「先生、結婚しました」
朝のホームルーム中、左手に輝く指輪を見せびらかしながら報告したのは、唯桜の担任である林田健斗だった。教室中から拍手とおめでとうという明るい声が飛び交う。ただ、唯桜一人を除いては。
唯桜が初めて林田先生に出会ったのは中学三年の夏休み、霧山大学付属高校の学校見学会の時だった。
唯桜が通っていた中学では、夏休みの課題として「最低三校の学校見学へ行く」というものがあった。特に何も考えていなかった当時の唯桜は、来校者全員にプレゼントがあるとパンフレットに書かれていた霧山大学付属高校の見学へ行くことにした。この学校は進学コース、総合コース、商業コース、工業コース、調理コースの全5コースがある私立高校だ。漠然と大学進学を考えていた唯桜は、進学コースの説明会に申し込んだ。
灼熱の太陽が照り付ける8月4日、唯桜は電車に乗って見学会に向かった。
駅に着き、見学者専用のスクールバスに乗ると、山の中腹にある高校へと到着した。在校生に案内されて体育館に向かい、そこでこの高校全体の詳しい説明を聞いたあと、コースごとに分かれて教室へ向かった。
その時、進学コースの体験授業担当だった林田健斗先生に一目ぼれした。先生の担当は数学だった。
今でも僕は、その時受けた授業を鮮明に覚えている。
当時、勉強がそこまで好きであったわけではない僕は、家から近い適当な公立高校へ行こうと思っていた。しかし、この出会いが僕——北村唯桜の運命を動かした。そこから志望校を公立から私立に切り替え、漠然としか考えていなかった大学進学を本格的に意識するようになった。
そして、林田先生が担任となる進学コースへ合格した。
しかし、入学してから先生に好意を伝える勇気もなく、ただただ見つめているだけの日々。正直、それだけでもよかった。先生の授業を受けて、ホームルームで先生の雑談を聞き、同じ空間にいられるだけで幸せなはずだった。
突然の結婚報告により、一緒にいられるだけで幸せなんて嘘だと気づいた。みんなが祝福している中、下を向いて泣いているのを悟られないようにするのが精一杯。
これが北村唯桜、人生で初めての失恋だった。
それから僕は、全く勉強に身が入らなくなった。
特に林田が担当していた数学の成績の下がり具合は顕著だった。今まで毎授業質問に行き、補習にも欠かさず参加していたのに、結婚報告を皮切りに補習をさぼりがちになった。
それから先生に「悩み事でもあるのか」と心配され、話しかけられる頻度が増えた。「お前のせいだよ」という身勝手な気持ちを表に出さないことで精一杯で、「なんでもないです」と苦笑いを続ける日々。
先生と話す機会が増えるうれしい気持ちもあった。けれどそれ以上に、話すたびに忘れようと必死になっている恋心を掘り起こされて、その気持ちに押しつぶされそうになる。先生から離れたくて、2年から進学コースを外れ、総合コースへ進むことにした。
頑張るモチベーションを失った僕は、2年から心を入れ替えて頑張ろうなんて気にはとてもならなかった。
基本的に一年次とクラスは変わらず、コース変更により数人だけが入れ替わる。
すでに仲良しグループは形成されていて、その中に2年から入った僕が溶け込めるはずもなく、しっかりクラスで孤立し、教室での居場所を失っていた。
昼休憩くらいは誰もいないところでご飯を食べたい。そんな気持ちから、学校の敷地にある山を散策し始めた。
そして、学校で唯一誰も近づかない山奥の建物を発見した。ここを見つけてからの2週間、毎昼休憩ここに来ていた。
学校で息ができるのはここだけだ。新鮮な空気を取り込むため、秘密基地に着くといつも深呼吸をする。そして建物の影に入り、ゆっくりご飯を食べる。30分の昼休憩が終われば、このオアシスから地獄へ逆戻りだ。
こんな日常が2年間も続くかと思うと、憂鬱だった。
4限終了を告げるチャイムが、校内全体に鳴り響く。
「起立、礼」
授業が終了すると、教室の緊張が一気に解け、一足飛びに騒がしくなった。ある生徒は机を移動させ、ある生徒は学食に向かい、三者三様の行動をとる。
僕は学食に向かう生徒を装って教室を出ると、早々に玄関へ向かった。校舎裏のフェンスを越え、急な坂道を一歩一歩、しっかりと進んでいく。誰もいない山道を抜けると、ようやく目的のオアシスへたどり着いた。
まだ4月とはいえ、日差しが強い。建物の陰に入り、ゆっくりとお弁当を広げる。
きっとお母さんは、友達と一緒に食べていると思っているのだろう。彩り豊かなお弁当と、保冷バッグに入っているお菓子が、胸をチクリと刺してくる。
まあ、友達がいないのは1年の時からだし、今更気にしても無駄だ。
気を取り直して昼食をとることにした。学校にいる間、スマホは回収されて手元にない。そのため、いつも本を読みながら昼食をとっている。ここには自分以外誰もいないので、行儀が悪いことには目をつぶっている。
お弁当を食べながら本を読む――いつもと変わらない昼休憩。唯桜にとって、この時間は本当に救いだった。
お弁当を半分ほど食べ進めたところで、突然、山道から足音が聞こえてきた。
誰か来る――
焦った僕は、急いで物陰に隠れた。少しでも動けば、地面に落ちている枯れ葉たちが音を立ててしまう。必死に動かないよう、気配を消して息をひそめた。
しかし、足音はどんどん近づいてくる。身動きが取れないでいると、頭上から声が降ってきた。
「うわ、こんなところで何してるの?」
どこかで聞き覚えのある声に顔を見上げると、そこには 江波戸琳翔が立っていた。彼は唯桜の元クラスメイトで、現在は進学コース理系のトップ。学校で知らない人はいないほどの有名人だ。
なぜそんな有名人……もとい、元クラスメイトがこんなところにいるのか。訳が分からず、唯桜はただただ困惑した。
「……ただ、ご飯食べてただけです」
下を向きながら、答えた。元クラスメイトと言えど、話したことなど片手で数えられる程度。
全く接点のない元クラスメイトという気まずさの塊のような相手に会ってしまい、一刻も早くこの場から消え去りたいという感情が脳を支配した。
「なんで敬語? てか去年クラス一緒だった北村だよな」
「そう、です」
敬語を指摘されても、ほぼ初対面の江波戸に対して急に「タメ口で」と言われても無理な話だ。
「いやだから、なんで敬語なんだよ。同級生だろ」
「……そうだね」
二度目の指摘を受け、しぶしぶタメ口を使うことにしたが、語尾を崩した程度でまったく砕けた感じにはならない。それに、目を合わせられるわけもなく、緊張のあまり制服の胸ポケットについている校章をずっと見つめながら話している。
そんな唯桜の様子を気にも留めず、江波戸は話を進めていく。
「なんでここでお昼食べてるの?」
「それは……静かで、いい場所だからかな」
早くここから去るにはどうすればいい? このまま立ち去るのはさすがに不審者すぎるし、適当に話を切り上げてどこかへ行こう。……いや、どこへ行く? こんなに良いスポット、他にないのに。また僕は居場所を失うのか……
不安が駆け巡り、思考から江波戸の存在が消えかかっていた、その時――。
「確かに。俺も静かな場所探しててさ。英検が近いから昼休みにもリスニングやりたいんだけど、教室は人が多くてあんま集中できなくて」
江波戸の相槌で現実に引き戻された僕は、適当に返事をした。
「なるほど……」
そんな朴の困惑に気づいているのかいないのか、江波戸は爽やかな笑顔で言った。
「俺もここ、使っていい?」
いいわけないだろと心の中で毒づくものの、そもそもここは唯桜の所有地ではないので拒否する権利もない。何より、目の前の男に反抗できるほど強気になれるわけもなく、気づいた時には口が動いていた。
「ど、どうぞ……」
「ありがと、助かる」朝、目が覚めてここまで憂鬱なのは久しぶりであった。
毎日明るい気持ちでいられるわけではないが、ここまで気持ちが沈んでいるのは、林田先生が結婚を発表した時以来だろう。
カーテンを開けて、今が本当に朝なのか今一度確認をする。
カーテンを開けた途端、春にふさわしい気持ちの良い日差しが部屋に差し込み、今一度朝という現実を押し付けてきた。
何度カーテンを開けても朝だし、日付も4月17日。普通に日付が変わっていることに絶望して、もう一度ベッドに潜り込む。
「いお、起きて! 起きて!」
いつの間にか部屋に入ってきていた母親に起こされた。
思春期の息子の部屋に勝手に入ってくるなよと思いつつ時計に目をやると、針は家を出る5分前を指していた。
一気に飛び起き、母親が部屋にいるのも構わず制服に着替える。どれだけ憂鬱で学校へ行きたくなかったとしても、結局のところ学校を仮病で休む勇気はない。急いで準備をして家を飛び出した。
何とか電車に間に合った唯桜は、電車に揺られながらお昼のことを考えていた。
もういっそのこと、別の隠れ家を探すか……? ただ、こっちの校舎は詳しくないからな
ここ「霧山大学付属高校」には、特進校舎と一般校舎の2つの校舎が存在する。
唯桜は2年から一般校舎に移ったため、人が来ない穴場スポットを見つけ切れてはいない。
いっそのこと図書館にでも行こうかと思ったのだが、図書館は一般校舎にしかなく、進学校舎の人たちもかなりの頻度で使っているため昼休みは人が多い。これ以上、元クラスメイトと顔を合わせたくはなかった。
現在12時30分。
あと20分で4限が終了してしまう。
1、2、3限とお昼をどうするべきか考え続けたが、答えは出なかった。ここまで現代社会の授業が終わってほしくないと思ったのは、人生で初めてかもしれない。
色々な考えが駆け巡った結果、適当な部活にでも入っていれば部室に逃げられたのにと、意味不明な現実逃避にまで思考が飛躍した。これまで全くと言っていいほど入る気がなかった部活への加入を悩ませるなんて、江波戸はすごいやつだ。……って、感心している場合か。
結局答えが出ないまま、授業終了のチャイムが鳴り響いた。
ただ、この教室でお昼を食べる気持ちにもなれず、結局、僕はあの山へ向かうことにした。
坂道を登り切り、見えた先の建物の陰には、すでに江波戸がいた。
ただ、昨日話していたようにリスニングをやっているようで、僕の存在には気がついていない。
これなら、僕もゆっくりと食事ができる
江波戸に近づかないように建物の裏へ回り、いつも通りの食事を始めた。今日一日の心配は何だったのだろうと思うほど穏やかな昼休み。お弁当の最後の一口を頬張り、昨日の本の続きを読もうとしたその時――。
「こんなところにいたんだ。今日は来ないのかと思った」
背後から声がした。
振り向くと、そこにはリスニングを終えた江波戸が立っていた。
「じ、邪魔したら悪いかなって……」
本音を言えば「あまり関わりたくないからです」とは口が裂けても言えず、当たり障りのない回答をした。
「気をつかわせちゃったようで、すまん」
ナチュラルに隣へ座られ、喋るしかない空気を作られた。
本読めねーよ……
「北村って、いつからここ使ってるの?」
「2年に上がってからかな」
「最近じゃん」
「そうだよ」
「いやだって、ここに昔からいましたみたいな貫禄出てたから、びっくりして」
何だよ貫禄って。根暗だからこんな山奥が似合うってか
「そっか……」
そこから他愛もない会話を繰り広げられ、結局、持ってきた本はあまり読み進められなかった。
そしてふと腕時計に目を移すと、昼休みの終了10分前になっていた。しかも次の授業は体育。急いで戻らないと授業に間に合わない。
「ごめ、時間。僕、次体育だから」
唯桜は江波戸との話をぶった切って、急いで校舎に戻ろうとする。
「すまん! こんな時間だなんて気がつかなくて。また明日!」
急いで下山する唯桜の背中に、江波戸はそう声を投げかけた。
また明日って……また来るのかよ!
