だから、嘘をつく。



朝起きると、外は雨だった。
天気予報も一日中雨マークが付いている。

いつも使っている日傘は晴雨兼用だったけれど少し小さめの傘だったから、望叶とお揃いの長傘を持って家を出た。



学校が終わると、雨で部活が休みになった八尋くんと駅まで一緒に帰った。

教室の中で、八尋くんが私に「一緒に帰ろう」と言っても、もう誰も何も言わない。
廊下を並んで歩いていても、誰も振り返らない。


「先に言っとく。俺、クリスマスの日は試合で、その後部活で打ち上げがある」

「うん」

「なんか言わないの?」

「何か? 頑張って」

「違うーっ。『えー、寂しい』とかいうやつ」

「でも、それ言っても仕方がないやつでしょ?」

「そうだけどさぁ……」


傘を指しているせいで、八尋くんがどんな顔をしているのか良く見えない。
それは逆に、、私の顔も良く見えていないということで、少しほっとした。


「寂しい」と、私が言ってもいいのかわからなくて言えないでいる。

八尋くんに嘘をついているから。

やっぱりこのままでいいわけがない。

病院の入り口で傘をビニールに入れてから、エレベーターへ向かった。
もう何度も来てるから、目を閉じたままでもいけるかもしれない。

エレベーターが8Fで扉を開くと、スタッフステーションの前を通り、いつものように望叶の病室のスライドドアを開けた。
桃色のカーテンが人一人分開いたままだったので、そこから声をかけながら顔を覗かせた。

望叶はベッドに座っていたけれど、じっと自分の足元を見つめていた。


何を見てるんだろう?


「望叶ー? あのマンガの最終巻を持って来たよ?」


すぐに「わぁっ!」と喜ぶと思ったのに、望叶の反応は少し遅れた。


「希依……」

「どうしたの? どこか具合が悪い?」

「ちょっと……寝てたから……寝ぼけてるかも……」


ふんわりと笑みを見せる望叶にほっとした。

まだ寝ぼけているのか、望叶はどこを見ているのかわからない。
リュックをイスの上に置いて、今日あったことを書いたルーズリーフと、望叶の好きなマンガを出した。


「…い」

「ん?」

「き……い……」

「何?」

「……マンガ……最終回……いつ……かな……」

「望叶、それさっき――」


笑顔を見せていた望叶が眉間に皺を寄せている。


「望叶? どこか痛いの?」


望叶は私の問いかけにもぼんやりとしている。
さっき私が言ったことを間違って覚えていた。
それに……言葉がすぐに出て来ない。
寝ぼけてるとか、そういうのとは違う気がする。


「望叶?」


返事が返って来ない。


「ん?」


少し間があってからの一言。
からだに嫌な汗を感じた。
やっぱりどこか変。

ナースコールを押すと、すぐに看護師さんがやって来てくれた。


「どうしたの? 何かあった?」

「望叶の様子がおかしいんです。ぼーっとしてるっていうか……話ができないみたいで」


私の言葉に、看護師さんが望叶に話しかけた。


「望叶ちゃん、気分が悪い? どこか痛かったりする?」


望叶は看護師さんの質問に答えることなく、ぼんやりと見つめ返すだけだった。
それを見て、看護師さんはすぐにお医者さんを呼んだ。


すぐ目の前で起きていることが現実だと認めたくなくて、壁にぴったりと背をつけたまま黙って立ち尽くした。
持っていた傘は床に転がったまま、足元で小さな水たまりを作っていた。


誰も何も教えてくれなかったけれど、お医者さんや看護師さんの様子は、望叶の状態が良くないのだと察するに十分だった。


やがてお母さんと、仕事を早退してお父さんもすぐにかけつけた。


出来ることがない。



突然の意識障害。



数日後、意識が戻らないまま、望叶はこの世を去った。

もっと……もっと違うものだと思ってた。

じゃあ、どんな最後を想像していたのかと聞かれたら答えられない。

でも、こんなの違ってる。それだけは言える――


苦しむ姿が見たかったわけじゃない。

ただ……眠ったままで、最後に声すら聞くことができなかったのが、悔しい。

いつだったら話が出来たの?

