紫月先生のひとり古典ごはん

 京都の某私立大学──大教室の教壇にて、国立紫月(くにたちしづき)はスクリーンを前にマイクを握っていた。
 目の前に広がるのは著名な学者たちの面々で、腰が引けてしまう。紫月は最後のひと踏ん張りとばかりに声を張った。

「では、これで今回の発表は以上とさせていただきます」

 なんとか発表を締めくくり、拍手を背に壇上からそそくさと降りる。ようやくこれで一息つけそうだった。
 喋り通しだったので喉が渇いて仕方ない。

(水も飲みたいし、なによりお腹がすいた。だって朝から菓子パン一つしか食べてないもんね)

 拍手のおかげで腹の唸りが聞こえなかったのは幸いであった。
 とりあえずペットボトルの水をあおり、学会も解散といった折、紫月の背中に呼びかける声があった。振り返ると、壮年の女性が立っている。
 某有名大学の教授だ。

「国立先生」
「はあ、はい」
「今回の発表でうかがいたいことがあったんですがね」

紫月が今回発表したのは、平安時代の女流歌人であり、絶世の美女として名高い小野小町についてだった。
 この数か月研究室にこもり、様々な大学図書館をはしごし、完成させた論文をもとにした発表である。
 ゆえに自信はそこそこあったのだが──本を何冊も出している教授を前にすると自信もみるみるしぼんでしまった。

「なんでしょう。答えられる限りお答えしますが……あまり期待しないでください」
「またまた。国立先生と言えば、お若いながら東京の大学で教鞭をとられている優秀な学者さまじゃないですか。私なんかあなたの歳の時にはまだ研究室のお手伝いでしたよ」

 教授の謙遜にどう反応すればいいのかわからず、紫月は「へえ」と間の抜けた返事しかできない。
 紫月は先月の誕生日で三十路を迎えたばかりの若き古典文学研究者だ。
 研究のかたわら東京にある大学では教鞭をとり、こうしてたまに学会のために地方大学に出張する生活をしている。
 教授はにこにこと笑いながら胸の前で二本、指を立てた。

「でね、質問というのは二つありまして。一つは、小町はどうして美女である必要があったか。もう一つは後世の人々はなぜ彼女の零落を語ったのかということでね。せっかくだから若い人の意見が訊きたくて」
「な、るほど」
 ──さすが教授、にこやかに穿ったことを訊いてくる。

 紫月は答えに詰まった。
 小町は美女だが、年老いるとともに美貌を失い、晩年には零落したという伝説がある。
 しかし困ったことに、まだ教授の質問にいたるほど紫月は小町を研究しつくしていない。
 紫月が黙り込んで顔に適当な愛想笑いを張り付けていると、教授が思い立ったように手を叩いた。

「じゃあ、この後せっかくですから一緒にお食事でもどうですか。色々と小町について話し合いたいですし」
「それはちょっと……その」
(嫌だ)

 紫月は京都に来る新幹線の中で菓子パンをかじりながら、決めていたのだ。
 京都に来たなら、その夜は絶対に一人で和食と甘味を食べつくす──と。


 教授の誘いも振り切り、紫月は大学を出た。
 足早に都跡の碁盤の目を歩き、御所南の通りに出る。
 季節は夏真っただ中で、スーツの背中に汗が張り付いて気持ちが悪い。しかしあと少し歩けば目的地だ。

(来る時にスマホでいい店を見つけておいたのよね)

 宵闇の中、ぽつぽつと明かりを灯し始めた道に看板が出ているのを見つけて思わず頬が緩む。
 古民家をリノベーションしたという日本家屋。扉にかかっている暖簾には橘の家紋が染め抜かれている。
 そして店名は──。

『小料理屋・こまち』

 決して発表の内容に引かれて選んだわけではない。単に、ホームページの料理の写真がおいしそうだったから決めたのである。たまたま店名が「こまち」だっただけだ。
 そう自分に言い聞かせて暖簾をくぐると、冷房の涼やかな風が紫月の身体を包んだ。
 いらっしゃいませ、の挨拶に指を一本立て、カウンター席に案内される。
 荷物を椅子の下に置いて店内を見回せば、壁には浮世絵が飾られていた。複製品だろうが、北斎や写楽あたりだろうか。紫月は浮世絵には詳しくないのでわからない。
 お座敷もあり、背後では四人組の女性たちが刺身をつつきながら談笑している。
近くにはいけすもあり、名前も知れぬ魚が銀色の腹を光らせて泳いでいた。これから食べられるかもしれないというのに、呑気なものである。

