side 朝日奈莉生
初めて陽に出会ったのは入学してすぐの頃。特別クラスの人間の溜まり場になっている図書室。その奥の窓際で、一人黙々とテスト勉強をしている陽を見かけた時だった。
一般クラスの制服を着た人間がここにいること自体珍しい。だからなのか、案の定すぐに何人かが陽の周りを囲んでいた。
「お前さ、ここがどこだか分かってんの?」
「一般生徒の立ち入りは出来ないルールなんだけど」
「貧乏人がいたら空気汚れるからどっか行けよ」
と、これまた酷い言われようだが、自分たちの溜まり場に部外者がいるのが癪という気持ちは分からないわけではないため、俺は傍観することにした。
「……うるさいな、勉強の邪魔だからお前らこそどっか行けよ。図書室で騒ぐお前らの方がよっぽど邪魔だよ」
「は!?そもそもお前がここにいるのが悪いんだろうが」
「北棟第二図書室は特別クラスに所属している生徒のみの利用で、一般生徒の利用を禁ずる、という注意書きは校則にもこの図書室の張り紙にも記載されていないけど、一体どこから湧き出たルールなのか教えて貰っていい?」
「暗黙の了解ってことだよ、貧乏人はそんな事もわかんねーのか!」
「誰のおかげで学園生活が送れてると思ってんだよ、おこぼれのくせに」
「言葉を返すようだけど、別に君たちのおかげではなく、君たちの親の寄付金によって賄われているのでは?君が一銭でも寄付したなら謝るけど、どう?」
「……くっ、覚えてろよ!」
取り巻きを連れて去っていく背中を見ながら、思わず吹き出しそうになる。
覚えてろよ、って今どきドラマでも使われないよな。
内心でそんなツッコミを入れている間にも、少年は何事もなかったようにため息をつき、開いたままの参考書へ視線を戻していた。
普通なら少しくらい腹を立てたり、怖がったりするものじゃないのか。
なのに、あまりにも平然としている。面白い。
そう思った時にはもう、俺は頭のキレる彼にすっかり夢中になってしまっていた。
気付けば足が勝手に動いていて、俺は陽の向かい側の椅子を引いて座っていた。
「ね、君名前は?」
「恫喝の次はナンパかよ……」
顔を上げた陽が、心底嫌そうに眉を寄せる。さっきまであんな連中相手に一歩も引かなかったくせに、今度は露骨に面倒くさそうな顔をされた。
俺はめげなかった。
「いいじゃん、名前。教えて?」
「影山陽。……せっかくここなら静かに勉強できると思ったのに、また場所を探さないとな」
「静かな場所探してんの?」
「え?うん」
「ならいいとこ知ってるよ。ついてきて」
立ち上がると、陽は少しだけ不思議そうな顔をしたものの、大人しく荷物をまとめて俺の後ろについてきた。
さっきあんな目に遭ったばかりなのに。俺が悪い人間だったらどうするんだろう。警戒心とかないのかな。
そんなことを考えながら後ろを振り返ると、素直についてくる陽が可愛くて思わずにやけてしまった。
たどり着いたのは生徒会室。
廊下の突き当たりにある扉をガチャりと開けると、そこは人ひとりおらず、使われている形跡すらほとんどないくらい閑散としていた。
「え、ここ生徒会室じゃん。生徒会役員以外使えないんじゃ」
「生徒会って、ほぼ生徒会長しか仕事ないし、生徒会長も特別クラスの目立ちたがり屋の先輩だから、ほぼ来ないよ」
「そうなんだ……」
陽は部屋の中を見回す。
図書室ほど広くはないけれど、机も椅子もあるし、何より静かだ。勉強するには十分だろう。
「そう。まあ大義名分でここを使えるようにするには、来年生徒会長になったらいいんじゃない?」
「うん、まあ考えとく」
「あ、ねえ影山くんってさ」
「ん?」
「めちゃくちゃ可愛い顔してるね」
「……は?」
ぱち、と大きな目が瞬く。
そこで初めて、口に出していたことに気付いた。
「あ、いやごめん。ふと思ってさ。まつげ長いし目大きいし可愛いなって」
「……キモ」
蔑まれたような目。けれど、本気で嫌がっているようには見えなかった。ほんの少しだけ口元が緩んでいて、どこか楽しそうにも見える。
その顔がなんだか気になってしまって、それからずっと、影山陽という人物が気になって仕方なかった。
廊下ですれ違えば目で追った。食堂で見かければ、今日は何を食べているんだろうと思った。
成績上位者の張り出しに名前があれば、やっぱり頭いいんだな、と妙に嬉しくなった。
別に話しかけようと思えば、いつだって話しかけられたはずなのに。いざ姿を見つけると、何を話せばいいのか分からなくなる。
結局、仲良くなるタイミングが掴めないまま一年半が過ぎてしまった。
どうしたものかと考えていたら、陽は生徒会長になっていた。
もちろん推薦したのは俺だけど。あの日の話を覚えているのか、それとも単純に自分で決めたのかは分からない。
でも、陽の中であの日のことが少しでも残ってくれているのなら、それが嬉しくてたまらなかった。
そして、俺はそろそろ傍から眺めているだけでは我慢できなくなっていた。
少し強引な手だと思ったが、仲良くなるためにはこれしかない。
廊下の向こうから、ダンボールを抱えながらふらふらと歩いてくる陽を見つけて、タイミングを計る。
すれ違う瞬間、わざと肩をぶつけた。
「……わっ」
ダンボールが傾き、中に入っていたノートがばらばらと床に散らばる。
同時によろめいた陽の身体を慌てて抱き抱えた。
「大丈夫?」
