同じじゃない人



「先生が優しくてびっくりした」
手当てを終え保健室を出るなり、乖崎は言った。大きな絆創膏の貼られた手を眺めている。
「円くんも、ありがとう」
乖崎はにっこりと笑った。
「別に」
「最初に行かないって言ったけど、本当はお母さんの考えなんだ」
二人で教室まで歩きながら、乖崎がぽつりとこぼす。
「今の僕は満たされているから、心の底からはあの考え方に納得してなかったんだって明らかになったよ。それが正しいのかは知らないけどね」
「そう」
俺は乖崎のことがよく分からなくなった。でも、本人にも分かっていないのかもしれない。
「あのね」
隣の乖崎が足を止めたから、俺も立ち止まる。
一階の保健室付近はいつもひっそりしていて、今も他に人がいない。俺たち二人だけ。
「お願いなんだけど。これから、ずっと、全部否定していてくれないかな」
「はあ?」
俺の口から間抜けな声が出た。
「僕の行動も考えも、お母さんが正しいと思っているものでしかないんだ。嫌なことから逃げてはいけない、感情的になってはいけない、みんなに優しくしないといけない……」
「俺にも親切にしてたもんな」
「それは、円くんのことが好きだからだよ」
乖崎はさらっと言った。一体なんなんだ。
「好かれるようなことしてないし」
「前に言ったことの繰り返しになるけど。円くんは全てを嫌ってる。全部馬鹿馬鹿しいって顔をしているよね。どんな時でも。僕はそれに救われていたんだよ」
乖崎の頬は薄く上気している。目が三日月形に細められていた。
「なんで……」
「僕が何かを嫌うとしたら、それは正当なことなのか自信を持てないから」
やっぱりこいつと俺では、全然違う。俺は何かを嫌うのに理由なんて考えたことない。
「四年生になって、だんだん、お母さんの言うことに疑問を感じるようになったんだ。僕は友達の中に馴染めないし、友達も僕を見下してる。お母さんの考える正しいことを守ってても、上手く生きていけない」
乖崎は俺と向き合いながらも、どこか遠くを見ていた。
「疑問を感じてるのに、それに背くのは怖いんだよね」
乖崎は「あはは」と自嘲気味に笑う。
「本当は、友達と一緒にいるのもやめたい。みんなといるのは苦痛なんだ。それでも苦痛から逃げるのは悪だって考えが頭から離れない。円くんといるのは好きだけど、自分の好きなことを続けていると、それは悪いことだって……罰が当たるんだって声が脳に響く。ね、変でしょ。ずっとおかしいんだよ」
痛々しいほどに自罰的で、俺は途方に暮れる。乖崎の話を聞いているとくらくらした。俺には理解できないような何かや、そういう思考になるまでの背景が乖崎にはあるんだろう。
「それでも、僕以外の人間が、お母さんの考えに反することをしていても、それは間違いだって思わないから。だから、円くんが僕の代わりに否定して。僕のそばで、代わりに学校を、友達を、家族を、嫌ってよ」
乖崎は俺の目をまっすぐ見つめている。その瞳はやけに力強く、有無を言わさないような迫力があった。
めちゃくちゃだ。こいつは、心配になるような弱さを俺に見せながら、こんなとんでもない頼み事をするような強かさも持っている。
「そういうの」
俺は乖崎を恐れつつ、声を絞り出した。
「無理だ。俺には重荷すぎる」
「どうして。いつも通りに嫌うだけだよ」
乖崎は食い下がる。
「乖崎の言い方だと、それ以上の意味が発生してるだろ。俺が背負えるようなものじゃない。大人に相談するとか……」
「今は殴られたりしないし相談することがないよ。というか、嫌っていいのか分からなくなるのもそれが理由の一つにはあって、本当は親は普通の親でしかなくて、僕が間違ってるのかなって」
乖崎は今まで見たことがないような冷たい顔をしていた。年齢不相応に大人びた雰囲気で、妙に落ち着いている。儚くて、このままどこかに消えてしまうのではないかという危うさが伝わってきた。
「それなら、何かできる範囲内のことはするから」
乖崎には助けられたこともあるし、完全に拒絶するような真似はできない。まして、こんな姿を見せられて放っておけるわけがなかった。
俺の言葉を聞いて、乖崎はぱっと笑顔になった。
「いいの?」
目をきらきら輝かせている。
「う、うん」
乖崎の表情の変わりように面食らって、ぎこちなく返事する俺に乖崎は抱き着いてきた。いきなりのことに驚く。
「じゃあ、僕が円くん以外と仲良くしてたら、叱って」
「え⁉」
思わず大声が出た。乖崎は俺の身体に引っ付いている。何を言ってるんだこいつ。
「僕に根付いた思想のせいで円くんといる時間が減ってる現状を変えたいもん。お母さんに植え付けられた考えを円くんが叱って上書きしてよ」
やっぱり、こいつはめちゃくちゃなやつだった。意味が分からない。
「俺に変なことさせようとすんな」
乖崎が頼んでいるのは束縛だ。初めの頼み事から不健全さが改善されていない。
「円くんは、僕がまた今日みたいに怪我してもいいの? 今日の円くんは僕を強引に教室の外まで連れ出したよね。本当は他人のことが心配になるタイプなんでしょ? ねえ、このまま僕がみんなと一緒にいたら、いつかもっとひどい怪我をさせられたりするかもしれないし……自分で怪我をつくっちゃうかもしれないよ」
 乖崎は一気に話す。声も表情も穏やかなのに、どこか圧があって怖い。
「分かったよ、もう」
俺はため息をついた。実際、俺が拒絶した後で乖崎に何かあったら、俺は責任を感じるだろう。俺はみんなを嫌っているからこそ、みんなと同じにならないように人を心配している。見捨てない。おそらく乖崎も俺のその性質を察していて、ああ言ったんだと思う。
「よろしくね」
乖崎は俺から離れて一歩下がり、無邪気に笑った。
その笑顔を眺めながら、こいつがみんなと同じではないのは確かだけど、俺とも同じじゃないなと思った。
「もう一つお願いしてもいい?」
 乖崎が俺の顏を覗き込む。
 今度はなんだ。何を頼むつもりなのかドキドキして身構えた。
「僕のこと、苗字じゃなくて名前で呼んでほしいな」
「そんなことか」
 俺は拍子抜けした。
「いいよ」
「やったあ」
 乖崎は満開の笑みで、本気で嬉しそうだった。俺も悪い気はしない。
 そこで俺の心が温かくなっているのに気づいて、なんだかんだ俺もこいつが嫌いではないんだなと思った。