望叶が八尋くんと一緒に帰ったこと、アイスを食べたこと、そして私はメッセージのやり取り。
それらを考えると、八尋くんにどんな態度で接したらいいのかわからない。
教室に入る時、いつも以上の緊張。
後ろのドアを開けると冷たい空気が顔にふれた。
朝一番に登校した人がエアコンの電源を入れるのが暗黙の了解らしい。
教室に入ってすぐにドアを閉めようとしたら、「待って! そのまま!」と後ろから八尋くんの松葉杖がドアの閉まるのを遮った。
通りやすいように横によけて、八尋くんが教室に入ってからドアを閉めた。
「助かった!」
それだけ言うと、八尋くんは自分の席に向かってしまった。
いつもと変わらない。
どうやら私が勝手にごちゃごちゃ考えてただけで、八尋くんにとっては全て「通常運転」の範囲内だったらしい。
つい考えすぎてしまうのが私の悪いところ。
いつだってポジティブ思考の望叶を見習いたい。
昼休憩に、宮舘さんと高遠さんと英語の宿題の話になり、その流れからテストの話になった。
「連休明けにもテストがあるの?」
「小鳥居さんが前行ってた学校はなかったの?」
「テストは中間考査と、たまーに授業の前に英単語の小テストがあったくらい」
「連休とか長期休暇の後は必ずテストがあるよ。赤点取ったらもれなく補習だって言われてるけど、赤点取る人がいないから、都市伝説ね」
赤点を取る人がいない?
かなり無理してこの高校に入った身としては、初の赤点取得者になるかもしれない。
「八尋くんは英語が苦手って言うの聞いたけど?」
「あー、苦手って言ってもねぇ」
宮舘さんが八尋くんの方をチラリと見る。
私の質問に答えてくれたのは高藤さんだった。
「八尋は英語が『苦手』って言っても学年30番以内には入ってるから。他の教科が10位以内のどこかにいるから苦手に入るのかもだけど。あいつ、頭いいんだよね」
「学年で? 150人の中でってこと?」
声がうわずってしまう。
そんなに頭良かったんだ……
「正確には156人ね」
「でも、古文はヤバいって聞いたことがある。毎回50位内に入れないって。極端だよね」
「八尋の隣の末広さんなんて、入学以来数学は学年トップをキープしてるよ」
「みんな……頭がいいんだね……」
「塾で予習してるしね」
「八尋は塾行ってないんじゃない?」
「たまにいるよね。授業聞いて応用まで理解できる人って」
「いるいる。頭の中どうなってるんだろ」
「もうすぐ中間考査かぁ……」
もう途中から2人の会話には入っていけなくなった。
中間考査……考えただけでも頭が痛い。
望叶からの情報が少なかったことで取り立てて困ったことにはならなかったものの、ヒヤヒヤして過ごした。
ようやく1日が終わって、校舎を出る前にスマホを見ると、お母さんから着信が残っていて、メッセージも届いている。
<学校が終わったらすぐに電話して>
この時間はパートの時間のはずなのに変なの。
隅っこの、人がいない所を探してこっそり電話をかけると、お母さんは数コールで電話に出た。
「メッセージ見たけど何?」
「今日は病院へ寄らずに家へ帰りなさい」
「どうして?」
「昨日の夜、望叶が熱を出したの。お薬で少しは下がったんだけど完全には下がらなくて。希依に会うと話をしたがってまた熱が上がったらいけないから」
私のせい。
「……わかった。夜ご飯は何かテキトーに食べておくから、ずっと望叶についてて」
「ごめんね。お父さんも今日は遅くなるみたいだから、戸締まりを忘れないで」
「ちゃんと鍵を閉めとく」
私のせいだ。
私が学校に行かせたから、望叶は熱が出た。
やっぱり入れ替わりなんてするべきじゃなかった。
こんなこと止めるべきだった。
全部私のせい……
頭の中が自分のしでかしたことでいっぱいになった。
もしこのまま望叶の熱が下がらなかったら?