腕の中で陽が目を丸くする。
「あ、すみません……」
陽が俺の制服を見て動きを止める。もしかしたら覚えてくれたりするのだろうか。期待をしながら顔を覗き込む。
「……あ」
「はいこれ。バラバラにしちゃってごめんね」
「あ、ありがとう」
一瞬胸の奥がしゅんと萎んだものの、少なくとも俺に対して嫌な印象を受けていないことは分かって安堵した。
あの日みたいに「キモ」と一蹴されるよりは、ずっといい。
「どこまで運ぶの?」
「え、社会科準備室だけど」
「じゃあ手伝うよ」
「あ、ありがとう。朝日奈くん」
「……! 俺の事知ってるんだ」
意外だ、陽は俺の活動のことなんて興味ないかと思っていたし、なんなら鼻で笑っていそうと思っていたのに。
「そりゃ有名人だからね」
昨日も動画流れてきたし。とは言わなかった。
「俺も君のこと知ってるよ。影山陽、だよね」
「なんで名前」
「俺の代わりに生徒会長になってくれてありがとね」
「ああ、それで」
嘘。本当はあの日名前を無理矢理聞き出したからなんだけど、覚えてないならそれはそれでいい。これから俺のことを知っていってくれれば。
「そういえばさ、昨日朝日奈の動画見たよ」
「え、意外。影山ってそういうの見ないと思ってた」
「失礼だな、見るよそれくらい」
「で、どうだった?」
「ダンス動画にどうとかないだろ」
「えー、感想くらいくれてもいいじゃんケチ」
「ケチとかそういう問題じゃないだろ」
目的地までの道を並んで歩く。緊張して声が上擦らないか心配。というか、陽ってこんなに警戒心がないんだっけ。あの日はあんなに刺々しかったのに、今日は普通に俺と会話をしている。
そのことが嬉しくて、勝手に口元が緩みそうになる。
「なぁ、朝日奈ってさ。髪染めてんの?」
びっくりした、まさか陽の方から話しかけられるとは思ってなくて。
「染めてるよ。なんで?」
「いや、それにしてはサラサラだなって」
「毎回美容室でメンテナンスしてるからね。そういう影山は?染めないの?」
「一回染めたらメンテナンスめんどくさそう」
「そうでもないよ?それに影山ハイトーンとか似合いそうだし」
「んー、まあそのうちな」
「染めたら絶対可愛いのに」
染めてなくたって可愛いけどね。心の中だけで付け足す。
まだ二度ほどまともに話しただけなのに、これ以上言えば本当に気持ち悪がられそうだ。
「これ、ここでいい?」
「うん、ありがとう」
そんな話をしていたらあっという間に目的地にたどり着いた。
「ありがとう、朝日奈。助かったよ」
「こちらこそ、影山と話せてよかった。あ、そろそろ時間じゃない?」
「え、やば!ほんとありがとう!」
「どういたしまして、ほら遅刻するよ」
「やば!今度ちゃんとお礼するから!」
お礼、ね。陽の善意を利用するようで心苦しいが、せっかくの提案を無下にするわけにもいかず、俺の相棒として動画投稿をしてもらうことになった。
最初は、ただの興味だった。頭が良くて、妙に物怖じしなくて。可愛い顔をしているのに、言葉は全然可愛くない。そんな陽が面白かっただけ。
でも、一緒に過ごす時間が増えるほど、それだけでは済まなくなっていった。
意外と寂しがり屋なところも。強がるくせに、辛い時ほど何でもない顔をするところも。
俺が褒めると嫌そうな顔をしながら、ほんの少しだけ嬉しそうにするところも。
どんどん陽のことを知っていくうちに。触れる度に好きになって。
俺にだけ見せてくれる顔が増えて、その全部が愛おしくなっていった。きっと、陽はまだ知らない。
俺がどれだけ長い間、陽を見ていたのか。
この心の内をいつ、陽に打ち明けようか。
side 朝日奈莉生 終
あれから三ヶ月。季節はすっかり夏になった。
莉生が出演していた好きあとは、最終回を迎えた。
順調に仲を深めていたれおセレは、最終回できっと成立するだろう。そう誰もが思っていたはずなのに、結果は驚くことに不成立だった。
『莉生は私の事好きじゃないでしょ』
セレナのその言葉は、SNSでも大きな話題を呼んだ。画面の中のセレナは、泣きそうな顔をしているわけでも、怒っているわけでもなかった。ただ真っ直ぐに莉生を見て、まるで全部分かっていたと言いたげに笑っていた。
その顔は瞬く間に拡散されて、シリーズ屈指のバズを生み出したセレナはこれから売れていくのだろう。そう確信できるシーンだった。
「かっこよかったねセレナ」
いつもの配信の締めのコメントのために、蒼が口を開く。
「そうだね」
「毅然としててかっこいい女性ってかんじ。これは人気出るね」
「莉生の面食らった顔がよかった」
「あれ、陽もしかして不成立で内心ほっとしてる?」
「は!?してないから!」
「あはは、そういうことにしといてあげる」
「なんだよ、それ」
「俺の恋路も儚く散ったってこと」
「……?」
蒼はいつもの調子で笑っていた。
冗談みたいな声だったから、俺も深く考えずに首を傾げる。
画面のコメント欄は、れおセレの不成立に驚く声と、セレナを称賛する声と、れおはるの名前を出す声で流れていく。
文字が次々と画面の上へ消えていくのをぼんやり眺めながら、終わったんだ、とようやく実感した。
この三ヶ月、なりゆきで始まってしまった蒼との同時視聴だったけれど、終わるとなると寂しいものがある。
「これからもれおはるの二人とは仲良くやってくつもりなので、みんなよろしくね〜」