今日も4限のチャイムが鳴り、昼休みがやってきた。
昨日のように葛藤する時間はなく、心なしか足取りは軽い。誰もいない山道登り、オアシスに到着した。周りを見渡しても、江波戸はまだ来ていなかった。
今日は来ないのかもという期待に胸を膨らませ、ウキウキしながら昼食を保冷バッグから取り出す。蓋を開けると、いつも通りのお弁当。平穏が戻ってきたと実感した。
――その3分後。
山道から音が聞こえて目をやると、そこには江波戸がいた。
昨日のように悶々とする時間がなかったから、僕が早く着いただけだったか……。がっかりしつつも、会釈だけして食事を続ける。
「なんでそんなに他人行儀なん?」
「別に……」
なんで他人行儀なのかと言われても、別に友達というわけでもないし、元クラスメイトなんてこんなもんだろ。
「友達なのにそんな反応されたら傷つくじゃん」
「……ごめん」
僕らは友達であるという新事に驚きながら、表情には出さないようにして、何となく謝っておいた。
「まあいいけど。昨日は結局間に合った?」
「何とか」
「よかった。俺、ずっと気になってたんだよね」
「……もう少し考えるべき大切なことあるだろ」
「それはそうだけど、北村が俺のせいで先生に怒られたら嫌じゃん」
少し気を許したような口調で話しかけたことを後悔する間もなく、会話が進んでいく。
そこで僕はふと思った。こいつ、リスニングやらなくていいのか。そのためにこんな山奥まで来たんだろうに。
「勉強、しなくていいの?」
「おっと、そうだった」
江波戸は首にかけていたヘッドホンを耳に付け直し、黙々と勉強を始めた。
やっと静かな食事空間に戻り、僕は安堵した。
江波戸が悪いやつではないのは分かるが、誰かとコミュニケーションを取りながら食事をするというのは、かなり負担を感じる。なぜならば僕にとって、食事はこのつまらない学園生活の中で唯一の楽しみであり、息抜きの場だからだ。そこに他人が入る余地などない。
僕は弁当を余すことなく堪能し、昨日の読みかけの本を開いた。5ページほど読んだところで、リスニングを終えた江波戸から話しかけられた。
「今、体育って何やってるの?」
この本を読み終わるのはいつになるのだろう……
まあ、電車や家で読めばいいのだが、僕は
デジタルに浸ることができる時はデジタルに浸っていたいのだ。僕にとっての本はスマホが使えない中での娯楽であり、昼休みにしか訪れない特殊な状況でのお供なのだ。
そんな僕の気持ちを知るはずもない江波戸を無視する勇気もなければ、そこまで人間として落ちぶれたくもないと思い、僕は答えた。
「ソフト」
「へえ、俺らはバスケなんだけど。ソフト羨ましい」
「バスケの方が楽だろ。グラウンドより体育館の方が近いし」
「ソフトなら第一グラウンドだろ? 4棟から近いじゃん」
4棟というのは、総合コースの2年生が使っている校舎の名前だ。
「いや、他のクラスの関係で、第四使ってる」
「それはきついな」
第四グラウンドはグラウンドの中でも一番上に位置し、勾配もかなり急だ。そして僕の体育担当の先生は、体育教師の中で一番の下っ端である。
私立なので教師の入れ替わりもそこまでなく、4年間ずっと他の体育教師には敵わず、権力があまりない。そのため他のクラスと授業が重なると、一番遠いグラウンドしか取れないと以前嘆いていた。
「園崎だっけ、北村のクラス」
「いや、猿田」
「猿田って陸上部の顧問だよな」
「え、知らん」
林田先生以外の教師に興味が全くなく、正直誰がどこの顧問なのかすら僕は理解できていない。
「知らんて……って、もうこんな時間か」
「そろそろ戻ろうぜ」
「おう」
一緒に山を下りることになり、絶妙に気まずい。
「北村、そっちから下りるのか?」
「4棟はこっちからの方が近いから。1棟はそっちの道の方が近いと思うけど」
「そういうことか」
「じゃ」
何となく気まずくて、僕は足早に山を下りる。
「おう、またな!」
後ろから江波戸が手を振っている気がするが、気にせず僕は山を下りた。
江波戸が山に来るようになってから、2週間が経った。
毎日来る江波戸に最初は辟易していたが、2週間を過ぎたあたりから特に何も感じなくなった。きっと、人と過ごす昼休みに慣れてきたのだろう。
お互い山に来て、僕は食事、江波戸は勉強をし、そのあと二人でちょろっと話して解散する。
お互いの連絡先も知らないし、校舎が違うので学校で会うこともない。昼休みを一緒に過ごすだけの関係。
今まで友達がいなかった僕にとって、これくらいドライな方が過ごしやすかった。
そして、僕はいつも通り今日の昼休みも山に向かった。
建物の前に到着すると、珍しく江波戸が先に来ていた。先に来ている時はすでに勉強をしていることが多いのに、今日は勉強もせずパンを頬張っている。それに、いつもリスニングに使っているヘッドホンも持ってきていなかった。
「今日はリスニングやらないの?」
隣に座りながら聞いてみた。
「英検、日曜で終わったからさ。しばらくはお休み」
「おつかれ」
そういえば先週、そんな話をしていただろうか。
いつも江波戸が開いていたリスニングの参考書には「英検準1級」と書かれていた。江波戸は去年2級を取って表彰されていたはずだ。
進学コースでは「1年で最低準2級、3年に上がる前までに準1級まで到達しろ」と言われていたな……と思い出す。
以前の僕は、進学実績や検定の取得率で担任の評価が上がると聞いて、「先生の実績作りに貢献したい」と健気に頑張り、1学期に準2級を取ったのだ。まあ、先生が結婚してからはそんな気持ちになれず、一気に何もしなくなったわけだが。
「ありがと」
勉強をしていない江波戸の横でお昼を食べるのは、なぜか緊張した。
普段、江波戸と話す時間は長くても15分ほどだったのに、今日は30分もある。
「俺ら、1年の時って本当に同じクラスだった?ってくらい接点ないよな」
「そうだね」
「北村って、なんでコース変えたの?」
思いもよらない質問に、僕は普通に動揺した。
どうしてそんなことを急に聞いてくるのか、訳が分からない。ずっと触れずにいられたから、これからも聞かれることはないのだろうと勝手に思い込んでいた。
「……普通に成績が下がったから」
親に話した理由を、そのまま伝えることにした。
「でも、進学に残れるくらいの内申はあっただろ。わざわざ総合に行かなくてもよかったのに」
(担任が結婚して、ずっとそばにいるのが辛くなって、勉強にも身が入らなくなって、離れたかったから……)
なんて馬鹿げた理由を話せるわけもない。
「……別に、俺の勝手だろ」
「でも、大学進学を目指してこの高校に入学したんだろ? だったら進学コースの方が――」
「うるさい!」
気づいた時には、もう声に出ていた。
深掘りされたくないのに、今までまともに人と接してこなかったから、どう話を切り上げたらいいのか全く見当もつかない。結果として、一番最悪な形で会話を打ち切ってしまった。
「ごめん、俺、そんなつもりじゃ……」
今、この山で江波戸と過ごす中で感じていた心地よさは、どこにもない。
触れられたくない部分に触れられ、意図しない形で逆切れしてしまった。江波戸の方を見ると、焦った顔で何かを言っている。
「……こっちこそ、急に怒ってごめん。僕、次体育だからもう行かなくちゃ」
とにかくその場から離れたくて、江波戸が何か言おうとするのを遮り、僕は嘘をついて全力で山を駆け下りた。翌日――。
僕は目が覚めてから……いや、昨日の昼休みの終わりからずっと、どうするべきか悩んでいた。
あの「オアシス」を手放したら、僕の居場所は完全に失われる。もういっそ江波戸が山に来ないことに賭けて、あの場所へ上るべきなのか。
