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蒼が交換留学に来て一ヶ月、そして今日は莉生が出演する『好きになるまで、あとすこし』の初回放送日。
この日までに少しでも多くの人に番組を見てもらおうと、莉生は何度もソロ配信をしたり
、SNSで宣伝を繰り返したりと精力的に活動していた。

れおはるをきっかけに莉生を知ったファンの中には、恋愛リアリティーショーへの出演に複雑な思いを抱く人もいたけれど、思ったより大きな反発はなかった。
そして俺はというと、約束通り蒼のスタジオに来ていた。
「陽! いらっしゃい」
扉を開けると、蒼が嬉しそうに手を振る。
「ありがとう。スタジオ貸してくれて」
「気にしないで。また陽が来てくれて嬉しいよ」
「うん」
そうして撮影のセッティングを済ませ、宣伝用の写真を撮る。
放送開始十五分前。
配信開始のボタンを押すと、次々とコメントが流れ始めた。
「蒼だよ〜。今日はれおはるの陽くんが遊びに来てくれました」
「陽です。お邪魔してます」
「告知にもあった通り、今日は『好きあと』を一緒に見る回です」
「番組の音声は流せないから、みんなも別端末を 用意して一緒に見ようね」
説明を軽く済ませ、コメントを読んでいく。
【陽くんは嫉妬しないの?】
【莉生が女の子と絡んでるの見たくないよ〜】
【れおはるが見たいのに】
コメント欄は予想していた通りの反応だった。
「そうだよね。みんな、れおはるが見たいよね」
少しだけ笑って続ける。
「でも俺は、莉生がやりたいことは応援したいんだ。蒼に誘ってもらったのもあるけど、こうやって少しでも力になれたらいいなと思って同時視聴配信をすることにした。だから無理にとは言わないけど、俺と一緒に頑張ってる莉生を応援してくれたら嬉しい」
すると隣の蒼が、にやにやしながら口を開いた。
「こんなかっこいいこと言ってるけどさ。陽ってば、莉生が『好きあと』出るって聞いた時、反対して泣いてたからね」
「なっ!?」
思わず声が裏返る。
「泣いてないから! 嘘つくなよ!」
「え〜? そうだっけ?」
「そうだよ!」
「でも泣いてる陽、可愛かったよ?」
「嘘を教えるなって!」
【可愛かったよ?え、見てたってこと?】
【蒼くん距離近くない?】
【陽くん顔真っ赤】
【嫉妬してたんじゃん可愛い】
「してないから!」
即座に否定すると、蒼が楽しそうに笑う。
「あはは、ごめんごめん」
全然反省してない。
「ほら、そろそろ始まるよ」
そう言われて画面に視線を戻す。
配信開始まで、あと数十秒。
ストローを噛んでしまいそうになるほど、そわそわとしている。
広告が終わり、画面が切り替わる。どうやら今回の舞台は自然豊かな場所にある学校らしい。
木漏れ日が差し込む校舎。窓の外には青々とした木々が揺れている。同じ制服に身を包んだ出演者たちが、緊張した面持ちで次々と教室へ入っていく。
そして、待ちに待った最後の出演者。
「あ、莉生」
「一番最後なんて注目されてるんだね」
隣で蒼が感心したように呟いた。
「どこ座ればいいか迷ってる」
画面の中の莉生は、少しだけ緊張した様子で教室を見渡していた。空いている席を探しているらしい。
『ここ、座る?』
窓際の席に座っていた女の子が、自分の隣の席を指差す。
画面には、【桜庭セレナ 17歳 モデル】というテロップが入る。
艶のある黒髪をハーフアップにまとめ、大きなリボンをつけている。柔らかな雰囲気の可愛らしい女の子だった。
『ありがとう。えっと……』
『桜庭セレナ。セレナでいいよ』
そう言って微笑むセレナ。これはファンが付きそうだなと率直に思った。
『莉生くん』
『俺のこと知ってるの?』
少し驚いたように莉生が聞く。
『有名人でしょ』
『そっか』
照れくさそうに笑う莉生。コメント欄が一気に流れ始めた。
【かわいい】
【セレナちゃん強い】
【もう隣座ってる】
【お似合い】
れおセレ推せるかもというコメントが目に入り少し眉間に皺を寄せた。
『緊張するよね』
莉生が自然にセレナに話しかける。
『え、うん……昨日あんまり寝れなくて』
『そんなに?』
『こういう番組出るのも初めてだし』
