それから数日後。
俺は学校に遅刻した。
寝坊して、いそいで支度をすませて、家を出て。
いつもよりも速足で歩きながら、行きたくもない嫌いな場所に行くために頑張っているこの状況を、変だなと思った。
昇降口につくと、下駄箱の周りを誰かがうろうろしているのが見えた。
乖崎だ。
なにをしているんだろう。
下駄箱に近づいていくと、向こうも俺に気付いた。目が合う。
「円くん」
きまり悪そうな様子で、乖崎は眉を八の字にして笑った。
「今日は遅いね」
「うん」
俺の横でにこにこする乖崎にそう返事だけして、上靴に履き替える。
「ねえ、円くんも、僕と同じ?」
乖崎の少しふるえている声を聞いた。
「え」
驚いて、俺は顔を上げる。乖崎の顏には緊張の色があった。表情がこわばっている。普段は基本的にずっと笑顔なのに。
「同じって」
授業はもう始まっているだろうなと思いながら、聞き返した。
「学校、あんまり好きじゃなくて、教室に行くのも気が向かなくて」
乖崎は落ち着きなく、つま先でぐるぐると小さく円を描く。
「円くんって、毎日楽しくなさそうだから。実はずっと、安心してたんだよね」
俺が口をはさむ隙間なく、乖崎が言葉を続けた。
乖崎の突然の告白に、俺は動揺していた。
たしかに、俺は学校が、みんなのことが嫌いだ。
だけど、「あんまり好きじゃない」と乖崎が言っているのを聞くと、心配になる。
教室に行きたくないというようなことも言っていたし。それだって、俺も思ってるけど。乖崎は深刻な雰囲気だから、俺と同じ種類の気持ちでも、きっと強さが違う。
なんと言うべきなのだろうか。
「本当は自分は、異星人なのかなって。それに、家にいても、お母さんたちとも、血が繋がってないんじゃないかって考えるんだ。どこにも行き場がない」
異星人って。非現実的な話。急に家族の話をされたことにも驚く。だが、乖崎はいたって真剣だった。ちっとも笑っていない。
「俺は自分のこと人間だと思ってるよ」
どういう道筋で乖崎のような思考になるのか、理解できなかった。
「それは、僕も……円くんのこと、異星人だとは思ってないかな」
その時ふと、自分は教室の異物なのだと感じる時のことを思い出した。
自分と周りの人間は違うという意識。ただ俺は、むしろみんなのことが宇宙人に見えている。自分自身に対する意識が、俺と乖崎では違うんじゃないか。
「なんか、ごめんね。呼び止めて、変な話して」
乖崎はうつむいている。なんだか小さく見える。実際は乖崎のほうが俺より背が高かった。
「別に。俺も教室に行きたくないのは、同じだし。サボれるならサボりたいくらいだから」
「やっぱり、いっしょなんだ。おそろいだね!」
乖崎が笑った。嬉しそうだった。
同じじゃない、たぶん。
そう思いながらも、俺の喉は張りついていて声が出なかった。
喜んでいるなら、いいか。
微妙な気持ちが残ったけれど、それは無視した。
俺はその日、乖崎の様子を事あるごとに確認していた。
授業の合間の短い休み時間にクラスメイトたちと笑っている姿を見ても、あいつに学校やみんなへのマイナス感情があるなんて感じられない。
なんで俺に、自分の内側を明かしたんだろう。
同じか聞いてきたし、おそろいだって嬉しそうにしていた。
乖崎のほうも、俺に期待していた?
