不本意出張飯 大阪 〜出汁の香りとミックスジュース〜

仕事時間に新幹線に乗っている、この違和感。
新卒で塚本食品株式会社の経理部に勤めて3年目。私、桐山佳奈は今、出張で大阪へ向かっている。

新幹線の12号車。指定された通路側の席に座る私の隣には、直属の上司・松川直美の横顔がある。彼女は不安定なテーブルに会社貸与のパソコンを広げ、乗車してからずっと休むことなくキーボードを叩き続けていた。
窓の外の景色を見ようとすると、どうしても窓側に座る上司の顔が視界に入ってしまう。さすがにガン見し続けるのも気まずいので、私は大人しく視線を正面に戻した。

そもそも、私がこんなにも手持ち無沙汰を持て余しているのには理由がある。新幹線が動き始めてすぐ、上司にこう言われたのだ。

「佳奈ちゃんは別に何にもしなくていいからね! ゆっくりしてて! 寝ててもいいし!」

そんなふうに強く勧められてしまえば、こちらとしても下手にごそごそと仕事はやりづらい。かといって、隣でパソコンを叩く上司の横で、口を開けて爆睡できるほど図太くもない。

やることがなくなり、視線だけをキョロキョロとさまよわせる。通路を挟んで斜め前の席に座る、スーツ姿の若いサラリーマン。彼も上司と同じようにパソコンを開いていた。
移動中も仕事か。お疲れ様なことだ。
顔の向きはそのままで、限界まで目玉だけを左に動かして彼の画面を覗き込む。するとそこには、制服を着た女の子が階段を駆け上がっていくアニメーションが映し出されていた。

なんだ、仕事してないじゃん。顔はやたらと真剣なので労い損である。

こういう移動時間は、何をするのが相場なのだろう。仕事、仮眠、あとは景色を眺めるくらい?
トランプか携帯ゲームしか思いつかない自分の子供脳が恥ずかしくなり、私はこっそり私用スマホで「仕事 移動中 何する」と検索してみた。
検索結果には「情報収集」「読書」「音楽を聴く」と並んでいる。ならばニュースサイトでも見ようかとした、その時だった。

「ふふふ、そんなに気使わなくていーのに!」

いつの間に画面を覗かれていたのか、松川がケラケラと笑う。これならいっそ、爆睡していた方がマシだった。
「へへへ、すいません」と愛想笑いを浮かべ、私はいたたまれなくなって席を立った。用はないが、とりあえず前の11号車まで歩く。

デッキに出たものの、トイレは男女ともに使用中で、外国人観光客の親子まで並んでいた。並ぶ気もないので、進行方向右側の扉から外を眺める。旅サイトによれば、こちら側から富士山が見えるはずなのだが、見えるのは工場や住宅、トンネルの繰り返しばかりだった。

適当に時間を潰して席に戻ると、先ほどまでせわしなくタイピングしていた松川が、パソコンを開いたまま眠りこけていた。
私はそっと彼女のパソコンをスリープモードにして、画面を半開きにする。完全なる自由を手に入れた私は、イヤホンのノイズキャンセリングをオンにし、適当な音楽を流した。走行音が急に静かになり、自分の世界に入り込んだ。たまに隣に座る松川の様子を盗み見し、起きないか確認する。
今度こそ富士山を見逃すまいと窓の外を注視していると、テーブルに置いた社用スマホが震えた。経理部のグループチャットに、部長からのメンション付きメッセージだ。

『松川さん、桐山さん。新大阪駅の到着は何時頃になりますか? 関西オフィスの西田さんが迎えに行ってくれるので、時間がわかり次第連絡してください』

私はすぐに『14時半ごろに新大阪駅に到着予定です』と返信した。
私たちが大阪へ向かっているのは、大阪オフィスの経理システム導入をサポートするためだ。本社で好評だったシステムを導入することになり、私と松川さんが出張を命じられたのだ。今日の午後から明日の昼前には帰るという、弾丸スケジュールである。

「経理部は絶対出張がないです!」という人事部の言葉を信じて入社したのに、3年目にしてさっそくの出張。特段行きたくないわけではないが、東京生まれ東京育ちの私はインドア派で、別の土地へ行きたいという願望が極端に薄いのだ。そもそもこの会社は、東京本社と新大阪駅近くの関西オフィスという2拠点しかない。だから当時の「出張はない」という説明は、至極真っ当なものだったのだ。