ただ、本当に顔を合わせてしまったら、何を言えばいいのか見当もつかないし、何より気まずい。感情に任せて人に強い言葉を向けてしまったのは、人生で初めてだった。
……もう、あの山に上るのはやめよう
僕は、この学校での唯一の居場所を手放す決断をした。
現在の時刻は12時45分。
あと5分で4限の授業が終わってしまう。朝からずっとお昼をどこで過ごそうか考え続けていたが、行き先が全く決まらないままだった。
5階の階段の踊り場で食事をするか?……でも、あそこは運が悪いと同級生たちと鉢合わせてしまうことがあるデンジャラスゾーンだ。かといって山の方へ行くと、江波戸に会ってしまうかもしれない。
最悪「便所飯」かとも思ったが、この校舎はトイレが古く、とても食事をできるほどキレイでもない。
迷った挙句、僕は山道の途中でご飯を食べることにした。
山を登り切るとあの建物があるのだが、登り切らなくても校舎から見えない位置がある。そしてそこは、江波戸が普段使っている山道からも見えない場所だった。
僕は仕方なく、山道の途中の急斜面でお弁当と本を開き、食事を始めた。
人との食事は苦手だったはずなのに、江波戸が隣にいない久しぶりの昼食に、僕はなぜか寂しさ」 を覚えていた。
ただ、どんな顔をして会えばいいのか分からない。それに、江波戸にこれ以上自分の内側に踏み込まれたくなかった。
……ただ、江波戸が「僕が成績が下がって総合コースに行ったこと」に対して疑問を持つのは、別におかしいことではない。
馬鹿にしていたわけではないし。むしろ、心配している様子だった。
この高校で、総合コースから進学コースに移る生徒は珍しくない。ただ、その反対――進学から総合へ落ちる生徒は、3年に一人いるかいないかくらいの珍しい出来事だ。そして高校に入学してから友達ができたことのなかった僕は、1年の終わりに誰にも告げず、総合コースへ移った。
ただでさえ増えることはあっても減ることはないと思っていたクラスメイトが減れば、理由が気になるのは自然の摂理だ。むしろ、ここまで聞かれなかったのが奇跡に近いレベルだった。
この学校では、進学コースに残らなければ基本的に受験前線から離れてしまう。総合コースには受験対策の授業が全くなく、大学へ行く道は「霧山大学への内部進学」「指定校推薦」「専門学校」という選択肢しか残されない。そして総合の9割がスポーツ推薦で大学へ進学する。
そのため、一般受験の選択肢は無いに等しくなるのだ。
入学時に進学コースを選択して受験した者は、基本的に国公立大学への進学を目指している。進学コースから抜けるというのは、その目標が途絶えるということに他ならない。
きっと江波戸は、「少し成績が下がったくらいで、進学を諦めるのか」とでも言いたかったのだろう。
言いたいことは十分に理解できる。でも、国立大学へ行きたいと思っていたのも、すべては「林田先生の実績作りに貢献したかった」というだけで、今となってはどうでもいいことだ。正直、勉強が好きだったわけでもない。
江波戸が何を思ってあの発言をしたのか。本当のところは今となっては分からず仕舞いだが、もう会うこともないのだから、いちいち気にしなくてもいいか――。
そう割り切ろうと決めて、僕は折れて読めていなかった本の続きを読み始めた。
ただ、心がずっとざわついていて、文字が全く頭に入ってこない。
文章はしっかり目で追えている。けれど、ただ目を動かせているだけで、頭の中は江波戸のことでいっぱいになり、内容は全く理解できていなかった。無意味にページを10ページほどめくったところで昼休みが終了し、僕は5限の教室へ向かった。
5限、物理基礎。大半が寝ていて、ほとんど誰も話を聞いていない。
まあ僕も起きているだけで、授業の内容は全くと言っていいほど頭に入っていなかった。
授業を真剣に聞きたい気持ちはあるのだが、どうしても江波戸のことが頭から離れない。
ただ、今日は金曜日で、明日からゴールデンウィークに入る。しばらく学校へ来なくていいことだけが救いだった。しばらく学校へ来なければ、江波戸のことなんか忘れられる。
そして僕はまた、どこにも居場所がない学校生活へ戻るだけだ。
これ以上、江波戸のことは何も考えないようにと、先生が話している言葉を一言一句ノートに書き写した。そうして何とか心を落ち着かせ、僕は授業を乗り切ったのだった。
限の物理が終わり、僕は寝たふりをして6限までの時間を潰した。
そして迎えた6限の「現代文」
この授業は現代文の長文プリントが配られ、一時間は問題を解き、次の一時間は答え合わせをするという形式で進められている。
今回は問題を解く日だ。そしてこの授業で扱われるプリントは、そこまで時間がかかるものではない。そのため、余った時間は先生公認の元、好きな教科の勉強をしてもよいというお得な授業である。
ゴールデンウィーク前ということもあり、課題が溜まっている。さっさとやって、余った時間で課題を減らそう。
黙々と文章を読んでいくと、その内容は「人と揉めてしまった時どうすればいいのか」という説明文であった。
タイムリーすぎる内容に、写経作戦でせっかく忘れかけていた江波戸とのことを、無理やり思い出させられた。
『相手に悪気がない場合は、自分から謝った方が今後何のしこりもなく生きていける』と、書かれている。
そんなん分かっとるわという感想しか出てこない。別に揉めたというわけでもないし、というか謝りたくないわけじゃない。気まずくて顔を合わせたくない相手を山から追い出す方法とか、そういうのを書いとけよ。ていうか何だよこの駄文、問題にしていいレベルじゃねーだろ。
私情のせいで全く問題に集中できなかった結果、普段ならどれだけ時間がかかったとしても20分で終わるプリントが、授業時間の50分すべてを使っても解き終わらなかった。残りの時間でゴールデンウィークの課題をやろうと思っていたのに、すべての時間を使ってしまったせいで課題を減らすことはできず、むしろ家に持ち帰る分を増やすような結果となってしまった。
ゴールデンウィークの予定にない課題を増やしてしまったが、僕は今日のすべての授業を終え、何とかホームルームを迎えた。
担任のゴールデンウィークにおける生活の仕方についての、ありがたくも長い話が続いている。他のクラスはすでにホームルームが終わり、廊下が賑わい始めていた。
もうそんな時間か……と時計に目を向けると、そこには絶望的な時刻が刻まれていた。
これ以上話が長引くと、16時37分の電車に乗り遅れてしまう。早く帰ったところで別にやることがあるわけではないのだが、電車が30分に1本しかない田舎である以上、早い電車に乗れることに越したことはない。
最寄り駅もコンビニ以外何もないし、だからと言ってこの学校に長居したくもなかった。
「……という訳で、本日のホームルームを終了します」
何とか電車に間に合いそうなギリギリのタイミングで、先生のありがたいお話が終了した。
「起立、気を付け、礼」
「「「ありがとうございました」」」
挨拶が終わった瞬間、僕は預けていたスマホを回収し、教室を速攻で飛び出した。
このままモタモタしていると電車に乗れない。
しかし扉を開けると、トイレの前に人だかりができていた。いつもより廊下が騒がしいと思ってはいたが、20人ほどの生徒が溜まっている。
そこを通らなければ下駄箱まで到達できない。仕方なく人の波をかいくぐって進もうとしたその時、人だかりの中から突然、腕を強く掴まれた。
「北村!」
突然の出来事に、掴まれた腕の先を辿ると――そこには江波戸がいた。
なぜここに江波戸がいるのだろう。
そんな疑問が浮かぶと同時に、人だかりができていた理由が判明した。
この人だかりの原因、こいつか……!
