江波戸から林間学校の話をされてかなり気持ちが沈んだまま、僕は5限を迎えた。
「起立、礼、着席」
「今日のこの時間は5月25日からの林間学校についてだ」
教室は大いに盛り上がっていた。僕だけが異世界に飛んできたのかというテンションの差に風邪をひきそうになりつつ、成り行きを見守ることにした。僕はどうせ班決めで配属があぶれるのだから、ここで何か大きなアクションを起こすことはない。
「班決めは先生の方でやらせてもらった」
教室がざわついた。先ほどの明るい盛り上がりとは異なり、ブーイングに近いざわつきだった。
「はーい、なんで先生が勝手に班決めしたんすか」
「班決めに時間取られると面倒くさいからな。それにみんなで決めたとして文句が出るのは決まってるだろ」
そう言って担任は黒板にどんどん名前を書いていく。このクラスは25人と少し少なめの人数で、男子15人女子10人という何とも言えない男女比である。そして僕以外は、強豪の部活に所属しているフィジカルエリート集団に、何もできない僕といった構成だ。このクラスで僕が浮いてしまう理由もお分かりいただけるだろう。
書かれる名前を見て一喜一憂しているみんなを見て、僕はどこへ配属になっても同じだと思い、特に何を見るでもなく教室の外を眺めて過ごしていた。
「じゃあ、班で固まってー」
担任の指示に、ようやく僕は黒板に目を移した。
3班か。別にだれか知っている人がいるというわけでもない。班員が集まっているところへ行くと、僕以外の男子2人と女子2人がいた。
「お願いします」
同級生相手に敬語という壁を自ら構築してしまったことに気づいたが、時すでに遅しである。そういえばこのクラスに来て僕はほとんど会話をした記憶がない。僕の学校はかろうじて名札が存在しているので、何とかそれを見ながらコミュニケーションをとる。
何となくリーダー気質っぽい高橋が場を回してくれる。
「まずは班長決めなんだけど、やりたい奴いる?」
そこに流れるのは沈黙であった。クラスの勢力図を何も理解できていないのだが、この場にいる全員がおそらく仲良くないことだけは分かった。おそらく担任はあえて微妙な関係性の人たちを組み合わせることで、ハブられる人を減らそうという魂胆らしい。担任の策に助けられたことに心の中で感謝した。ありがとう、増田先生。
「やりたい奴いないなら俺やるけどいい?」
おそらく自分がやるつもりではあったのだろうが、一応形式上募集してくれたのだろう。なんていい人なんだろう。話しにくいとしか思っていなかった同級生も、こうしてみるととてもいいやつに見えてくる。
「高橋君、やってくれてありがとう」
「先生に伝えてくる」
高橋はそのまま先生のもとへ伝えに行き、しおりを持って帰ってきた。
「これ、みんなに配っといてだって」
「あ、ありがとう」
配られたしおりに目を通す。班対抗のバレー対決という地獄のような行事に僕は目を見開いた。なんてヤバイ行事がここには存在しているんだ。
こうなったら仮病で休むしかない。というかこんなバカげた行事が存在していること自体がありえない。しかも男女混合なんて危険極まりないではないか。もっと言えば僕みたいな運動音痴にはまったく配慮のないこの行事は、ソッコーで廃止されるべきである。
「バレー大会なんてあるんだ」
ナイーブな自分とは対照的に、このクラスの者たちは大いに盛り上がっていた。さすが別名スポーツクラス。こんな行事に対しても全力でぶつかることができるなんて何とも素晴らしいことだ。では、こいつらと戦わなければいけないとても可哀そうな僕とのパワーバランスはどうなっているんだ。きっと高橋は運動ができるのだろうけれど、それでカバーできるほど僕の運動音痴は生易しくない。
「すげー、頑張ろうな」
「もちろん」
「やるからには優勝目指そうぜ」
「だね!」
「う、うん」
ここまで心の中で毒づいても、現実でそんなことを言えるわけがない。キラキラとした目で「頑張ろう」と言われてしまえば、僕は苦笑いしながらうなずくことしかできなかった。「ほんとにありえん」
「どうしたのそんなご立腹で。北村にしては珍しい」
江波戸と過ごすいつも通りの昼休み。ただいつもと違うことが一つだけある。それは、僕から江波戸に話しかけているということくらいだろうか。
「林間学校でバレー大会なんてありえない」
「そんなんあるの!?」
「え、逆にないの?」
僕は人生ではじめて進学コースを離脱したことを後悔した。こんな行事があると先に知っていれば、絶対進学コースに残ったのにと一瞬思ってしまった。林田先生の子供の話を聞いて、進学コースをやめてよかったと心の底から安心していたのは最近のことだったのに。それほどまでに、バレー大会は僕の精神をむしばんでいるんだ。
「う、うらやましい……」
「ないって言っても俺らずっと補習だよ。俺からするとバレー大会のほうがずっといいと思うけどなあ」
「そんな訳ない、ずっと座ってるだけでいい補習のほうがマシに決まってる」
「北村って運動苦手だっけ」
「苦手だよ! というか運動苦手じゃなくても、あんなアスリート予備軍みたいな連中の中に入れられたらどうしようもないだろ」
「それは確かに」
「でも、俺らのクラスよりよっぽどいいだろ。ほとんど勉強合宿みたいなもんだぞ」
江波戸はなぜか林間学校のしおりを持ってきていたようで、僕に見せてくれた。その中身の差に愕然とした。これは同じところに行くのか怪しいレベルの内容だった。
娯楽など一切なく、朝9時から夜10時まで勉強漬けの日程だ。レクリエーションなんて行事も一つもなく、ずっと勉強。これは先生の方が大変なのではないかというレベルである。ただ、集団行動が苦手な僕にとって最高のタイムスケジュールだ。山登りもなければ、レクリエーションなんて地獄の時間も存在しないなんてうらやましくて、自分から辞めたことすら忘れて、いよいよ本気で進学コースに戻りたくなってきた。
「さすがだな。この感じ懐かしい」
「普通に同じ学校なのか時々疑問に思うレベルだよな」
「確かにクラス変わってから、びっくりしたもん。校則まで違うなんて知らなかった」
「それな、北村と会うまで進学コースだけ校則厳しいの知らんかったし」
「そうだよな、名前が同じだけの別学校だと思ってる」
進学コースの時にはあった毎週の身だしなみ検査は、総合コースに来てからは一度もないし、ツーブロックの生徒も存在している。それは進学コースではまずありえないことだった。
「北村とは別の理由だけど、俺も林間学校そんなに楽しみではないんよ」
「それもそうか」
これは僕が総合コースという場所に身を置いたから「進学コースの内容なら全然楽だろ」という感想が出てくるのであって、きっと進学コースに居たままだったら、多分江波戸と全く同じ感想になっていたのだろうと思う。
「山登りとかはまあ時間かかるからないのはわかるけど、カレー作りくらいやらせてよって感じ」
「それはそれで面倒だけどね」
「でもわざわざ泊まりに行って、勉強だけって普通に手間だろ。だったらまだ学校で授業のほうが準備もなくて楽やん」
やはり僕は江波戸と同意見だ。意外と江波戸と気が合うと思うことが多い。一年の時には全く別の人種だと思って近づきもしなかったし、勝手に几帳面な人だと思い込んでいたが、彼のノートはぐちゃぐちゃで、参考書の書き込みは正直読めたものではなかった。テストなど他の人が読むものは読みやすいように書くらしいが、自分しか読まないものは基本的に適当らしい。
僕と同じ思考でノートをとっている人が存在しているとは思っていなくて、それを知った時、僕は少し歓喜した
この日の昼休みは僕が永遠に林間学校の愚痴を言って、幕を閉じた。5限中、どうにか林間学校に行かなくてよくならないかなということ以外、何も考えられなくなっていた。
風邪をひくにはどうすればいいんだろうか。例えば雨の中わざと傘を差さずに帰るとか。これはないか。5月に都合よく雨が降るなんてこともないだろうし。
じゃあ階段から落ちて足でも骨折すれば、山へ行く林間学校に無理に参加させられることはないのでは。万が一参加させられても一番の懸念点であるバレーボールはやらなくて済むわけだし。
この作戦に問題があるとすれば、僕に絶望的なまでに勇気がないということくらいだろう。
まともな対策が浮かぶこともなく、時間だけが過ぎ去っていく。
一瞬で終了した5限の後は、林間学校の説明会だ。2年生全員が説明を受けるこの会は全校集会と同じ語りで行われる。
この学校の集会は、基本的に放送室からのテレビ中継だ。そのためこの会も教室移動をする必要がないのは助かる。
ただ、担任の「班ごとに固まって話を聞けよ」という言葉によって、ぼーっとしていればいいやと思っていた僕の浅はかな考えは打ち砕かれた。
しぶしぶ机ごと移動し、班のもとへ向かう。
「よろしく」
一言呟いて、すでにできあがっていた机の塊のお誕生日席へ、不本意ながら机をくっつけようとした。そこで僕は、あることに気づいた。どうやら班の女子二人はあまり折り合いが良くないらしいということに。なぜか対角線上に席を取っていた。友達がいたことのない僕にさえ伝わってくるほど、仲が良くない。どうしてこうなった。前の班発表のときには、そんな素振りはなかったのに。林間学校への憂鬱な気持ちがさらに膨らんでいく。
女子の険悪な空気を感じ取った他の男子メンバーたちの間にも、気まずい雰囲気が流れた。この場をどうやり過ごすべきか、きっと全員が考えているのだろう。誰かが口を開くより先に、テレビから音声が流れ始めた。
雑談をしていた他の班も静かになり、クラス全体が話を聞く空気になった。集会が始まったことに救われ、僕も教室のテレビに目を向ける。
ただ、視界にはどうしても険悪な雰囲気の女子二人が入ってくる。何をどうしたらこの短期間でそこまで険悪になれるのか、いっそ聞いてみたい。林間学校までに修復できそうにも思えないので、「班長の高橋がどうにかしてくれ」と心の中で丸投げした。
セミナーハウスの使い方や禁止事項の説明で一時間まるまる使われた。どう考えても班の形になって聞く必要のない話で、授業時間は終わった。
元の席に戻り、帰りの準備を始める。
なんとかうまく足だけ折れるように、階段から落ちる方法を本格的に考えなければと思い始めた。階段は厳しいか。山から滑り落ちるくらいがちょうどいいのでは、などという思考が頭をよぎる。
いつもならまっすぐ家に帰るのに、帰りの会が終わってすぐ、僕はオアシスに向かった。
ただ、山道を登れば登るほど、足だけを都合よく折る難しさを痛感した。
まあ僕も本気で自分の足を折ろうとしていたわけではなく、少し現実逃避をしたかったというのが本音だ。
イヤホンを大音量で鳴らしながら、廃墟の前にある芝生に寝っ転がった。
