深海より

深海より
 
 1.
 
「はい。ホットの美味しい季節は幸せだ」
 いつもの習慣に従う快適さを感じつつ、氷見悠人(ひみゆうと)は缶コーヒーを差し出した。缶の柔らかな熱が、指先から全身に伝わる。
「ありがと」
 早川真叶(はやかわまかな)が、受け取った缶のプルタブを引っ張る。
 ポコっと少しだけ間抜けな音がした後、湯気と共にブラックコーヒーの香りが漂ってきた。浮ついた心を少しだけ鎮めてくれる。
 悠人もプルタブを引っ張り、液体を吸うように口へ運んだ。やはり、苦さこそ正義だ。ため息をつくと、真叶が口を開いた。
「氷見さ、今日も遅刻してなかった?」
「朝、起きられなくて。ちゃんと、悪いことだとは思ってる。反省もしてる」
「開き直ってるように聞こえるけど。だから、怒られるんじゃないの」
「反省してるって。先生にはちゃんと頭も下げたし」
「大人を満足させるためだって意図しか感じなかったけどね」
「謝罪は相手の怒りを鎮めるためのものだよ。反省するためじゃない。不祥事起こした芸能人の会見なんか代表例だろ。意味なんかないのさ」
 悠人はコーヒーの液体を舌の上で転がした。苦みがじんわりと脳を巡る。
 グイッと缶を傾けた真叶が不快そうに眉を曲げた。
「怒られてる人を見るのって、朝から気分悪いものだね」
「真叶って意外と優しいよな」
「教室で怒鳴り散らすの、今すぐやめて欲しい」
 朝、教室に入ったときの光景が脳裏を掠める。
 朝のショートーホームルーム。なるべく音を立てないよう扉を開け、自分の席に向かう途中で担任に発見された。
 開口一番投げ掛けられたのは「舐めてんのか」だった。その後の罵倒は思い出したくもない。
「俺は別に構わないけど。黙って過失を認めていれば、いつかは終わるわけだし。正常な過ちに、正常な謝罪。正しい日常だよ」
 悠人は辺りを見回した。薄汚れた灰色の壁に囲まれた小さな部屋の中央、学習机に置かれた灰皿に目が留まった。そうだ、紛うことなき正しい日常だ。間違ってない。
「学級委員の人にもチクッと言われてたよね」
 真叶が変わらず不機嫌そうな顔で言う。露骨な不快感がなんだか面白くて、悠人は少しだけ笑った。
「遅刻をしてはいけないって、どう考えても正しいじゃん。彼が悪いわけじゃない。怠惰だと形容されることに悔しさはないよ」
「氷見のせいで心がドロドロになるんだよね」
 悠人は頭を下げる。
「ありがとうございます。恐縮です」
 半分開けた窓から、ボールの跳ねる音が聞こえてきた。おそらく体育館の連中だろう。冬の寒さも気に留めず、元気なことだ。
「氷見はさ、煙草吸えたら生きやすくなると思う?」
 唐突な真叶の問いだった。悠人は一度缶を灰皿の横に置き、立ったまま腕を組んだ。
「第一にかなりお金掛かりそうだよね。結局、ストレス解消のためにストレスを溜める結末になりそう。大人って本末転倒を愛してるよね」
「氷見って皮肉上手だよね」
「キツい冗談が似合う人間になるなんて、五歳の頃は思ってなかったよ。残念だ。本当に」
 息を思いっきり吐いて伸びをすると、窓から雪が舞い込んできた。白く、汚れていない、無垢な雪だった。悠人は窓をしっかりと閉めて鍵をかけた。もう楽しげな連中の声は聞こえない。
「煙草を使って生きていけるのであれば、喜んで愛煙家になるよ。酒もギャンブルも同じ。真叶はさ、俺がどれだけ無様に落ちぶれても、一緒にコーヒー飲んでくれる?」
 悠人は学習机を挟んで、真叶の正面に座った。真叶が柔らかく微笑む。
「大丈夫、私は深海生物好きだよ」
「初耳だな。深海生物ってどんなのだっけ」
「チョウチンアンコウとか、オウムガイとか」
「どこが好きなのさ、あんなブサイクな造形」
「ブサイクな造形が好きなんだよ。あのね、深海は普通の生物じゃ生きられない環境なの。太陽の光が届かないし、水圧も強いから。深海生物の体は、生き延びるために適応的な進化をした結果、氷見の言うブサイクな造形になるわけ。なんか、すごいよね。生き延びるために必死だよね」
 真叶の顔は、とても充足感に満ちていた。活き活きとした生のエネルギーを感じる。教室で見るクールな真叶の姿とは、あまりにもかけ離れている。
「なるほどね。じゃあ、俺達も深海生物かな。必死に生き延びているけれど、外から見れば気持ち悪いって点においては」
「そうだね。氷見、今日、忘れずに持ってきたよ」
 真叶は先ほどまでの楽しそうな声を払って、真剣味を足した声で言った。悠人は数秒黙って逡巡した後、首を横に振った。
「真叶さ、地上に戻りなよ。まだ真叶は戻れる」
「今更やめてよ」
 真叶の寂しそうな瞳とぶつかり、悠人は言葉を落とす。
「ごめん」
「氷見こそ、酸素を吸える場所に戻りなよ」
「絶対に無理。地上の息を吸った瞬間、潜水病でころっと死ぬ。もう、異常な気圧に慣れちゃった」
「私も一緒だよ」
「にゃるほどね」
「だる」
 返す言葉なく、沈黙が流れた。幸せで、ささやかで、触れようのないお互いの呼吸だけがある。
 悠人は、天井を見上げたままゆっくりと言葉を投げた。
「どうせ、太陽は深海生物に興味ないもんな」