ちらりと隣を見る。新卒5年目の先輩・松川は、社内規定ギリギリの茶髪とネイルが印象的な、超アウトドア志向の既婚者。休みの日は必ずどこかに出かけるらしい。家にいるだけの日なんて考えられないタイプ。バイタリティ溢れる人柄で、社内で顔が広い。なんで経理部なのか少々疑問である。きっと営業とか、人事とか、ほかの畑のほうが十分に力を発揮できるのではと思うくらいだ。そしてチワワを2匹飼っているらしい。
陰気、インドア派、実家暮らし、未婚、ペットなし。私とは見事なまでに真逆だ。最初は「この人が上司でやっていけるか?」と不安だったが、3年目になった今、意外とうまくやれている気がしている。まだ夢の中の先輩を見て、充電が切れたおもちゃみたいだな、と小さく笑った。

そんなふうに頭の中で徒然なるままに愚痴をこぼしていると、急に窓の外の景色が開け、待ちに待った富士山が姿を現した。おお、やっぱり大きい!
今は春なので、山頂付近にはしっかりと雪が積もっており、これぞ富士山!という完璧な風貌だ。以前、夏に車窓から見たときは雪が一切なく、「富士山感」がなくてがっかりした覚えがある。今日はちゃんと富士山らしい富士山が見られて大満足だ。もっとも富士山からすれば、山頂に雪があるかどうかでいちいち一喜一憂されるのは迷惑な話だろうけれど。

たまに隣の様子を窺いつつ、流れる景色を楽しむ。イヤホンから流れてきた流行りのアップテンポな曲が、雄大な富士山とあまりにもミスマッチだったのでスキップした。
そうこうしているうちに、新幹線は新大阪駅に到着する。結局、上司はずっと寝ていたおかげで、私は車内でゆったりと羽を伸ばすことができた。上司を起こして駅に降り立つと、もわっとした空気が肌を撫でた。
大阪はいつぶりだろう。小学生の頃の家族旅行以来だから、十数年ぶりだ。東京より若干暑い気がする。半袖を持ってきたほうが良かったかもしれない。

その後、私たちは無事に経理システムのフォロー作業を終え、定時で退社した。夜は、関西オフィスの経理担当たちも交えて飲みに行くことになった。会社の人との飲み会はあまり気が進まないが、わざわざ歓迎してもらっている手前、断るわけにはいかない。
連れて行ってもらったのは串カツ屋で、いかにも「大阪!」という空気を満喫できた。串カツといえば名物の「二度漬け禁止」だよな、と密かに期待していたのだが、案内された席はソース差しから好きなだけかける方式で、少しだけがっかりした。それでも、飛び交う関西弁の心地よいむずがゆさと、熱々サクサクの串カツは最高だった。濃い目のソースが決め手となって、ビールによく合った。

とはいえ、仕事関係の付き合いはやはり疲れる。ホテルへの帰路、松川は「一人晩酌する」とコンビニの前で手を振った。夫と犬と暮らしていると、一人で静かに呑む時間がなかなか取れないらしい。さっきの飲み会でもジョッキを5杯は空けていたはずなのに、上司の酒豪っぷりには戦慄する。
私は度数の弱いサワーを2杯で止めておいたので酔いは回っていないが、長距離移動と慣れない人との会話で、体力はすっかり削られていた。早くベッドに飛び込みたい。
ホテルに着くまでの短い間にも、串カツ屋が2軒、テイクアウトのたこ焼き屋が3軒、お好み焼きの居酒屋が3軒と、大阪らしい誘惑が次々と視界に入った。少し気にはなるものの、もう串カツは十分に堪能したし、悔いなく東京へ帰れそうだ。すでにお腹もいっぱいなので看板をすべてスルーし、自分で手配した駅近のビジネスホテルへと吸い込まれた。

あくる日の朝。松川は昨日、「朝から大阪名物を堪能するべく、わざわざ電車に乗って市場へ行く」と意気込んでいた。驚異的なパワフルさだ。昨日は私と同じかそれ以上の業務をこなしていたのに、いったいどこにそんな元気が残っているのだろう。私は彼女と同じ5年目になるまであと2年あるが、2年後に自分があんなバイタリティを持ち合わせているとは到底思えない。