頭の中に悪い想像しか浮かばなくなった。
学校を出てから、ぼんやり歩いていたせいで前から来た人にぶつかった。
その拍子に手に持ったままだったスマホを落としてしまった。
拾うためにしゃがんだら、立ち上がれなくなった。
どうしよう……
小さな子供みたいに泣きじゃくった。
どうしよう……
「小鳥居さん」
頭の上で声がして、顔を上げると松葉杖が目に入った。
涙でぐしゃぐしゃの顔を見ても、八尋くんは表情を変えることもなく、「ちょっとだけ動こう」と言って、私を立たせた。
八尋くんは、ずっとしゃくりあげるように泣いている私を引っ張って、数メートル先にあった駐車場を囲む低いブロック塀のところへ座らせた。
そしてすぐ隣に座ると、リュックの中から何かを出して私の肩にかけた。
「部室に置きっぱしてたやつだから、嫌かもしれないけど我慢して」
頭の上にパーカーのフード部分が被せられた。そのおかげで泣いている顔は誰からも見えなくなった。
「俺がひとりで話してるから、落ち着くまで泣けばいいよ」
八尋くんは隣でサッカーの話をしていたから、2人が話をしているように見える。
「大丈夫」と言うことも、「気にしないで」と言うこともできなかった。
その優しさに甘えて泣き続けた。泣いている間、八尋くんはずっとそばにいてくれた。
涙が止まるまで待っていてくれた。
「……八尋くん……ありがとう」
「俺が松葉杖だから、返って目立ってたかも」
泣いていた理由を聞かれない。
「歩けそう?」
「うん……私のせいで……ごめんね」
「自分のせいとか言うのはナシだよ。俺がしたくてしてることだから」
「ありがとう」
せっかく止まった涙がまたあふれそうになって、目に力を入れた。
「パーカー、洗って返す」
「え? いいよ。もともときれいじゃないし。あっ! 汚いのを小鳥居さんにかけるつもりじゃなかったんだけど。ごめん、嫌だったよな……」
「私はこのパーカーに救われたよ」
「俺のパーカーは正義のヒーローかよ」
八尋くんが私を見て微笑んだのを見て、「ふふっ」と笑った。
「今、俺を見て笑った?」
「違うよ。違う」
「笑った」
「笑ってない」
笑ったよ。「笑えた」が正解。
心の中に重くのしかかるものは消えないけれど、それでも八尋くんのおかげで笑うことができた。
結局パーカーは八尋くんに奪われて、くしゃくしゃに丸められてリュックに収まった。
「いつも日傘さしてるのに、今日はさしてないんだ」
言われて初めて自分が日傘をさしていないことに気がついた。
「忘れてたみたい」
「さす?」
「いい」
そのまま八尋くんと駅まで一緒に向かった。やっぱり一度も泣いていた理由を聞かれなかった。
代わりに八尋くんが好きな食べ物の話を始めたので、八尋くんが好きな物がチョコだということを知った。
「それでいつも売店でチョコの入ったパンを買ってるの?」
「あれはマジで美味い。小鳥居さんも美味しいって言ってたじゃん」
「うん。美味しかった」
あれ?
でも、望叶とアイスを食べた時、八尋くんが食べたのはストロベリーで、望叶が食べたのがチョコナッツと聞いた。
たまたま?
それとも、アイスはストロベリーが好きとか?
望叶がアイスを食べる時は、いつもストロベリーを選んでた。
どうして逆なんだろう?