だとしたら俺には重い。俺も乖崎も、たしかにみんなとは違うかもしれない。けど俺と乖崎だって違うんじゃないか。まず、俺は乖崎みたいにみんなの輪に入ろうとはしない。
本当は同じじゃないから、俺は期待に応えられないんだ。別にそんな義理ないけど。
それでも今朝の弱々しい姿を思うと、俺が期待外れになってしまうことが怖くなる。
あいつは大丈夫なのかな。
昼休みになった。
窓を雨粒が叩いている。今日は朝から曇りで、四時間目の終わり頃から降り始めていた。
天気のせいでグラウンドが使えないので、休み時間の教室はいつもよりも人口密度が高かった。湿度も相まって、息苦しい。みんなの声がうるさい。
普段の俺なら昼休みは図書館に逃げる。しかし、今日は自分の席で本を開きつつ、乖崎の観察を続けた。ずっと見てるのは、我ながらキモいかもしれない。それでもどうしても気になった。みんなと上手くやっていると思っていたし、いつも誰かと笑っているのに、学校のどういうところが苦手なのか。観察すれば何かつかめるかもしれないと考えていた。
俺は前から二列目の窓際の席で、乖崎たちは教卓の周りにいる。
一人が教卓の上に手を置いてナイフゲームを始めた。指と指の間に、順番に高速でナイフを刺していくやつ。図工で使うカッターナイフを使っている。
俺はみんなと関わらないから知らなかったが、四年生の男子たちの間で最近流行っている遊びらしい。学年集会の時に先生が注意喚起していた。
馬鹿だなあと思う。何が楽しくて無意味な危険を冒すんだろう。
俺は本を読むふりをしながら、乖崎たちのグループが笑っている様子を冷めた目で見ていた。
一人がゲームをやり遂げると別の誰かにカッターが渡って、そいつも指の間を刺していく。
教卓に傷が付いてるだろうな。大丈夫なのだろうか。
そんなことを考えていると、順番が乖崎に回っていた。
乖崎もやり始める。あいつもあっち側なんだ。あーあ。
乖崎の手つきはたどたどしくて、他のやつらよりもカッターの動きが遅かった。見ていてひやひやする。
「あ」
短く声が上がった。
「血出てる」「浅いだろ」「鈍くせー」軽薄なざわめき。日常の延長でしかないような調子。乖崎はカッターで手を刺したんだよな?
肝心の乖崎本人は、何も言わず手のひらをじっと見つめている。ぼんやりした表情。
ガタ
俺の椅子は思ったより大きな音を出した。俺はつい立ち上がっていた。
教卓にいるやつらは、乖崎のことは気にせず、ゲームの順番をまた別の誰かに回している。
俺の身体は勝手に動いていた。乖崎の方まで歩いていく。
「え、ま、円くん」
戸惑う乖崎の腕を無言で掴んで、教室の外まで引っ張り出した。
周りにいたやつらは、俺が急に来たことで何か言っていたけど気にしない。
「円くん、どうしたの」
「保健室」
廊下に出て、乖崎の腕を離した。振り返って向き合う。
「いいよそんなの」
「なんで。って、血が垂れそうになってる」
俺は焦った。
「ああ、ほんとだ」
「手洗えよ」
「うん」
乖崎は今度は素直に頷く。
「ほら、行こう」
廊下にある蛇口で手を洗い、ハンカチで手を拭いている乖崎に呼びかけた。
「さっきも言ったけど、保健室はいい」
「痛いだろ」
どうして、そんなに渋るんだ。
「痛いけど。僕にはその痛みを訴える権利ないよ」
「はあ?」
「こうなったのは自分のせいなんだから」
乖崎は当然というような顔をしている。
「ちゃんと断れなかったんだし、自分の責任で……。誰かを頼るのは正しくない。我慢しないとだめなんだよ」
「もう好きにすれば」
俺は分かり合えないと思った。苛立ってきていた。どんな経緯があろうと怪我したんなら大人しく治療受けとけばいいだろ。自ら可哀想な人間のようになるのが気に食わない。それに、俺のことじゃないんだから保健室へ行かせようと俺が必死になるのもおかしな話だ。求められていないんだから引き下がるしかない。
「待って、見捨てないで」
教室に戻ろうとしていたところを、乖崎が俺の手を握って引き留めた。
泣きそうな顔をしている乖崎を前に、俺は意地悪なことを言ったんだと自覚する。
「円くんの言うとおりにする。だから」
「ついてく」
乖崎の言葉を遮り、保健室の方角へ歩き出した。気まずい。
「あのね、嬉しかったよ。円くんだけが、僕の怪我に関心を向けてくれて。円くんは優しいね」
「そんな大層なことじゃ」
「ううん。そんな人、これまでの人生で一人もいなかった」
背後で聞こえる声は喧騒にかき消されそうなほど小さいのに、やけに耳にはっきり届いた。
「無関心か怒られるかだもん。学校のみんなも家族も、僕のこと好きじゃないから。仕方ないよね」
反応に困る。
「円くんは僕に限らず、全員のことを好きじゃないでしょ」
乖崎の声色は柔らかく、笑いを含んでいたが、ずばり指摘されると居心地が悪かった。
「……俺は乖崎のことはそんなに嫌いじゃない」
思わず言い返してからキモかったかなと後悔する。
「そうなんだ」
そこで保健室についた。