私はもちろん、朝から外へ食べに行くような真似はしない。ホテルの朝食プランをつけてあるのだ。バイキング形式らしいので、定番のソーセージとハム、それに味付け海苔さえあれば万々歳だな。バイキングというだけで非日常感を味わうのには十分である。
そんな低い期待値を胸に抱きながら、私は気怠げに朝食会場の扉をくぐった。
すると鼻腔をくすぐってきたのは、出汁の香り。昆布と鰹だろうか。香りの元を探り当てるように歩くと「関西出汁香る肉吸い」と書かれた紹介文とともに、銀色の大きな鍋が設置されている。なるほど肉吸いは、味噌汁のように、自分で掬って入れるスタイルか。鉄製の蓋を開けると、私の開封を待っていたのかふわりと湯気が舞う。お椀を手に取り、お玉たっぷりに出汁を掬うが、具がほとんど掬えなかったので、お肉とネギが底に沈んでいそうだと鍋の底から掬ってみると、お肉とネギがひょっこりと顔を見せた。こぼさないようにお椀に入れる。かなりなみなみになってしまった。給食の汁物係だった頃を思い出す。汁物係は具材や汁をバランスよく入れなければならないので、給食当番史上一番難しいポジションだと、佳奈は思う。よく具材だけなくなり、汁だけになってしまい、先に配膳し終わった子の机まで食缶を持って歩いたことが何度もあった。その度に、いただきます待ちのクラスメイトに嫌な顔をされていたのを覚えている。苦い思い出だ。給食当番かバイキングでしか使わない大きいお玉を鍋の中に戻した。肉吸いは、出汁、お肉、ネギという非常にシンプルな構成だが、その香りはこの朝食会場全体を牛耳るほどに充満していた。牛肉だけに。
肉吸い救出劇に満足感のなか、あとは肉吸いのお供たちを盛り付ければ完成だ。ソーセージとハムを皿に盛り付ける。2つずついっちゃうもんね。その他にも思い思いのメニューをとり、自分だけの朝ご飯を形作る。彩りもよく、バランスの取れたチョイスだと自画自賛する。お目当てのご飯コーナーを3周したが、味付け海苔は見つけられなかった。海苔がなくとも、私には肉吸いがある。これをおかずに食べるので問題なさそうだ。
旅行中と思しき家族連れを4組ほど横切り、その奥にある窓際カウンター、つまりおひとりさま席へ一直線に向かう。カウンター席には、木目調のナチュラルブラウンの椅子が並べられている。他のテーブル席は同じデザインのダークブラウンの椅子なので、少し別空間だ。私はナチュラルブラウンの方が温かみがあって好みだ。最も右側、右隣が壁になっている角席がちょうど空いていたので、そこを陣取る。前方はガラス張りとなっており、外の様子を観察することができる。外をせわしなく行き交う車や通行人、そして目の前に立つオフィスビルに吸収されていく人を眺めながら手をあわせた。
「いただきます」
大きな声ではなく、吐息が漏れるぐらいの大きさで声を出した。周りには一切聞こえない声量だ。
プラスチック箸を取り、さっそく肉吸いが存分に盛られたお椀を手に持つ。先ほどから「肉吸い」と連呼しているが、私は今日まで、今日朝食会場に入るまでは、この単語さえ知らなかった。
大阪といえば粉もん。たこ焼き、お好み焼き、あとは串カツのような、ボリューミーなもののイメージがあるため、肉吸いのようなご当地メニューがあるのは新発見だ。二日酔いのビジネスマン向けに用意しているメニューなのかもしれない。私も飲み会翌日ではあるものの、至って元気だ。まずは肉吸いの出汁を口にする。
ん! 美味しい!
昆布出汁と鰹の風味、そして肉汁がじんわりと染み入る。ぷかぷか浮いていたネギの塊も口に放り込んだ。ふにゃふにゃになったネギ。この食感は唯一無二だ。シャキシャキもふにゃふにゃも良い、ネギはスーパー野菜だな。柔らかな舌触りで、口の中があまりにも優しい。「吸い」ということは、これはお吸い物の一種だろうか。大阪の人はこんなに美味しいお吸い物が食卓に並ぶのか、羨ましい。お椀が小ぶりサイズで、あっという間に飲み干してしまった。ぜひ丼サイズでいただきたい。チラリと肉吸いコーナーに目を向けると、先ほどまで整列していたお椀が半分ほどになっていた。もう1杯いくか、それともやめておくか。まだ私のお盆の上には、ソーセージ、ハム、目玉焼きといったおかずが食べられる順番を待ち侘びている。残されたおかず達、必ずあとで食べるからな。と固い約束を交わし、肉吸いを迎えに行った。
目の前に置かれた2杯目の肉吸い。先ほどより出汁は少なめ、具材は多めに盛った。やはり朝から牛肉は贅沢だ。家では絶対出ないメニューで、特別感があった。2杯目は、少し余裕を持って堪能できる点で非常に有意義だ。肉吸いを堪能しつつ、間にソーセージやハムを挟む。油が浮いた肉吸いに、ソーセージ、ハム。合わないはずがない。今日も頑張れそうだ。ガラスの向こうでは、先ほどよりも頻繁に人が吸い込まれていく。私も側から見たら、あんな感じなのだろう。社会人とは忙しいものだ。お、あの人のオフィススタイル、とても素敵だ。真似したい。青いパンツに、純白のブラウス。思わず顔を確認すると、いつもの見慣れた顔があった。松川さん!肉吸いに浸っていた私は一気に現実に引き戻される。腕時計を見ると時刻は8時40分を指している。9時に出社しなければならないのであと20分!ああそろそろ用意しなければ。松川はすでにオフィスルックだったため、もう会社に向かっているのだろう。まだすっぴんの私はプレーンヨーグルトで締め、朝食会場を足早に後にした。

