

「あーっ! かず兄がぼくのブルーベリーたべた!」
やっと状況を理解したのか、叶人が抗議してくる。

「いいだろ、もとは遥人のだ。叶人が悪いことしたから兄ちゃんが仕返ししたんだ。悪いことしたら悪い目にあうんだからな叶人。もうやっちゃだめだぞ。遥人も、取られたなら取り返せ。わかったか?」
わかってるのか、わかっていないのか、二人とも小さくうなずいていた。
視線を感じ、その方向には、ぽかんとした母さんと優人がいた。

「ナイスかず兄」
優人が言う。優人と視線が合い、にやりと笑いあった。母さんはそれを聞いて、もーう、手がかかる子たちなんだからーと、わざとらしく言う。だれからともなく、笑い声があふれた。父さんが、この一連の流れを見ていたと知るのは、また少しあとの話。

「先生、これ」
終業式が終わり、下校時間になってすぐに担任に声をかける。声を掛けられる前にかけてしまえ作戦だ。先日突き返された紙。進路希望調査には、前と同じく「4.就職」に丸がついている。でもそのあとに、「食品調理に興味があります」との記載が追加されていた。これでいい。これがいい。世間が何と言おうと、周りがなんといおうと。これが俺の生きる道だ。
それを見て、担任は満足そうに言う。
「これがお前が決めた答えだな?」
「はい」とうなずいた。
「わかった。応援するよ」
そう、担任が言ってくれたことがなによりもうれしかった。目の前のこの人に認められた。それだけで十分だった。

担任と話がおわったあと、急いで高校を出た。今日は、健人の野球の試合だ。ちらりとスマホの画面を確認する。もう試合ははじまっているはずだ。健人の試合を見に行きたい。
信号を渡って、階段を上って、走って、走る。
河川敷が見えてくる。あそこだ、まばらに親らしき人たちが座ってみている。保護者席までくると、俺に気付いた父さんと母さんがこちらを向き、ひらひらと手を振る。こめかみから流れ出る汗をぬぐいながら、あいていた隣に座る。

「ちょうど健人打席に立ってるよ!」母さんが周りの保護者たちの声にかき消されない声で言う。
打席に視線を移すと、小さな健人が、バッターボックスに立っている。
こんなにも周りには人がいて、でも健人は一人でバッターボックスに立っている。立派だ。健人は――健人だけじゃなくて弟たちは、ずっと俺よりはるかにしっかりしていて立派なんだろう。
なんて考えていると、向かってくるボールに対して小さな体で、大きなバットを振った。

カキーン、と心地よい音が響く。
白球が、宙に舞う。そこにいた人たちの顔が一斉にボールを追いかけて、顔をあげる。
雲一つない青空に向けて、ボールは弧を描いて飛んで行った。

「よっしゃー! 健人ー! 走れー!」
照りつける太陽のもと、ありったけの大きな声で叫ぶ。父さんと母さんも隣で同じように声を出している。
一瞬、健人がこちらを向き、笑った。

誰かのためなのか、そういうことじゃなくて、自分の意志が。誰がどう思うか、自分がどういう区分なのか、そんなものは関係ない。その人たちは俺を養っても、俺のその後の人生を支援してくれるわけじゃない。ただただ俺のことを想ってくれる、近い存在の人たち、そして何よりも自分が納得する、幸せになれる道をゆけばいい。
どこまでも高く飛んでいく白球を見上げながら、青空の下、めいっぱい思いを叫ぶ。家族と、自分に向かって。ありったけの、エールを。