こんなことになるなら、学校なんか行かずに一日中、望叶の隣にいたら良かった。

後悔ばかり。


望叶の意識がぼんやりする前の日、最後に話したのが、マンガの話だったなんて……



『学校が終わったらマンガ持って来る』

『生きてる間に最終回が読めて幸せ』

『その言い方好きじゃない!』

『まじめにとらないでよぉー』

『また明日ね』

『うん、また明日』



あの時、望叶は笑って「また明日」と言った。

笑ってたのに!


マンガを持って行くのは私の役目だった。
でも、お母さんに持って行ってもらえば良かった。
そうしたら、望叶はあんなに楽しみにしていた最終回を読むことが出来たかもしれないのに……


あり得ないよ。

あれが望叶と意思の疎通が出来た最後の会話になったなんて、悔しすぎる。

もっと、他に話すことがあったはずなのに……


望叶のバカ!


名前を呼んでも、望叶は返事をしない。

目を閉じたまま、ぴくりとも動かない。


起きて?


無視しないでよ。


次はいつ学校へ行く?


インフルエンザが流行ってるから、当分は無理だね。
感染症にかかったら、命に関わる場合もあるって病院の先生が――


望叶。

望叶。


望叶……


お別れもちゃんと言えなかった――
小さな陶器の入れ物に収まった望叶は、花柄の箱に入れらてマンションへ戻った。

望叶の骨が一部ピンク色をしていたことを、「これは一緒に入れられていたお花の色素ですから」と説明されたけれど、そんな説明いらないと思った。
「かわいいピンクですね」でいい……望叶らしい、かわいいピンク。望叶の好きな色。



喪服代わりだった制服を着替えるために自分の部屋へ入ったけれど、そのままベッドへ座った。
ぼんやりしていると、ドアがノックされて、「入るよ」と言ってお母さんが入って来た。お母さんも喪服のままだった。

黙って隣に座ると、私を見た。
火葬されている間中泣いていたから目が真っ赤になっている。


「希依、ありがとう。たくさん、無理をさせちゃったね。いつも望叶につきっきりなことが多くて、寂しい思いもさせてしまって、ごめんね」

「私は別に……」


お父さんとお母さんがいつも望叶を優先することを私は何とも思っていなかった。でも、お母さんは罪悪感を感じていたのかもしれない。


「もうどこにもいないのに、望叶の物にふれると、望叶を感じるのよね……」


私は……鏡を見るたびに、そこに望叶を見つける。


「これ、覚えてる?」


お母さんが手に持っていたのはイルカのキーホルダー。


「家族で水族館に行った時のだよね?」

「望叶が大事にしてたから、棺に入れてあげたかったんだけど、金属の部分があるからダメって」


小さな頃は、ふたりでお揃いの物が多かったけれど、これだけは望叶しか持っていない。望叶の宝物だった。


「希依は悔いが残らないようにね。モデルを本気で目指すなら、応援するから」

「あれは……もうやめる。やっぱり美味しいものをいっぱい食べたい」


モデルなんて目指していなかった。
私がダイエットを続ける理由はもうどこにもない。


「……何でもいい。何でもいいから、やりたいことをやりなさい。でもね、望叶の分まで頑張らないといけないと思わなくていいんだからね。希依は希依だから」


言葉が出なくて俯いた。


「望叶の夢は何だったのかな……」

「パティシエに……なりたいって言ってた時があったよね」

「そうだったね。それでオリジナルのお菓子を作ってくれたけど……ちょっと……ね」

「独特のセンスだった。でも、お父さんは美味しいって、いつも完食してたよね」


お母さんは「ふふ」と笑っていたけど、それはやがてすすり泣きに変わった。
両手で顔を覆い泣き続けるお母さんと、肩を寄せ合い、一緒になって無防備に泣いた。

ひとりになってからルーズリーフの綴じられたファイルを開いて、望叶が学校へ行った日のことをもう一度読み返した。
望叶は「誰と何を話したか」「何があったか」といったこと以外のことも書いていた。


マネしたい髪型の子の名前。

クラスの子が持っていて、かわいいと思ったキャラの文房具。

売店で売っている食べてみたいパンランキングの一位は、八尋くんが美味しいと言っていた、あのチョコクリームの入ったパンだった。


学校へ行った日は、お母さんの作ったお弁当を持って行ってたから、それを食べるのが精一杯で、望叶はパンを食べることができなかったはず。
望叶が学校へ行く日、お母さんに「パンを買うからお弁当はいらない」と言えば良かった。
八尋くんに頼んで、争奪戦の激しいパンを買いに行ってもらえば良かった。