セレナが少し困ったように笑う。すると莉生も同調するように頷いた。
『まじ?俺も初めて』
『え』
『あと、俺も昨日全然寝れなかった』
『莉生くんも?』
『うん』
『よかった』
セレナの表情がふっと和らぐ。
『なんか安心した』
『俺も』
二人が顔を見合わせて笑う。
それだけ。本当にそれだけのやり取りなのに。
コメント欄はさらに盛り上がっていた。
【空気いいな】
【初回から強い】
【距離感自然すぎる】
【莉生くん楽しそう】
『あ、セレナって笑った顔可愛いね』
『も〜、なに急に』
照れたように肩をすくめるセレナ。莉生は楽しそうに笑っている。
「なんか初っ端からいい雰囲気じゃん」
蒼がぽつりと呟く。
「……そうだね」
思ったより低い声が出た。画面の中では二人の会話が続いている。
ただ喋っているだけ。そう自分で言い聞かせないと耐えられる自信がなかった。そう思いながら、カフェオレを一口飲む。
「陽」
名前を呼ばれて横を見る。蒼は苦笑いをしながら俺の手元を見ていた。
「?」
「カフェオレのパックが可哀想だよ」
「え?」
慌てて手元を見る。気付かないうちに紙パックを強く握りしめていたらしい。
もうほとんど空になっているカフェオレは、今にも潰れそうなほどへこんでいた。
「あ」
慌てて力を抜く。その様子を見て蒼が吹き出した。
「陽コメント欄見て」
言われるまま画面を見る。
【陽くんヤキモチ妬いてて可愛い】
【絶対嫉妬してる】
【顔に出てるよ】
【れおはる〜!!】
「え?」
思わず間抜けな声が出た。
「誰に?」
「それは莉生でしょ」
蒼は当然でしょ、と言いたげだ。
「俺が?」
「うん」
「なんで?」
本気で分からない。蒼はしばらく俺の顔を見つめたあと、小さく息を吐いた。
「他に誰がいるのよ」
「いや……だって別に」

もう一度画面を見る。
莉生はセレナと楽しそうに笑っていた。
ぐしゃり。手の中で、また紙パックが悲鳴をあげた。
「……鈍感だね、陽は」
蒼がぽつりと呟いたその声だけが、妙に意味深に聞こえた。
「来週も同時視聴やるから見に来てね〜」
そう言って蒼は配信終了のボタンを押す。途端にスタジオは静かになった。
「なんか疲れた……」
椅子の背にもたれて大きく息を吐く。
第一話は顔合わせだけで終わった。特別大きな事件があったわけじゃない。それなのに妙に疲れだけが残っている。
それから、画面越しの莉生はいつもと同じように笑っていたのに、どこか遠くの人みたいに見えた。
「お疲れさま、陽」
蒼がマグカップを差し出してくる。
「ありがとう」
受け取ったカップから紅茶の香りが立ち上る。
温かい紅茶に口を付けると、少しだけ張り詰めていた気持ちがほどけていくのを感じた。
「視聴者も三千人いたし、まずまずだったね」
「そうだね。嬉しかった」
「陽くんが配信してくれるから、れおはるロスを埋められるってコメント結構あったし」
「たしかに」
ファンの存在はありがたい。莉生のおまけ、とまでは言わないが、あくまで補佐的だと思っている自分のために三千人も集まってくれたのかと思うと感慨深い。
「そう思ってくれるなら有難いよ」
「俺的にはもっとアオハルの需要を高めていきたいんだけどね」
「アオハル?」
「そう。俺と陽」
「かわいいコンビ名でしょ?」
「えー?そうかなぁ」
「キスでもしとく?」
「は?」
蒼の突拍子もない提案に、危うく紅茶を吹きだしそうになった。
「な、何言ってんの」
「ふふ」
蒼は肩を揺らして笑う。
「冗談だよ」
「からかうなよ」
「可愛いね、陽は」
「蒼って変だよ」
俺がぼやくと蒼は満足そうだった。変って言われて喜ばないでほしい。
「今日ずっと不貞腐れてたから、やっと笑顔が見れたなぁと思って」
「……え?」
「気付いてなかった?」
蒼が首を傾げる。
「別に不貞腐れてないし」
「そういうことにしといてあげるし、俺もまだまだ頑張んないとな〜」
「どういう意味だよ」
「ないしょ」
蒼はマグカップに残った紅茶を飲み干した。相変わらず、何を考えてるのかよく分からない。

翌日。
教室へ向かうと、廊下の先に人だかりができていた。
何事だろうと思いながら近付く。その中心にいた人物を見た瞬間。
「陽!」
聞き慣れた声が耳に届く。