そう言葉を残した蒼は、配信を切った。画面が暗くなると、急に部屋の中が静かになる。
「そっか、蒼とはもう同時視聴できないのか」
「それに留学期間もそろそろ終わるから、元の学校に戻らないと」
「えっ」
それは聞いていなかった。思わず蒼の方を見る。蒼は困ったように、でもどこか諦めたように笑っていた。
そうか。当たり前だと思っていたのに、もう毎日会えなくなるんだ。
「寂しい?」
「そりゃ寂しいよ。せっかく仲良くなれたのに」
「ふふ、ありがと」
さらりと返したつもりだったのに、声が少しだけ沈んでしまった。
蒼は、いつの間にか俺の日常に溶け込んでいた。教室では隣にいて、俺の愚痴を聞いて、よしよしと頭を撫でて、俺が気づかないことをいつも先に見抜いていた。
その存在が明日から少し遠くなるのだと思うと、胸の奥がぽっかりと空いたようだ。
「ねぇ陽」
「……ん?」
名前を呼ばれて顔を上げると、蒼はいつもの軽い笑顔ではなく、どこか覚悟を決めたような顔をしていた。
「陽のこと好きだよ」
「俺も好きだよ?」
「違う、友達としてじゃなくて。陽が今ここにある気持ちと同じ好きだよ」
蒼は俺の胸を指さした。心臓が跳ねる。
ほんの少し前まで、自分でも見ないふりをしていた場所を、まっすぐ指で示されたような気がした。
「……っ、えっと……」
「いいよ、これは伝えておきたかっただけの俺のエゴ。陽の気持ちを大事にして」
「蒼……」
「これからも友達として、仲良くしてね」
「当たり前だよ」
「ふふ、莉生にもよろしく言っといてね」
「うん」
蒼は最後まで優しかった。
俺を困らせないように、逃げ道を先に用意してくれる。返事をしなくていいと言って、でもちゃんと自分の気持ちは置いていく。その優しさが、少しだけ痛かった。
「あ、付き合い始めたらちゃんと教えてね」
という言葉には、返事が出来なかった。この曖昧な関係に名前を付けることが出来るのだろうか。
そして、好きあとの最終回から一週間後の日曜日。
今日は、れおはるの動画撮影日だった。目的地は、以前訪れた所とは別の水族館。
駅から少し歩いた先にあるその水族館は、前に行った場所よりも落ち着いた雰囲気で、入口のガラスには青い光がゆらゆらと反射していた。休日だから人はそれなりに多いけれど、家族連れやカップルがゆっくり歩いていて、時間の流れまで少しだけ穏やかに感じる。
「前回途中でダメになっちゃったからさ」
「そんなこと気にしなくていいのに」
「ダメだよ、陽楽しみにしてたんでしょ」
「そうだけどさ」
そんな莉生の優しささえ、嬉しいと思ってしまう。好きだと自覚してからというもの、隣に立つたびにドキドキしてしまうなんて、思いもしなかった。
前までは普通に顔を見て話せていたはずなのに、今は少し視線が合うだけで落ち着かない。莉生が笑うだけで胸が苦しくなるし、優しくされるたびに勝手に期待してしまう。
自分が人を好きになるとこんなに面倒になるタイプだなんて思ってもみなかった。
「クラゲの展示に力を入れてる水族館らしいよ」
「え、それでここにしたの?」
「陽が喜んでくれるかなって」
「……ありがとう」
照れくさそうに笑う莉生に、もう既に胸がいっぱいだ。
そういうところだ。そういうところが、ずるいんだ。
「うわぁ、めっちゃ綺麗」
クラゲが展示されているブースに入ると、まるで宇宙の中にいるような幻想的な空間が広がっていた。
壁一面に広がる水槽の中で、透明なクラゲたちがゆっくりと漂っている。青や紫の光に照らされて、丸い傘がふわりと膨らみ、細い触手が糸みたいに揺れていた。
水の中にいるはずなのに、夜空に浮かぶ星みたいにも見える。周りの人たちの声も、ここでは少し遠く聞こえた。
「かわいい〜」
思わず声が漏れる。前に見たクラゲも好きだったけれど、ここは展示の仕方が全然違った。暗い空間に光る水槽だけが浮かび上がっていて、まるで自分たちまで水の中に沈んでしまったみたいだ。
「そういえば、俺があげたクラゲのぬいぐるみどうしてるの?」
「ああ、れおんならベッドの横にべぇちゃんと並んで置いてあるよ」
れおんは莉生がくれた大きいやつ、べぇちゃんは俺が手に入れた小さいクラゲぬぬいぐるみだ。
「べぇちゃん……?」
「ベニクラゲっていう不老不死のクラゲがいるんだよ。そこから取った」
「クラゲって不老不死なんだ」
「正確には違うけど、細胞が若返るから実質死なないみたいな感じ」
「へぇ、陽って物知り」
「ずっとそばにいて欲しいからべぇちゃんって名付けた」
「……そっか」
口に出してから、しまったと思った。ずっとそばにいて欲しい。
それは、ただのぬいぐるみにつけた名前の由来のはずだった。なのに莉生の前で言うと、まるで別の意味を持ってしまう。
恥ずかしくなって水槽の方を見る。
クラゲは何も知らない顔で、ふわふわと漂っていた。
その時、手になにか触れた感触がした。
驚いて視線を落とすと、莉生の手が俺の手に重なっていた。
指先が、そっと絡む。
水槽の青い光に照らされた莉生の手は、思っていたよりも少し熱かった。
「隣にいていいかな、俺も」
「……好きにしたら」
顔が熱い。でも、手を離そうとは思わなかった。
俺はその手を、ぎゅっと握り返した。
翌日。
いつも通り学校へ向かい、見慣れた校門をくぐろうとしたその時だった。