江波戸琳翔はこの学校で知らない人はいない超有名人だ。毎回の全校集会ごとに何かしらの表彰をされており、さらに高身長でイケメンと話題になっていると、1年の時に風の噂で聞いたことがあった。
しかし、江波戸が進学コースの校舎から、僕たちのいる総合コースの4棟に来ることはまずない。全校集会も基本的には教室のテレビによる中継なので、生で見たことがあるのは進学コースの人間くらいと言っても過言ではないのだ。
そんな江波戸がわざわざ4棟へやって来れば、野次馬の人だかりができてもおかしくはない。
人だかりの謎は解けた。だが――なぜ江波戸がこんなところにいて、僕の腕を掴んでいるのかという謎は、解けないままだった。「え?」
「ちょっと、ここは人が多いから場所を変えよう」
こんな大人数の中で、腕を振り払って逃げることもできない。僕はしぶしぶ江波戸についていくことにした。
後ろで女子生徒たちが「え、誰あいつ?」などと噂しているのを聞いて、せっかくここまで息を殺して生きてきたのに……と、少しだけ江波戸を恨んだ。
何も聞けない自分のコミュニケーション能力のなさを呪いながら、江波戸の半歩後ろを黙々とついていく。ただ、向かおうとしている場所は、方向からして何となく見当がついていた。
「ここまで来れば、聞いているやつもいないだろ」
やはりたどり着いたのは、僕の「元オアシス」だった。
「昨日は本当にごめん! 怒ってるよな」
江波戸はこれでもかというほど頭を下げた。
僕はその姿を見て、昨日何も聞かず勝手に逃げ出したことを猛烈に後悔した。
「ぼ、僕もごめんなさい……! 江波戸に八つ当たりしちゃって」
「違う! 俺が全部悪いんだ。パーソナルなことを根掘り葉掘り聞くようなことをして……。本当は今日のお昼に謝ろうと思ってたんだけど、北村が来ないから。それで連休に入る前にどうしても謝りたくて、4棟まで行ったんだ」
わざわざそんなことを言うために、1棟から4棟まで来たのか。
しかも、僕が全面的に悪いのに、なぜか江波戸が必死に謝っている。何か言わなきゃ……さっきみたいに「ごめん」だけじゃなくて、ちゃんと伝えなきゃ。
様々な思考が一気に脳内を駆け巡る。
その時、僕はふと今日の現代文のプリントのことを思い出した。
『揉め事の8割は、思っていることを正直に話せば解決する』
……あの文章、あながち間違いじゃなかったのかもしれない
「それは、その……僕、正直今まで人と関わることがなくて。それで……その、気まずい人とどうやって関わればいいのか分からなくて」
「気まずい人って……」
何も包み隠さず正直に打ち明けると、江波戸は苦笑いをした。
「今日、山に行かなかったのも、本当に怒ってるわけじゃなくて……ただ、僕にコミュニケーション能力がないだけだから」
何とか言葉を紡ぎ続けようとするが、話すだけで精一杯で、気づけば下を向いたまま話していた。脳裏に浮かんでくる言葉を必死に整理して、何とか声にして出していく。
すると、ほとんど視界の情報がない足元に、突然江波戸の顔が入ってきた。
一向に目が合わないことに痺れを切らしたのか、彼が屈み込んで僕の視界に入り込んできた。
「北村にとって、まだ俺って気まずい人?」
その問いかけに、突然頭の中が真っ白になった。
気まずいかと問われれば確かに気まずいが、今この空間には、少しずつあの「心地良さ」が戻りつつもあった。
「……まぁ、そこそこかな」
結局、気まずくないよなんて気の利いた言葉は言えず、気まずさ3割増しの答えを返してしまう。
「そっか! じゃあこれから気まずくなくなるように頑張らないとな」
江波戸のキラキラとした眩しい笑顔と、僕の人生からは絶対に出てこない前向きな発言に、僕は恐れおののいた。……一気に気まずさ5割減である。やっぱり江波戸は、僕とは対極の存在だと再認識させられた。
あまりの眩しさに顔を直視できなくなり、ふと横に視線を外すと、江波戸のスクールバッグについている進学コースの「緑の校章」が目に入った。
そこで僕は、ある重要なことに気がついた。
「……てか江波戸、補習行かなくていいの?」
進学コースは授業後、2時間の補習が行われている。基本的に全員参加なので、補習というよりは8限・9限に近い。どう考えても、今は補習の真っ最中のはずだ。
「どうしても北村に会いたかったから、体調不良って言って抜けてきた。だから大丈夫!」
「大丈夫じゃねーだろ」
「いや、別に今日の内容に興味なかったから平気。俺、この後用事ないから一緒に帰ろうぜ」
断る理由も見つからないし――不思議と、断りたいとも思わなかった。
僕は、江波戸と一緒に下校することにした。二人並んで山道を下る。いつもは途中で別の道に分かれるのに、今日は同じ道だ。いつも一人で通っているはずの道に江波戸がいることは、不思議で仕方なかった。
「こっちの道、新鮮だな」
「江波戸はいつも1棟通り使うもんね」
「俺がいつも使ってたあの道って、そんな名前だったの!?」
「いや、僕が勝手にそう呼んでるだけ」
「まあでも実際あの道、1棟の玄関前にピンポイントで着くし、あながち間違いでもないよな」
他愛もない話を続けながら順調に下山し、4棟前に到着した。
本来なら一棟のほうに向かって降りるのが普通の帰り方だが、1棟前を通ると江波戸のサボりがバレてしまうかもしれない。
一棟のほうから降りるのではなく、4棟方面から少し坂を上って大学まで行き、大学正門から帰宅する作戦にした。
そして僕は気づいた。この学校に入ってからはじめて誰かと一緒に帰宅するという行為をしていることに。一年の時にも大して友達がいなかった。
「俺、何気にこっちの道来るのはじめてかも」
「僕もいつもは一棟のほうから帰ってるよ。あんまりこっち使う高校生はいないと思うけど」
「意外と運動部はいつも大学側から帰ってるらしいよ」
大学のほうまで坂を登り、裏門から大学に入っていく。大学に用事はないのでめったに行かないが、1年の時にオープンキャンパスに行かされたことがあったので、何となくの道は覚えている。建物の間を潜り抜け、僕たちは大学正門から抜けた。
「北村って上り方面?」
「いや、下り」
「俺と逆か。下りだと電車何時?」
乗ろうとしていた16時37分発の電車は、江波戸とオアシスで話しているうちにとっくに発車してしまったことに今気がついた。次の電車は17分発。
そしてスマホを見ると、今17時13分。
ここからでは走っても駅まで7分はかかる。僕は2本も電車を逃してしまった事実に、霧山大学付属高校帰宅部として悔しく思った。
「37分発かな」
「なら、ちょっとコンビニ寄ってく?」
「いいよ」
どうせ時間は有り余っているのだから、素直にコンビニに行くことにした。
「北村ってこのコンビニよく使うの?」
「そんなにかな」
「マジで? 俺ほぼ毎日ここにきてるよ」
「そんな奴いるんだ」
このコンビニは霧山付属の生徒が多いので、あまり近寄らないようにしていた。それは正しい判断であったようだ。これからもここを使うのは避けよう。
中途半端な時間だから、今日行くくらいなら大丈夫だろうけれど。
適当にお茶とアイスを買い、外のベンチに座る。江波戸はチキンを買っていた。
「何にしたん?」
「チョコバナナ味」
「うまそ。そう言えばチョコで思い出したんだけど、担任の林田最近やばくて」
思わぬところからまた槍が飛んできた。唐突な林田先生の登場に動揺を隠せない。ただ、声が上ずらないよう必死に落ち着かせる。
「何が?」
「最近子供生まれたみたいでさ、もうノロケが止まらないんだよね」
「へえ」
「なんか女の子が生まれて、大フィーバー。後ろの黒板に写真貼って自慢してるんよ。その中にバナナの着ぐるみ着せてあるやつがあったなって思って」
僕は今日ほど進学コースを辞めたことを正しい選択だと思ったことはない、というほど安堵した。きっとこのまま進学コースに残っていたら、2年から不登校になっていたことは間違いない。
ただ、これ以上この話題が広がるのは僕の精神衛生上良くない。また江波戸に当たってしまいかねない。
「そうなんだ。そういえば、江波戸の英検の結果はどうだった?」
必死に考え抜いた結果、直近であった会話の記憶を頼りに、なんとか話題を提供できた。
「まだ出てないけど、自己採点は8.5割取れてたから多分筆記は受かったと思う。面接はわからん」
「CBTで受けたの?」
「そうそう。だから面接まであったんだけど……あれ普通に考えて面倒よな。一気に面接対策までしないといけないなんて」
「僕はそれが嫌だったから対面しか受けてない」
「俺も対面にすればよかったって思ったけど、会場遠いとだるいなって」
「なるほど」
「ってもうこんな時間!北村電車間に合いそ?」
会話が弾み時間をあまり気にしていなかったが、そろそろ駅に向かわないと電車に乗れない時間になっていた。
「なんとか、先帰るね」
「おう、また来週」連休が明けて憂鬱なはずの火曜日。
僕はなぜだか、学校へ行くのがいつもより楽しみだった。楽しみと言っても、学校への評価がマイナス100だったのがゼロになっただけなので、別に評価がプラスに転じたわけではない。
ただ、学校へ向かう足取りがここまで軽いのは一年生の頃以来だろう。あの頃は林田先生のクラスになれたことが嬉しくて仕方なかった。それに数学の授業は基本的に毎日あった。何なら一日に2時間ある日すらあって、そんな日は少し早く起きて授業の復習をしていたものだ。難しいところを確認して、授業後に先生に話しかけるきっかけ作りに奔走していた。もともと得意というわけでもなかった数学を恋心だけで伸ばしていたあの頃の自分は、なかなか健気だったと思う。全く勉強しなくなった今の僕には、当時の数学の成績など見る影もないのだが。
少し思い出に浸っていると、電車の時間が迫ってきていた。急いで教科書をカバンに詰め込み、少し急ぎ足で家を出た。
今日も今日とて山を登り、僕はオアシスで江波戸と昼飯を食べていた。江波戸は英検が終わったため、特にここに来る意味もないはずなのに、相変わらず顔を出している。
英検の期間が終われば来なくなるだろうと勝手に思っていたが、そんなことはなかった。去年の記憶が正しければ、江波戸には友達がいるはずだ。なのに毎日こんなところに来ていて、周りから不審に思われないのだろうか。まあ、僕の知ったことではないけれど。
ただ、江波戸がこの山に来る理由として、ひとつだけ考えられることがある。進学コースの人間は、他のコースの人と関わることが基本的にない。一年次までは部活動に入ることができるのだが、二年次からは受験のため部活動への参加が認められなくなる。この制度のせいで基本的に進学コースの人たちは、一年の頃から部活に入らず毎日勉強漬けの日々だ。だから他のコースの情報を入手するのに、僕を使っているのかもしれない。だとしたら周りのことを何も知らない僕は、江波戸の役にひとつも立っていないことになるのだが。
「班決め終わった?」
「班決めって?」
「林間学校だよ、5月末の」
「そんな行事あったっけ」
「あるよ。ほら、学校が持っているセミナーハウスで二泊三日の研修。ほんとは一年の時にやる行事だけど、去年ハウスの改修で今年に延期になったって覚えてない?」
「そんなこともあったな」
「今日の4限で俺のクラスは班決めしたからさ。北村のクラスはどうだったんかなと思って」
「そういえばこの後、5限は総合だったような」
「その時に決めるんだよ」
普通に生きたくねー。休もうかな。特別仲のいいやつもいないし、班決めとか最悪すぎる。そもそも他人と同じ部屋で寝られる自信が全くない。
朝の元気はどこへ行ったのか。僕の生活は、あっけなくマイナス100まで戻ってしまった。