「莉生……?」
「今日撮影休みだからさ。来ちゃった」
へらりと笑う莉生。たった数日ぶりなのに。ずっと会っていなかった気がした。
「……ちょっと来て」
「え?」
「いいから!」
考えるより先に俺は莉生の腕を掴んでいた。
人混みから引っ張り出し、そのまま屋上へ向かう。
階段を駆け上がり、重たい扉を開くと、俺達の間を春の冷たい風がフェンスの向こう側へと抜けていった。
「陽?」
状況が掴めていない莉生の声を聞いた瞬間、俺は言葉よりも先に身体が動いていた。
「れお、れお……」
存在を確かめるように抱きついて頭を莉生の胸元にこすりつける。
「寂しかったの?」
頭上から優しい声が降ってくる。
「……うん、寂しかった、のかも」
ほんの数日。それだけなのに。ずっと胸のどこかが落ち着かなかった。
「そっか」
莉生はそれ以上何も言わなかった。ただ優しく頭を撫でる。その手が心地良くて。少しだけ、本当に少しだけ鼻の奥が熱くなる。
「立ってるのもあれだから座ろっか」
フェンスにもたれ掛かるように莉生が座り込む。
俺も隣に座ろうとすると、
「陽はここ」
ぽんぽん、と自分の足の間を叩く。
「座って」
「……ん」
言われるままそこへ収まる。背中に感じる莉生の体温。近い、そう思ったけど離れる気にはならなかった。
「いい子」
そのぬくもりに目を閉じたら頭を撫でられる。
なんだかもうどうでもよくなって、肩に頭を預けた。
「今日の陽、猫ちゃんみたい」
「なんだよそれ」
「こんなに素直な陽珍しいなって」
「……あっそ」
「かわいいな〜」
「うるさい」
口では悪態つきながらもそこから動く気はなかった。
「昨日の配信の切り抜き見たよ」
「見なくていいのに」
「なんでよ」
「陽のことは何だって知りたいのに」
「それで?」
「ヤキモチ陽がめちゃくちゃ可愛かった」
「は?妬いてないし」
「ほんとに?」
「ほんと」
「じゃあ俺がセレナと仲良くしてても平気?」
「……」
言葉に詰まる。莉生が俺の顔をのぞきこんでくる。
「……それが、莉生の仕事だろ」
ようやく絞り出した。
「そうだけど」
莉生の声が少しだけ低くなる。
「陽の気持ちが知りたいの」
「嫌だって言ったら出演やめてくれるの?」
「それは無理だけど」
「……ふん」
拗ねたように顔をそらすと、それを見た莉生は吹き出した。
「あはは」
「笑うな」
「分かりやすい猫ちゃん」
「うるさい、ばーか」
「そんな陽に朗報なんだけどさ」
「なに?」
「放送の次の日は毎週撮休なの」
「へえ」
「だから毎週会いに来る」
莉生は話しながら撫でる手を止めなかった。
「二人の時間作ろうよ」
そしたら寂しくないでしょ?そう言われた瞬間、自分の心の中でつっかえていたものが取れたような気がした。
「……じゃあ来週は学校サボってどっか行こ」
「あれ、生徒会長様は学校サボっちゃいけないんじゃなかった?」
出会った当初に中庭でした会話を思い出す。たしかにそんなことを話したような気がするけれど。でも、今は。
「いいよ、別に。水族館行きたい」
「そっか、うん。行こうね」
莉生が笑う。
「陽の行きたいところ行こうね」

頬を撫でる手。優しい視線。目が離せなくなる。心臓がうるさい。ふと莉生の指先が止まる。
お互い何も言わない。ただ見つめ合うだけの、その瞬間。莉生が少しだけ身を乗り出した。
唇が触れる。ほんの一瞬。触れただけ。なのに時間が永遠に止まったみたいだった。
「……」
「……」
先に我に返ったのは莉生だった。
「っ、やば」
勢いよく立ち上がる。
「俺行かなきゃ」
「え、ちょっと、莉生」
「また連絡する!来週水族館楽しみにしてるから!」
「う、うん」
「じゃあ!」
そう言って莉生は逃げるように屋上を飛び出していった。
バタン、と扉が閉まる音が響く。一人取り残された俺は、しばらくその場から動けなかった。
さっきまで隣にいたはずなのに、急に静かになった屋上がやけに広く感じる。
無意識に唇へ触れる。柔らかかった感触も、近すぎた距離も、全部まだ残っている気がした。
「……キス」
ぽつりと呟く。理解はできる。だって今のはどう考えてもキスだった。でも意味が分からない。なんで莉生が俺に?どういうつもりで?