目を閉じて、生温かい風に吹かれる。このまま雲になって空を漂えたらいいのに。雲なら何の悩みもなさそうだ。というか、あのとき林田先生に会っていなければ、こんなにしんどい思いをしなくても済んだのだろうか。
考えてもどうしようもないことを堂々巡りさせていると、不意に体を揺さぶられた。
驚いて目を開くと、そこには江波戸がいた。急いでイヤホンを外す。
「…い…おい、何やってるんだよ、こんなところで」
「江波戸こそ、なんで」
「今日補習休みだから帰ろうとしたら、逆方向に向かう北村が見えたから。どうしたんだろって思って」
ますますわけが分からない。ついてくる理由は理解できないが、友達とはそういうものなのかもしれないと納得することにした。
「で、北村は何やってたの」
「現実逃避」
「だとしても、こんなところで寝転がるのは汚いだろ。動物も多いし、変な菌でも移ったらどうするんだよ」
変な菌にかかれば林間学校に行かなくて済むかもしれない、という思考が一瞬よぎる。もっとも、今かかったところで本番まではまだ2週間あるから、早すぎるのだけれど。
「それもいいかもな」
「いいわけないだろ」
江波戸は僕の両腕を掴み、無理やり引っ張り起こした。
「今日天気不安定だし、早く帰ろうぜ」
「おん」結局僕は足を折ることも風邪を引くことも叶わず、当日を迎えてしまった。
僕は人生で初めて起きてから5回熱を測った。しかし全て36.3度を示していた。人間の平熱が、34度に今日からならないかなという考えが頭を占める。
そんな天変地異が起こるはずもなく、僕は憂鬱な気持ちのまま学校に向かった。
集合場所に到着すると、すでに多くの生徒が集まっていた。何とか人の波を掻き分け、僕は自分のクラスを見つけ、班の元へ向かった。これから2泊3日このメンバーで過ごすと思うと、僕の下降気味な気持ちがよりどん底に落ちていく。
そしてここ2週間ずっと観察してきたが、結局女子たちの仲は悪いままだ。むしろ日に日に悪化していた。
この3日間をどう乗り越えるべきか、考えはまとまらない。
考えても仕方ない。そんな思考に至った僕はおとなしくしおりに目を落とした。ここからセミナーハウスまでは、バスでおよそ3時間半。かなり時間がかかるようだ。
バスの隣の席の人はクラスメイトだが、そこまで積極的に話す必要もないだろう。僕はバス酔いする覚悟で文庫本を3冊持参した。これで結界を張れば、きっと話しかけてはこないはずだ。
「みんな揃ったな、これから……」
担任が話し始めた。地獄の始まりを宣言され、担任の話など聞く気にもならない。僕はなんとなく進学コースのほうに目をやった。林田先生が江波戸に話しかけていた。
それを見て気分が暗くなった僕は目をそらし、結局自分の担任の方を向いた。
「以上で注意事項は終わりだ。これからくる5号車でセミナーハウスに向かうぞ」
バスが何台もやってきて、僕らの前に止まる。1号車から順番に進学コースの生徒が乗っていく。
やっと5号車がやってきて荷物を預け、バスに乗り込む。
僕は出発する前から文庫本を開き、話しかけるなオーラを全開にする。案の定、隣のやつは僕のATフィールドに恐れ慄いたのか話しかけてこない。完璧完璧。
「今からスマホの回収するぞー」
担任の間延びした声に、全員からブーイングが巻き起こった。
「これは課外活動で、立派な学校行事だ。だから林間学校中も校則は守ってもらう。3日目に、学校へ到着した後、スマホは返却される。わかったな」
案の定スマホを回収されてしまい、娯楽を失ったクラスメイトたちは、その鬱憤でも晴らすかのように皆バスで騒ぐ。だがその中でも僕は静かに本を読み続けた。
バスが出発して1時間ほどで全体が静かになり、僕は本の内容に集中する。今まで江波戸のせいで読めていなかった本を1冊読み切ることができ、少し達成感を覚えたところで、バスはセミナーハウスへ到着した。
荷物を置くため、割り当てられた部屋へ向かう。道中、クラスメイトたちは檻から解放された猿のように騒いでいた。どうやら林間学校が楽しみで仕方ないようだ。どの女子に告白するかで盛り上がっている男子を横目に、僕は急な坂道で息を上げていた。なんとか息を整え、建物に到着する。
「これが館内地図だ。迷子になるなよ」
玄関で地図をもらい、やっとこさ部屋に到着した。班の男子2人との3人部屋だった。
「女子たちどうする?」
「まぁ俺らがどうにかできるもんでもないだろ」
「そりゃそうだけど、このままだと全部の行事めちゃくちゃになるぞ」
2人で会話を進めているのを、僕は微妙な顔をしながらうなずいて聞くだけだ。正直行事がどうなろうと知ったことではないし、心底どうでもいい。早く終われと心の中で唱えるのみだ。
「まぁあの2人、口聞かないだけだし、派手に喧嘩って事にはならないと思うけど」
「そうだよな」
「って、もう時間じゃん。早く総合ホールに行かないと。おい、北村もぼーっとしてないで行くぞ」
「ご、ごめん」
本当にこの先が思いやられる。総合ホールに到着すると、ホワイトボードにバレーボール大会のトーナメント表が貼られていた。初日からバレー大会を行うなんて体力バカがすぎるだろう。ここまで3時間半もバスに揺られて、みんな疲れているはずなのに。まあ、そんな愚痴をこぼしたところで何かが変わるわけでもないので、おとなしくトーナメント表に目をやった。
どうやら1回戦で負ければ、もう試合はないらしい。班を組んだ当初は優勝という目標を掲げていた気もするが、今の何とも言えない空気の中では、そんな目標を口にする者はいなかった。
ただ、スポーツが得意なやつらが多いこのクラスでは、絶対に勝つという気迫が満ちている。他のコースの連中には絶対に負けられないという強い意志が感じられた。俗に「スポーツクラス」と陰で呼ばれている連中のプライドなのだろう。僕たちの初戦の相手は商業クラス。どういうメンバー構成なのかは知らないが、これでもし負けたら、かなり気まずい空気になるのではないかという予感が頭をよぎった。
クラスメイトたちの発する熱気に当てられて熱中症にでもなりそうだったので、僕は輪からそっと抜け出した。その後、昼食を済ませて再び総合ホールへ戻ると、いよいよバレー大会が始まった。
もっとも、大会自体は簡易的なもので、1試合につき5ポイント先取したほうが勝ち上がるルールだった。手短なルールでなければ、これだけのクラス数はさばけないのだろう。本当にミニゲームのような形式だ。しかも使うボールは本格的なバレーボールではなく、どうやらビーチバレー用の柔らかいボールらしかった。
だが、そんなことは僕には関係ない。そもそも球技全般との相性が最悪なのだ。なんとかボールが回ってこないポジションを死守しなければと思いつつ、コートに足を踏み入れる。高橋と中田が後衛に回り、前方のフォローに入ってくれるようだ。僕は前衛でひたすら地蔵のように動かないことを心に決めた。
「はじめ!」
試合開始の合図が響く。初球のサーブは相手チームからだった。僕が運動音痴なのを察したのか、一直線にこちらへ飛んでくる。
どうしよう、返せない。
頭から体に指令を送り、咄嗟に腕を伸ばしたが、距離感が合わず触れすらしない。ボールはそのまま床に落ち、あっさり相手の得点になった。見守るクラスメイトたちの視線が、目に見えて険しくなっていく。僕はただ下を向くことしかできなかった。
「惜しかったな! 次、切り替えていこう」
高橋たちは予想外に優しく、わざわざ駆け寄って声をかけてくれた。これがスポーツマンシップというやつかと、思わず感心してしまう。
しかし、その後のプレーでも僕のミスが重なり、結局チームは2対5という何とも言えないスコアで敗退した。
気まずい。突き刺さるようなクラスメイトたちの視線が痛い。高橋は本当に運動神経が良いらしく、「あんな足手まといと組まされたせいで負けた」と周囲から同情されていた。
「こんなやつと組まされて災難だったな、高橋」
クラスの誰かが、吐き捨てるように言った。
最初からこうなることは分かっていたので、心の準備はできていた。ひとまずチームメイトに謝らなくてはならない。
「ごめん、僕があまりスポーツ得意じゃないせいで、みんなに迷惑を……」
「大丈夫だって。普通に相手が強かっただけだし。やっぱ本物のバレー部がいるとスゲーな。俺らもフォローしきれなかったし、次、別のチームの応援に行こうぜ」
高橋はさらりとフォローしてくれた。なんだかんだで根が良いやつなのだと、僕はスポーツマンへの見方を少し改めた。
「え、相手にバレー部がいたの?」
「うん。だから誰と組んでても、勝つのは難しかったと思うよ」何も楽しむことができないまま、バレー大会の全日程が終了した。
見事、同じクラスのB班が優勝した。それ以外の班も初戦敗退などしておらず、皆準決勝や準々決勝まで勝ち残っていた。初戦敗退したのは僕たちのチームだけだ。高橋はみんなからの人望が厚く、田中君も同じように好感度が高い。一方で女子ふたりの仲が悪いのは周囲にもなんとなく伝わっており、僕がぼっちなのも明白だった。つまり今回のバレー大会で一番足を引っ張ったのは、班の女子と僕という結論になる。あの時からずっと、クラスからの痛い視線を感じ続けていた。
そして夕飯の準備が始まった。今夜は飯盒でご飯を炊き、カレーを作るらしい。火起こしが必要な飯盒炊爨は男子、カレー作りは女子と学校側で役割が決められていた。
「私、ご飯炊くほうに行くよ。ほら、マネージャーやってるから水加減とか分かるし」
女子のひとりである中村さんが飯盒班に加わると言い出した。
「じゃあ俺らはカレー行こうか」
そう言って、田中と高橋が気を遣ってカレー作りのほうへ回ってくれた。
気まずい空気の中、無言でご飯を炊く作業を始めた。
中村さんはマネージャー経験があってご飯を炊くのが得意だと言っていたが、おそらく嘘だ。正直、米の研ぎ方からして怪しかった。ただ、僕も人生で数回しか米を炊いたことがないため、他人に指図できる立場ではない。
僕はとりあえず火起こしに専念し、うちわで火種を扇ぎ続けた。そうしているうちに、なんとか分量を量り終えた飯盒を中村さんが持ってきた。
「はい、これでよろしく」
そう言い残すと、中村さんはどこかへ消えてしまった。
やはり宮野さんと一緒にいたくなかっただけで、こちらを手伝うつもりは毛頭なかったらしい。僕は不安を覚えながらも、マニュアルの手順に従ってご飯を炊いていった。
しかし、しばらく経ってもマニュアルにあるような水蒸気が出てこない。同じくらいのタイミングで火にかけた隣の班からは、すでにモクモクと蒸気が上がり、炊きたての香ばしい匂いが漂っている。それに対し、僕たちの飯盒からはどこか焦げ臭い匂いしかしなかった。
不審に思った僕は、恐る恐る飯盒のフタを開けてみた。
現れたのは、真っ黒に焦げついた生米だった。み、水が入ってない!