朝のホームルーム前で校内はまだ少し慌ただしい。友達同士で笑い合う声や、部活の朝練帰りらしい生徒たちの姿が行き交う中、不意に名前を呼ばれた。
「あの、影山くん」
振り返ると、一人の女子生徒が緊張した面持ちで立っていた。
「……えっと、俺になにか?」
彼女に見覚えはなかった。同じ学校だからどこかですれ違ったことくらいはあるのかもしれないが、少なくとも話した記憶はない。
それでも、何かを決意したような真剣な表情が気になって、「ちょっといい?」という彼女の誘いに素直についていった。
人通りの少ない校舎脇まで移動すると、彼女は深呼吸をひとつしてから口を開く。
「どうかした?」
「あのさ、影山くんって……その、朝日奈くんと付き合ってるの?」
「え」
思わず間の抜けた声が漏れる。そんなふうに見られていたのか。
驚きと同時に、胸のどこかが妙にざわついた。
「あ、ごめん!違うの。えっと、その朝日奈くんに告白をね、しようと思ったんだけど、恋人がいるなら止めた方がいいよなって」
「こ、恋人は……いないと思うよ」
“いない。”その言葉を口にした瞬間、自分でも少しだけ引っかかった。
恋人ではない。それは事実だ。
でも、だからといって莉生が誰かのものになることを想像すると、胸の奥に落ち着きのなさを感じてしまう。
「え、そうなの?てっきり二人は付き合ってると思ってた」
「あはは、どうなんだろうね」
曖昧に笑ってごまかす。自分でも、その返事がどういう意味なのか分からなかった。
「恋人がいないなら今日呼び出して告白してみる!ありがとうね、影山くん」
「うん、頑張ってね」
そう言って彼女は手を振りながら駆けていく。
軽い足取り。弾むような背中。告白を前にした期待と不安が、その後ろ姿からでも伝わってきた。
「……頑張ってね、か……」
ぽつりと漏れた言葉は、自分でも驚くほど乾いていた。
応援したはずなのに。本当に応援したかったのかと聞かれたら、きっと違う。
胸の奥がまたチクりと痛む。その理由を考えたくなくて、俺は教室へ向かった。
昼休み。
いつもなら「陽ー!」と教室まで押しかけてきて、半ば強引に昼飯へ連れ出す莉生の姿がない。
机に肘をつきながらぼんやり窓の外を眺める。
朝の彼女のことが、何度も頭をよぎった。きっと今頃、呼び出されているんだろう。
そう思うだけで落ち着かない。結局一人で購買へ向かうことにして廊下を歩いていると、中庭の木陰に見慣れた後ろ姿を見つけた。
やっぱり。莉生は、あの女子生徒と向かい合っていた。
声は届かない。けれど彼女が何度も俯きながら言葉を紡ぎ、莉生が静かに返事をしている様子だけは見えた。
時間にすればほんの数分。それなのに妙に長く感じる。やがて彼女は小さく頭を下げ、そのまま踵を返した。
肩を落としながら歩いていく背中。その様子を見た瞬間、心のどこかで張り詰めていた糸がふっと緩んだ。
──よかった。そう思ってしまった。
そんな自分に気付いて、思わず苦笑する。
最低だ。人の恋が終わったことに安心するなんて。
俺って、こんなに性格悪かったっけ。自嘲するように息をついた、その時だった。莉生がこちらに気付いて手を振る。
「こっち来て」
口の動きだけでそう分かった。
俺は少しだけ気まずさを抱えたまま、中庭へ向かった。
「告白の盗み聞きとか趣味悪いよ陽」
「別に見たくて見てたわけじゃないし」
「ほんとかな〜」
からかうように笑う莉生は、さっき告白を断ったばかりとは思えないほどいつも通りだった。
「さっきの女の子になんて答えたの?」
「好きな人がいるから、って断ったよ」
「ふーん」
「ねえ陽から聞いてきたんだからもっと興味持ってよ」
莉生が少し頬を膨らませる。俺は立ち上がり、莉生に向き直る。
「あのさ、莉生」
「ん?」
「#付き合ってませんっていう俺たちのハッシュタグあるじゃん?」
「うん」
「あれ、外しませんか?次の動画から」
一瞬だけ、莉生の目が見開かれる。
「え、それって」
その続きを聞くより早く、もう迷いは消えていた。
「俺と、恋人になってください」
言葉にした瞬間、胸の奥がすっと軽くなる。
俺が好きなのは。
ずっと隣にいてほしいと思うのは。
朝日奈莉生しかいない。
俺の言葉を聞く前に、莉生は勢いよく立ち上がると、そのままぎゅっと抱きしめてきた。
「あー、かっこわる。俺から言いたかったのに」
「たまにはいいでしょ。俺から言っても」
「陽ってばイケメン」
「知ってる」
「好きだよ」
「俺も」
熱を帯びた視線が重なる。
照れくさそうに笑って、それでも目だけは逸らさない。
ゆっくりと距離が縮まり、互いの想いを確かめるように唇を重ねた。
「次の動画、お付き合い報告にする?」
「なしだろ、浮かれぽんちすぎる」
「いいじゃん、俺は陽が恋人だって自慢したい」
「お前のキャリアになんかあったらどうすんだよ」
「えー、でもハッシュタグは取っていいんでしょ?」
「それは、まあ……うん」
「ふふ、匂わせだね」
「あのなぁ」
呆れたように笑いながらも、その手を離す気にはなれなかった。
青々とした木々を風が揺らし、昼休みの賑やかな声が遠くから聞こえてくる。
何も変わらない学校の景色なのに、世界だけが少し違って見えた。
そうして、れおはるの次の動画が上がった時に、いつものハッシュタグがつかないことがネットを騒がせたのは、もう少し先のお話。