考えれば考えるほど分からなくなる。

「早く来週にならないかな」
ぽつりと放たれたその言葉が意味することは、今の俺には分からなかった。
教室に戻ると蒼が心配そうな顔で声をかけてきた。
「大丈夫?」
「え!?な、なにが?」
「……なんかあったの?莉生と」
「なにもないよ」
「嘘つき、顔に嘘って書いてあるよ」
「うっ……」
「俺に言えないの?」
「ごめん……」
「まあ大体分かるけどね」
「え」
そう言うと蒼は俺の耳元で囁いた。
「俺とはキスしてくれなかったのに、ずるいなぁ」
「……!?あ、蒼……?」
「陽顔真っ赤、可愛い」
「か、からかうなよ」
「からかってないよ、本気でそう思ってる」
「じゃあもっとダメだろ」
「だって全然陽が意識してくれないから」
「意識、ってなにを……」
「俺だって本気なのに」
「……っ、だからそういうの」
やめろよ、と後に続く言葉は喉に棘のようにひっかかってしまった。あまりにも、蒼の視線が本気だったから。
「……ごめん」
「いいよ、負けないから」
「負けないって、誰に」
「鈍感な恋心に。ね?」
「は?」
そう言って彼は自分の席へと戻っていってしまった。なんだったんだ。

それから一週間は、あっという間に経った。
好きあとの二話では、セレナと莉生の関係性が急激に近づき、女子高生たちの間で“れおセレ”がトレンド入りを果たした。
「……はぁ」
「昨日からため息が止まらないね」
「結構来てるよ」
「辛辣な意見多かったもんねぇ」
蒼はよしよしと俺の頭を撫でて慰めてくれているが、俺の心はまったく穏やかではなかった。
机の上に置いたスマホは、もう何度も画面を伏せたり、また気になって開いたりを繰り返している。見なきゃいい。分かっているのに、見ないでいられるほど俺は器用じゃない。
れおセレに好意的ではないれおはるファンの女の子たちが、れおセレが好きな人たちに向けて批判的な言葉を発したことで、売り言葉に買い言葉なのだろう。『元かられおはるなんて無ければいいと思ってた。莉生一人でいいのに』という意見を複数見てしまったのだ。
ただの文字なのに、それは妙に重たくて痛かった。

画面を閉じても、その言葉だけが頭の中に残り続ける。莉生一人でいい。莉生の隣に俺はいらない。そんなふうに言われている気がして、胸の奥に小さな棘が刺さったみたいだった。
「……俺って莉生にとって、邪魔なのかな」
「そんなことないと思うけどね、俺は」
「だってさー……」
「この後学校サボって莉生とデートなんでしょ?そんな顔で行くつもり?」
「げ、なんで知ってんの」
「先週ずっと浮かれてたのに、気づかないとでも?」
「……うっ」
そんなに分かりやすかっただろうか。いや、分かりやすかったんだろう。自分でもこの一週間、浮かれていなかったとは言えない。
久しぶりに莉生と出かけられる。しかも二人で。そう思うだけで、昨日まではちゃんと楽しみだったのに。
今は楽しみよりも、胸の奥に溜まった不安の方がずっと大きい。
そんなことを蒼と話していたら、「陽」と教室の外から俺を呼ぶ声が聞こえた。
「莉生!」
名前を呼んだだけで、胸の苦しさが少しだけ軽くなる。
教室の外に立つ莉生は、いつも通り穏やかに笑っていた。その笑顔を見た瞬間だけは、SNSも、誰かの言葉も、全部どうでもよく思えた。
「ごめん、お待たせ。待った?」
「ううん、大丈夫」
「じゃあ行こっか」
「うん。あ、蒼!また連絡する」
「俺のことはいいから楽しんでおいで」
「ありがと!」
蒼に見送られて、俺たちは学校を抜け出し、水族館へと向かった。