朝のホームルーム中、左手に輝く指輪を見せびらかしながら報告したのは、唯桜の担任である林田健斗だった。教室中から拍手とおめでとうという明るい声が飛び交う。ただ、唯桜一人を除いては。
唯桜が初めて林田先生に出会ったのは中学三年の夏休み、霧山大学付属高校の学校見学会の時だった。
唯桜が通っていた中学では、夏休みの課題として「最低三校の学校見学へ行く」というものがあった。特に何も考えていなかった当時の唯桜は、来校者全員にプレゼントがあるとパンフレットに書かれていた霧山大学付属高校の見学へ行くことにした。この学校は進学コース、総合コース、商業コース、工業コース、調理コースの全5コースがある私立高校だ。漠然と大学進学を考えていた唯桜は、進学コースの説明会に申し込んだ。
灼熱の太陽が照り付ける8月4日、唯桜は電車に乗って見学会に向かった。
駅に着き、見学者専用のスクールバスに乗ると、山の中腹にある高校へと到着した。在校生に案内されて体育館に向かい、そこでこの高校全体の詳しい説明を聞いたあと、コースごとに分かれて教室へ向かった。
その時、進学コースの体験授業担当だった林田健斗先生に一目ぼれした。先生の担当は数学だった。
今でも僕は、その時受けた授業を鮮明に覚えている。
当時、勉強がそこまで好きであったわけではない僕は、家から近い適当な公立高校へ行こうと思っていた。しかし、この出会いが僕——北村唯桜の運命を動かした。そこから志望校を公立から私立に切り替え、漠然としか考えていなかった大学進学を本格的に意識するようになった。
そして、林田先生が担任となる進学コースへ合格した。
しかし、入学してから先生に好意を伝える勇気もなく、ただただ見つめているだけの日々。正直、それだけでもよかった。先生の授業を受けて、ホームルームで先生の雑談を聞き、同じ空間にいられるだけで幸せなはずだった。
突然の結婚報告により、一緒にいられるだけで幸せなんて嘘だと気づいた。みんなが祝福している中、下を向いて泣いているのを悟られないようにするのが精一杯。
これが北村唯桜、人生で初めての失恋だった。
それから僕は、全く勉強に身が入らなくなった。
特に林田が担当していた数学の成績の下がり具合は顕著だった。今まで毎授業質問に行き、補習にも欠かさず参加していたのに、結婚報告を皮切りに補習をさぼりがちになった。
それから先生に「悩み事でもあるのか」と心配され、話しかけられる頻度が増えた。「お前のせいだよ」という身勝手な気持ちを表に出さないことで精一杯で、「なんでもないです」と苦笑いを続ける日々。
先生と話す機会が増えるうれしい気持ちもあった。けれどそれ以上に、話すたびに忘れようと必死になっている恋心を掘り起こされて、その気持ちに押しつぶされそうになる。先生から離れたくて、2年から進学コースを外れ、総合コースへ進むことにした。
頑張るモチベーションを失った僕は、2年から心を入れ替えて頑張ろうなんて気にはとてもならなかった。
基本的に一年次とクラスは変わらず、コース変更により数人だけが入れ替わる。
すでに仲良しグループは形成されていて、その中に2年から入った僕が溶け込めるはずもなく、しっかりクラスで孤立し、教室での居場所を失っていた。
昼休憩くらいは誰もいないところでご飯を食べたい。そんな気持ちから、学校の敷地にある山を散策し始めた。
そして、学校で唯一誰も近づかない山奥の建物を発見した。ここを見つけてからの2週間、毎昼休憩ここに来ていた。
学校で息ができるのはここだけだ。新鮮な空気を取り込むため、秘密基地に着くといつも深呼吸をする。そして建物の影に入り、ゆっくりご飯を食べる。30分の昼休憩が終われば、このオアシスから地獄へ逆戻りだ。
こんな日常が2年間も続くかと思うと、憂鬱だった。
4限終了を告げるチャイムが、校内全体に鳴り響く。
「起立、礼」
授業が終了すると、教室の緊張が一気に解け、一足飛びに騒がしくなった。ある生徒は机を移動させ、ある生徒は学食に向かい、三者三様の行動をとる。
僕は学食に向かう生徒を装って教室を出ると、早々に玄関へ向かった。校舎裏のフェンスを越え、急な坂道を一歩一歩、しっかりと進んでいく。誰もいない山道を抜けると、ようやく目的のオアシスへたどり着いた。
まだ4月とはいえ、日差しが強い。建物の陰に入り、ゆっくりとお弁当を広げる。
きっとお母さんは、友達と一緒に食べていると思っているのだろう。彩り豊かなお弁当と、保冷バッグに入っているお菓子が、胸をチクリと刺してくる。
まあ、友達がいないのは1年の時からだし、今更気にしても無駄だ。
気を取り直して昼食をとることにした。学校にいる間、スマホは回収されて手元にない。そのため、いつも本を読みながら昼食をとっている。ここには自分以外誰もいないので、行儀が悪いことには目をつぶっている。
お弁当を食べながら本を読む――いつもと変わらない昼休憩。唯桜にとって、この時間は本当に救いだった。
お弁当を半分ほど食べ進めたところで、突然、山道から足音が聞こえてきた。
誰か来る――
焦った僕は、急いで物陰に隠れた。少しでも動けば、地面に落ちている枯れ葉たちが音を立ててしまう。必死に動かないよう、気配を消して息をひそめた。
しかし、足音はどんどん近づいてくる。身動きが取れないでいると、頭上から声が降ってきた。
「うわ、こんなところで何してるの?」
どこかで聞き覚えのある声に顔を見上げると、そこには 江波戸琳翔が立っていた。彼は唯桜の元クラスメイトで、現在は進学コース理系のトップ。学校で知らない人はいないほどの有名人だ。
なぜそんな有名人……もとい、元クラスメイトがこんなところにいるのか。訳が分からず、唯桜はただただ困惑した。
「……ただ、ご飯食べてただけです」
下を向きながら、答えた。元クラスメイトと言えど、話したことなど片手で数えられる程度。
全く接点のない元クラスメイトという気まずさの塊のような相手に会ってしまい、一刻も早くこの場から消え去りたいという感情が脳を支配した。
「なんで敬語? てか去年クラス一緒だった北村だよな」
「そう、です」
敬語を指摘されても、ほぼ初対面の江波戸に対して急に「タメ口で」と言われても無理な話だ。
「いやだから、なんで敬語なんだよ。同級生だろ」
「……そうだね」
二度目の指摘を受け、しぶしぶタメ口を使うことにしたが、語尾を崩した程度でまったく砕けた感じにはならない。それに、目を合わせられるわけもなく、緊張のあまり制服の胸ポケットについている校章をずっと見つめながら話している。
そんな唯桜の様子を気にも留めず、江波戸は話を進めていく。
「なんでここでお昼食べてるの?」
「それは……静かで、いい場所だからかな」
早くここから去るにはどうすればいい? このまま立ち去るのはさすがに不審者すぎるし、適当に話を切り上げてどこかへ行こう。……いや、どこへ行く? こんなに良いスポット、他にないのに。また僕は居場所を失うのか……
不安が駆け巡り、思考から江波戸の存在が消えかかっていた、その時――。
「確かに。俺も静かな場所探しててさ。英検が近いから昼休みにもリスニングやりたいんだけど、教室は人が多くてあんま集中できなくて」
江波戸の相槌で現実に引き戻された僕は、適当に返事をした。
「なるほど……」
そんな朴の困惑に気づいているのかいないのか、江波戸は爽やかな笑顔で言った。
「俺もここ、使っていい?」
いいわけないだろと心の中で毒づくものの、そもそもここは唯桜の所有地ではないので拒否する権利もない。何より、目の前の男に反抗できるほど強気になれるわけもなく、気づいた時には口が動いていた。
「ど、どうぞ……」
「ありがと、助かる」朝、目が覚めてここまで憂鬱なのは久しぶりであった。
毎日明るい気持ちでいられるわけではないが、ここまで気持ちが沈んでいるのは、林田先生が結婚を発表した時以来だろう。
カーテンを開けて、今が本当に朝なのか今一度確認をする。
カーテンを開けた途端、春にふさわしい気持ちの良い日差しが部屋に差し込み、今一度朝という現実を押し付けてきた。
何度カーテンを開けても朝だし、日付も4月17日。普通に日付が変わっていることに絶望して、もう一度ベッドに潜り込む。
「いお、起きて! 起きて!」
いつの間にか部屋に入ってきていた母親に起こされた。
思春期の息子の部屋に勝手に入ってくるなよと思いつつ時計に目をやると、針は家を出る5分前を指していた。
一気に飛び起き、母親が部屋にいるのも構わず制服に着替える。どれだけ憂鬱で学校へ行きたくなかったとしても、結局のところ学校を仮病で休む勇気はない。急いで準備をして家を飛び出した。
何とか電車に間に合った唯桜は、電車に揺られながらお昼のことを考えていた。
もういっそのこと、別の隠れ家を探すか……? ただ、こっちの校舎は詳しくないからな
ここ「霧山大学付属高校」には、特進校舎と一般校舎の2つの校舎が存在する。
唯桜は2年から一般校舎に移ったため、人が来ない穴場スポットを見つけ切れてはいない。
いっそのこと図書館にでも行こうかと思ったのだが、図書館は一般校舎にしかなく、進学校舎の人たちもかなりの頻度で使っているため昼休みは人が多い。これ以上、元クラスメイトと顔を合わせたくはなかった。
現在12時30分。
あと20分で4限が終了してしまう。
1、2、3限とお昼をどうするべきか考え続けたが、答えは出なかった。ここまで現代社会の授業が終わってほしくないと思ったのは、人生で初めてかもしれない。
色々な考えが駆け巡った結果、適当な部活にでも入っていれば部室に逃げられたのにと、意味不明な現実逃避にまで思考が飛躍した。これまで全くと言っていいほど入る気がなかった部活への加入を悩ませるなんて、江波戸はすごいやつだ。……って、感心している場合か。
結局答えが出ないまま、授業終了のチャイムが鳴り響いた。
ただ、この教室でお昼を食べる気持ちにもなれず、結局、僕はあの山へ向かうことにした。
坂道を登り切り、見えた先の建物の陰には、すでに江波戸がいた。
ただ、昨日話していたようにリスニングをやっているようで、僕の存在には気がついていない。
これなら、僕もゆっくりと食事ができる
江波戸に近づかないように建物の裏へ回り、いつも通りの食事を始めた。今日一日の心配は何だったのだろうと思うほど穏やかな昼休み。お弁当の最後の一口を頬張り、昨日の本の続きを読もうとしたその時――。
「こんなところにいたんだ。今日は来ないのかと思った」
背後から声がした。
振り向くと、そこにはリスニングを終えた江波戸が立っていた。
「じ、邪魔したら悪いかなって……」
本音を言えば「あまり関わりたくないからです」とは口が裂けても言えず、当たり障りのない回答をした。
「気をつかわせちゃったようで、すまん」
ナチュラルに隣へ座られ、喋るしかない空気を作られた。
本読めねーよ……
「北村って、いつからここ使ってるの?」
「2年に上がってからかな」
「最近じゃん」
「そうだよ」
「いやだって、ここに昔からいましたみたいな貫禄出てたから、びっくりして」
何だよ貫禄って。根暗だからこんな山奥が似合うってか
「そっか……」
そこから他愛もない会話を繰り広げられ、結局、持ってきた本はあまり読み進められなかった。
そしてふと腕時計に目を移すと、昼休みの終了10分前になっていた。しかも次の授業は体育。急いで戻らないと授業に間に合わない。
「ごめ、時間。僕、次体育だから」
唯桜は江波戸との話をぶった切って、急いで校舎に戻ろうとする。
「すまん! こんな時間だなんて気がつかなくて。また明日!」
急いで下山する唯桜の背中に、江波戸はそう声を投げかけた。
また明日って……また来るのかよ!