「やっておいて良かった」と思うことは何一つ思い浮かばなくて、「こうしておけば良かった」という後悔ばかりが頭の中にこびりついて剥がれない。
もっと他にも出来ることがあったんじゃないかと、自分を責める言葉がいくつも浮かんで、胸がぎゅっと痛くなる。


望叶が書いた最後のページに、前は気づかなかったけど文字を消した跡を見つけた。
机の引き出しから鉛筆を探して、その消し跡の上を軽く塗っていった。

浮き出た言葉を見て、ルーズリーフの上に涙がこぼれた。

ずっと弱音を吐かなかった望叶が、書いて、消した言葉。

誰にも言わなかった言葉。


「生きたい」


他のところにも何か書かれていないか探したけれど、それ以外は何もなかった。

鏡の中に望叶がいて、私が笑うと望叶も笑う。私が泣くと望叶が泣く。


「ねぇ、八尋くんに本当のことを言わないといけないね。ずっと騙していたことを。『小鳥居希依』はふたりで一人だったことを」


話しかけると、鏡に写った望叶は悲しそうな顔をした。


八尋くんは怒って許してくれないかもしれない。
もう二度と口すらきいてくれなくなるかも。
でも嫌われたとしても、それは自業自得というやつで、どんな非難も受け止める覚悟でいる。



望叶が亡くなった次の日、お母さんは担任の先生に家族が亡くなったためお休みすることを連絡した。
その時、亡くなったのは「妹」だけれど、「このことは生徒さんには言わないで欲しい」と付け加えた。多分、双子の妹の死について、あれこれ聞かれないで済むようにするため。
お母さんは他にも先生と何かいろいろ話していたけれど、その辺りは聞かなかった。

電話を切った後、「風邪で休んだことにしてもらったから、そのつもりでね」と私に言った。


だから八尋くんにも「風邪をひいたので休むね」とだけメッセージを送っていた。
この嘘も、謝らないと……

1週間後、八尋くんを水族館に誘った。

それは、望叶がいつかデートで行きたいと願っていた場所。
これが最後になるだろうから、望叶の願いを叶えてから終わりにしようと思った。



まだ望叶が元気だった頃、架空の彼氏を相手に、ふたりでデートプランを考えたことがある。
一番最初は映画で、次が学校の帰りに寄り道してカフェ、それから水族館。
水族館には家族や学校の遠足で何度も行ったことがあるのに、ベスト3にランクインしていた。


『デートで水族館に行ったら、ペンギンを見て、アシカに餌をあげたい。希依は?』

『うーん……ふれあいコーナーかなぁ。サメにさわれるところもあるみたいだから、そこへ行きたい』

『え……そんなのパス。さわらなくていいよ。イルカショーは? それで、ジャンプした水が飛んできて、彼氏と「濡れちゃったねー」とか言うの』

『濡れるのは嫌だな……』

『希依ってば夢がないなぁ。そーゆーので愛は深まるんだよ」

『でも、イルカは「幸運の使者」って呼ばれてるのは知ってるよ』

『いつかダブルデートもいいね』

『お互いの彼氏が、私と望叶を見分けられなかったらどうする?』

『そうなったら……そんなひととは別れるかな』

『そんなことで?』

『「そんなこと」じゃないよ。希依、それはとてっもとっても大切なことだよ』



望叶は、その時だけ真剣な顔で言っていたけれど、私達のその夢ももう叶うことはない。

待ち合わせの場所に、八尋くんは走ってやって来た。


「ごめ……ん……」


謝ってからすぐに時計を見て付け加えた。


「7分遅刻だ。マジごめん」

「走って来なくてもいいのに。午前中部活なのにこっちが無理言ったんだから」

「俺が、走りたかった。希依に会うの一週間ぶりだから、早く会いたかった」


照れたように笑う八尋くんの顔を真っ直ぐ見ることができなかった。
だって私は八尋くんに嘘をついている。


「行こう?」

「うん」


土曜日の水族館は家族連れとカップルがいっぱいで、入り口を入ってすぐのところにある大きな水槽の前は特に混雑していた。
足元から天井まである水槽は小さな子供たちに人気で、1番前は小さな子供が占領していて、その後ろには保護者と思われる両親の姿があった。とても近づけそうにはなかったので、そこだけ少し離れたところから水槽を見ながら通り過ぎた。

