2.
ある夏の日を思い出す。夏休み前だったか。
数学の授業が先生の体調不良により自習になった。
生徒同士でふざけ始まるのも気に食わなかったので、悠人は文庫本片手に教室を出た。教室の日陰にいる人間が一人消えたところで、誰も気にしない。先生にご報告されたらそれまでだ。
とにかく、唯一息ができる場所に消えたかった。
周囲を見渡しながら階段を降り、廊下を進む。
窓の外は清々しいくらいに青かった。入道雲が絵画のような白さを誇っている。
校舎を抜け、体育館裏の部室棟に着いた。二階建てコンクリートの部室棟には、約十個くらいの小部屋がある。建物自体にヒビが入っているので、いつかは建て替えられるかもしれない。現役で使われている割には古すぎる。
塗装の剥がれた階段を登る。一段ずつ、カンカンと音が鳴るのが心地いい。秘密の場所まで、あともう少し。
部室棟二階、階段から一番離れた奥の扉を開ける。
灰皿の置かれた学習机が一つ、その横に古びた椅子が二つあるだけの部屋。当然誰もいない。
悠人は本を机に置き、部屋の奥にある唯一の窓を開けた。ガラガラと、これまた古めかしい響きだ。
外の風を浴び、振り返ると入口に人が立っていた。クラスメートの存在に気づくのと同時に、扉を閉めるのを忘れていたことに気がついた。
「失礼するね。私もこの部屋にいていいかな」
真叶が至って冷静に、淡々と告げた。悠人としては慌てるしかない。
「どうしてここに?」
「尾けてきたんだ。氷見が気配を消して教室から出ていったからさ。どこに行くのかなと思って。ちょっと興味あったから。なに読んでるの」
真叶が机上の本を手に取った。悠人は本の背表紙を見つめる。
「小説。ジャンル的には青春群像劇なのかな。二人の高校生が、学校から脱走して海を目指すって話」
「面白い?」
「面白くはないけど、面白くないわけでもない」
「どういうこと?」
「心が動くような体験はできないってこと」
「じゃあ、なんで読んでるの?」
「なんでだろう。中身は問題じゃないんだ。読書という行為によって、自分が正しい人間であることを確かめているのかもしれない。言語を使って、想像力が正常に働いていることを確認してる」
悠人は、他のクラスメートと同じように、奇異な目を向けられるに違いないと予想していた。しかし、実際の反応は違った。真叶はまるで世界を嘲るように笑った。
「変わった考え方だね。氷見って面白い」
上手な返事が浮かばず、悠人は黙った。
「氷見って、たまに教室から姿消すなって気づいてたんだよ。秘密基地持ってたんだね。ちょっとだけ煙草の匂いするけど、煙草でも吸ってたの?」
「いやいや、吸ってない。この部屋、元々喫煙室として使われてたみたい。今は部活用備品倉庫って扱いだけど。噂によれば昔、大人達が使ってたみたいだよ」
「だからか。壁もくすんでるもんね」
「教室戻らなくていいの。誰かが気づくかもしれないよ」
「大丈夫、誰も気にしてないよ。私の存在は透明な空気だから」
「教室での様子を見るに、空気には見えないけど。孤立している様子もないし」
「空気って、人間の目は見えないけど、当たり前にそこにあるもの。ただ、大した意味もなく、そこにあるだけ。私の存在にも意味はない」
「友達だっているじゃない。打ち解けているように見えるけど」
「友達ごっこしてるだけだよ。皆、どうせ陰では悪口言ってる。それに、私には愛してくれる家族がいるわけでもないし」
笑顔のまま言い切った真叶が、椅子に座り、靴を脱ぎ始めた。悠人は思わず声を荒げた。
「なにしてるのさ」
真叶が艶やかに笑う。美しくもあり、痛々しくもある名前のつきにくい笑顔だった。
「見て、これ」
学習机に、裸の右足が乗せられていた。綺麗で細い足だった。だが、可憐さを吹っ飛ばす情報が目に飛び込んできた。
くるぶしに、黒くて大きいアザがある。
悠人は唾を飲み込んだ。どうしてもくるぶしから目が離せない。
「小さい頃、父親に殴られた跡。笑っちゃうよね」
「笑えないけど」
「笑ってよ」
「やめてくれ。迷惑だ」
「面白いでしょ。この黒さ」
「面白くない。さっさと靴下履きなって」
「成長したら、少しは元の色に戻るだろうって信じてたのに、全然治らないもんね。もう、一生元に戻らないかも」
「痛々しいからやめてくれ。笑い話じゃない」
悠人は強い口調で言った。全身が熱かった。やっと、真叶は笑みを消した。
「ごめん。氷見って、教室でもどこか他の人と違う雰囲気あるからさ、もしかしたら分かってくれるかもって期待してた。なんとなく、仲間な気がして」
心が痛むのと同時に、心の底で固まっていたものが溶け出すような感覚があった。急速に溶けている。
悠人は感覚に身を委ね、左腕だけシャツの袖をまくった。いくつもの線が交差する、真っ赤な腕があらわれる。悠人は腕を真叶に見せた。
「お返し」
「綺麗だね」ハッキリとした口調だった。
「爪で引っ掻くと、傷跡は数日ですぐに消える。でも、見た目はかなり派手になる。だから、あんまり痛くないし、誰にも怒られない」
腕に刻まれた線は、必ず消える儚い芸術作品。
無言で見つめ合った後、真叶が言った。
「お互い、どう考えてもちゃんと生きてるよね」