今日も4限のチャイムが鳴り、昼休みがやってきた。
昨日のように葛藤する時間はなく、心なしか足取りは軽い。誰もいない山道登り、オアシスに到着した。周りを見渡しても、江波戸はまだ来ていなかった。
今日は来ないのかもという期待に胸を膨らませ、ウキウキしながら昼食を保冷バッグから取り出す。蓋を開けると、いつも通りのお弁当。平穏が戻ってきたと実感した。
――その3分後。
山道から音が聞こえて目をやると、そこには江波戸がいた。
昨日のように悶々とする時間がなかったから、僕が早く着いただけだったか……。がっかりしつつも、会釈だけして食事を続ける。
「なんでそんなに他人行儀なん?」
「別に……」
なんで他人行儀なのかと言われても、別に友達というわけでもないし、元クラスメイトなんてこんなもんだろ。
「友達なのにそんな反応されたら傷つくじゃん」
「……ごめん」
僕らは友達であるという新事に驚きながら、表情には出さないようにして、何となく謝っておいた。
「まあいいけど。昨日は結局間に合った?」
「何とか」
「よかった。俺、ずっと気になってたんだよね」
「……もう少し考えるべき大切なことあるだろ」
「それはそうだけど、北村が俺のせいで先生に怒られたら嫌じゃん」
少し気を許したような口調で話しかけたことを後悔する間もなく、会話が進んでいく。
そこで僕はふと思った。こいつ、リスニングやらなくていいのか。そのためにこんな山奥まで来たんだろうに。
「勉強、しなくていいの?」
「おっと、そうだった」
江波戸は首にかけていたヘッドホンを耳に付け直し、黙々と勉強を始めた。
やっと静かな食事空間に戻り、僕は安堵した。
江波戸が悪いやつではないのは分かるが、誰かとコミュニケーションを取りながら食事をするというのは、かなり負担を感じる。なぜならば僕にとって、食事はこのつまらない学園生活の中で唯一の楽しみであり、息抜きの場だからだ。そこに他人が入る余地などない。
僕は弁当を余すことなく堪能し、昨日の読みかけの本を開いた。5ページほど読んだところで、リスニングを終えた江波戸から話しかけられた。
「今、体育って何やってるの?」
この本を読み終わるのはいつになるのだろう……
まあ、電車や家で読めばいいのだが、僕は
デジタルに浸ることができる時はデジタルに浸っていたいのだ。僕にとっての本はスマホが使えない中での娯楽であり、昼休みにしか訪れない特殊な状況でのお供なのだ。
そんな僕の気持ちを知るはずもない江波戸を無視する勇気もなければ、そこまで人間として落ちぶれたくもないと思い、僕は答えた。
「ソフト」
「へえ、俺らはバスケなんだけど。ソフト羨ましい」
「バスケの方が楽だろ。グラウンドより体育館の方が近いし」
「ソフトなら第一グラウンドだろ? 4棟から近いじゃん」
4棟というのは、総合コースの2年生が使っている校舎の名前だ。
「いや、他のクラスの関係で、第四使ってる」
「それはきついな」
第四グラウンドはグラウンドの中でも一番上に位置し、勾配もかなり急だ。そして僕の体育担当の先生は、体育教師の中で一番の下っ端である。
私立なので教師の入れ替わりもそこまでなく、4年間ずっと他の体育教師には敵わず、権力があまりない。そのため他のクラスと授業が重なると、一番遠いグラウンドしか取れないと以前嘆いていた。
「園崎だっけ、北村のクラス」
「いや、猿田」
「猿田って陸上部の顧問だよな」
「え、知らん」
林田先生以外の教師に興味が全くなく、正直誰がどこの顧問なのかすら僕は理解できていない。
「知らんて……って、もうこんな時間か」
「そろそろ戻ろうぜ」
「おう」
一緒に山を下りることになり、絶妙に気まずい。
「北村、そっちから下りるのか?」
「4棟はこっちからの方が近いから。1棟はそっちの道の方が近いと思うけど」
「そういうことか」
「じゃ」
何となく気まずくて、僕は足早に山を下りる。
「おう、またな!」
後ろから江波戸が手を振っている気がするが、気にせず僕は山を下りた。
江波戸が山に来るようになってから、2週間が経った。
毎日来る江波戸に最初は辟易していたが、2週間を過ぎたあたりから特に何も感じなくなった。きっと、人と過ごす昼休みに慣れてきたのだろう。
お互い山に来て、僕は食事、江波戸は勉強をし、そのあと二人でちょろっと話して解散する。
お互いの連絡先も知らないし、校舎が違うので学校で会うこともない。昼休みを一緒に過ごすだけの関係。
今まで友達がいなかった僕にとって、これくらいドライな方が過ごしやすかった。
そして、僕はいつも通り今日の昼休みも山に向かった。
建物の前に到着すると、珍しく江波戸が先に来ていた。先に来ている時はすでに勉強をしていることが多いのに、今日は勉強もせずパンを頬張っている。それに、いつもリスニングに使っているヘッドホンも持ってきていなかった。
「今日はリスニングやらないの?」
隣に座りながら聞いてみた。
「英検、日曜で終わったからさ。しばらくはお休み」
「おつかれ」
そういえば先週、そんな話をしていただろうか。
いつも江波戸が開いていたリスニングの参考書には「英検準1級」と書かれていた。江波戸は去年2級を取って表彰されていたはずだ。
進学コースでは「1年で最低準2級、3年に上がる前までに準1級まで到達しろ」と言われていたな……と思い出す。
以前の僕は、進学実績や検定の取得率で担任の評価が上がると聞いて、「先生の実績作りに貢献したい」と健気に頑張り、1学期に準2級を取ったのだ。まあ、先生が結婚してからはそんな気持ちになれず、一気に何もしなくなったわけだが。
「ありがと」
勉強をしていない江波戸の横でお昼を食べるのは、なぜか緊張した。
普段、江波戸と話す時間は長くても15分ほどだったのに、今日は30分もある。
「俺ら、1年の時って本当に同じクラスだった?ってくらい接点ないよな」
「そうだね」
「北村って、なんでコース変えたの?」
思いもよらない質問に、僕は普通に動揺した。
どうしてそんなことを急に聞いてくるのか、訳が分からない。ずっと触れずにいられたから、これからも聞かれることはないのだろうと勝手に思い込んでいた。
「……普通に成績が下がったから」
親に話した理由を、そのまま伝えることにした。
「でも、進学に残れるくらいの内申はあっただろ。わざわざ総合に行かなくてもよかったのに」
(担任が結婚して、ずっとそばにいるのが辛くなって、勉強にも身が入らなくなって、離れたかったから……)
なんて馬鹿げた理由を話せるわけもない。
「……別に、俺の勝手だろ」
「でも、大学進学を目指してこの高校に入学したんだろ? だったら進学コースの方が――」
「うるさい!」
気づいた時には、もう声に出ていた。
深掘りされたくないのに、今までまともに人と接してこなかったから、どう話を切り上げたらいいのか全く見当もつかない。結果として、一番最悪な形で会話を打ち切ってしまった。
「ごめん、俺、そんなつもりじゃ……」
今、この山で江波戸と過ごす中で感じていた心地よさは、どこにもない。
触れられたくない部分に触れられ、意図しない形で逆切れしてしまった。江波戸の方を見ると、焦った顔で何かを言っている。
「……こっちこそ、急に怒ってごめん。僕、次体育だからもう行かなくちゃ」
とにかくその場から離れたくて、江波戸が何か言おうとするのを遮り、僕は嘘をついて全力で山を駆け下りた。翌日――。
僕は目が覚めてから……いや、昨日の昼休みの終わりからずっと、どうするべきか悩んでいた。
あの「オアシス」を手放したら、僕の居場所は完全に失われる。もういっそ江波戸が山に来ないことに賭けて、あの場所へ上るべきなのか。