矢印に沿って順番に見て回り、クラゲのコーナーまで行くと、照明が暗くなっていた。水槽だけがライトアップされていたので、ゆらゆら揺れるクラゲは幻想的できれい。


「きれい」

「今、きれいって聞こえたけど?」

「うん、きれいって言ったよ」

「ないない。あいつらメチャクチャ危険なの知らない?」

「危険?」

「俺、海に行って、ほら、あそこのやたら足が長いやつに絡まって、病院行く羽目になって、大変だった。ちなみにそっちの白いやつも、いっぱい浮かんでるの見て、面白そうだから捕まえてたらやばいことになった」


クラゲの危険性についてアピールする八尋くんが面白くて笑ったら、「笑いすぎ」と言って頭をくしゃりとされた。


「せっかくきれいにして来たのに、そういうのなし!」

「それって、俺のため?」

「違う! 自分のためですーっ」

「んだよ。ムカつくやつだな」


嘘。望叶のためだよ。


怒ってるのかと思ったら、八尋くんは笑っていた。
変なの。


「クラゲはもういいから、ふれあいコーナーへ行こう! ここにはサメがいないけど、ウニとか伊勢海老がさわれるってさ」

「伊勢海老?」

「そ。食べたらうまいやつ」

「エビ好きなの?」

「ウニも好きだしカニも好き。希依も好き」


八尋くんが好きなのは……どっち? 私? それとも……望叶?


「おいっ、スルーすんな」

「何が?」

「希依が好きって言ったの。だから、ここは『私も奏汰が好き』だろ?」

「えっ? 無理」

「かわいくねーの」


名前なんて呼べないよ。
もうすぐ嫌われちゃうのに。

ペンギンコーナーの前で並んで写真を撮った。
それからアシカに餌をあげた。


「希依は何が見たい?」

「マンボウ」

「それって、最初の方の水槽じゃん。子供がいっぱいいて近づかなかったところだったよな? そこまで戻ろう」

「いいよ。もうすぐイルカショーが始まるし。ラストだから次を逃したら今日はもうショーは終わりだから」


今日で、八尋くんとも最後だから……


「俺はイルカショーより、希依とマンボウを見たい。いい?」

「……でも……」

「行こう」


八尋くんが私の手を取った。
何度も人にぶつかりそうになりながら、八尋くんに引っ張られて水族館に貼られた矢印のマークを逆走した。

マンボウのいる水槽の前についても、ずっと八尋くんと手をつないでいた。

一番前の列にいた家族連れがいなくなったところで、八尋くんに引っ張られて水槽の真ん前に行った。

すぐ目の前を泳ぐ、と言うより浮かんでるマンボウは思っていた以上に大きい。


「全長1.8mだってさ。担任よりデカい」

「八尋くん、ありがとう」

「やっぱこっちに来て良かったろ?」

「うん」


望叶……ごめん……
最後なのにイルカショーへ行かなくてごめんね。


「マンボウ好きになったかも」


八尋くんが私を見て微笑んだ。


つないだ手を離したくない。


……私も、ずっと八尋くんが好きだった。

望叶がいなくなってから、こんなこと言うのはずるいよね。


でも、水族館を出て、ずっと騙してたことを言ったら終わりだから、それまでの間だけ、許して――

マンボウを見るために、入口の方まで戻ったから、また矢印に沿って出口に向かった。
その間もずっと八尋くんと手をつないだままだった。

2週目も、クラゲのコーナーで八尋くんはブツブツ言っていたので、笑った。笑いすぎだと怒られた。

楽しいとか思ったりしてごめんね、と望叶に謝った。


出口のゲートは1人ずつしか通れなかったから、そこで手を離した。

無言のまま歩いて、水族館を出た所にある、ちょっとした公園で立ち止まると、八尋くんも立ち止まった。


「八尋くんに、言わないといけないことがある」

「その前に俺から渡す物がある」


八尋くんは自分のバッグから封筒を出した。


「希依が1週間学校を休んだら渡して欲しいって頼まれてた」


八尋くんがくれたのは、薄い花の透かしが入った封筒で、表には「希依へ」と書いてあった。
それは間違いなく望叶の文字。裏には「望叶より」の文字。


「……望叶を……知ってたの?」


八尋くんは小さく頷いた。


どうして? どうして望叶を知ってるの?


聞きたいことはいっぱいあった。でもそれより望叶からの手紙が先に読みたい。
手紙の封を急いで開けた。