信じられず、自分の目を疑った。完全に駄目になってしまったお米を見て、頭が真っ白になった。火元から離れるわけにもいかず慌てふためいていると、ちょうど高橋が様子を見に戻ってきた。
「どうした?…って、これ何があったの」
「僕、中身を確認せずに飯盒を火にかけちゃって……お米を真っ黒にしちゃった。ど、どうしよう」
「慌てすぎだって。俺、先生にお米もらってくるわ。火は消さないでそのままにしといて」
そう言われ、僕は火が消えてしまわないよう必死で見守った。すぐに高橋は新しい飯盒と先生を連れて戻ってきた。
「おい北村ー、飯の炊き方も知らないのか。そんなんじゃ今の時代やっていけないぞ。先生が予備を用意しててよかったな!」
僕は先生に平謝りした。軽くからかわれはしたものの、無事にお米を分けてもらうことができた。先生はすぐに他の班の様子を見に去っていった。
「そういえば、中村さんは?」
「分からない。飯盒を持ってきてくれたあと、どこかに行っちゃって」
「は? 信じらんねー。水も入れずに放置していったのかよ」
「いや、中身を確認せずに火にかけた僕のミスだよ。それより、カレーのほうは大丈夫なの?」
「もう終わったから、こっち手伝うわ」
「ありがとう」
こうして、他の班から10分ほど遅れてようやく炊飯をやり直すことができた。火加減を見張りながら炊き続けること20分。周囲の班はすでに食事を始めていたが、なんとか僕たちも準備を整えることができた。
そこへ、どこからか戻ってきた中村さんが不満げな声を上げた。
「他の班はもう食べてるんだけど。うちらの班、遅くない?」
「ごめん、ご飯炊くの失敗しちゃってさ」
「あっそ。どうでもいいけど、早くしてくんない?」
普通に遅れてるのはお前のせいやろ。
心の中ではそう悪態をつきつつも、面と向かって言い返せるほどの度胸はない。これ以上、班の空気を悪くしたくもなかった。全員が喉まで出かかった言葉を飲み込みながら、重苦しい空気の中で食事が始まった。世界で一番美味しくないカレーを食べて、僕らはそそくさと部屋に戻った。
部屋に戻ると高橋と田中が話しかけてきた。
「いやー、ほんと災難だったね」
「俺カレーの方にいて気づかなかったけど、何があったの?」
「飯盒放置して中村さんがどっか行ってたんよ。なのに北村のこと責めちゃって」
「うわ、なんだよそれ。明日中村に注意するよ俺」
「大丈夫。確認してなかったの僕だし。それにこれ以上、変な空気にしたくないし」
「北村がそう言うなら、何も言わないけどさ」
「ありがとう、そろそろ時間だし風呂行こ」
「それもそうだな」
「おう」
夕飯作りでついた煙の匂いと今までの出来事を全部洗い流したくて、さっさとシャワーを浴びに行くことにした。
そして初日にして肉体的にも精神的にも限界を迎えていた僕は、シャワーから戻るとすぐに寝てしまった。
朝目が覚めて、僕は見覚えのない天井に焦り辺りを見渡す。
まだ寝ているクラスメイトたちと、窓から見える自然に林間学校に来ていたことを思い出した。時計を見ると起床時間3分前。ベストタイミングで起きることができても、何も嬉しくない。むしろこの辛い行事の時間が、3分も増えてしまったことに絶望した。
顔を洗い、歯を磨いていると高橋と田中も起きてきた。
軽く身支度を終えると、朝食の時間になっていた。
朝食会場に到着した。男子と女子で席が分かれており、僕の気は少し紛れた。
「ほんとに最悪なんだけど。あいつのせいで昨日米炊けてなくてさぁ、先生が新しいお米持ってきてくれなかったら食べられないところだったんだよね」
水を入れ忘れたのは自分なのになぜか僕のせいにして、それを触れ回っている。まあ今更浮いている僕がそれを訂正して回る必要もないかと思い、ずっと黙って話を聞いていた。
それを隣で聞いている高橋と田中はどこか怒っていた。田中は今にも飛び出して行きそうな気迫すら感じる。
「なあ、北村。あいつ殴っていいか」
「ダメだよ、これ以上面倒なことにしないで」
ここにきて本音をこぼしてしまった。
「面倒なことって……そんなんじゃ……」
「僕は大丈夫だから」
「北村がそう言うならいいけどさ」
煮え切らない表情の田中。この行事で本格的に話すようになったのに、ここまで怒ってくれるのは少しばかり嬉しかった。
「あのさ、全部北村くんのせいにしたいのか知らないけど、水入れ忘れたのあんたでしょ。黙って聞いてれば、途中であんたいなくなったせいで、北村くん水がないって気づいても火から離れられなくなって炊くの遅くなったんじゃない」
突然隣の島にいた宮野さんが、机を叩いて大きな声で反論した。どうやらかなり腹に据えかねているらしい。
「失敗するのはいいけど、自分のやったこと全部人のせいにするって、あんたマジでどんな神経してるの?」
一触即発の雰囲気に食堂は静まりかえった。先生たちがやってきてなんとかその場は収まったが、僕は本格的に山を下りる検討をし始めた。しかし今日は下りるどころではなく、登らなければならない。これもまた班のメンバーで登らなければならないのだ。非常に面倒な行事である。どうしたものかと考え続けても、結局答えは出ないままだった。
結局死んだ空気のまま山登りとレクリエーションを乗り越えた。
そしてまたやってきた夕飯作り。
今日は五平餅を焼くらしい。中村さんは最初からいなかったため、穏やかな空気のまま夕飯作りが進んで行った。
「どこ行ったんだろう、中村さん」
「あんな奴のこと気にする必要ないよ」
「それな。北村くん、あんなやつの相手なんて時間の無駄だから気にするだけ損だよ」
「それもそうだね」
「それと、今朝はありがとう」
「何が?」
「僕のこと庇ってくれて」
「別に庇ったわけじゃない。普通にあんな女に言われ放題なのは我慢ならなかっただけ。北村くんのためでもないわ」
「それでもありがとう」
頭を下げると宮野さんはどこか照れたように笑って、「さっさと焼くよー」と焼き場の方へ行ってしまった。
あまり褒められたことではないが、共通の敵の出現によって宮野さんと少し仲良くなれた。結局中村さんは夕飯に現れなかった。先生に事情を話し、中村さんの分を残し片付けを終え部屋に戻った。
「俺隣の部屋行ってくるけど、北村と高橋どうする?」
「僕はお風呂行くからいいや」
「俺も、っちょっと疲れてるから今回はパス」
「おけ、風呂行くなら内鍵挟んで部屋しまらんようにしといてー」
「うい」
田中はそそくさと隣の部屋に行き、高橋と二人っきりになった。
「じゃあ、僕風呂行ってくるね」
着替えをもって部屋を出ようとしたとき、いきなり腕を掴まれた。
「ちょっと待って、俺北村に話したいことがある」
「なに?」
改まってどうしたのだろう。なんか僕やっちゃった?心当たりがありすぎて高橋に何を言われるのか見当がつかない。
「実は俺、北村のこと好きなんだよね」
突然の告白に僕は何を言われているのか全く理解ができなかった。というか考えていた言葉と180度異なる言葉を投げかけられ、思考が停止してしまったという方が正しい。
「実は北村が進学クラスにいる時からずっと可愛いなって思ってた。一年の時はクラスが違ったから関われなかったけど、2年になって俺のクラス来てくれて、それでもうこれは神様がくれたチャンスだと思った。でも北村から話しかけるなみたいなオーラをずっと感じてて、今まで話しかけられなかった。でも林間学校で同じ班になって仲良くなれて、それで俺お前のこと好きだって改めて思った。なんか勝手に好きになってストーカーみたいで気持ち悪いよな。ごめん」
「そんなことないよ。僕も似たような経験あるし……だけどごめん。僕高橋のことよく知らないし、ただいいやつだってすごい思ってて。今日のこともずっと感謝してるけど付き合うとかはわかんないかも」
「こちらこそいきなりごめん。でもこれからもっと仲良くなって友達としてでもいいから、一緒にいて欲しいなって思ってる」
「うん、これからもよろしく」
人から告白されたことのない人生で、なんと返事すれば良いか全くわからない。
曖昧な返事に気まずい空気が充満した。
ただ意外と早く田中が戻ってきて「まだ風呂行ってなかったのかよ。まさか俺の事待っててくれた?」と気まずい空気を切り裂くように入ってきてくれたおかげで、2人の気まずい空気は何とか修復できた。
風呂に入り、部屋に戻るはずだった。
なのに部屋に戻りたくないと僕の体が訴える。気晴らしにトイレに行くフリをして外に出た。
散歩をしようとぶらぶらする。どこか目的地があるわけでもなく、この場所に詳しいわけでもない。
結局僕は歩く場所に迷って、セミナーハウスの後ろの山を登ることにした。
もう誰の声も聞こえない。山奥の夜だから動物に遭遇してしまわないかだけが心配だったが、そんな心配は無用だったようで本当に何もいなかった。
誰もいない。やっと1人になれた。この安堵感からなのか、なぜか手が震えた。
なんというか、ここ二日間ずっと張り詰め続けていたのだろう。明日は帰るだけである。今晩だ。今日乗り越えれば帰宅できる。明日のこの時間には家にいると頭では分かっているのに、どうしても1人でいることを求めてしまう。
高橋も田中もいいやつで、僕に気を遣ってくれているのはわかるのに、僕はその気遣いに対して何もできていない。むしろ告白を断って、気遣いを無駄にしている。
中村さんによくわからないことを触れ回られた時、宮野さんにも助けられた。
ほんとに僕は何もできていない。人に頼りっぱなしで迷惑しかかけていない。高橋の告白も断って、傷つけた。
ほんとに高校やめようかな……
そう思わずにはいられなかった。山の中、考え事をしていてどれくらいが経ったのだろう。散歩に出てからは大体30分くらいたったと思う。
土や木を踏み、何かが近づく音がする。あたりが暗く音の方向がイマイチ掴めない。一応持ってきていた小さな懐中電灯で辺りを照らす。
「北村こんなとこで何してるんだよ!?」
聞き覚えのある声のする方を照らすと、そこにはなんと江波戸がいた。
「そっちこそ、えっ、なんでここに?」
「お茶買いにロビー行ったら、こんな時間に山の方に行く北村が見えて心配で来たんだよ。で、北村はなんでこんなとこいんの?」
江波戸は僕がナイーブな気持ちの時、なぜだか、いつも一緒にいてくれる。不思議な存在だ。
「部屋に戻りたくなって、散歩してて気づいたらここまで来た。意外と山好きなのかも」
「山好きなのかもって、ここ動物も出て危ないしとりあえず、下山しよ」
座っている僕の両腕を掴み、引っ張り上げてくれたけれど、僕はどうしても部屋に戻りたくなかった。おなかに力を入れ、引っ張られても持ち上がらないようにした。
「ごめん、ほんとに今は部屋に戻りたくなくて。あと30分ぐらいしたら戻るから。江波戸は先降りてていいよ」
「こんな危ねーところに1人で残しておけるわけねーだろ。俺らのクラスもあと寝るだけだし、俺もここにいるよ」
1人になりたかったはずなのに、江波戸の申し出に僕はうなずいてしまった。1人になりたかったというわけではなく、安心できる空間にいたかったというのが正しいのかもしれない。その安心できる空間の中に、江波戸琳翔という存在がいることに僕は気づかないふりをした。
