深海より

3.
 
「心の底から普通になりたいよ」
 悠人は、夏の匂いがする記憶を絶って呟いた。椅子を移動して、真叶の横に座る。
「普通って面白いかな。私にはよく分からないけど」
「少なくとも、学校に来て三秒で怒鳴り散らされることはなくなる」
「やっぱり、怒られたこと気にしてるじゃん」
「単純に感心するんだ。人間と本気で向き合えることに。壊れた人間を変えようとしてる。まだ正常な人間に見えるのかな」
「心が目に見えたらいいのにね。そしたら、少しは優しくなるかもしれない」
「血だらけで気持ち悪いって言われるだけだよ」
 悠人は、頭の後ろで手を組んだ。そのまま椅子ごと後ろに倒れて、いつまでも夢の中で眠っていたい。
「氷見、荒れてきたね」
「元からですけど。生まれた瞬間から壊れてるんです。なにか、問題でも」
「ううん。やっぱり、氷見は面白いね」
「ジャンク品漁ってニタニタするコレクターじゃないんだから。どこが面白いんだよ」
「壊れてるのが面白いんだよ」
「中々悪趣味な十七歳だね。世の中には楽しいことたくさんあるよ」
「誰が言ってんの」
 窓を閉めたにもかかわらず、体育館から歓声が聞こえてきた。どうも、勝敗が決したらしい。
 声が聞こえなくなったとき、真叶が言った。
「どうやって生きていこうね」
「呼吸しなければいい」
 悠人は目一杯伸びをした。
「人間の呼吸はもう諦めよう。酸素を吸って、吐くなんて到底無理だから」
 隣の真叶に目をやると、真叶もこちらを見ていた。 悠人は真叶の瞳に告げる。
「ありがとう」
 真叶からの返事はない。言葉の代わりに、真叶がスカートのポケットから口紅を取り出した。
「忘れずに持ってきたよ。腕出して。くすぐったいかも」
 悠人はブレザーを脱ぎ、シャツをまくった。そして、いつかの夏と同様に左腕を真叶の方へ差し出した。
 ドロドロとした感触が腕に乗った。冷たいけれど、どうしようもなく温かい。交差する線の上に、赤が重なる。誰にも見えない傷を、世界に示すための真紅。
「よし、これでおっけ」
 肘から手首にかけてまんべんなく赤く染まった頃、真叶が満足そうに言った。
 今度は悠人の番だ。真叶の手から口紅を受け取る。
 真叶は裸足になって、学習机の上に右足を乗せた。ローファーの中で靴下が丸まっている。
「なんか、私だけいつも恥ずかしいんだけど。足臭かったら嫌だし」
「この期に及んで匂いなんか気にしないよ。もう人間の正しい感性は必要ないだろ。深海生物なんだからさ」
「そうだね。ごめん」
 悠人は、真叶のくるぶしに口紅を当てた。口紅の先端、グチャっと触れる感覚が指を伝って脳に届く。ゆっくり、ゆっくりと、黒を塗りつぶすように、赤を広げる。
 少しして、くるぶし全体が赤く染まった。黒い色はもう見えない。
「できた」
 口紅を学習机に置き、真叶の方に向き直ったと同時に、左の手首に新しい熱が重なった。ブニっとした丸い温かみがある。真叶の唇だった。
 毎日冷たく刺すような世界の中で、この温もりだけがずっとあたたかい。小さい頃の記憶はほとんどない。奈落の底に沈んでいくような恐怖を、生まれてからずっと味わっている。
 手首の熱が冷めないうちに、真叶が唇を離した。
 真叶の頬は朱に染まっている。唇周りがどうしようもなく赤い。
 悠人はすぐさま真叶の赤いくるぶしに、唇を返す。
 冷たい骨の感触が伝わってくる。真叶の抱えている痛みがそこにはあった。希望を切り裂くような圧倒的な孤独と、生きていることへの強烈な罪悪感。
 一体どうしたら、不平等で、理不尽で、救いのない世界を壊せるだろう。叫びたくなった。
 悠人は顔を上げ、まだ熱の帯びた唇を真叶の唇に寄せた。お互いに混沌とした熱を押し付け合う。
 感情の一切を出し切って、悠人は唇を離した。
 真叶の目には、涙が溜まっていた。悠人の目にも、込み上げてくるものがある。
「大丈夫、氷見は大丈夫だから」
 真叶が涙混じりの声で言った。
 悠人は言葉を返せなかった。ただただ水滴が頬を伝った。冬の温度は誰も知らない。
 
 
 
 深海より 完