平日の昼間の駅は、休日ほど混み合っていなくて、どこかのんびりしている。制服のまま歩く俺たちは、たぶん少しだけ浮いていたと思う。けれど隣に莉生がいるだけで、その後ろめたさすら特別なものみたいに感じた。
「水族館なんて来るの久しぶりかも」
「俺も、小学生ぶりくらい」
水族館の中に入ると、ひんやりとした空気が肌に触れた。薄暗い通路の先で、水槽の青い光が揺れている。その光に照らされた莉生の横顔は、いつもより少し大人びて見えた。
俺の隣で笑う彼を、下からじっと見上げていたら、それに気づいた莉生が「どうしたの?」と尋ねてきた。
それがなんだかくすぐったくて、「なんでもないよ」と微笑んだ。本当は、なんでもなくなんかなかった。
こうして隣を歩いてくれることが嬉しい。俺のために時間を作ってくれたことが嬉しい。今この瞬間だけは、莉生が俺の隣にいて、俺の方を見て笑ってくれている。それだけで十分だと思いたかった。
「好きあとの撮影順調?」
「うん、陽も毎週盛り上げてくれてありがとね」
「別に、俺は……」
「昨日の同時視聴の配信もむくれた陽がバズってたね」
「もー、笑うなよ」
「だって可愛くて」
「蒼にもからかわれるし最悪だよ、ほんとに」
莉生は本当に楽しそうに笑う。その顔を見ると、少しだけむっとするのに、それ以上に安心してしまう。莉生が笑っている。それだけで、俺の機嫌なんて簡単に持ち直してしまうのだから、我ながら単純だと思う。
「陽がセレナに嫉妬してるのと同じくらい、俺もヤキモチ妬いてるんだけどな」
莉生が何かを呟いた気がした。
でも、その声は「見て!くらげ!」という俺の声にかき消されてしまった。
水槽の中で、いくつものくらげがふわふわと漂っている。透明な身体に青白い光が透けて、形があるようでないみたいに揺れていた。
「くらげってかわいいよな」
「そう?」
「ちょっと不気味なところも含めて俺は好きなんだよ」
「へぇ、また陽の意外な一面知れちゃったな」
「なんだよそれ」
暗い水槽の前に立っていると、自分たちの声まで少しだけ小さくなる。ふわり、ふわりと漂うくらげを目で追っているうちに、さっきまで胸の奥にあった重さも、ほんの少しだけ薄れていくような気がした。
「あ、陽みて。くらげのぬいぐるみのくじだって」
「え!」
莉生が指さした先には、くらげを模したぬいぐるみが並んでいた。大きなものから小さなものまで、淡い色の丸い頭がずらりとこちらを向いている。
「はは、ほんとに好きなんだね」
「うわー、かわいい。一回千円か!ねえ、莉生もやろうよ!」
「俺はいいよ」
「なんでよ、こういうのは二人でやった方がたのしいじゃんか!」
「まあ、それもそうか」
莉生が小さく笑って、財布を取り出そうとした、その時だった。
「あれ、莉生?」
女の子の声がした。
聞き覚えのある声に、心臓が嫌な跳ね方をする。ゆっくり振り返った先には、テレビやスマホの画面で見慣れすぎた女の子が立っていた。
「セレナ?」
「あー!やっぱり莉生だ!偶然だね!」
「俺が言うのもなんだけど今日学校は?」
「今撮影の休憩中で、近くに水族館があったから来てたの。ってか莉生はサボりってこと?」
「まあそんなところ」
「いけないんだー。あ!ねえじゃあさ、カフェでお茶しようよ!ここの水族館の併設のカフェ!フレンチトーストが美味しいんだって」
「え、いやでも……」
莉生が、俺の方をチラリと見る。その一瞬だけで疎外感を覚えるには十分だった。
セレナは俺の顔を見るなり「あー、友達と一緒じゃ私お邪魔かな」と様子を伺っている。
分かっている。セレナが悪いわけじゃない。莉生だって、俺を置いていこうとしているわけじゃない。それでも、この状況では間違いなく、邪魔なのは俺だ。
「いいよ、行ってきなよ。俺は大丈夫だから」
「でも……」
「また後で連絡するから!」