でもその時のやり取りを聞くことはできない。
「小鳥居さん? どうかした?」
「ううん。あのチョコの味を思い出してただけ」
「また今度買った時、半分やるよ」
「いいよ! 自分で買うから」
「ムズいよ? あれ人気だから、売店開いたらダッシュで買いに行かないとすぐに売り切れる」
「そんな貴重なパンをくれたの?」
「そーゆーこと。じゃあ、俺はこっちだから。バイバイ」
駅前のバス停に向かって行く八尋くんの後ろ姿が見えなくなるまで、その場に立ったままでいた。
八尋くんは松葉杖だから、歩くのがゆっくりで、そのせいで長い間後ろ姿を見つめていたことになる。
姿が見えなくなってから、「ばいばい」を言い損ねたことに気がついた。
土曜日に、お父さんとお母さんと3人で病院へ行くと、熱のすっかり下がった望叶はいつも通りだった。
「嫌だなぁー。3人で一緒に来られたら先が長くないみたいに感じる」
「望叶、バカなこと言わないの。3人ともお休みだから一緒に来ただけでしょ」
「そうだよ、お母さんの言うとおりだよ」
望叶が冗談で言ってるのはわかってるけれど、本気で返事をしてしまう。
「何か欲しい物はないか?」
お父さんの質問に、望叶は笑顔で答えた。
「彼氏?」
「ばっ、バカなこと言うんじゃない。まだ早い」
「じゃあ、いつだったらいいの? お父さんの許可を待ってたらおばあさんになっちゃうよ」
おばあさんになっても生きていてくれるなら、お父さんには一生許可なんてして欲しくない。
「ねぇ、お父さんもお母さんももう帰ってよ。希依とふたりの方が楽しい。マンガの話とかドラマの話とか、推しの話もしたいのに邪魔」
「邪魔って……」
「それだけ言えるってことは元気になったってことよね。お父さん、帰りましょう」
「さっき来たばかりなのに」
「ほら、帰りましょう」
本当はお母さんも、お父さんと一緒で望叶のそばから離れたくないはず。
それでも帰るのは、自分達の感情より望叶の気持ちを優先させているから。
ふたりが病室を出てしばらくしてから、望叶が私に言った。
「また来週も学校へ行けるよね?」
期待に満ちた瞳。
でも無理。
「ごめん」
「……どうして?」
あからさまに表情が変わる。
「私……何か失敗しちゃった? 希依に迷惑かけちゃった? 何か嫌な思いさせちゃた? ごめんね。次はちゃんとやるから。ごめんなさい」
「そうじゃないよ。迷惑なんかかかってない」
「だったらどうして? 何がダメだった? 直すから言って。学校であったことをちゃんと書き留めておかなかったから? 次からは絶対に全部書く。だから――」
懇願されても、もうそのお願いはきけない。
望叶の顔を直視することができなくて、視線をはずしたまま言った。
「……こんなの間違ってるって気づいただけ」
「……熱が出たから? そうなんだね?」
望叶はシーツに顔を突っ伏した。
「やだ……やだよ……こんなからだ……もう……いらない……」
消えそうな声。くぐもっていたけれど、すぐそばにいたから何を言っているのか、その言葉がはっきりと聞き取れた。
どうして、望叶にだけタイムリミットがあるんだろう?
「すぐに良くなるから」
「元気になったらいくらでも学校へ行けるよ」
「今は病気を治すことだけを考えて」
そんな嘘が通用しないことを、私も望叶自身も知っている。
「望叶に熱が出たって聞いて、怖くなった。どこかで倒れたら、って悪いことばかり想像してしまう」
望叶はシーツから顔を上げた。その目は真っ赤になっている。そんな顔で笑ってみせる。
「……そうだね。そんなことになったら希依を困らせるね。わがままだった。ねぇ、あのマンガ、次はいつ発売になる? 早く続きが読みたい。八尋くんの話も聞きたいなぁ。希依は八尋くんのことどう思ってるの?」
いつもと同じ笑顔で、明るい声。ちょっとふざけたような物言い。
これ……全部……演技だ。
嘘だ。
望叶の嘘つき。
「希依? 黙ってないで何とか言ってよー。顔も怖いよぉ?」
「望叶は……もし、もしだよ? 病院を抜け出してる時に……もしもだからね! もし……倒れたら……って、考えないの?」
「こんな所で何もできないまま終わるよりいい」
残酷な運命は、望叶に希望すら与えない。
着実に「最後」が迫っている。
「もし病院の外で何かあったら」は、私の罪悪感。
間違ってる。絶対に間違ってる。
こんな決断を選択してはいけない。
何かあってからでは遅い。
後悔するに決まってる!
お父さんやお母さんにどんなに怒られるかわからなない。
病院の先生や看護師さんにどれだけ迷惑をかけることになるかわからない。
でも、後悔するのも怒られるのも私であって、望叶じゃない。
「無理をしないって約束して。少しでも気分が悪くなったり、異変を感じたらすぐに中止。誰かに助けを求めて」
「それって……?」
「約束して」
「……いい……の?」
「それから、この間みたいにあったことを端折って書くのはやめて。ちゃんと何があったかきちんとルーズリーフに書いて」
「書く! ちゃんと書く! ありがとう、希依。ありがとう」
間違ったことをしている。
自分の決断を絶対に後悔する日が来ることもわかってる。
周りにも迷惑をかけることになる。
でも、望叶が大好きなの。
だから、望叶の望みを叶えてあげたい。