終
初めて陽に出会ったのは入学してすぐの頃。特別クラスの人間の溜まり場になっている図書室。その奥の窓際で、一人黙々とテスト勉強をしている陽を見かけた時だった。
一般クラスの制服を着た人間がここにいること自体珍しい。だからなのか、案の定すぐに何人かが陽の周りを囲んでいた。
「お前さ、ここがどこだか分かってんの?」
「一般生徒の立ち入りは出来ないルールなんだけど」
「貧乏人がいたら空気汚れるからどっか行けよ」
と、これまた酷い言われようだが、自分たちの溜まり場に部外者がいるのが癪という気持ちは分からないわけではないため、俺は傍観することにした。
「……うるさいな、勉強の邪魔だからお前らこそどっか行けよ。図書室で騒ぐお前らの方がよっぽど邪魔だよ」
「は!?そもそもお前がここにいるのが悪いんだろうが」
「北棟第二図書室は特別クラスに所属している生徒のみの利用で、一般生徒の利用を禁ずる、という注意書きは校則にもこの図書室の張り紙にも記載されていないけど、一体どこから湧き出たルールなのか教えて貰っていい?」
「暗黙の了解ってことだよ、貧乏人はそんな事もわかんねーのか!」
「誰のおかげで学園生活が送れてると思ってんだよ、おこぼれのくせに」
「言葉を返すようだけど、別に君たちのおかげではなく、君たちの親の寄付金によって賄われているのでは?君が一銭でも寄付したなら謝るけど、どう?」
「……くっ、覚えてろよ!」
取り巻きを連れて去っていく背中を見ながら、思わず吹き出しそうになる。
覚えてろよ、って今どきドラマでも使われないよな。
内心でそんなツッコミを入れている間にも、少年は何事もなかったようにため息をつき、開いたままの参考書へ視線を戻していた。
普通なら少しくらい腹を立てたり、怖がったりするものじゃないのか。
なのに、あまりにも平然としている。面白い。
そう思った時にはもう、俺は頭のキレる彼にすっかり夢中になってしまっていた。
気付けば足が勝手に動いていて、俺は陽の向かい側の椅子を引いて座っていた。
「ね、君名前は?」
「恫喝の次はナンパかよ……」
顔を上げた陽が、心底嫌そうに眉を寄せる。さっきまであんな連中相手に一歩も引かなかったくせに、今度は露骨に面倒くさそうな顔をされた。
俺はめげなかった。
「いいじゃん、名前。教えて?」
「影山陽。……せっかくここなら静かに勉強できると思ったのに、また場所を探さないとな」
「静かな場所探してんの?」
「え?うん」
「ならいいとこ知ってるよ。ついてきて」
立ち上がると、陽は少しだけ不思議そうな顔をしたものの、大人しく荷物をまとめて俺の後ろについてきた。
さっきあんな目に遭ったばかりなのに。俺が悪い人間だったらどうするんだろう。警戒心とかないのかな。
そんなことを考えながら後ろを振り返ると、素直についてくる陽が可愛くて思わずにやけてしまった。
たどり着いたのは生徒会室。
廊下の突き当たりにある扉をガチャりと開けると、そこは人ひとりおらず、使われている形跡すらほとんどないくらい閑散としていた。
「え、ここ生徒会室じゃん。生徒会役員以外使えないんじゃ」
「生徒会って、ほぼ生徒会長しか仕事ないし、生徒会長も特別クラスの目立ちたがり屋の先輩だから、ほぼ来ないよ」
「そうなんだ……」
陽は部屋の中を見回す。
図書室ほど広くはないけれど、机も椅子もあるし、何より静かだ。勉強するには十分だろう。
「そう。まあ大義名分でここを使えるようにするには、来年生徒会長になったらいいんじゃない?」
「うん、まあ考えとく」
「あ、ねえ影山くんってさ」
「ん?」
「めちゃくちゃ可愛い顔してるね」
「……は?」
ぱち、と大きな目が瞬く。
そこで初めて、口に出していたことに気付いた。
「あ、いやごめん。ふと思ってさ。まつげ長いし目大きいし可愛いなって」
「……キモ」
蔑まれたような目。けれど、本気で嫌がっているようには見えなかった。ほんの少しだけ口元が緩んでいて、どこか楽しそうにも見える。
その顔がなんだか気になってしまって、それからずっと、影山陽という人物が気になって仕方なかった。
廊下ですれ違えば目で追った。食堂で見かければ、今日は何を食べているんだろうと思った。
成績上位者の張り出しに名前があれば、やっぱり頭いいんだな、と妙に嬉しくなった。
別に話しかけようと思えば、いつだって話しかけられたはずなのに。いざ姿を見つけると、何を話せばいいのか分からなくなる。
結局、仲良くなるタイミングが掴めないまま一年半が過ぎてしまった。
どうしたものかと考えていたら、陽は生徒会長になっていた。
もちろん推薦したのは俺だけど。あの日の話を覚えているのか、それとも単純に自分で決めたのかは分からない。
でも、陽の中であの日のことが少しでも残ってくれているのなら、それが嬉しくてたまらなかった。
そして、俺はそろそろ傍から眺めているだけでは我慢できなくなっていた。
少し強引な手だと思ったが、仲良くなるためにはこれしかない。
廊下の向こうから、ダンボールを抱えながらふらふらと歩いてくる陽を見つけて、タイミングを計る。
すれ違う瞬間、わざと肩をぶつけた。
「……わっ」
ダンボールが傾き、中に入っていたノートがばらばらと床に散らばる。
同時によろめいた陽の身体を慌てて抱き抱えた。
「大丈夫?」