「林間学校どうだった?」
「どうだったってまだ最中だけどな。一応楽しかったよ。いつもと違う環境でする勉強って意外と新鮮味あるからか、眠くなりにくいなって」
「そうか?」
「意外とだからね。まあでも今回は自習メインだったのもあるとは思うよ。眠くなかったのは」
「なるほどね。他に行事とかやった?」
「サプライズで自由時間とかあるかと思って期待してきたんだけど、普通に裏切られたよね。だからほんとに何もしてない」
「そういうの、あんまり林田先生好きじゃないもんね」
やはり江波戸といると楽しくて、楽な自分で居られることを再認識した。
「どうして部屋戻りたくないの?なんかあった」
直球に聞かれて焦りつつ、僕は素直に答えることにした。
「おんなじ部屋だった人に告白されて…」
「え、告白って」
「僕もいきなりだったからびっくりして、一応友達になろうってことで終わったんだけどさ」
「部屋に戻りたくないってそういうことね」
「ただ一人になりたかったというのもある。久しぶりの集団行動で疲れたというか…というか林間学校中ずっとなんか……僕……」
泣きたいわけじゃないのにいつの間にか涙がこぼれ落ちていた。暗い山の中だからこちらから江波戸の表情はわからない。ただ声で泣いているのを察した様で「大丈夫だよ。ゆっくりで大丈夫だから」と僕の背中を摩ってくれた。
背中越しの手の暖かさに僕は今までにないほどの安心感を覚えた。「俺、今まで友達がいたこともなかったし、こういう行事にちゃんと参加したことなんてなくて…」
僕は林間学校中に起きたことを一から江波戸に話した。飯盒に水が入っていなかったことや、それを僕のせいにする中村さんに対して、これ以上ことを大きくしたくないと思って黙っていたら宮野さんが言い返してくれたこと。その全てを話した。
「宮野さんや高橋に助けられてばっかで、それが申し訳なくて。でも、やっぱり自分で言い返せる勇気もなくて」
「うん」
「それに、あんなに優しくしてくれた高橋の告白も断っちゃって。それも何か申し訳ない気がして。でも、別に高橋のこと好きなわけでもないし、どうするのが正解なんだろう」
「高橋も申し訳ない気持ちで付き合ってほしいとは思ってないと思うから、断るのは正しいと思う。それと、周りが北見に色々してくれるのは、今まで北見が積み上げてきたものの結果だから、そこを申し訳なく思う必要はないよ」
「ありがとう。ただ、僕はこうやって逃げることしかできない自分が嫌になってるんだと思う」
これ以上優しくされるのが怖くて、話そうと思っていなかったことまで口から溢れた。
きっと頼りすぎて申し訳ないというのも本心だけど、その根底にあるのは自分で言いたいことも言えず、他人に言わせて逃げてしまっているということにある気がする。
「俺、今だから言うけど、林田先生のことが好きで……好きっていうのは、あのライクというよりラブ寄りの感情で。それでこの高校に来たんだ。でも、林田先生の結婚をきっかけに何も手につかなくなっちゃって……というか、林田先生と過ごすのも辛くなっちゃって、それで総合コースに逃げたんだ」
「俺こそそうだったんだ。俺てっきり、いや……なんでも。話の続きを」
「別に告白したわけでもないのに勝手に好きになって、勝手に失恋して笑えるよな。それで江波戸になんでやめたのか聞かれても何も言えず逃げて、逆ギレしてさ。僕、その時から少し人との関わり方とか直すように頑張ってたんだけど。結局あの頃から変わらないんだなって……結局俺は人に言いたいこともちゃんと言えずに、黙って逃げるの治ってなかったんだなって、自分に絶望してる」
「俺は今のままでいいと思うけど」
「えっ」
「むしろみんなの前では我慢して、ちゃんともめないようにしているのは、空気を悪くしたくないっていう全体のことを考えた行動なわけだし、そんなに悔しく思う必要ないよ」
「そっか、深く考えすぎてたのかも」
江波戸は僕の方をしっかり見て話してくれた。暗くてよくわからないけど、きっと僕の目をしっかり見つめて言ってくれている。僕が積み上げたものなんてないのに、そうやって僕を肯定してくれる江波戸に、僕は好意と恐怖が同時に降りかかる。
優しい江波戸にこのまま依存していってしまうのかという恐怖。そして、僕はそんないい奴ではない。江波戸がその事実に気づいて見放される時が来るのが、心底怖くなった。
「すごいデリカシーないこと聞くけど、いい?」
「いいよ」
「林田先生のこと、まだ好き?」
江波戸から投げかけられた言葉は、僕にとって想定外も想定外で言葉が見つからない。考えてみるとあれから時間も経っていて、失恋の傷も癒えてきていると言えばそうだ。
「わからない、けど」
「けど?」
「別に気になる人がいるから、もしかしたらだいぶ傷が癒えたのかも……」
「そっか」
思ったよりあっけない返事に拍子抜けした。
「ならさ、新学期から進学コース戻ってこない?」
「は?」「進学コースって、なんの冗談?」
「冗談じゃないよ。俺、北村が勉強嫌になって進学から離れたって思ってたから、言ってなかったけどそうじゃないなら戻ってきなよ」
「なんでそうなる?」
「普通に北村と同じクラスになりたいなって思ったから」
この男は何を言っているんだ。僕と同じクラスになりたいから進学コースへってなんて適当な。
「は? だから、なんでそうなる」
「クラス一緒だったらわざわざ山まで行かなくても、一緒に昼食べれるし」
シンプルな回答にますます意味がわからなくなっていく。
「ま、まぁ、それは百歩譲って分かるとして、二学期からって。コース移動って基本学年跨ぐタイミングだろ」
「それが進学に移る場合は違って、二年の夏補修参加させるために、一学期に移動決めれるらしいよ。まあ、この制度使った人創立から四人しかいないらしいけど……」
なんでそんなマイナーな制度知ってるんだろう。というかそんな制度一回も聞いたことすらない。
「いやもうそれ使われてない制度だろ」
「一応生徒手帳に載ってたし、それに先生に聞いたら出来るって言ってたよ。北村って進学から離れないといけないほど成績下がってたわけではないだろ」
「それはそうだけど……」
「正直言って、北村は進学の方が絶対合ってると思うし」
総合コースの環境が進学コースよりも合わないと感じていたのは事実だ。でもいきなり戻って来いと言われて素直に「うん」と言えるほど簡単な話ではない。一応覚悟を持って総合コースに来たつもりだった。それをまた戻るってどうなんだろう。ただ親は喜んでくれはするんだろうな。適当に進学したいと思っていたのは、僕だけでなく親も同意だったらしい。ただ、その考えを押し付けてくる様なタイプでは無かったので、総合コースに移ることはそこまで反対はされなかった。ただ、なるべく大学に行ってほしいと思っているのは、なんとなく分かっていた。
ここにきて絶対に戻るもんかと思っていた進学コースに揺らいでいる。
「ちなみに、どうやったら戻れるの?」
「一学期の全学年共通で、5位以内に入れば進学に来ないかって声がかかるんだって。北村ならいけるでしょ」
勉強すれば取れない訳ではない順位ではある。そして僕は単純に江波戸が、同じクラスになりたいって言ってくれたことが嬉しかった。なんか小学生みたいな理由だけど。そして、僕にも江波戸ともっと一緒に居たいという気持ちが最近芽生えていた自覚はあった。そして、自分の中に戻るという選択肢が出来たという事実に自分が一番驚いた。そして、きっともうここで僕は失恋を乗り越えられたのかもしれない。
「少しだけ、考えてみる」
「俺は待ってるからって、もうこんな時間」
江波戸の腕時計を見ると、消灯時間ギリギリになっていた。消灯時間には各部屋に担任が点呼へやってくる。なんなら、僕は同室の人にもほぼ何も言わずに出てきているので、最悪探されて大事になる可能性すら存在している事にようやく気づいた。
「やっやばい、点呼に間に合わないかも。同室の人にも何も言ってないし」
「急いで降りよう」
「うん」
急いで山を下り、息が上がる。体はへとへとだけど、江波戸とはなすことができて、ずっとしんどかった2日間が嘘の様に、僕の心は晴れやかになった。「北村、心配したんだぞ!」
「ごめん、ちょっと友達と散歩行ってたらこんな時間になってた」
「俺らマジでビビったぞ、風呂から戻って来てずーっと北村帰ってこないから、神隠しにでもあったのかと思ったよ」
高橋は半分ふざけながらも、しっかり心配してくれていた様で申し訳なくなった。
「神隠しって、心配かけたみたいでごめん」
「とりあえずよかったよ、なあ田中?」
「おう」
田中の返事はどこかそっけな無かった。それはそうだろう。さっき告白した相手が、普通に失踪していたのだからそんな反応になるのも当然だ。
「すかしちゃって、さっきまで田中ずっと心配してたんだから」
「そうだったんだ、心配してくれてありがと」
そんなやりとりをしていると、廊下から足音が聞こえてきた。
「点呼っぽいな」
ガチャリと扉が開き、担任が現れた。
「おーい、消灯時間だぞ。3人そろってるな、早く寝ろよ」
「はーい」
ドアは閉じ、先生が隣の部屋に行った音がした。
「ほんとギリギリだったな」
「そうだったみたい」
「で、北村どこで何しとったん? まさか女にでも会いに行っとったん?」
「そんなわけないだろ、普通に去年クラス一緒だったやつに会ったから話し込んでただけ。普通に男だよ」
ありえない妄想に半笑いで答えた。「だよな」とどこか動揺した様子で返事をした田中とは対照的に、話を振ってきた高橋は「つまんねー」と言いつつもどこか楽しそうだった。
そこから高橋がずっと話しかけてきていた気がするが、ベッドで話を聞いていた僕は、ここまでの疲労で寝落ちてしまった。
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林間学校3日目。
今日は朝食をとり、帰宅をするだけなので、僕の気持ちもだいぶ楽だった。
さっさと朝食を済ませ、バスに乗る。今回は行きとは異なりみんな疲れていたんだろう。
最初から静かなバスの中で僕は、昨日江波戸に言われたことを考え続けていた。
進学コースに戻るべきなのかな。半ば自暴自棄になって総合コースへ移った自覚はあった。進学の幅が狭まることも真剣に考えていたわけではなかった。
最近やっと気持ちに整理がついて、将来のことを少し考えることが増えていた。やりたいことがないのなら大学に行ってやりたいことを探していくべきだと。そんなふうに考える様になった。
進学クラスに戻った方が、もっと人生の幅が増えるのかなぁ。テスてか行けると思うとか昨日勝手に思っていたけど、学年で5位取らないといけないって結構大変だよな。
とりあえず本当に進学コースに行くかどうかは別として、学年5位以内に入ることだけ考えようと決心して僕の林間学校は幕を閉じた。
バスを降り解散となり、僕は一人で駅まで向かおうとした。
「北村―」
声の方向を向くと江波戸がいた。バスの到着が早かったクラスから解散だったので、そこまで人は残っておらず前のように注目を浴びることもなかった。
