昨夜、萌華に背中を押された美優は、ベッドの中で何度も文字を打ち直しながら、ようやく優希にメッセージを送っていた。
『ちょっと話したいことがあるから、放課後、時間くれる?』
送信ボタンを押した瞬間の、指先の震えと心臓の高鳴りは今も覚えている。優希からはすぐに『了解。楽しみにしてる』と返信が来ていた。
翌朝―――。
今日、放課後になったら、彼に本当の気持ちを伝える。そう決意して、美優は少し緊張しながらも、前を向いて教室の席についていた。
しかし、運命の歯車は、誰も予想しなかった方向へと狂い始めることになる。
キーンコーンカーンコーン……。
朝のホームルームを告げるチャイムが鳴り、担任の先生がガラガラと教室のドアを開けた。その後ろから、一人の男性が続いて入ってきた。
「よし、席につけ。……今日から、臨時でうちの学年の理科を担当されることになった、伊澄奏多先生だ。みんな、失礼のないようにしっかり指導を受けるように」
担任の言葉を聞きながら、美優は何気なく新しく来たという教師の顔を見上げた。
その瞬間。
ドクン、と、心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった。
(え……?)
息の仕方を忘れたように、美優の全身がガチガチと凍りつく。頭の中が真っ白になり、血の気が引いていくのが分かった。
整った顔立ち、柔らかそうな細い髪、そして、かつて美優が世界のすべてだと信じ込んでいた、あの優しい眼差し――。
そこに立っていたのは、中学時代、美優が『完璧な世界』を信じて、そしてあまりにも残酷な形で彼女の心を粉々に引き裂いた張本人、伊澄先生だった。
「今日からお世話になります、伊澄奏多です。……よろし――」
教壇に立ち、穏やかな声で挨拶をしていた伊澄先生の視線が、教室のあちこちを彷徨ったあと、窓際の席に座る美優のところでぴたりと止まった。
先生の言葉が途切れる。伊澄先生もまた、美優を見た瞬間に目を見開いたまま、固まっていた。
「伊澄先生? いかがなさいましたか?」
不審に思った担任の先生が声をかけると、伊澄先生はハッと我に返り、目元を微かに引きつらせながら動揺を隠すように頭を下げた。
「……いえ、何でもありません。よろしくお願いします」
その後の担任の声も、クラスメイトたちの拍手も、美優の耳には一切届かなかった。
心臓がズキズキと、刃物で抉られるように激しく痛む。呼吸が浅くなり、視界が歪んでいく。
(なんで……? なんで先生が、ここにいるの……っ!?)
過去のトラウマが濁流のように押し寄せ、美優は机の下でスカートの生地を破れそうなほど強く握りしめていた。
だが、極限の動揺の中にいた美優は、気づいていなかった。
伊澄先生が現れた瞬間、美優だけではなく、別の席に座る優希もまた、信じられないものを見たかのように大きく目を見開いていたということに。優希の瞳には、明らかな敵意と、過去の記憶を呼び覚まされたような激しい動揺が宿っていた。
美優が隠してきた過去。そして優希の敵意。
新しく現れた伊澄先生という存在を介して、二人の過去の因縁が、静かに、そして不穏に交錯しようとしていた。