腕の中で陽が目を丸くする。
「あ、すみません……」
陽が俺の制服を見て動きを止める。もしかしたら覚えてくれたりするのだろうか。期待をしながら顔を覗き込む。
「……あ」
「はいこれ。バラバラにしちゃってごめんね」
「あ、ありがとう」
一瞬胸の奥がしゅんと萎んだものの、少なくとも俺に対して嫌な印象を受けていないことは分かって安堵した。
あの日みたいに「キモ」と一蹴されるよりは、ずっといい。
「どこまで運ぶの?」
「え、社会科準備室だけど」
「じゃあ手伝うよ」
「あ、ありがとう。朝日奈くん」
「……! 俺の事知ってるんだ」
意外だ、陽は俺の活動のことなんて興味ないかと思っていたし、なんなら鼻で笑っていそうと思っていたのに。
「そりゃ有名人だからね」
昨日も動画流れてきたし。とは言わなかった。
「俺も君のこと知ってるよ。影山陽、だよね」
「なんで名前」
「俺の代わりに生徒会長になってくれてありがとね」
「ああ、それで」
嘘。本当はあの日名前を無理矢理聞き出したからなんだけど、覚えてないならそれはそれでいい。これから俺のことを知っていってくれれば。
「そういえばさ、昨日朝日奈の動画見たよ」
「え、意外。影山ってそういうの見ないと思ってた」
「失礼だな、見るよそれくらい」
「で、どうだった?」
「ダンス動画にどうとかないだろ」
「えー、感想くらいくれてもいいじゃんケチ」
「ケチとかそういう問題じゃないだろ」
目的地までの道を並んで歩く。緊張して声が上擦らないか心配。というか、陽ってこんなに警戒心がないんだっけ。あの日はあんなに刺々しかったのに、今日は普通に俺と会話をしている。
そのことが嬉しくて、勝手に口元が緩みそうになる。
「なぁ、朝日奈ってさ。髪染めてんの?」
びっくりした、まさか陽の方から話しかけられるとは思ってなくて。
「染めてるよ。なんで?」
「いや、それにしてはサラサラだなって」
「毎回美容室でメンテナンスしてるからね。そういう影山は?染めないの?」
「一回染めたらメンテナンスめんどくさそう」
「そうでもないよ?それに影山ハイトーンとか似合いそうだし」
「んー、まあそのうちな」
「染めたら絶対可愛いのに」
染めてなくたって可愛いけどね。心の中だけで付け足す。
まだ二度ほどまともに話しただけなのに、これ以上言えば本当に気持ち悪がられそうだ。
「これ、ここでいい?」
「うん、ありがとう」
そんな話をしていたらあっという間に目的地にたどり着いた。
「ありがとう、朝日奈。助かったよ」
「こちらこそ、影山と話せてよかった。あ、そろそろ時間じゃない?」
「え、やば!ほんとありがとう!」
「どういたしまして、ほら遅刻するよ」
「やば!今度ちゃんとお礼するから!」
お礼、ね。陽の善意を利用するようで心苦しいが、せっかくの提案を無下にするわけにもいかず、俺の相棒として動画投稿をしてもらうことになった。
最初は、ただの興味だった。頭が良くて、妙に物怖じしなくて。可愛い顔をしているのに、言葉は全然可愛くない。そんな陽が面白かっただけ。
でも、一緒に過ごす時間が増えるほど、それだけでは済まなくなっていった。
意外と寂しがり屋なところも。強がるくせに、辛い時ほど何でもない顔をするところも。
俺が褒めると嫌そうな顔をしながら、ほんの少しだけ嬉しそうにするところも。
どんどん陽のことを知っていくうちに。触れる度に好きになって。
俺にだけ見せてくれる顔が増えて、その全部が愛おしくなっていった。きっと、陽はまだ知らない。
俺がどれだけ長い間、陽を見ていたのか。
この心の内をいつ、陽に打ち明けようか。
side 朝日奈莉生 終
あれから三ヶ月。季節はすっかり夏になった。
莉生が出演していた好きあとは、最終回を迎えた。
順調に仲を深めていたれおセレは、最終回できっと成立するだろう。そう誰もが思っていたはずなのに、結果は驚くことに不成立だった。
『莉生は私の事好きじゃないでしょ』
セレナのその言葉は、SNSでも大きな話題を呼んだ。画面の中のセレナは、泣きそうな顔をしているわけでも、怒っているわけでもなかった。ただ真っ直ぐに莉生を見て、まるで全部分かっていたと言いたげに笑っていた。
その顔は瞬く間に拡散されて、シリーズ屈指のバズを生み出したセレナはこれから売れていくのだろう。そう確信できるシーンだった。
「かっこよかったねセレナ」
いつもの配信の締めのコメントのために、蒼が口を開く。
「そうだね」
「毅然としててかっこいい女性ってかんじ。これは人気出るね」
「莉生の面食らった顔がよかった」
「あれ、陽もしかして不成立で内心ほっとしてる?」
「は!?してないから!」
「あはは、そういうことにしといてあげる」
「なんだよ、それ」
「俺の恋路も儚く散ったってこと」
「……?」
蒼はいつもの調子で笑っていた。
冗談みたいな声だったから、俺も深く考えずに首を傾げる。
画面のコメント欄は、れおセレの不成立に驚く声と、セレナを称賛する声と、れおはるの名前を出す声で流れていく。
文字が次々と画面の上へ消えていくのをぼんやり眺めながら、終わったんだ、とようやく実感した。
この三ヶ月、なりゆきで始まってしまった蒼との同時視聴だったけれど、終わるとなると寂しいものがある。
「これからもれおはるの二人とは仲良くやってくつもりなので、みんなよろしくね〜」
