帰りのバスの車内は、一日中歩き回って疲れ果てた生徒たちの寝息と、低く流れる街の喧騒に包まれていた。
美優は座席のヘッドレストに頭を預け、流れていく窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。夕闇が迫るハイウェイの光が、ガラス窓を滑るように通り過ぎていく。その光の残像を見つめながら、美優の心は、あの青く澄んだ水族館の底へと戻っていた。
(優希くん……)
胸の中でその名前を呟くだけで、視界がじんわりと熱くなる。
あの薄暗い水中トンネルで、優希がまっすぐに自分を見つめ、言葉を紡いでくれた瞬間。完璧な人間なんていないと悲しそうに笑い、美優の不完全さも、冷たいと言われてきた過去も、そのすべてを「人間の綺麗な在り方」だと抱きしめてくれた。
いままで誰にも触れさせまいと、硬く閉ざしていた心の傷口に、彼の言葉が優しく染み込んでいくようだった。思い出すだけで、痛みが消え、凍りついていた心が少しずつ、だけど確実に癒やされていくのが分かる。
けれど、それと同時に、美優は未だかつてないほどの戸惑いも感じていた。
ふと、美優は窓ガラスに映る自分の顔を見つめ、そっと右手の指先を自分の唇にあてた。指先から伝わる微かな体温が、あの時、優希の綺麗な顔がゆっくりと近づいてきた瞬間の記憶を鮮烈によみがえらせる。
(私……あの時、目を瞑って……)
今までの恋愛では、相手から求められるがまま、義務のように重ねてきた触れ合いだった。そこに自分の意思なんてなかったし、ましてや自分から「したい」なんて思ったことは一度もない。感情がないと言われても、仕方がなかった。
それなのに、あの瞬間の自分は違った。
優希の優しい瞳に見つめられ、彼の体温を感じたとき、初めて自分から「この人とキスがしたい」と、心から願ってしまっていた。
指先から伝わる唇の感覚に、美優はきゅっと胸を締め付けられる。
(私……、きっと優希くんに、少しずつ惹かれてる――)
それは、これまでの人生で一度も触れたことのない、本物の恋心の自覚だった。
そう気がついた瞬間、胸の奥深く、静かだった水面に一滴の雫が落ちたように、柔らかな波紋がじんわりと広がっていった。戸惑いや気恥ずかしさは消えないけれど、それ以上に、身体の芯からじわじわと湧き上がる温かさが美優を包み込んでいく。
カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、美優の潤んだ瞳を優しく照らしていた。もう二度と、あの孤独だった頃の自分には戻れない。そんな確信を抱きながら、美優は愛おしさを噛み締めるように、再びそっと目を閉じた。