「さて、と」

 頼む料理は決めていたが、いちおうお品書きに目を通すことにした。
 黒い和紙で綴じられた表紙を開くと、色鮮やかな写真と達筆な文字が視界に飛び込んできた。

『鮎の活け造り。いけすの鮎をその場で刺身にしてご提供します。
 加茂ナスの揚げびたし。旬の野菜をきりっとした味わいのショウガと鰹節と共に。
 生麩と湯葉の炊き合わせ。優しい味の御出汁といっしょに召し上がれ。
 甘味。宇治金時のかき氷。餡子をたっぷりつけて。』

 読み進めていくうちに口角があがっていくのが自分でもわかった。

(そう、これこれ。これを食べたかったのよ。あと日本酒もね)

 紫月はカウンターのちょうど前にいた店員に注文し、肘をついて料理が来るのを待った。
 店員がいけすの方へ向かった。どうやら例の呑気な魚は鮎だったようだ。
 カウンターの中では割烹着を着た板前が鍋の中を菜箸で茄子を揚げている。じゅわ、と油がはじける音とともに、胸にしみるような出汁の甘い香りが漂ってきた。
 自然と鼻が動き、思い切り息を吸い込んでしまう。

(まだかな、まだかな)

 ややあって、料理が運ばれてきた。
 カウンターに彩り豊かな面々が並んでいく。
 深い赤の皿に乗るのは、透けるような銀色と薄紅色の鮎の生け作りだ。ご丁寧に頭も尾も飾られている、尾頭付きである。
 隣の小鉢には加茂ナスの揚げびたしが添えられた。つややかな紫色の表面に出汁がこれでもかと注がれ、頂点にはショウガと鰹節だ。
 そして最後──生麩と湯葉の炊き合わせが待っている。深い皿によそられた炊き合わせには、かわいらしい手毬型の生麩が乗っていた。

「いただきます」

 手を合わせてから、まずは冷えた日本酒を飲む。口の中が冷たくなり、いよいよ食べようという気概が湧いてくる。
 まずは鮎の生け作りだ。少しだけ醤油をつけて口に運び、舌にのせて味わう。

(甘い)

 最初にきたのは甘さだった。普段食べている他の魚の刺身ではまず感じることのない甘味が舌を覆いつくす。
 歯で噛んでみると、歯ごたえがあった。ずっと噛んでいられそうな噛み応えである。
噛めば噛むほど、あの小さな身のどこから出て来るのかと不思議に思うほどの甘味があふれ出す。

(君の中にどれだけ甘さがつまっているんだ? すごいな、君は)

 残酷かもしれないが、紫月はわざわざ振り返っていけすの鮎に目配せを送った。もちろん返事はない。
 次に揚げびたしに箸を伸ばす。出汁でひたひたになった加茂ナスを挟むと、それだけで出汁がしみて小鉢の中にぽたぽたと流れた。
 こぼさず食べるのが難しそうである。
 気を付けつつ口に含むと、一気に出汁が茄子から吹き出してきた。一瞬で鮎の風味が流され、出汁の甘じょっぱさに包まれる。

(うわぁ、本場の出汁の味だ。こう、なんで京都の出汁って身体に染みるんだろう。家のお味噌汁とか煮物なんて比べ物にならないな)

 頭の隅に湧いた自作の料理たちの姿を追いだして、しみ出した出汁を飲みつつ加茂ナスを味わう。寸の間、ぴりっとショウガの辛みが舌を襲った。
 そして最後は生麩と湯葉の炊き合わせである。

(これはせっかくだから生麩と湯葉を同時に口に入れたい……切ってみるか)

 紫月は箸で生麩と湯葉をそれぞれ半分に切り、湯葉の上に生麩を載せた。これで同時に食べられる。
 そっと食べて噛んでみる。
 湯葉のまろやかな大豆の味と香りがふわりと鼻に抜けた。つるつるとした湯葉の表面も舌先に楽しく、噛まずに飲みこめてしまいそうである。
 生麩は柔らかく、舌でつぶすと茄子よろしく出汁があふれた。

(ま、満足……これを食べるためだけに発表を頑張ったと言える……。あとは食後の宇治金時か。よし、この一連の料理の流れを小町コースと名付けよう)