そう言葉を残した蒼は、配信を切った。画面が暗くなると、急に部屋の中が静かになる。
「そっか、蒼とはもう同時視聴できないのか」
「それに留学期間もそろそろ終わるから、元の学校に戻らないと」
「えっ」
それは聞いていなかった。思わず蒼の方を見る。蒼は困ったように、でもどこか諦めたように笑っていた。
そうか。当たり前だと思っていたのに、もう毎日会えなくなるんだ。
「寂しい?」
「そりゃ寂しいよ。せっかく仲良くなれたのに」
「ふふ、ありがと」
さらりと返したつもりだったのに、声が少しだけ沈んでしまった。
蒼は、いつの間にか俺の日常に溶け込んでいた。教室では隣にいて、俺の愚痴を聞いて、よしよしと頭を撫でて、俺が気づかないことをいつも先に見抜いていた。
その存在が明日から少し遠くなるのだと思うと、胸の奥がぽっかりと空いたようだ。
「ねぇ陽」
「……ん?」
名前を呼ばれて顔を上げると、蒼はいつもの軽い笑顔ではなく、どこか覚悟を決めたような顔をしていた。
「陽のこと好きだよ」
「俺も好きだよ?」
「違う、友達としてじゃなくて。陽が今ここにある気持ちと同じ好きだよ」
蒼は俺の胸を指さした。心臓が跳ねる。
ほんの少し前まで、自分でも見ないふりをしていた場所を、まっすぐ指で示されたような気がした。
「……っ、えっと……」
「いいよ、これは伝えておきたかっただけの俺のエゴ。陽の気持ちを大事にして」
「蒼……」
「これからも友達として、仲良くしてね」
「当たり前だよ」
「ふふ、莉生にもよろしく言っといてね」
「うん」
蒼は最後まで優しかった。
俺を困らせないように、逃げ道を先に用意してくれる。返事をしなくていいと言って、でもちゃんと自分の気持ちは置いていく。その優しさが、少しだけ痛かった。
「あ、付き合い始めたらちゃんと教えてね」
という言葉には、返事が出来なかった。この曖昧な関係に名前を付けることが出来るのだろうか。
そして、好きあとの最終回から一週間後の日曜日。
今日は、れおはるの動画撮影日だった。目的地は、以前訪れた所とは別の水族館。
駅から少し歩いた先にあるその水族館は、前に行った場所よりも落ち着いた雰囲気で、入口のガラスには青い光がゆらゆらと反射していた。休日だから人はそれなりに多いけれど、家族連れやカップルがゆっくり歩いていて、時間の流れまで少しだけ穏やかに感じる。
「前回途中でダメになっちゃったからさ」
「そんなこと気にしなくていいのに」
「ダメだよ、陽楽しみにしてたんでしょ」
「そうだけどさ」
そんな莉生の優しささえ、嬉しいと思ってしまう。好きだと自覚してからというもの、隣に立つたびにドキドキしてしまうなんて、思いもしなかった。
前までは普通に顔を見て話せていたはずなのに、今は少し視線が合うだけで落ち着かない。莉生が笑うだけで胸が苦しくなるし、優しくされるたびに勝手に期待してしまう。
自分が人を好きになるとこんなに面倒になるタイプだなんて思ってもみなかった。
「クラゲの展示に力を入れてる水族館らしいよ」
「え、それでここにしたの?」
「陽が喜んでくれるかなって」
「……ありがとう」
照れくさそうに笑う莉生に、もう既に胸がいっぱいだ。
そういうところだ。そういうところが、ずるいんだ。
「うわぁ、めっちゃ綺麗」
クラゲが展示されているブースに入ると、まるで宇宙の中にいるような幻想的な空間が広がっていた。
壁一面に広がる水槽の中で、透明なクラゲたちがゆっくりと漂っている。青や紫の光に照らされて、丸い傘がふわりと膨らみ、細い触手が糸みたいに揺れていた。
水の中にいるはずなのに、夜空に浮かぶ星みたいにも見える。周りの人たちの声も、ここでは少し遠く聞こえた。
「かわいい〜」
思わず声が漏れる。前に見たクラゲも好きだったけれど、ここは展示の仕方が全然違った。暗い空間に光る水槽だけが浮かび上がっていて、まるで自分たちまで水の中に沈んでしまったみたいだ。
「そういえば、俺があげたクラゲのぬいぐるみどうしてるの?」
「ああ、れおんならベッドの横にべぇちゃんと並んで置いてあるよ」
れおんは莉生がくれた大きいやつ、べぇちゃんは俺が手に入れた小さいクラゲぬぬいぐるみだ。
「べぇちゃん……?」
「ベニクラゲっていう不老不死のクラゲがいるんだよ。そこから取った」
「クラゲって不老不死なんだ」
「正確には違うけど、細胞が若返るから実質死なないみたいな感じ」
「へぇ、陽って物知り」
「ずっとそばにいて欲しいからべぇちゃんって名付けた」
「……そっか」
口に出してから、しまったと思った。ずっとそばにいて欲しい。
それは、ただのぬいぐるみにつけた名前の由来のはずだった。なのに莉生の前で言うと、まるで別の意味を持ってしまう。
恥ずかしくなって水槽の方を見る。
クラゲは何も知らない顔で、ふわふわと漂っていた。
その時、手になにか触れた感触がした。
驚いて視線を落とすと、莉生の手が俺の手に重なっていた。
指先が、そっと絡む。
水槽の青い光に照らされた莉生の手は、思っていたよりも少し熱かった。
「隣にいていいかな、俺も」
「……好きにしたら」
顔が熱い。でも、手を離そうとは思わなかった。
俺はその手を、ぎゅっと握り返した。
翌日。
いつも通り学校へ向かい、見慣れた校門をくぐろうとしたその時だった。