ただ、本当に顔を合わせてしまったら、何を言えばいいのか見当もつかないし、何より気まずい。感情に任せて人に強い言葉を向けてしまったのは、人生で初めてだった。
……もう、あの山に上るのはやめよう
僕は、この学校での唯一の居場所を手放す決断をした。
現在の時刻は12時45分。
あと5分で4限の授業が終わってしまう。朝からずっとお昼をどこで過ごそうか考え続けていたが、行き先が全く決まらないままだった。
5階の階段の踊り場で食事をするか?……でも、あそこは運が悪いと同級生たちと鉢合わせてしまうことがあるデンジャラスゾーンだ。かといって山の方へ行くと、江波戸に会ってしまうかもしれない。
最悪「便所飯」かとも思ったが、この校舎はトイレが古く、とても食事をできるほどキレイでもない。
迷った挙句、僕は山道の途中でご飯を食べることにした。
山を登り切るとあの建物があるのだが、登り切らなくても校舎から見えない位置がある。そしてそこは、江波戸が普段使っている山道からも見えない場所だった。
僕は仕方なく、山道の途中の急斜面でお弁当と本を開き、食事を始めた。
人との食事は苦手だったはずなのに、江波戸が隣にいない久しぶりの昼食に、僕はなぜか寂しさ」 を覚えていた。
ただ、どんな顔をして会えばいいのか分からない。それに、江波戸にこれ以上自分の内側に踏み込まれたくなかった。
……ただ、江波戸が「僕が成績が下がって総合コースに行ったこと」に対して疑問を持つのは、別におかしいことではない。
馬鹿にしていたわけではないし。むしろ、心配している様子だった。
この高校で、総合コースから進学コースに移る生徒は珍しくない。ただ、その反対――進学から総合へ落ちる生徒は、3年に一人いるかいないかくらいの珍しい出来事だ。そして高校に入学してから友達ができたことのなかった僕は、1年の終わりに誰にも告げず、総合コースへ移った。
ただでさえ増えることはあっても減ることはないと思っていたクラスメイトが減れば、理由が気になるのは自然の摂理だ。むしろ、ここまで聞かれなかったのが奇跡に近いレベルだった。
この学校では、進学コースに残らなければ基本的に受験前線から離れてしまう。総合コースには受験対策の授業が全くなく、大学へ行く道は「霧山大学への内部進学」「指定校推薦」「専門学校」という選択肢しか残されない。そして総合の9割がスポーツ推薦で大学へ進学する。
そのため、一般受験の選択肢は無いに等しくなるのだ。
入学時に進学コースを選択して受験した者は、基本的に国公立大学への進学を目指している。進学コースから抜けるというのは、その目標が途絶えるということに他ならない。
きっと江波戸は、「少し成績が下がったくらいで、進学を諦めるのか」とでも言いたかったのだろう。
言いたいことは十分に理解できる。でも、国立大学へ行きたいと思っていたのも、すべては「林田先生の実績作りに貢献したかった」というだけで、今となってはどうでもいいことだ。正直、勉強が好きだったわけでもない。
江波戸が何を思ってあの発言をしたのか。本当のところは今となっては分からず仕舞いだが、もう会うこともないのだから、いちいち気にしなくてもいいか――。
そう割り切ろうと決めて、僕は折れて読めていなかった本の続きを読み始めた。
ただ、心がずっとざわついていて、文字が全く頭に入ってこない。
文章はしっかり目で追えている。けれど、ただ目を動かせているだけで、頭の中は江波戸のことでいっぱいになり、内容は全く理解できていなかった。無意味にページを10ページほどめくったところで昼休みが終了し、僕は5限の教室へ向かった。
5限、物理基礎。大半が寝ていて、ほとんど誰も話を聞いていない。
まあ僕も起きているだけで、授業の内容は全くと言っていいほど頭に入っていなかった。
授業を真剣に聞きたい気持ちはあるのだが、どうしても江波戸のことが頭から離れない。
ただ、今日は金曜日で、明日からゴールデンウィークに入る。しばらく学校へ来なくていいことだけが救いだった。しばらく学校へ来なければ、江波戸のことなんか忘れられる。
そして僕はまた、どこにも居場所がない学校生活へ戻るだけだ。
これ以上、江波戸のことは何も考えないようにと、先生が話している言葉を一言一句ノートに書き写した。そうして何とか心を落ち着かせ、僕は授業を乗り切ったのだった。
限の物理が終わり、僕は寝たふりをして6限までの時間を潰した。
そして迎えた6限の「現代文」
この授業は現代文の長文プリントが配られ、一時間は問題を解き、次の一時間は答え合わせをするという形式で進められている。
今回は問題を解く日だ。そしてこの授業で扱われるプリントは、そこまで時間がかかるものではない。そのため、余った時間は先生公認の元、好きな教科の勉強をしてもよいというお得な授業である。
ゴールデンウィーク前ということもあり、課題が溜まっている。さっさとやって、余った時間で課題を減らそう。
黙々と文章を読んでいくと、その内容は「人と揉めてしまった時どうすればいいのか」という説明文であった。
タイムリーすぎる内容に、写経作戦でせっかく忘れかけていた江波戸とのことを、無理やり思い出させられた。
『相手に悪気がない場合は、自分から謝った方が今後何のしこりもなく生きていける』と、書かれている。
そんなん分かっとるわという感想しか出てこない。別に揉めたというわけでもないし、というか謝りたくないわけじゃない。気まずくて顔を合わせたくない相手を山から追い出す方法とか、そういうのを書いとけよ。ていうか何だよこの駄文、問題にしていいレベルじゃねーだろ。
私情のせいで全く問題に集中できなかった結果、普段ならどれだけ時間がかかったとしても20分で終わるプリントが、授業時間の50分すべてを使っても解き終わらなかった。残りの時間でゴールデンウィークの課題をやろうと思っていたのに、すべての時間を使ってしまったせいで課題を減らすことはできず、むしろ家に持ち帰る分を増やすような結果となってしまった。
ゴールデンウィークの予定にない課題を増やしてしまったが、僕は今日のすべての授業を終え、何とかホームルームを迎えた。
担任のゴールデンウィークにおける生活の仕方についての、ありがたくも長い話が続いている。他のクラスはすでにホームルームが終わり、廊下が賑わい始めていた。
もうそんな時間か……と時計に目を向けると、そこには絶望的な時刻が刻まれていた。
これ以上話が長引くと、16時37分の電車に乗り遅れてしまう。早く帰ったところで別にやることがあるわけではないのだが、電車が30分に1本しかない田舎である以上、早い電車に乗れることに越したことはない。
最寄り駅もコンビニ以外何もないし、だからと言ってこの学校に長居したくもなかった。
「……という訳で、本日のホームルームを終了します」
何とか電車に間に合いそうなギリギリのタイミングで、先生のありがたいお話が終了した。
「起立、気を付け、礼」
「「「ありがとうございました」」」
挨拶が終わった瞬間、僕は預けていたスマホを回収し、教室を速攻で飛び出した。
このままモタモタしていると電車に乗れない。
しかし扉を開けると、トイレの前に人だかりができていた。いつもより廊下が騒がしいと思ってはいたが、20人ほどの生徒が溜まっている。
そこを通らなければ下駄箱まで到達できない。仕方なく人の波をかいくぐって進もうとしたその時、人だかりの中から突然、腕を強く掴まれた。
「北村!」
突然の出来事に、掴まれた腕の先を辿ると――そこには江波戸がいた。
なぜここに江波戸がいるのだろう。
そんな疑問が浮かぶと同時に、人だかりができていた理由が判明した。
この人だかりの原因、こいつか……!