「……分かった」
笑って言ったつもりだった。ちゃんと笑えていたのかは、自分でも分からない。
本当は、行かないでって言いたかった。今日は俺とデートなんだろって、子どもみたいに拗ねたかった。でもそんなことを言える立場じゃない気がした。
莉生はあまり納得のいっていない様子だったが、押し切る形で二人を見送った。
二人の背中が並んで遠ざかっていく。
好きあとで見た画面の中の二人みたいだと思った瞬間、胸の奥がぎゅっと痛くなった。

「はぁ……」
くらげのくじを引いて帰るか。
そう思って引いてみたが、結果は一番小さなぬいぐるみが当たっただけだった。
手のひらに収まるくらいの小さなくらげ。かわいいはずなのに、今の俺にはそれすら少し惨めに見えた。
ついてないな。くらげのぬいぐるみを手に、とぼとぼと帰り道を歩く。学校もサボっているし、なんだか家に帰りづらくなってしまい、途中の公園のブランコに腰掛けた。
夕方にはまだ少し早い時間で、公園にはほとんど人がいなかった。遠くの道路を走る車の音と、風に揺れる木の葉の音だけが聞こえる。
ブランコを少しだけ揺らすと、ギィ、と金具が軋んだ。
「公園か……」
そういえば、莉生と動画投稿を初めてすぐの頃、公園でフルーツ飴を食べていたらナンパされている莉生を「デート中なんで」って引き剥がした動画がバズったりしたなぁ、と思い出す。
あの時の莉生は、驚いた顔をしたあと、少し照れたみたいに笑っていた。
あの動画を何度も見返しては、コメント欄で“れおはる本物すぎる”なんて言われているのを見て、くすぐったい気持ちになっていた。
「懐かし……」
莉生に出会ってから、まだ数ヶ月しか経っていないはずなのに、俺の日常の中にはいつも莉生がいて、それが当たり前になっていた。
でも好きあとに出ることが決まって、ほぼ毎日一緒にいたはずなのに、中々会えなくなって、寂しさは募るばかりで。
莉生の存在が自分の中で大きくなっていることに、離れてから気付くなんてどうかしてる。

「はぁ……」
何度目かのため息か分からなくなったとき。
「陽くん、ですか……?」
「え、はい」
声をかけられて顔をあげると、そこにはスーツを身にまとった男性が立っていた。
最初は、どこにでもいる会社員に見えた。けれど次の瞬間、背筋がぞくりとした。
男は笑っている。笑っているはずなのに、目だけが笑っていない。焦点の合わない視線が、俺の顔から手元のぬいぐるみへ、それから制服へとゆっくり落ちていく。
「今日学校は?サボり?」
「え、まあ」
「そうなんだ、でもこんなところで陽くんに会えるなんてラッキーだな」
「ちょっと、あの、俺になんの用、ですか」
この男、様子がおかしい。息は荒いし、目の焦点が合っていない。公園の空気が、さっきまでとはまるで違うものに変わっていく。
「ああ、ずっと陽くんに触ってみたかったんだ」
「……っ、すみません俺帰ります」
危険を察知した俺は、その場から逃げようとする。でも、立ち上がった瞬間、手首を掴まれてしまった。思っていたよりずっと強い力で、骨がきしむように痛む。
「いた、ちょっと離して」
「公園じゃなくてさ、ちょっと休憩できるところに行こうよ。もちろんお小遣いもあげるからさ」
「い、いらないから!離して!」
「いいから行くよ」
「わっ」
ぐいっと引っ張られて、足元がもつれる。
転ぶ、と思った。でも、なにかに当たった感覚はあるのに痛みはなかった。不思議に思って顔をあげると、そこには俺を抱きかかえながら、男を睨みつける莉生の姿があった。
「莉生……?」
名前を呼んだ瞬間、全身から力が抜けた。怖かった。本当は、ずっと怖かったのだと、莉生の顔を見た途端に気づいた。