朝のホームルーム前で校内はまだ少し慌ただしい。友達同士で笑い合う声や、部活の朝練帰りらしい生徒たちの姿が行き交う中、不意に名前を呼ばれた。
「あの、影山くん」
振り返ると、一人の女子生徒が緊張した面持ちで立っていた。
「……えっと、俺になにか?」
彼女に見覚えはなかった。同じ学校だからどこかですれ違ったことくらいはあるのかもしれないが、少なくとも話した記憶はない。
それでも、何かを決意したような真剣な表情が気になって、「ちょっといい?」という彼女の誘いに素直についていった。
人通りの少ない校舎脇まで移動すると、彼女は深呼吸をひとつしてから口を開く。
「どうかした?」
「あのさ、影山くんって……その、朝日奈くんと付き合ってるの?」
「え」
思わず間の抜けた声が漏れる。そんなふうに見られていたのか。
驚きと同時に、胸のどこかが妙にざわついた。
「あ、ごめん!違うの。えっと、その朝日奈くんに告白をね、しようと思ったんだけど、恋人がいるなら止めた方がいいよなって」
「こ、恋人は……いないと思うよ」
“いない。”その言葉を口にした瞬間、自分でも少しだけ引っかかった。
恋人ではない。それは事実だ。
でも、だからといって莉生が誰かのものになることを想像すると、胸の奥に落ち着きのなさを感じてしまう。
「え、そうなの?てっきり二人は付き合ってると思ってた」
「あはは、どうなんだろうね」
曖昧に笑ってごまかす。自分でも、その返事がどういう意味なのか分からなかった。
「恋人がいないなら今日呼び出して告白してみる!ありがとうね、影山くん」
「うん、頑張ってね」
そう言って彼女は手を振りながら駆けていく。
軽い足取り。弾むような背中。告白を前にした期待と不安が、その後ろ姿からでも伝わってきた。
「……頑張ってね、か……」
ぽつりと漏れた言葉は、自分でも驚くほど乾いていた。
応援したはずなのに。本当に応援したかったのかと聞かれたら、きっと違う。
胸の奥がまたチクりと痛む。その理由を考えたくなくて、俺は教室へ向かった。
昼休み。
いつもなら「陽ー!」と教室まで押しかけてきて、半ば強引に昼飯へ連れ出す莉生の姿がない。
机に肘をつきながらぼんやり窓の外を眺める。
朝の彼女のことが、何度も頭をよぎった。きっと今頃、呼び出されているんだろう。
そう思うだけで落ち着かない。結局一人で購買へ向かうことにして廊下を歩いていると、中庭の木陰に見慣れた後ろ姿を見つけた。
やっぱり。莉生は、あの女子生徒と向かい合っていた。
声は届かない。けれど彼女が何度も俯きながら言葉を紡ぎ、莉生が静かに返事をしている様子だけは見えた。
時間にすればほんの数分。それなのに妙に長く感じる。やがて彼女は小さく頭を下げ、そのまま踵を返した。
肩を落としながら歩いていく背中。その様子を見た瞬間、心のどこかで張り詰めていた糸がふっと緩んだ。
──よかった。そう思ってしまった。
そんな自分に気付いて、思わず苦笑する。
最低だ。人の恋が終わったことに安心するなんて。
俺って、こんなに性格悪かったっけ。自嘲するように息をついた、その時だった。莉生がこちらに気付いて手を振る。
「こっち来て」
口の動きだけでそう分かった。
俺は少しだけ気まずさを抱えたまま、中庭へ向かった。
「告白の盗み聞きとか趣味悪いよ陽」
「別に見たくて見てたわけじゃないし」
「ほんとかな〜」
からかうように笑う莉生は、さっき告白を断ったばかりとは思えないほどいつも通りだった。
「さっきの女の子になんて答えたの?」
「好きな人がいるから、って断ったよ」
「ふーん」
「ねえ陽から聞いてきたんだからもっと興味持ってよ」
莉生が少し頬を膨らませる。俺は立ち上がり、莉生に向き直る。
「あのさ、莉生」
「ん?」
「#付き合ってませんっていう俺たちのハッシュタグあるじゃん?」
「うん」
「あれ、外しませんか?次の動画から」
一瞬だけ、莉生の目が見開かれる。
「え、それって」
その続きを聞くより早く、もう迷いは消えていた。
「俺と、恋人になってください」
言葉にした瞬間、胸の奥がすっと軽くなる。
俺が好きなのは。
ずっと隣にいてほしいと思うのは。
朝日奈莉生しかいない。
俺の言葉を聞く前に、莉生は勢いよく立ち上がると、そのままぎゅっと抱きしめてきた。
「あー、かっこわる。俺から言いたかったのに」
「たまにはいいでしょ。俺から言っても」
「陽ってばイケメン」
「知ってる」
「好きだよ」
「俺も」
熱を帯びた視線が重なる。
照れくさそうに笑って、それでも目だけは逸らさない。
ゆっくりと距離が縮まり、互いの想いを確かめるように唇を重ねた。
「次の動画、お付き合い報告にする?」
「なしだろ、浮かれぽんちすぎる」
「いいじゃん、俺は陽が恋人だって自慢したい」
「お前のキャリアになんかあったらどうすんだよ」
「えー、でもハッシュタグは取っていいんでしょ?」
「それは、まあ……うん」
「ふふ、匂わせだね」
「あのなぁ」
呆れたように笑いながらも、その手を離す気にはなれなかった。
青々とした木々を風が揺らし、昼休みの賑やかな声が遠くから聞こえてくる。
何も変わらない学校の景色なのに、世界だけが少し違って見えた。
そうして、れおはるの次の動画が上がった時に、いつものハッシュタグがつかないことがネットを騒がせたのは、もう少し先のお話。
終
