不完全な僕達は。【完結】



美優が湿布を貼り終えると、棚の引き出しを開けて残りの袋を丁寧に片付けた。その小さくて、どこか寂しげな後ろ姿を、伊澄先生は縋るような目で見つめながらぽつりと言った。

「美優。……俺も、ずっと美優しか見てなかったよ。それだけは、本当なんだ」

もう一度自分を信じてほしい。そんな祈りのような告白だった。
美優はゆっくりと引き出しを閉め、その場に立ち上がった。

「伊澄先生……私は……」

口を開き、自分の決意を言葉にしようとした、その時だった。

背後からそっと回ってきた腕が、美優の身体を優しく包み込んだ。中学時代、何度も美優を安心させてくれた、あの温かくて大きな腕。

「……っ」

驚きに美優の身体が強張る。伊澄先生は美優の背中に顔を埋めるようにして、切なく声を震わせた。

「美優……もう一度。もう一度だけでいい、俺のことを見てくれないか……っ」

その腕の震えから、先生がどれほど後悔し、自分を求めているかが痛いほど伝わってくる。けれど、美優の心はもう、あの青い水族館の光の中で、そして昨日の夕暮れの教室で、完全に別の誰かのものになっていた。

美優は自分の上に添えられた先生の腕を、ゆっくりと、だけど迷いのない確かな力で持ち上げた。

「……ごめんなさい」

静かに告げながら、その腕を自分の身体からゆっくりと離す。
美優はくるりと振り返り、伊澄先生の瞳をまっすぐに見つめた。

「私はもう……優希くんに出会ってしまったから。きっと、あの時先生と喧嘩別れしていなくても、たとえ離れ離れになっていなかったとしても…未来は今と変わってなかったと思います」

逃げずに、はっきりと自分の本心を告げる。

「先生のことは、本当に大好きでした。それは本当です。だから……今回再会したときは、本当に辛かった。どうして、どうしてあんなことになってしまったんだろうって、いっぱい頭の中をぐるぐると駆け巡って……」

「……だったら、まだ間に合うよ! 美優、俺は――」

伊澄先生が必死に言葉を被せようとする。しかし、美優は小さく首を横に振った。

「……違うよ、先生。私たちはもう、前に進まなきゃいけないんだよ」

美優は、かつてないほど穏やかで、眩しいほどの笑顔を浮かべた。

「私は、先生以上に……優希くんを好きになってしまったの。もう、それは変えられないことだよ。先生と離れて、優希くんに出会って……私、やっと自分の本当の気持ちに向き合うことができたから」

これ以上ないほど残酷で、これ以上ないほど誠実な拒絶。
伊澄先生は美優を見つめたまま、言葉を失った。やがて、完全にすべてを悟ったように、ぽつりと寂しげに笑った。

「……そうか」

美優は、そんな先生を愛おしそうに見つめ、最後の言葉を紡いだ。

「伊澄先生。……ありがとう」

「え……?」

思いがけない感謝の言葉に、先生が少し驚いて目を見開く。

「こんな私を、好きになってくれて。一緒にいてくれて、私にたくさんの幸せをくれて、ありがとう。本当に嬉しかった」

美優はもう一度、心からの感謝を込めてふんわりと笑うと、ゆっくりと伊澄先生から歩を引いた。先生のだらんと垂れた腕からは、完全に力が抜け落ちていた。

美優は保健室のドアの前までゆっくりと歩いていく。かつての歪んだ過去のすべてを、この白い部屋に置いていくように。

「さようなら、伊澄先生」

美優は最後に優しく微笑み、ガラガラと音を立ててドアを開けた。一歩外へ踏み出すと、もうそこには過去の迷いなどどこにもなかった。

美優は晴れやかな顔で、自分を信じて待ってくれている最愛の恋人、優希の元へと歩き出すのだった。