 勝手に決めて、さらに鮎に箸を伸ばした折──背後の女性四人組の声が耳朶に触れた。

「だからさぁ、あの人早く辞めてほしいって話じゃん。もらう人いないのかもだけど」
「ね。昔は綺麗だったとか言ってるけど、もう老いぼれでしょ。昔美人だったからとかで威張ってるの本当に嫌」
「だいたい、たいして自分も使えるわけじゃないのに私たちに厳しいのなに?」

 口さがない彼女たちの言葉がつぎつぎと飛び交い消えていく。

(なるほど、会社のいわゆるお局の話ね)

 日本酒をあおり、ふっと息を吐く。

(昔は綺麗だったけど今は老いぼれて──ん?)

 聞き覚えのあるフレーズに箸が止まった。

(小野小町と同じだ)

 昔は美人で世の中、それも男たちにもてはやされ、晩年は美貌を失い、路頭に迷う。
 そして後世には年老いた小町についての伝説が増え、中には小町が男をたぶらかしていたから罰があたったのだという説も流れている。
 彼女たちの喋りはまだまだ続く。

「でも、あの人使えないって上司に叩かれているみたいだよ。昔の栄光だね。昔、男たちを振り回していたから、今お返しが来てるんだよ。そのストレスを私たちに当てているってわけよ」
「上司のことを昔のお局が昔振ったって本当?」

 嫌でも耳が彼女たちの話を拾ってしまう。
気づくと皿が全部空になっていた。

(小町コース、恐るべし)

 箸を置いた時、カウンターに緑の山が現れた。

「お待たせしました、食後の宇治金時かき氷になります」

 どうやらこちらが食べ終わるのを見計らって準備をしていたらしい。
 紫月は嬉々として受け取り、銀色のスプーンを手に取った。
 宇治金時かき氷は思ったより大きい。白い氷の山に濃い緑色の抹茶がかかり、山の頂を染め上げている。山の麓には白玉とたっぷりの餡子が添えられ、まさに宇治金時の模範と言わんばかりの出で立ちだ。
 スプーンを緑の山に入れると、ほとんど抵抗がなかった。
 すんなりとこちらを受け入れ、スプーンにまるでかわいい苔玉ができあがる。

(苔玉、というよりまりもかな)

 口にまりもを入れると、心地よい渋みと苦みがあった。
 次いで餡子と白玉をすくい、口に放り込む。もちもちとした感触と餡子の甘味で渋さが中和され、口の中が一気に「和」になった。

(そうそうこれこれ、いかにも和の甘味を食べているという感覚)

 冷房が効いているとはいえかき氷はしょせん氷。みるみるうちに解け始める。
 しかし紫月のスプーンは止まることを知らず、頭が痛もうと山を崩し続けた。
 すっかり山がなくなったころ、また女性たちの話が盛り上がり始めた。

「今度、あの人に一言言ってやろうか。あなたがちやほやされていたのは昔でしょ。今のあなたはただのおばさんですって」
「いいね、胸がすくわ」

 紫月は食後の温かい緑茶をもらい、ずず、とすすった。喉の冷えが洗い流される。
 お、ついにお局に動くか──と心の中でほくそ笑みつつ、にわかに思った。

(そっか、小町の伝説とか説話って、後世の人のひがみが入ってる? もしかして、美女が零落したところを見てスカッとしたかった?)

 傲岸に振る舞った──のかはわからないが、そんな女を良く思わなかった男女のねたみひがみが説話を作った。説話がつくられるくらいだから、小町がただの美女じゃいけない。そう、世界三大美人に選ばれるくらいの美女でなければ。

(ふん、なるほどね)

 脳裏で教授の問いがほどけた気がした。


 腹もいっぱいになり、あとはビジネスホテルに一泊して朝に帰るだけだ。
 紫月は勘定を済ませ、店を出た。
 蒸し暑い空気が身体に吹き付け、じわりと額に汗が浮かぶのがわかる。

(かき氷食べたっていうのに、暑すぎ)

 空を仰げば満月がぽっかりと浮かんでいる。都会だからか、星はあまり見えない。

(朝はきっとバイキングだから、パンいっぱいとってやろう。ビジホだから期待はしないけれど)

 たった今食べたというのに、明日の食事を考えている自分に呆れつつ、碁盤の目を歩き始める。
 京都の夜はまだ始まったばかりだ。