「チッ、一人だと思ってたのに」
「いいんすか?警察に通報したんで早く離れないと未成年に暴行したって捕まっちゃいますよ?」
「くっ……」
莉生の声は低かった。普段の穏やかな声とはまるで違う。俺を支える腕には力がこもっていて、その温度だけがやけにはっきり伝わってくる。男はサイレンが近づいてくる音を聞き、観念したようでその場から逃げていった。
「俺らも面倒だから移動するよ、陽動ける?」
「うん」
「ここからなら俺ん家が近いから、そこでいい?」
こくんと頷き、莉生の家へ向かった。
駅から少し離れた住宅街を歩く間、莉生はずっと俺の手首を気にしていた。掴まれたところが赤くなっているのを見て、何度も眉を寄せる。
俺は「大丈夫」と言おうとしたけれど、うまく声が出なかった。
莉生の家は、思っていたよりも静かな場所にあった。
「おじゃまします……」
「あんまり、綺麗じゃないけど気にしないで」
「うん」
部屋に入ると、莉生の匂いがした。洗剤みたいな、柔らかい香り。机の上には教科書と台本が重なっていて、ベッドの端には畳まれたパーカーが置かれている。ちゃんと生活している人の部屋だと思った。
そこ座って、と指定された通りにベッドに腰掛けると、莉生も横に座ってきた。
「怖かったね、ごめんね一人にして」
「うん……」
莉生に抱きしめられた瞬間、俺の身体が小さく震えた。大丈夫、隣にいるのは莉生なんだから、何も怖いことなんてない。
「俺が巻き込まなかったらこんなことにならなかったよね、ほんとごめん」
「違う、莉生は悪くないよ。あのおじさんが変なだけで」
「でも陽は普通の高校生のままだったらあんな目にあってないじゃん」
「これは、俺が選んだ道だから。だから謝らないで」
莉生の服を掴む。これは俺の本心だから。
「……分かった。あ、そうだこれ」
「さっきのくらげ!しかも一等のやつじゃん!!」
莉生が差し出したのは、水族館のくじで一等の景品になっていた、大きなくらげのぬいぐるみだった。思わず抱きしめる。
「れおん、って名前にしよ」
「こはるの真似?」
「そう」
莉生がくれたぬいぐるみは、ふわふわで、思っていたよりずっと大きい。小さなくらげを引いてしょんぼりしていた自分が、少しだけばかみたいに思えた。
れおんと名付けたぬいぐるみをさらにぎゅっと抱きしめる。
「さすがにでかすぎてさ、一回家に置いてから陽を探して謝ろうとしたら、公園で襲われてるからびっくりしたよ」
「それは俺もびっくりした」
「公園でなにしてたの?」
「えっと、黄昏てた」
「ふっ、なにそれ」
「いいだろ、なんだって」
ぷいっと顔をれおんの頭にうずめる。本当は、言いたくなかった。
莉生とセレナが並んで歩いていく背中を見て、勝手に傷ついて、勝手に逃げて、勝手に落ち込んでいたなんて、あまりにも情けない。
けれど、それがお気に召さなかった莉生は、少しだけ目を細めた。
「あ、ごまかした。そんな悪い子はお仕置き」
「え、ちょ、あはは!やだ、くすぐったい!」
脇腹をくすぐられて、思わずベッドに寝転んでしまう。
れおんが腕の中から転がって、ベッドの端でふわりと止まった。
「陽」
名前を呼ぶ声が、やけに近い。笑っていたはずなのに、いつの間にかお互いに何も言えなくなっていた。視線が混じり合う。いつの日かの屋上のときみたいに、空気が少しだけ変わる。
莉生の顔が近づいてくる。
長い睫毛も、少し赤くなった耳も、触れそうな距離にある。息がかかりそうで、胸がうるさいくらいに鳴った。
二人の唇が重なろうとした、その瞬間。

「おい莉生、下にかわいい女の子がお前に渡すものあるって待ってるぞ」
無遠慮にドアが開いた。
そこに立っていたのは、莉生によく似た、メガネをかけた人だった。