「え、何?」
「そういえば俺、北村の連絡先知らなかったなって思って。この機会に交換したくて」
確かに校内は携帯電話の使用は禁止で、これまで交換しようとか言う発想すらなかった。
「おけおけ」
とりあえず先ほど返却されたばかりの携帯電話の電源を入れる。
「はいこれ読み込んで」
江波戸に差し出されたコードを読み込み、とりあえず「北村です」とだけ送った。
「どう? 今メッセージ送ったけど、届いた?」
「届いた、アイコン白熊なんだね」
「昔家族旅行で行った水族館で撮ったやつを適当にアイコンにしてみた」
「かわいいじゃん」
「ありがと」
「この後誰かと約束ないなら一緒に帰ろう」
「いいよ」
「起立、礼、着席」
「今日のこの時間は5月25日からの林間学校についてだ」
教室は大いに盛り上がっていた。僕だけが異世界に飛んできたのかというテンションの差に風邪をひきそうになりつつ、成り行きを見守ることにした。僕はどうせ班決めで配属があぶれるのだから、ここで何か大きなアクションを起こすことはない。
「班決めは先生の方でやらせてもらった」
教室がざわついた。先ほどの明るい盛り上がりとは異なり、ブーイングに近いざわつきだった。
「はーい、なんで先生が勝手に班決めしたんすか」
「班決めに時間取られると面倒くさいからな。それにみんなで決めたとして文句が出るのは決まってるだろ」
そう言って担任は黒板にどんどん名前を書いていく。このクラスは25人と少し少なめの人数で、男子15人女子10人という何とも言えない男女比である。そして僕以外は、強豪の部活に所属しているフィジカルエリート集団に、何もできない僕といった構成だ。このクラスで僕が浮いてしまう理由もお分かりいただけるだろう。
書かれる名前を見て一喜一憂しているみんなを見て、僕はどこへ配属になっても同じだと思い、特に何を見るでもなく教室の外を眺めて過ごしていた。
「じゃあ、班で固まってー」
担任の指示に、ようやく僕は黒板に目を移した。
3班か。別にだれか知っている人がいるというわけでもない。班員が集まっているところへ行くと、僕以外の男子2人と女子2人がいた。
「お願いします」
同級生相手に敬語という壁を自ら構築してしまったことに気づいたが、時すでに遅しである。そういえばこのクラスに来て僕はほとんど会話をした記憶がない。僕の学校はかろうじて名札が存在しているので、何とかそれを見ながらコミュニケーションをとる。
何となくリーダー気質っぽい高橋が場を回してくれる。
「まずは班長決めなんだけど、やりたい奴いる?」
そこに流れるのは沈黙であった。クラスの勢力図を何も理解できていないのだが、この場にいる全員がおそらく仲良くないことだけは分かった。おそらく担任はあえて微妙な関係性の人たちを組み合わせることで、ハブられる人を減らそうという魂胆らしい。担任の策に助けられたことに心の中で感謝した。ありがとう、増田先生。
「やりたい奴いないなら俺やるけどいい?」
おそらく自分がやるつもりではあったのだろうが、一応形式上募集してくれたのだろう。なんていい人なんだろう。話しにくいとしか思っていなかった同級生も、こうしてみるととてもいいやつに見えてくる。
「高橋君、やってくれてありがとう」
「先生に伝えてくる」
高橋はそのまま先生のもとへ伝えに行き、しおりを持って帰ってきた。
「これ、みんなに配っといてだって」
「あ、ありがとう」
配られたしおりに目を通す。班対抗のバレー対決という地獄のような行事に僕は目を見開いた。なんてヤバイ行事がここには存在しているんだ。
こうなったら仮病で休むしかない。というかこんなバカげた行事が存在していること自体がありえない。しかも男女混合なんて危険極まりないではないか。もっと言えば僕みたいな運動音痴にはまったく配慮のないこの行事は、ソッコーで廃止されるべきである。
「バレー大会なんてあるんだ」
ナイーブな自分とは対照的に、このクラスの者たちは大いに盛り上がっていた。さすが別名スポーツクラス。こんな行事に対しても全力でぶつかることができるなんて何とも素晴らしいことだ。では、こいつらと戦わなければいけないとても可哀そうな僕とのパワーバランスはどうなっているんだ。きっと高橋は運動ができるのだろうけれど、それでカバーできるほど僕の運動音痴は生易しくない。
「すげー、頑張ろうな」
「もちろん」
「やるからには優勝目指そうぜ」
「だね!」
「う、うん」
ここまで心の中で毒づいても、現実でそんなことを言えるわけがない。キラキラとした目で「頑張ろう」と言われてしまえば、僕は苦笑いしながらうなずくことしかできなかった。「ほんとにありえん」
「どうしたのそんなご立腹で。北村にしては珍しい」
江波戸と過ごすいつも通りの昼休み。ただいつもと違うことが一つだけある。それは、僕から江波戸に話しかけているということくらいだろうか。
「林間学校でバレー大会なんてありえない」
「そんなんあるの!?」
「え、逆にないの?」
僕は人生ではじめて進学コースを離脱したことを後悔した。こんな行事があると先に知っていれば、絶対進学コースに残ったのにと一瞬思ってしまった。林田先生の子供の話を聞いて、進学コースをやめてよかったと心の底から安心していたのは最近のことだったのに。それほどまでに、バレー大会は僕の精神をむしばんでいるんだ。
「う、うらやましい……」
「ないって言っても俺らずっと補習だよ。俺からするとバレー大会のほうがずっといいと思うけどなあ」
「そんな訳ない、ずっと座ってるだけでいい補習のほうがマシに決まってる」
「北村って運動苦手だっけ」
「苦手だよ! というか運動苦手じゃなくても、あんなアスリート予備軍みたいな連中の中に入れられたらどうしようもないだろ」
「それは確かに」
「でも、俺らのクラスよりよっぽどいいだろ。ほとんど勉強合宿みたいなもんだぞ」
江波戸はなぜか林間学校のしおりを持ってきていたようで、僕に見せてくれた。その中身の差に愕然とした。これは同じところに行くのか怪しいレベルの内容だった。
娯楽など一切なく、朝9時から夜10時まで勉強漬けの日程だ。レクリエーションなんて行事も一つもなく、ずっと勉強。これは先生の方が大変なのではないかというレベルである。ただ、集団行動が苦手な僕にとって最高のタイムスケジュールだ。山登りもなければ、レクリエーションなんて地獄の時間も存在しないなんてうらやましくて、自分から辞めたことすら忘れて、いよいよ本気で進学コースに戻りたくなってきた。
「さすがだな。この感じ懐かしい」
「普通に同じ学校なのか時々疑問に思うレベルだよな」
「確かにクラス変わってから、びっくりしたもん。校則まで違うなんて知らなかった」
「それな、北村と会うまで進学コースだけ校則厳しいの知らんかったし」
「そうだよな、名前が同じだけの別学校だと思ってる」
進学コースの時にはあった毎週の身だしなみ検査は、総合コースに来てからは一度もないし、ツーブロックの生徒も存在している。それは進学コースではまずありえないことだった。
「北村とは別の理由だけど、俺も林間学校そんなに楽しみではないんよ」
「それもそうか」
これは僕が総合コースという場所に身を置いたから「進学コースの内容なら全然楽だろ」という感想が出てくるのであって、きっと進学コースに居たままだったら、多分江波戸と全く同じ感想になっていたのだろうと思う。
「山登りとかはまあ時間かかるからないのはわかるけど、カレー作りくらいやらせてよって感じ」
「それはそれで面倒だけどね」
「でもわざわざ泊まりに行って、勉強だけって普通に手間だろ。だったらまだ学校で授業のほうが準備もなくて楽やん」
やはり僕は江波戸と同意見だ。意外と江波戸と気が合うと思うことが多い。一年の時には全く別の人種だと思って近づきもしなかったし、勝手に几帳面な人だと思い込んでいたが、彼のノートはぐちゃぐちゃで、参考書の書き込みは正直読めたものではなかった。テストなど他の人が読むものは読みやすいように書くらしいが、自分しか読まないものは基本的に適当らしい。
僕と同じ思考でノートをとっている人が存在しているとは思っていなくて、それを知った時、僕は少し歓喜した
この日の昼休みは僕が永遠に林間学校の愚痴を言って、幕を閉じた。5限中、どうにか林間学校に行かなくてよくならないかなということ以外、何も考えられなくなっていた。
風邪をひくにはどうすればいいんだろうか。例えば雨の中わざと傘を差さずに帰るとか。これはないか。5月に都合よく雨が降るなんてこともないだろうし。
じゃあ階段から落ちて足でも骨折すれば、山へ行く林間学校に無理に参加させられることはないのでは。万が一参加させられても一番の懸念点であるバレーボールはやらなくて済むわけだし。
この作戦に問題があるとすれば、僕に絶望的なまでに勇気がないということくらいだろう。
まともな対策が浮かぶこともなく、時間だけが過ぎ去っていく。
一瞬で終了した5限の後は、林間学校の説明会だ。2年生全員が説明を受けるこの会は全校集会と同じ語りで行われる。
この学校の集会は、基本的に放送室からのテレビ中継だ。そのためこの会も教室移動をする必要がないのは助かる。
ただ、担任の「班ごとに固まって話を聞けよ」という言葉によって、ぼーっとしていればいいやと思っていた僕の浅はかな考えは打ち砕かれた。
しぶしぶ机ごと移動し、班のもとへ向かう。
「よろしく」
一言呟いて、すでにできあがっていた机の塊のお誕生日席へ、不本意ながら机をくっつけようとした。そこで僕は、あることに気づいた。どうやら班の女子二人はあまり折り合いが良くないらしいということに。なぜか対角線上に席を取っていた。友達がいたことのない僕にさえ伝わってくるほど、仲が良くない。どうしてこうなった。前の班発表のときには、そんな素振りはなかったのに。林間学校への憂鬱な気持ちがさらに膨らんでいく。
女子の険悪な空気を感じ取った他の男子メンバーたちの間にも、気まずい雰囲気が流れた。この場をどうやり過ごすべきか、きっと全員が考えているのだろう。誰かが口を開くより先に、テレビから音声が流れ始めた。
雑談をしていた他の班も静かになり、クラス全体が話を聞く空気になった。集会が始まったことに救われ、僕も教室のテレビに目を向ける。
ただ、視界にはどうしても険悪な雰囲気の女子二人が入ってくる。何をどうしたらこの短期間でそこまで険悪になれるのか、いっそ聞いてみたい。林間学校までに修復できそうにも思えないので、「班長の高橋がどうにかしてくれ」と心の中で丸投げした。
セミナーハウスの使い方や禁止事項の説明で一時間まるまる使われた。どう考えても班の形になって聞く必要のない話で、授業時間は終わった。
元の席に戻り、帰りの準備を始める。
なんとかうまく足だけ折れるように、階段から落ちる方法を本格的に考えなければと思い始めた。階段は厳しいか。山から滑り落ちるくらいがちょうどいいのでは、などという思考が頭をよぎる。
いつもならまっすぐ家に帰るのに、帰りの会が終わってすぐ、僕はオアシスに向かった。