ある夏の日を思い出す。夏休み前だったか。
数学の授業が先生の体調不良により自習になった。
生徒同士でふざけ始まるのも気に食わなかったので、悠人は文庫本片手に教室を出た。教室の日陰にいる人間が一人消えたところで、誰も気にしない。先生にご報告されたらそれまでだ。
とにかく、唯一息ができる場所に消えたかった。
周囲を見渡しながら階段を降り、廊下を進む。
窓の外は清々しいくらいに青かった。入道雲が絵画のような白さを誇っている。
校舎を抜け、体育館裏の部室棟に着いた。二階建てコンクリートの部室棟には、約十個くらいの小部屋がある。建物自体にヒビが入っているので、いつかは建て替えられるかもしれない。現役で使われている割には古すぎる。
塗装の剥がれた階段を登る。一段ずつ、カンカンと音が鳴るのが心地いい。秘密の場所まで、あともう少し。
部室棟二階、階段から一番離れた奥の扉を開ける。
灰皿の置かれた学習机が一つ、その横に古びた椅子が二つあるだけの部屋。当然誰もいない。
悠人は本を机に置き、部屋の奥にある唯一の窓を開けた。ガラガラと、これまた古めかしい響きだ。
外の風を浴び、振り返ると入口に人が立っていた。クラスメートの存在に気づくのと同時に、扉を閉めるのを忘れていたことに気がついた。
「失礼するね。私もこの部屋にいていいかな」
真叶が至って冷静に、淡々と告げた。悠人としては慌てるしかない。
「どうしてここに?」
「尾けてきたんだ。氷見が気配を消して教室から出ていったからさ。どこに行くのかなと思って。ちょっと興味あったから。なに読んでるの」
真叶が机上の本を手に取った。悠人は本の背表紙を見つめる。
「小説。ジャンル的には青春群像劇なのかな。二人の高校生が、学校から脱走して海を目指すって話」
「面白い?」
「面白くはないけど、面白くないわけでもない」
「どういうこと?」
「心が動くような体験はできないってこと」
「じゃあ、なんで読んでるの?」
「なんでだろう。中身は問題じゃないんだ。読書という行為によって、自分が正しい人間であることを確かめているのかもしれない。言語を使って、想像力が正常に働いていることを確認してる」
悠人は、他のクラスメートと同じように、奇異な目を向けられるに違いないと予想していた。しかし、実際の反応は違った。真叶はまるで世界を嘲るように笑った。
「変わった考え方だね。氷見って面白い」
上手な返事が浮かばず、悠人は黙った。
「氷見って、たまに教室から姿消すなって気づいてたんだよ。秘密基地持ってたんだね。ちょっとだけ煙草の匂いするけど、煙草でも吸ってたの?」
「いやいや、吸ってない。この部屋、元々喫煙室として使われてたみたい。今は部活用備品倉庫って扱いだけど。噂によれば昔、大人達が使ってたみたいだよ」
「だからか。壁もくすんでるもんね」
「教室戻らなくていいの。誰かが気づくかもしれないよ」
「大丈夫、誰も気にしてないよ。私の存在は透明な空気だから」
「教室での様子を見るに、空気には見えないけど。孤立している様子もないし」
「空気って、人間の目は見えないけど、当たり前にそこにあるもの。ただ、大した意味もなく、そこにあるだけ。私の存在にも意味はない」
「友達だっているじゃない。打ち解けているように見えるけど」
「友達ごっこしてるだけだよ。皆、どうせ陰では悪口言ってる。それに、私には愛してくれる家族がいるわけでもないし」
笑顔のまま言い切った真叶が、椅子に座り、靴を脱ぎ始めた。悠人は思わず声を荒げた。
「なにしてるのさ」
真叶が艶やかに笑う。美しくもあり、痛々しくもある名前のつきにくい笑顔だった。
「見て、これ」
学習机に、裸の右足が乗せられていた。綺麗で細い足だった。だが、可憐さを吹っ飛ばす情報が目に飛び込んできた。
くるぶしに、黒くて大きいアザがある。
悠人は唾を飲み込んだ。どうしてもくるぶしから目が離せない。
「小さい頃、父親に殴られた跡。笑っちゃうよね」
「笑えないけど」
「笑ってよ」
「やめてくれ。迷惑だ」
「面白いでしょ。この黒さ」
「面白くない。さっさと靴下履きなって」
「成長したら、少しは元の色に戻るだろうって信じてたのに、全然治らないもんね。もう、一生元に戻らないかも」
「痛々しいからやめてくれ。笑い話じゃない」
悠人は強い口調で言った。全身が熱かった。やっと、真叶は笑みを消した。
「ごめん。氷見って、教室でもどこか他の人と違う雰囲気あるからさ、もしかしたら分かってくれるかもって期待してた。なんとなく、仲間な気がして」
心が痛むのと同時に、心の底で固まっていたものが溶け出すような感覚があった。急速に溶けている。
悠人は感覚に身を委ね、左腕だけシャツの袖をまくった。いくつもの線が交差する、真っ赤な腕があらわれる。悠人は腕を真叶に見せた。
「お返し」
「綺麗だね」ハッキリとした口調だった。
「爪で引っ掻くと、傷跡は数日ですぐに消える。でも、見た目はかなり派手になる。だから、あんまり痛くないし、誰にも怒られない」
腕に刻まれた線は、必ず消える儚い芸術作品。
無言で見つめ合った後、真叶が言った。
「お互い、どう考えてもちゃんと生きてるよね」