「蘭世……ノックくらいしろよ」
「緊急だったんだから仕方ないだろ、ほらさっさと行ってこい」
莉生は不満そうに眉を寄せながらも、俺の方を見る。
「たぶんセレナだろうからちょっと行ってくるね」
「……」
「大丈夫、すぐ帰ってくるから」
「うん」
莉生は俺の頭を撫でて、下へ降りていった。
扉が閉まると、部屋の中には俺と、その人だけが残される。
気まずい。ものすごく気まずい。
さっきまで莉生とキスしそうになっていたところを、たぶん、いや、間違いなく見られた。そう思うと、顔が一気に熱くなる。
「お前が影山陽か?」
蘭世と、莉生に呼ばれていた人が俺のことを見据えた。まるで蛇に睨まれた蛙だ。
「そ、そうです」
「そうか。仲良くしてやってくれよな」
「はい。えっと……莉生のお兄さん?ですか?」
「ああ、朝日奈蘭世。三兄弟の真ん中」
「ああ!医大生のお兄さんがいるって」
「そう、それが俺」
「なるほど」
莉生によく似ていると思った。
顔立ちも、声の雰囲気も。けれど、莉生より少しだけ余裕があって、掴みどころがない。メガネの奥の目は穏やかなのに、こちらのことをちゃんと見透かしているみたいだった。
「俺は親父の敷いたレールの上を歩くことを選んだけど、莉生は違うだろう?自分の力で才能で俺たちとは別の道を歩こうとしている。でもその道は結構孤独だと思うんだ。だから、君が隣を走ってくれてよかったと思ってさ」
「俺が、ですか?」
「ああ。ああ見えて莉生は寂しがり屋だからな」
「よく見てるんですね」
「かわいい弟、だからな」
「そうですね」
その言葉が、胸にゆっくり染み込んでいく。君が隣を走ってくれてよかった。
ついさっきまで、俺は自分のことを邪魔だと思っていた。莉生の隣にいるべきなのは俺じゃないのかもしれないと、勝手に傷ついていた。
でも、蘭世さんはまっすぐにそう言った。俺が隣にいることを、よかったと言ってくれた。
それだけで、莉生の隣に立つことに自信が持てた気がした。

そんな話を蘭世さんとしていたら、莉生が戻ってきた。
「あ、ちょっと!陽になにか吹き込んでたでしょ」
「別にお前が小学生になるまでおもらししていた話などしていない」
「今言ってるじゃんか!」
「そうだったか?そうだ、二人とも。なにかする時は家に誰もいないことを確認してからにしろよ」
「もういいから部屋戻れよ!」
「じゃ、影山くん。莉生のこと頼んだよ」
そう言って蘭世さんは、嵐のように去っていった。
閉まったドアを見つめながら、俺はぽかんとするしかなかった。
「すごい人だったね」
「いつもああなんだよ。ごめんねびっくりさせて」
「ううん、いいお兄さんだね」
「何言われたの……」
「秘密」
少しだけ意地悪をして笑う。さっきまで沈んでいた気持ちが、嘘みたいに軽くなっていた。
莉生は家族のことあんまりよく思ってないみたいだけど、家族の方は莉生のことを大切に思っているのだなと少しの会話で実感できた。身近な人の心配ほど子供には伝わらない、ということなのかもしれないな。
「そういう莉生は、セレナさんと何話してたの?」
「え?ああ、カフェに忘れ物したから届けてくれただけ」
「そうなんだ」
そう答えながら、なんだかまた居心地が悪くなってれおんを抱きしめた。ふわふわした感触が、まだ少し不安定な心を受け止めてくれる。
莉生が隣へ戻ってきた。そのことに、胸の奥がほっとしている。
屋上でキスをした時も。会えなくて寂しかった時も。セレナと並んで歩く背中を見た時も。ずっと同じところが痛かった。
「……あ」
ようやく、ひとつの答えに辿り着く。
顔を上げて、隣にいる莉生を見る。
好きなんだ。俺は、莉生が好きなんだ。