肉吸いの余韻を楽しむことなく私は急いでメイクを済ませ、チェックアウトをした。オフィスから一番近いホテルをとったので、徒歩3分ほどで着いたが、すでに出社している上司は涼しげに仕事を始めていたが、私は額から汗が流れ出ている。急いで来たため、髪がぼさぼさだ。やっぱり私は2年後に松川さんのようになることはできない。現実に打ちひしがれながら、「おはようございます」と松川の隣に座る。
「あ、桐山ちゃんおはよう!」
朝から100パーセントで稼働する先輩はすごい。この人は市場経由で出社したというのに。ホテルのバイキングでのんびりしていた私とは大違いだな。と、だらだら流れる汗をぬぐいながら始業の用意をしていると、
「桐山ちゃんこれ、ミックスジュースあげる!」
どこからか出てきたのはテイクアウトしたミックスジュースだった。彼女の机の上には同じものが置かれている。
思わぬサプライズに「ありがとうございます」とありがたく受け取る。さっそくストローでずずっとミックスジュースを吸う。まろやかなフルーツの甘みと、口内を滑らかに広がるとろみ。果物をふんだんに使ったミックスジュースは朝から急いだ体によく効いた。
「実はさ、朝寝坊しちゃって、市場行けなかったんだよね。でもちょっとだけ時間があったから、せめてもの大阪を味わいたくて朝から空いてるジュース屋さんに寄ってきたの!」
そうだったんだ。ガッツあふれる先輩でさえ、しっかり寝坊することがあるんだ。新幹線の中で急に眠り込んでしまう姿に、朝寝坊する姿。隙あらばどこかへ行って誰かと話している先輩の新たな一面が見れた。出張って悪くないなと思った。
「先輩、ミックスジュースのお礼なんですけど、肉吸いは知っていますか?」
「肉吸い?なにそれ?」
ふふふ、食いついてきた!
「大阪の隠れ名物なんです!調べたらここの近くにテイクアウトできる店がありました!帰りに買って一緒に新幹線で食べましょう!」
「おいしそう! 通だね、桐山ちゃん!」と、わかりやすくテンションが上がった松川先輩を見て、自然と口角が上がっていく。私はこれからも、この上司のもとでやっていきたい。
帰りの新幹線では、この不思議で魅力的な先輩と、大阪の新しい味を一緒に分かち合えることが何よりも楽しみだった。