江波戸琳翔はこの学校で知らない人はいない超有名人だ。毎回の全校集会ごとに何かしらの表彰をされており、さらに高身長でイケメンと話題になっていると、1年の時に風の噂で聞いたことがあった。
しかし、江波戸が進学コースの校舎から、僕たちのいる総合コースの4棟に来ることはまずない。全校集会も基本的には教室のテレビによる中継なので、生で見たことがあるのは進学コースの人間くらいと言っても過言ではないのだ。
そんな江波戸がわざわざ4棟へやって来れば、野次馬の人だかりができてもおかしくはない。
人だかりの謎は解けた。だが――なぜ江波戸がこんなところにいて、僕の腕を掴んでいるのかという謎は、解けないままだった。「え?」
「ちょっと、ここは人が多いから場所を変えよう」
こんな大人数の中で、腕を振り払って逃げることもできない。僕はしぶしぶ江波戸についていくことにした。
後ろで女子生徒たちが「え、誰あいつ?」などと噂しているのを聞いて、せっかくここまで息を殺して生きてきたのに……と、少しだけ江波戸を恨んだ。
何も聞けない自分のコミュニケーション能力のなさを呪いながら、江波戸の半歩後ろを黙々とついていく。ただ、向かおうとしている場所は、方向からして何となく見当がついていた。
「ここまで来れば、聞いているやつもいないだろ」
やはりたどり着いたのは、僕の「元オアシス」だった。
「昨日は本当にごめん! 怒ってるよな」
江波戸はこれでもかというほど頭を下げた。
僕はその姿を見て、昨日何も聞かず勝手に逃げ出したことを猛烈に後悔した。
「ぼ、僕もごめんなさい……! 江波戸に八つ当たりしちゃって」
「違う! 俺が全部悪いんだ。パーソナルなことを根掘り葉掘り聞くようなことをして……。本当は今日のお昼に謝ろうと思ってたんだけど、北村が来ないから。それで連休に入る前にどうしても謝りたくて、4棟まで行ったんだ」
わざわざそんなことを言うために、1棟から4棟まで来たのか。
しかも、僕が全面的に悪いのに、なぜか江波戸が必死に謝っている。何か言わなきゃ……さっきみたいに「ごめん」だけじゃなくて、ちゃんと伝えなきゃ。
様々な思考が一気に脳内を駆け巡る。
その時、僕はふと今日の現代文のプリントのことを思い出した。
『揉め事の8割は、思っていることを正直に話せば解決する』
……あの文章、あながち間違いじゃなかったのかもしれない
「それは、その……僕、正直今まで人と関わることがなくて。それで……その、気まずい人とどうやって関わればいいのか分からなくて」
「気まずい人って……」
何も包み隠さず正直に打ち明けると、江波戸は苦笑いをした。
「今日、山に行かなかったのも、本当に怒ってるわけじゃなくて……ただ、僕にコミュニケーション能力がないだけだから」
何とか言葉を紡ぎ続けようとするが、話すだけで精一杯で、気づけば下を向いたまま話していた。脳裏に浮かんでくる言葉を必死に整理して、何とか声にして出していく。
すると、ほとんど視界の情報がない足元に、突然江波戸の顔が入ってきた。
一向に目が合わないことに痺れを切らしたのか、彼が屈み込んで僕の視界に入り込んできた。
「北村にとって、まだ俺って気まずい人?」
その問いかけに、突然頭の中が真っ白になった。
気まずいかと問われれば確かに気まずいが、今この空間には、少しずつあの「心地良さ」が戻りつつもあった。
「……まぁ、そこそこかな」
結局、気まずくないよなんて気の利いた言葉は言えず、気まずさ3割増しの答えを返してしまう。
「そっか! じゃあこれから気まずくなくなるように頑張らないとな」
江波戸のキラキラとした眩しい笑顔と、僕の人生からは絶対に出てこない前向きな発言に、僕は恐れおののいた。……一気に気まずさ5割減である。やっぱり江波戸は、僕とは対極の存在だと再認識させられた。
あまりの眩しさに顔を直視できなくなり、ふと横に視線を外すと、江波戸のスクールバッグについている進学コースの「緑の校章」が目に入った。
そこで僕は、ある重要なことに気がついた。
「……てか江波戸、補習行かなくていいの?」
進学コースは授業後、2時間の補習が行われている。基本的に全員参加なので、補習というよりは8限・9限に近い。どう考えても、今は補習の真っ最中のはずだ。
「どうしても北村に会いたかったから、体調不良って言って抜けてきた。だから大丈夫!」
「大丈夫じゃねーだろ」
「いや、別に今日の内容に興味なかったから平気。俺、この後用事ないから一緒に帰ろうぜ」
断る理由も見つからないし――不思議と、断りたいとも思わなかった。
僕は、江波戸と一緒に下校することにした。二人並んで山道を下る。いつもは途中で別の道に分かれるのに、今日は同じ道だ。いつも一人で通っているはずの道に江波戸がいることは、不思議で仕方なかった。
「こっちの道、新鮮だな」
「江波戸はいつも1棟通り使うもんね」
「俺がいつも使ってたあの道って、そんな名前だったの!?」
「いや、僕が勝手にそう呼んでるだけ」
「まあでも実際あの道、1棟の玄関前にピンポイントで着くし、あながち間違いでもないよな」
他愛もない話を続けながら順調に下山し、4棟前に到着した。
本来なら一棟のほうに向かって降りるのが普通の帰り方だが、1棟前を通ると江波戸のサボりがバレてしまうかもしれない。
一棟のほうから降りるのではなく、4棟方面から少し坂を上って大学まで行き、大学正門から帰宅する作戦にした。
そして僕は気づいた。この学校に入ってからはじめて誰かと一緒に帰宅するという行為をしていることに。一年の時にも大して友達がいなかった。
「俺、何気にこっちの道来るのはじめてかも」
「僕もいつもは一棟のほうから帰ってるよ。あんまりこっち使う高校生はいないと思うけど」
「意外と運動部はいつも大学側から帰ってるらしいよ」
大学のほうまで坂を登り、裏門から大学に入っていく。大学に用事はないのでめったに行かないが、1年の時にオープンキャンパスに行かされたことがあったので、何となくの道は覚えている。建物の間を潜り抜け、僕たちは大学正門から抜けた。
「北村って上り方面?」
「いや、下り」
「俺と逆か。下りだと電車何時?」
乗ろうとしていた16時37分発の電車は、江波戸とオアシスで話しているうちにとっくに発車してしまったことに今気がついた。次の電車は17分発。
そしてスマホを見ると、今17時13分。
ここからでは走っても駅まで7分はかかる。僕は2本も電車を逃してしまった事実に、霧山大学付属高校帰宅部として悔しく思った。
「37分発かな」
「なら、ちょっとコンビニ寄ってく?」
「いいよ」
どうせ時間は有り余っているのだから、素直にコンビニに行くことにした。
「北村ってこのコンビニよく使うの?」
「そんなにかな」
「マジで? 俺ほぼ毎日ここにきてるよ」
「そんな奴いるんだ」
このコンビニは霧山付属の生徒が多いので、あまり近寄らないようにしていた。それは正しい判断であったようだ。これからもここを使うのは避けよう。
中途半端な時間だから、今日行くくらいなら大丈夫だろうけれど。
適当にお茶とアイスを買い、外のベンチに座る。江波戸はチキンを買っていた。
「何にしたん?」
「チョコバナナ味」
「うまそ。そう言えばチョコで思い出したんだけど、担任の林田最近やばくて」
思わぬところからまた槍が飛んできた。唐突な林田先生の登場に動揺を隠せない。ただ、声が上ずらないよう必死に落ち着かせる。
「何が?」
「最近子供生まれたみたいでさ、もうノロケが止まらないんだよね」
「へえ」
「なんか女の子が生まれて、大フィーバー。後ろの黒板に写真貼って自慢してるんよ。その中にバナナの着ぐるみ着せてあるやつがあったなって思って」
僕は今日ほど進学コースを辞めたことを正しい選択だと思ったことはない、というほど安堵した。きっとこのまま進学コースに残っていたら、2年から不登校になっていたことは間違いない。
ただ、これ以上この話題が広がるのは僕の精神衛生上良くない。また江波戸に当たってしまいかねない。
「そうなんだ。そういえば、江波戸の英検の結果はどうだった?」
必死に考え抜いた結果、直近であった会話の記憶を頼りに、なんとか話題を提供できた。
「まだ出てないけど、自己採点は8.5割取れてたから多分筆記は受かったと思う。面接はわからん」
「CBTで受けたの?」
「そうそう。だから面接まであったんだけど……あれ普通に考えて面倒よな。一気に面接対策までしないといけないなんて」
「僕はそれが嫌だったから対面しか受けてない」
「俺も対面にすればよかったって思ったけど、会場遠いとだるいなって」
「なるほど」
「ってもうこんな時間!北村電車間に合いそ?」
会話が弾み時間をあまり気にしていなかったが、そろそろ駅に向かわないと電車に乗れない時間になっていた。
「なんとか、先帰るね」
「おう、また来週」連休が明けて憂鬱なはずの火曜日。
僕はなぜだか、学校へ行くのがいつもより楽しみだった。楽しみと言っても、学校への評価がマイナス100だったのがゼロになっただけなので、別に評価がプラスに転じたわけではない。
ただ、学校へ向かう足取りがここまで軽いのは一年生の頃以来だろう。あの頃は林田先生のクラスになれたことが嬉しくて仕方なかった。それに数学の授業は基本的に毎日あった。何なら一日に2時間ある日すらあって、そんな日は少し早く起きて授業の復習をしていたものだ。難しいところを確認して、授業後に先生に話しかけるきっかけ作りに奔走していた。もともと得意というわけでもなかった数学を恋心だけで伸ばしていたあの頃の自分は、なかなか健気だったと思う。全く勉強しなくなった今の僕には、当時の数学の成績など見る影もないのだが。
少し思い出に浸っていると、電車の時間が迫ってきていた。急いで教科書をカバンに詰め込み、少し急ぎ足で家を出た。
今日も今日とて山を登り、僕はオアシスで江波戸と昼飯を食べていた。江波戸は英検が終わったため、特にここに来る意味もないはずなのに、相変わらず顔を出している。
英検の期間が終われば来なくなるだろうと勝手に思っていたが、そんなことはなかった。去年の記憶が正しければ、江波戸には友達がいるはずだ。なのに毎日こんなところに来ていて、周りから不審に思われないのだろうか。まあ、僕の知ったことではないけれど。
ただ、江波戸がこの山に来る理由として、ひとつだけ考えられることがある。進学コースの人間は、他のコースの人と関わることが基本的にない。一年次までは部活動に入ることができるのだが、二年次からは受験のため部活動への参加が認められなくなる。この制度のせいで基本的に進学コースの人たちは、一年の頃から部活に入らず毎日勉強漬けの日々だ。だから他のコースの情報を入手するのに、僕を使っているのかもしれない。だとしたら周りのことを何も知らない僕は、江波戸の役にひとつも立っていないことになるのだが。
「班決め終わった?」
「班決めって?」
「林間学校だよ、5月末の」
「そんな行事あったっけ」
「あるよ。ほら、学校が持っているセミナーハウスで二泊三日の研修。ほんとは一年の時にやる行事だけど、去年ハウスの改修で今年に延期になったって覚えてない?」
「そんなこともあったな」
「今日の4限で俺のクラスは班決めしたからさ。北村のクラスはどうだったんかなと思って」
「そういえばこの後、5限は総合だったような」
「その時に決めるんだよ」
普通に生きたくねー。休もうかな。特別仲のいいやつもいないし、班決めとか最悪すぎる。そもそも他人と同じ部屋で寝られる自信が全くない。
朝の元気はどこへ行ったのか。僕の生活は、あっけなくマイナス100まで戻ってしまった。