ただ、山道を登れば登るほど、足だけを都合よく折る難しさを痛感した。
まあ僕も本気で自分の足を折ろうとしていたわけではなく、少し現実逃避をしたかったというのが本音だ。
イヤホンを大音量で鳴らしながら、廃墟の前にある芝生に寝っ転がった。
目を閉じて、生温かい風に吹かれる。このまま雲になって空を漂えたらいいのに。雲なら何の悩みもなさそうだ。というか、あのとき林田先生に会っていなければ、こんなにしんどい思いをしなくても済んだのだろうか。
考えてもどうしようもないことを堂々巡りさせていると、不意に体を揺さぶられた。
驚いて目を開くと、そこには江波戸がいた。急いでイヤホンを外す。
「…い…おい、何やってるんだよ、こんなところで」
「江波戸こそ、なんで」
「今日補習休みだから帰ろうとしたら、逆方向に向かう北村が見えたから。どうしたんだろって思って」
ますますわけが分からない。ついてくる理由は理解できないが、友達とはそういうものなのかもしれないと納得することにした。
「で、北村は何やってたの」
「現実逃避」
「だとしても、こんなところで寝転がるのは汚いだろ。動物も多いし、変な菌でも移ったらどうするんだよ」
変な菌にかかれば林間学校に行かなくて済むかもしれない、という思考が一瞬よぎる。もっとも、今かかったところで本番まではまだ2週間あるから、早すぎるのだけれど。
「それもいいかもな」
「いいわけないだろ」
江波戸は僕の両腕を掴み、無理やり引っ張り起こした。
「今日天気不安定だし、早く帰ろうぜ」
「おん」結局僕は足を折ることも風邪を引くことも叶わず、当日を迎えてしまった。
僕は人生で初めて起きてから5回熱を測った。しかし全て36.3度を示していた。人間の平熱が、34度に今日からならないかなという考えが頭を占める。
そんな天変地異が起こるはずもなく、僕は憂鬱な気持ちのまま学校に向かった。
集合場所に到着すると、すでに多くの生徒が集まっていた。何とか人の波を掻き分け、僕は自分のクラスを見つけ、班の元へ向かった。これから2泊3日このメンバーで過ごすと思うと、僕の下降気味な気持ちがよりどん底に落ちていく。
そしてここ2週間ずっと観察してきたが、結局女子たちの仲は悪いままだ。むしろ日に日に悪化していた。
この3日間をどう乗り越えるべきか、考えはまとまらない。
考えても仕方ない。そんな思考に至った僕はおとなしくしおりに目を落とした。ここからセミナーハウスまでは、バスでおよそ3時間半。かなり時間がかかるようだ。
バスの隣の席の人はクラスメイトだが、そこまで積極的に話す必要もないだろう。僕はバス酔いする覚悟で文庫本を3冊持参した。これで結界を張れば、きっと話しかけてはこないはずだ。
「みんな揃ったな、これから……」
担任が話し始めた。地獄の始まりを宣言され、担任の話など聞く気にもならない。僕はなんとなく進学コースのほうに目をやった。林田先生が江波戸に話しかけていた。
それを見て気分が暗くなった僕は目をそらし、結局自分の担任の方を向いた。
「以上で注意事項は終わりだ。これからくる5号車でセミナーハウスに向かうぞ」
バスが何台もやってきて、僕らの前に止まる。1号車から順番に進学コースの生徒が乗っていく。
やっと5号車がやってきて荷物を預け、バスに乗り込む。
僕は出発する前から文庫本を開き、話しかけるなオーラを全開にする。案の定、隣のやつは僕のATフィールドに恐れ慄いたのか話しかけてこない。完璧完璧。
「今からスマホの回収するぞー」
担任の間延びした声に、全員からブーイングが巻き起こった。
「これは課外活動で、立派な学校行事だ。だから林間学校中も校則は守ってもらう。3日目に、学校へ到着した後、スマホは返却される。わかったな」
案の定スマホを回収されてしまい、娯楽を失ったクラスメイトたちは、その鬱憤でも晴らすかのように皆バスで騒ぐ。だがその中でも僕は静かに本を読み続けた。
バスが出発して1時間ほどで全体が静かになり、僕は本の内容に集中する。今まで江波戸のせいで読めていなかった本を1冊読み切ることができ、少し達成感を覚えたところで、バスはセミナーハウスへ到着した。
荷物を置くため、割り当てられた部屋へ向かう。道中、クラスメイトたちは檻から解放された猿のように騒いでいた。どうやら林間学校が楽しみで仕方ないようだ。どの女子に告白するかで盛り上がっている男子を横目に、僕は急な坂道で息を上げていた。なんとか息を整え、建物に到着する。
「これが館内地図だ。迷子になるなよ」
玄関で地図をもらい、やっとこさ部屋に到着した。班の男子2人との3人部屋だった。
「女子たちどうする?」
「まぁ俺らがどうにかできるもんでもないだろ」
「そりゃそうだけど、このままだと全部の行事めちゃくちゃになるぞ」
2人で会話を進めているのを、僕は微妙な顔をしながらうなずいて聞くだけだ。正直行事がどうなろうと知ったことではないし、心底どうでもいい。早く終われと心の中で唱えるのみだ。
「まぁあの2人、口聞かないだけだし、派手に喧嘩って事にはならないと思うけど」
「そうだよな」
「って、もう時間じゃん。早く総合ホールに行かないと。おい、北村もぼーっとしてないで行くぞ」
「ご、ごめん」
本当にこの先が思いやられる。総合ホールに到着すると、ホワイトボードにバレーボール大会のトーナメント表が貼られていた。初日からバレー大会を行うなんて体力バカがすぎるだろう。ここまで3時間半もバスに揺られて、みんな疲れているはずなのに。まあ、そんな愚痴をこぼしたところで何かが変わるわけでもないので、おとなしくトーナメント表に目をやった。
どうやら1回戦で負ければ、もう試合はないらしい。班を組んだ当初は優勝という目標を掲げていた気もするが、今の何とも言えない空気の中では、そんな目標を口にする者はいなかった。
ただ、スポーツが得意なやつらが多いこのクラスでは、絶対に勝つという気迫が満ちている。他のコースの連中には絶対に負けられないという強い意志が感じられた。俗に「スポーツクラス」と陰で呼ばれている連中のプライドなのだろう。僕たちの初戦の相手は商業クラス。どういうメンバー構成なのかは知らないが、これでもし負けたら、かなり気まずい空気になるのではないかという予感が頭をよぎった。
クラスメイトたちの発する熱気に当てられて熱中症にでもなりそうだったので、僕は輪からそっと抜け出した。その後、昼食を済ませて再び総合ホールへ戻ると、いよいよバレー大会が始まった。
もっとも、大会自体は簡易的なもので、1試合につき5ポイント先取したほうが勝ち上がるルールだった。手短なルールでなければ、これだけのクラス数はさばけないのだろう。本当にミニゲームのような形式だ。しかも使うボールは本格的なバレーボールではなく、どうやらビーチバレー用の柔らかいボールらしかった。
だが、そんなことは僕には関係ない。そもそも球技全般との相性が最悪なのだ。なんとかボールが回ってこないポジションを死守しなければと思いつつ、コートに足を踏み入れる。高橋と中田が後衛に回り、前方のフォローに入ってくれるようだ。僕は前衛でひたすら地蔵のように動かないことを心に決めた。
「はじめ!」
試合開始の合図が響く。初球のサーブは相手チームからだった。僕が運動音痴なのを察したのか、一直線にこちらへ飛んでくる。
どうしよう、返せない。
頭から体に指令を送り、咄嗟に腕を伸ばしたが、距離感が合わず触れすらしない。ボールはそのまま床に落ち、あっさり相手の得点になった。見守るクラスメイトたちの視線が、目に見えて険しくなっていく。僕はただ下を向くことしかできなかった。
「惜しかったな! 次、切り替えていこう」
高橋たちは予想外に優しく、わざわざ駆け寄って声をかけてくれた。これがスポーツマンシップというやつかと、思わず感心してしまう。
しかし、その後のプレーでも僕のミスが重なり、結局チームは2対5という何とも言えないスコアで敗退した。
気まずい。突き刺さるようなクラスメイトたちの視線が痛い。高橋は本当に運動神経が良いらしく、「あんな足手まといと組まされたせいで負けた」と周囲から同情されていた。
「こんなやつと組まされて災難だったな、高橋」
クラスの誰かが、吐き捨てるように言った。
最初からこうなることは分かっていたので、心の準備はできていた。ひとまずチームメイトに謝らなくてはならない。
「ごめん、僕があまりスポーツ得意じゃないせいで、みんなに迷惑を……」
「大丈夫だって。普通に相手が強かっただけだし。やっぱ本物のバレー部がいるとスゲーな。俺らもフォローしきれなかったし、次、別のチームの応援に行こうぜ」
高橋はさらりとフォローしてくれた。なんだかんだで根が良いやつなのだと、僕はスポーツマンへの見方を少し改めた。
「え、相手にバレー部がいたの?」
「うん。だから誰と組んでても、勝つのは難しかったと思うよ」何も楽しむことができないまま、バレー大会の全日程が終了した。
見事、同じクラスのB班が優勝した。それ以外の班も初戦敗退などしておらず、皆準決勝や準々決勝まで勝ち残っていた。初戦敗退したのは僕たちのチームだけだ。高橋はみんなからの人望が厚く、田中君も同じように好感度が高い。一方で女子ふたりの仲が悪いのは周囲にもなんとなく伝わっており、僕がぼっちなのも明白だった。つまり今回のバレー大会で一番足を引っ張ったのは、班の女子と僕という結論になる。あの時からずっと、クラスからの痛い視線を感じ続けていた。
そして夕飯の準備が始まった。今夜は飯盒でご飯を炊き、カレーを作るらしい。火起こしが必要な飯盒炊爨は男子、カレー作りは女子と学校側で役割が決められていた。
「私、ご飯炊くほうに行くよ。ほら、マネージャーやってるから水加減とか分かるし」
女子のひとりである中村さんが飯盒班に加わると言い出した。
「じゃあ俺らはカレー行こうか」
そう言って、田中と高橋が気を遣ってカレー作りのほうへ回ってくれた。
気まずい空気の中、無言でご飯を炊く作業を始めた。
中村さんはマネージャー経験があってご飯を炊くのが得意だと言っていたが、おそらく嘘だ。正直、米の研ぎ方からして怪しかった。ただ、僕も人生で数回しか米を炊いたことがないため、他人に指図できる立場ではない。
僕はとりあえず火起こしに専念し、うちわで火種を扇ぎ続けた。そうしているうちに、なんとか分量を量り終えた飯盒を中村さんが持ってきた。
「はい、これでよろしく」
そう言い残すと、中村さんはどこかへ消えてしまった。
やはり宮野さんと一緒にいたくなかっただけで、こちらを手伝うつもりは毛頭なかったらしい。僕は不安を覚えながらも、マニュアルの手順に従ってご飯を炊いていった。
しかし、しばらく経ってもマニュアルにあるような水蒸気が出てこない。同じくらいのタイミングで火にかけた隣の班からは、すでにモクモクと蒸気が上がり、炊きたての香ばしい匂いが漂っている。それに対し、僕たちの飯盒からはどこか焦げ臭い匂いしかしなかった。
不審に思った僕は、恐る恐る飯盒のフタを開けてみた。
現れたのは、真っ黒に焦げついた生米だった。み、水が入ってない!
