静かに保健室の引き戸が閉まった。
美優が去っていったその部屋には、ひんやりとした静寂と、ひとり取り残された伊澄先生だけがいた。
「……っ」
伊澄先生は支えを失ったように、パイプ椅子にだらんと深く腰掛けた。背もたれに体重を預け、力なく顔を天井へと向ける。視界に入る無機質な白い天井が、美優のいなくなった現実を容赦なく突きつけてくるようだった。
「ふーっ……」
口から漏れ出たのは、胸の奥に溜まっていた重く切ないため息だった。
最後に見た美優の笑顔が、脳裏に焼き付いて離れない。あの中学時代には決して見せることのなかった、自分の足で立ち、別の男を心から愛している人間の、眩しいほどに綺麗な笑顔。
(俺以上に、あいつのことを……か)
本当は、もう最初から分かっていたのかもしれない。あのリレーで優希が見せた必死な走りを見た瞬間に、大人の余裕という仮面は剥ぎ取られていたのだ。
天井をじっと見つめていた伊澄先生の、ゆっくりと開かれた片目から、すーっと一筋の小さな涙がこぼれ落ちた。涙は頬を伝い、光を浴びてきらりと光る。
冷たい感覚に触れて、先生は自分が泣いていることにようやく気がついた。
「はは……情けないな、俺……」
自嘲気味にぽつりと呟くと、先生は少し震える片手で、乱暴にその涙を拭った。
美優に「ありがとう」と言われたとき、救われたと同時に、自分の恋が完全に終わったのだと知った。あの子はもう、過去の傷に怯える可哀想な生徒ではない。自分を置いて、もっと広い世界へ、大好きな男の手を取って進んでいってしまった。
痛む足首をさすりながら、伊澄先生はもう一度だけ深く息を吐き、静かに目を閉じた。かつての甘く歪んだ思い出を、今度こそ心の中に仕舞い込むように。