信じられず、自分の目を疑った。完全に駄目になってしまったお米を見て、頭が真っ白になった。火元から離れるわけにもいかず慌てふためいていると、ちょうど高橋が様子を見に戻ってきた。
「どうした?…って、これ何があったの」
「僕、中身を確認せずに飯盒を火にかけちゃって……お米を真っ黒にしちゃった。ど、どうしよう」
「慌てすぎだって。俺、先生にお米もらってくるわ。火は消さないでそのままにしといて」
そう言われ、僕は火が消えてしまわないよう必死で見守った。すぐに高橋は新しい飯盒と先生を連れて戻ってきた。
「おい北村ー、飯の炊き方も知らないのか。そんなんじゃ今の時代やっていけないぞ。先生が予備を用意しててよかったな!」
僕は先生に平謝りした。軽くからかわれはしたものの、無事にお米を分けてもらうことができた。先生はすぐに他の班の様子を見に去っていった。
「そういえば、中村さんは?」
「分からない。飯盒を持ってきてくれたあと、どこかに行っちゃって」
「は? 信じらんねー。水も入れずに放置していったのかよ」
「いや、中身を確認せずに火にかけた僕のミスだよ。それより、カレーのほうは大丈夫なの?」
「もう終わったから、こっち手伝うわ」
「ありがとう」
こうして、他の班から10分ほど遅れてようやく炊飯をやり直すことができた。火加減を見張りながら炊き続けること20分。周囲の班はすでに食事を始めていたが、なんとか僕たちも準備を整えることができた。
そこへ、どこからか戻ってきた中村さんが不満げな声を上げた。
「他の班はもう食べてるんだけど。うちらの班、遅くない?」
「ごめん、ご飯炊くの失敗しちゃってさ」
「あっそ。どうでもいいけど、早くしてくんない?」
普通に遅れてるのはお前のせいやろ。
心の中ではそう悪態をつきつつも、面と向かって言い返せるほどの度胸はない。これ以上、班の空気を悪くしたくもなかった。全員が喉まで出かかった言葉を飲み込みながら、重苦しい空気の中で食事が始まった。世界で一番美味しくないカレーを食べて、僕らはそそくさと部屋に戻った。
部屋に戻ると高橋と田中が話しかけてきた。
「いやー、ほんと災難だったね」
「俺カレーの方にいて気づかなかったけど、何があったの?」
「飯盒放置して中村さんがどっか行ってたんよ。なのに北村のこと責めちゃって」
「うわ、なんだよそれ。明日中村に注意するよ俺」
「大丈夫。確認してなかったの僕だし。それにこれ以上、変な空気にしたくないし」
「北村がそう言うなら、何も言わないけどさ」
「ありがとう、そろそろ時間だし風呂行こ」
「それもそうだな」
「おう」
夕飯作りでついた煙の匂いと今までの出来事を全部洗い流したくて、さっさとシャワーを浴びに行くことにした。
そして初日にして肉体的にも精神的にも限界を迎えていた僕は、シャワーから戻るとすぐに寝てしまった。
朝目が覚めて、僕は見覚えのない天井に焦り辺りを見渡す。
まだ寝ているクラスメイトたちと、窓から見える自然に林間学校に来ていたことを思い出した。時計を見ると起床時間3分前。ベストタイミングで起きることができても、何も嬉しくない。むしろこの辛い行事の時間が、3分も増えてしまったことに絶望した。
顔を洗い、歯を磨いていると高橋と田中も起きてきた。
軽く身支度を終えると、朝食の時間になっていた。
朝食会場に到着した。男子と女子で席が分かれており、僕の気は少し紛れた。
「ほんとに最悪なんだけど。あいつのせいで昨日米炊けてなくてさぁ、先生が新しいお米持ってきてくれなかったら食べられないところだったんだよね」
水を入れ忘れたのは自分なのになぜか僕のせいにして、それを触れ回っている。まあ今更浮いている僕がそれを訂正して回る必要もないかと思い、ずっと黙って話を聞いていた。
それを隣で聞いている高橋と田中はどこか怒っていた。田中は今にも飛び出して行きそうな気迫すら感じる。
「なあ、北村。あいつ殴っていいか」
「ダメだよ、これ以上面倒なことにしないで」
ここにきて本音をこぼしてしまった。
「面倒なことって……そんなんじゃ……」
「僕は大丈夫だから」
「北村がそう言うならいいけどさ」
煮え切らない表情の田中。この行事で本格的に話すようになったのに、ここまで怒ってくれるのは少しばかり嬉しかった。
「あのさ、全部北村くんのせいにしたいのか知らないけど、水入れ忘れたのあんたでしょ。黙って聞いてれば、途中であんたいなくなったせいで、北村くん水がないって気づいても火から離れられなくなって炊くの遅くなったんじゃない」
突然隣の島にいた宮野さんが、机を叩いて大きな声で反論した。どうやらかなり腹に据えかねているらしい。
「失敗するのはいいけど、自分のやったこと全部人のせいにするって、あんたマジでどんな神経してるの?」
一触即発の雰囲気に食堂は静まりかえった。先生たちがやってきてなんとかその場は収まったが、僕は本格的に山を下りる検討をし始めた。しかし今日は下りるどころではなく、登らなければならない。これもまた班のメンバーで登らなければならないのだ。非常に面倒な行事である。どうしたものかと考え続けても、結局答えは出ないままだった。
結局死んだ空気のまま山登りとレクリエーションを乗り越えた。
そしてまたやってきた夕飯作り。
今日は五平餅を焼くらしい。中村さんは最初からいなかったため、穏やかな空気のまま夕飯作りが進んで行った。
「どこ行ったんだろう、中村さん」
「あんな奴のこと気にする必要ないよ」
「それな。北村くん、あんなやつの相手なんて時間の無駄だから気にするだけ損だよ」
「それもそうだね」
「それと、今朝はありがとう」
「何が?」
「僕のこと庇ってくれて」
「別に庇ったわけじゃない。普通にあんな女に言われ放題なのは我慢ならなかっただけ。北村くんのためでもないわ」
「それでもありがとう」
頭を下げると宮野さんはどこか照れたように笑って、「さっさと焼くよー」と焼き場の方へ行ってしまった。
あまり褒められたことではないが、共通の敵の出現によって宮野さんと少し仲良くなれた。結局中村さんは夕飯に現れなかった。先生に事情を話し、中村さんの分を残し片付けを終え部屋に戻った。
「俺隣の部屋行ってくるけど、北村と高橋どうする?」
「僕はお風呂行くからいいや」
「俺も、っちょっと疲れてるから今回はパス」
「おけ、風呂行くなら内鍵挟んで部屋しまらんようにしといてー」
「うい」
田中はそそくさと隣の部屋に行き、高橋と二人っきりになった。
「じゃあ、僕風呂行ってくるね」
着替えをもって部屋を出ようとしたとき、いきなり腕を掴まれた。
「ちょっと待って、俺北村に話したいことがある」
「なに?」
改まってどうしたのだろう。なんか僕やっちゃった?心当たりがありすぎて高橋に何を言われるのか見当がつかない。
「実は俺、北村のこと好きなんだよね」
突然の告白に僕は何を言われているのか全く理解ができなかった。というか考えていた言葉と180度異なる言葉を投げかけられ、思考が停止してしまったという方が正しい。
「実は北村が進学クラスにいる時からずっと可愛いなって思ってた。一年の時はクラスが違ったから関われなかったけど、2年になって俺のクラス来てくれて、それでもうこれは神様がくれたチャンスだと思った。でも北村から話しかけるなみたいなオーラをずっと感じてて、今まで話しかけられなかった。でも林間学校で同じ班になって仲良くなれて、それで俺お前のこと好きだって改めて思った。なんか勝手に好きになってストーカーみたいで気持ち悪いよな。ごめん」
「そんなことないよ。僕も似たような経験あるし……だけどごめん。僕高橋のことよく知らないし、ただいいやつだってすごい思ってて。今日のこともずっと感謝してるけど付き合うとかはわかんないかも」
「こちらこそいきなりごめん。でもこれからもっと仲良くなって友達としてでもいいから、一緒にいて欲しいなって思ってる」
「うん、これからもよろしく」
人から告白されたことのない人生で、なんと返事すれば良いか全くわからない。
曖昧な返事に気まずい空気が充満した。
ただ意外と早く田中が戻ってきて「まだ風呂行ってなかったのかよ。まさか俺の事待っててくれた?」と気まずい空気を切り裂くように入ってきてくれたおかげで、2人の気まずい空気は何とか修復できた。
風呂に入り、部屋に戻るはずだった。
なのに部屋に戻りたくないと僕の体が訴える。気晴らしにトイレに行くフリをして外に出た。
散歩をしようとぶらぶらする。どこか目的地があるわけでもなく、この場所に詳しいわけでもない。
結局僕は歩く場所に迷って、セミナーハウスの後ろの山を登ることにした。
もう誰の声も聞こえない。山奥の夜だから動物に遭遇してしまわないかだけが心配だったが、そんな心配は無用だったようで本当に何もいなかった。
誰もいない。やっと1人になれた。この安堵感からなのか、なぜか手が震えた。
なんというか、ここ二日間ずっと張り詰め続けていたのだろう。明日は帰るだけである。今晩だ。今日乗り越えれば帰宅できる。明日のこの時間には家にいると頭では分かっているのに、どうしても1人でいることを求めてしまう。
高橋も田中もいいやつで、僕に気を遣ってくれているのはわかるのに、僕はその気遣いに対して何もできていない。むしろ告白を断って、気遣いを無駄にしている。
中村さんによくわからないことを触れ回られた時、宮野さんにも助けられた。
ほんとに僕は何もできていない。人に頼りっぱなしで迷惑しかかけていない。高橋の告白も断って、傷つけた。
ほんとに高校やめようかな……
そう思わずにはいられなかった。山の中、考え事をしていてどれくらいが経ったのだろう。散歩に出てからは大体30分くらいたったと思う。
土や木を踏み、何かが近づく音がする。あたりが暗く音の方向がイマイチ掴めない。一応持ってきていた小さな懐中電灯で辺りを照らす。
「北村こんなとこで何してるんだよ!?」
聞き覚えのある声のする方を照らすと、そこにはなんと江波戸がいた。
「そっちこそ、えっ、なんでここに?」
「お茶買いにロビー行ったら、こんな時間に山の方に行く北村が見えて心配で来たんだよ。で、北村はなんでこんなとこいんの?」
江波戸は僕がナイーブな気持ちの時、なぜだか、いつも一緒にいてくれる。不思議な存在だ。
「部屋に戻りたくなって、散歩してて気づいたらここまで来た。意外と山好きなのかも」
「山好きなのかもって、ここ動物も出て危ないしとりあえず、下山しよ」
座っている僕の両腕を掴み、引っ張り上げてくれたけれど、僕はどうしても部屋に戻りたくなかった。おなかに力を入れ、引っ張られても持ち上がらないようにした。
「ごめん、ほんとに今は部屋に戻りたくなくて。あと30分ぐらいしたら戻るから。江波戸は先降りてていいよ」
「こんな危ねーところに1人で残しておけるわけねーだろ。俺らのクラスもあと寝るだけだし、俺もここにいるよ」
1人になりたかったはずなのに、江波戸の申し出に僕はうなずいてしまった。1人になりたかったというわけではなく、安心できる空間にいたかったというのが正しいのかもしれない。その安心できる空間の中に、江波戸琳翔という存在がいることに僕は気づかないふりをした。
「林間学校どうだった?」
「どうだったってまだ最中だけどな。一応楽しかったよ。いつもと違う環境でする勉強って意外と新鮮味あるからか、眠くなりにくいなって」
「そうか?」
「意外とだからね。まあでも今回は自習メインだったのもあるとは思うよ。眠くなかったのは」
「なるほどね。他に行事とかやった?」
「サプライズで自由時間とかあるかと思って期待してきたんだけど、普通に裏切られたよね。だからほんとに何もしてない」
「そういうの、あんまり林田先生好きじゃないもんね」
やはり江波戸といると楽しくて、楽な自分で居られることを再認識した。
「どうして部屋戻りたくないの?なんかあった」
直球に聞かれて焦りつつ、僕は素直に答えることにした。
「おんなじ部屋だった人に告白されて…」
「え、告白って」
「僕もいきなりだったからびっくりして、一応友達になろうってことで終わったんだけどさ」
「部屋に戻りたくないってそういうことね」
「ただ一人になりたかったというのもある。久しぶりの集団行動で疲れたというか…というか林間学校中ずっとなんか……僕……」
泣きたいわけじゃないのにいつの間にか涙がこぼれ落ちていた。暗い山の中だからこちらから江波戸の表情はわからない。ただ声で泣いているのを察した様で「大丈夫だよ。ゆっくりで大丈夫だから」と僕の背中を摩ってくれた。
背中越しの手の暖かさに僕は今までにないほどの安心感を覚えた。「俺、今まで友達がいたこともなかったし、こういう行事にちゃんと参加したことなんてなくて…」
僕は林間学校中に起きたことを一から江波戸に話した。飯盒に水が入っていなかったことや、それを僕のせいにする中村さんに対して、これ以上ことを大きくしたくないと思って黙っていたら宮野さんが言い返してくれたこと。その全てを話した。
「宮野さんや高橋に助けられてばっかで、それが申し訳なくて。でも、やっぱり自分で言い返せる勇気もなくて」
「うん」
「それに、あんなに優しくしてくれた高橋の告白も断っちゃって。それも何か申し訳ない気がして。でも、別に高橋のこと好きなわけでもないし、どうするのが正解なんだろう」
「高橋も申し訳ない気持ちで付き合ってほしいとは思ってないと思うから、断るのは正しいと思う。それと、周りが北見に色々してくれるのは、今まで北見が積み上げてきたものの結果だから、そこを申し訳なく思う必要はないよ」
「ありがとう。ただ、僕はこうやって逃げることしかできない自分が嫌になってるんだと思う」
これ以上優しくされるのが怖くて、話そうと思っていなかったことまで口から溢れた。
きっと頼りすぎて申し訳ないというのも本心だけど、その根底にあるのは自分で言いたいことも言えず、他人に言わせて逃げてしまっているということにある気がする。
「俺、今だから言うけど、林田先生のことが好きで……好きっていうのは、あのライクというよりラブ寄りの感情で。それでこの高校に来たんだ。でも、林田先生の結婚をきっかけに何も手につかなくなっちゃって……というか、林田先生と過ごすのも辛くなっちゃって、それで総合コースに逃げたんだ」
「俺こそそうだったんだ。俺てっきり、いや……なんでも。話の続きを」
「別に告白したわけでもないのに勝手に好きになって、勝手に失恋して笑えるよな。それで江波戸になんでやめたのか聞かれても何も言えず逃げて、逆ギレしてさ。僕、その時から少し人との関わり方とか直すように頑張ってたんだけど。結局あの頃から変わらないんだなって……結局俺は人に言いたいこともちゃんと言えずに、黙って逃げるの治ってなかったんだなって、自分に絶望してる」
「俺は今のままでいいと思うけど」
「えっ」
「むしろみんなの前では我慢して、ちゃんともめないようにしているのは、空気を悪くしたくないっていう全体のことを考えた行動なわけだし、そんなに悔しく思う必要ないよ」
「そっか、深く考えすぎてたのかも」
江波戸は僕の方をしっかり見て話してくれた。暗くてよくわからないけど、きっと僕の目をしっかり見つめて言ってくれている。僕が積み上げたものなんてないのに、そうやって僕を肯定してくれる江波戸に、僕は好意と恐怖が同時に降りかかる。
優しい江波戸にこのまま依存していってしまうのかという恐怖。そして、僕はそんないい奴ではない。江波戸がその事実に気づいて見放される時が来るのが、心底怖くなった。
「すごいデリカシーないこと聞くけど、いい?」
「いいよ」
「林田先生のこと、まだ好き?」
江波戸から投げかけられた言葉は、僕にとって想定外も想定外で言葉が見つからない。考えてみるとあれから時間も経っていて、失恋の傷も癒えてきていると言えばそうだ。
「わからない、けど」
「けど?」
「別に気になる人がいるから、もしかしたらだいぶ傷が癒えたのかも……」
「そっか」
思ったよりあっけない返事に拍子抜けした。
「ならさ、新学期から進学コース戻ってこない?」
「は?」「進学コースって、なんの冗談?」
「冗談じゃないよ。俺、北村が勉強嫌になって進学から離れたって思ってたから、言ってなかったけどそうじゃないなら戻ってきなよ」
「なんでそうなる?」
「普通に北村と同じクラスになりたいなって思ったから」
この男は何を言っているんだ。僕と同じクラスになりたいから進学コースへってなんて適当な。
「は? だから、なんでそうなる」
「クラス一緒だったらわざわざ山まで行かなくても、一緒に昼食べれるし」
シンプルな回答にますます意味がわからなくなっていく。
「ま、まぁ、それは百歩譲って分かるとして、二学期からって。コース移動って基本学年跨ぐタイミングだろ」
「それが進学に移る場合は違って、二年の夏補修参加させるために、一学期に移動決めれるらしいよ。まあ、この制度使った人創立から四人しかいないらしいけど……」
なんでそんなマイナーな制度知ってるんだろう。というかそんな制度一回も聞いたことすらない。
「いやもうそれ使われてない制度だろ」
「一応生徒手帳に載ってたし、それに先生に聞いたら出来るって言ってたよ。北村って進学から離れないといけないほど成績下がってたわけではないだろ」
「それはそうだけど……」
「正直言って、北村は進学の方が絶対合ってると思うし」
総合コースの環境が進学コースよりも合わないと感じていたのは事実だ。でもいきなり戻って来いと言われて素直に「うん」と言えるほど簡単な話ではない。一応覚悟を持って総合コースに来たつもりだった。それをまた戻るってどうなんだろう。ただ親は喜んでくれはするんだろうな。適当に進学したいと思っていたのは、僕だけでなく親も同意だったらしい。ただ、その考えを押し付けてくる様なタイプでは無かったので、総合コースに移ることはそこまで反対はされなかった。ただ、なるべく大学に行ってほしいと思っているのは、なんとなく分かっていた。
ここにきて絶対に戻るもんかと思っていた進学コースに揺らいでいる。
「ちなみに、どうやったら戻れるの?」
「一学期の全学年共通で、5位以内に入れば進学に来ないかって声がかかるんだって。北村ならいけるでしょ」
勉強すれば取れない訳ではない順位ではある。そして僕は単純に江波戸が、同じクラスになりたいって言ってくれたことが嬉しかった。なんか小学生みたいな理由だけど。そして、僕にも江波戸ともっと一緒に居たいという気持ちが最近芽生えていた自覚はあった。そして、自分の中に戻るという選択肢が出来たという事実に自分が一番驚いた。そして、きっともうここで僕は失恋を乗り越えられたのかもしれない。
「少しだけ、考えてみる」
「俺は待ってるからって、もうこんな時間」
江波戸の腕時計を見ると、消灯時間ギリギリになっていた。消灯時間には各部屋に担任が点呼へやってくる。なんなら、僕は同室の人にもほぼ何も言わずに出てきているので、最悪探されて大事になる可能性すら存在している事にようやく気づいた。
「やっやばい、点呼に間に合わないかも。同室の人にも何も言ってないし」
「急いで降りよう」
「うん」
急いで山を下り、息が上がる。体はへとへとだけど、江波戸とはなすことができて、ずっとしんどかった2日間が嘘の様に、僕の心は晴れやかになった。「北村、心配したんだぞ!」
「ごめん、ちょっと友達と散歩行ってたらこんな時間になってた」
「俺らマジでビビったぞ、風呂から戻って来てずーっと北村帰ってこないから、神隠しにでもあったのかと思ったよ」
高橋は半分ふざけながらも、しっかり心配してくれていた様で申し訳なくなった。
「神隠しって、心配かけたみたいでごめん」
「とりあえずよかったよ、なあ田中?」
「おう」
田中の返事はどこかそっけな無かった。それはそうだろう。さっき告白した相手が、普通に失踪していたのだからそんな反応になるのも当然だ。
「すかしちゃって、さっきまで田中ずっと心配してたんだから」
「そうだったんだ、心配してくれてありがと」
そんなやりとりをしていると、廊下から足音が聞こえてきた。
「点呼っぽいな」
ガチャリと扉が開き、担任が現れた。
「おーい、消灯時間だぞ。3人そろってるな、早く寝ろよ」
「はーい」
ドアは閉じ、先生が隣の部屋に行った音がした。
「ほんとギリギリだったな」
「そうだったみたい」
「で、北村どこで何しとったん? まさか女にでも会いに行っとったん?」
「そんなわけないだろ、普通に去年クラス一緒だったやつに会ったから話し込んでただけ。普通に男だよ」
ありえない妄想に半笑いで答えた。「だよな」とどこか動揺した様子で返事をした田中とは対照的に、話を振ってきた高橋は「つまんねー」と言いつつもどこか楽しそうだった。
そこから高橋がずっと話しかけてきていた気がするが、ベッドで話を聞いていた僕は、ここまでの疲労で寝落ちてしまった。
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林間学校3日目。
今日は朝食をとり、帰宅をするだけなので、僕の気持ちもだいぶ楽だった。
さっさと朝食を済ませ、バスに乗る。今回は行きとは異なりみんな疲れていたんだろう。
最初から静かなバスの中で僕は、昨日江波戸に言われたことを考え続けていた。
進学コースに戻るべきなのかな。半ば自暴自棄になって総合コースへ移った自覚はあった。進学の幅が狭まることも真剣に考えていたわけではなかった。
最近やっと気持ちに整理がついて、将来のことを少し考えることが増えていた。やりたいことがないのなら大学に行ってやりたいことを探していくべきだと。そんなふうに考える様になった。
進学クラスに戻った方が、もっと人生の幅が増えるのかなぁ。テスてか行けると思うとか昨日勝手に思っていたけど、学年で5位取らないといけないって結構大変だよな。
とりあえず本当に進学コースに行くかどうかは別として、学年5位以内に入ることだけ考えようと決心して僕の林間学校は幕を閉じた。
バスを降り解散となり、僕は一人で駅まで向かおうとした。
「北村―」
声の方向を向くと江波戸がいた。バスの到着が早かったクラスから解散だったので、そこまで人は残っておらず前のように注目を浴びることもなかった。
「え、何?」
「そういえば俺、北村の連絡先知らなかったなって思って。この機会に交換したくて」
確かに校内は携帯電話の使用は禁止で、これまで交換しようとか言う発想すらなかった。
「おけおけ」
とりあえず先ほど返却されたばかりの携帯電話の電源を入れる。
「はいこれ読み込んで」
江波戸に差し出されたコードを読み込み、とりあえず「北村です」とだけ送った。
「どう? 今メッセージ送ったけど、届いた?」
「届いた、アイコン白熊なんだね」
「昔家族旅行で行った水族館で撮ったやつを適当にアイコンにしてみた」
「かわいいじゃん」
「ありがと」
「この後誰かと約束ないなら一緒に帰ろう」
「いいよ」
