不完全な僕達は。【完結】


資料室の片付けを終えて教室に戻った美優は、自分の席に座ってからも、ずっと心ここにあらずだった。

「――では、教科書の五十四ページを開いて」

教壇の先生の声が、鼓膜の上を滑るようにして遠くへ通り過ぎていく。いつもなら完璧にノートを取るはずの手が、シャーペンを握ったままぴたりと止まっていた。

頭の芯が、妙に熱い。
目を閉じれば、あの狭い資料室の空気が鮮烈に蘇ってくる。

『怪我がなくて良かったわ。っていうかさ…、細すぎ』
『はは…、姫野ほんと鈍すぎ』

耳元で、相良の少し低い声が何度もリフレインする。
それだけじゃない。背中に回された彼の大きな手のひらの熱さや、胸に押し付けられた硬い身体の感触が、まるで今も肌に残っているかのように生々しく主張していた。

(何、考えてるの、私……)

美優は小さく首を振って、机の上の教科書に視線を落とした。
これまで付き合ってきたどの男子に抱きしめられても、悲しいくらいに胸の鼓動は一定だった。それなのに、付き合ってもいない、ただのクラスメイトの相良に触れられただけで、どうしてこんなにも頭が爆発しそうになっているのだろう。

(……でも、あの笑顔……)

不意に、相良がくしゃっと目を細めて笑った顔が脳裏をよぎる。
その瞬間、胸の奥の、一番触れられたくない柔らかい場所がチクリと痛んだ。

あの屈託のない真っ直ぐな笑顔が、どうしても中学時代の伊澄先生と重なってしまう。
『美優は、本当に可愛いな』と言って、自分の世界をすべてキラキラとした光で満たしてくれた、あのひと。そして、最後には綺麗に自分を裏切って、深い闇の底へ置き去りにしていった、あのひと。

(また、同じになったら、どうしよう……)

相良を意識すればするほど、過去のトラウマが冷たい鎖となって美優の心臓を締め付ける。「好きになるのが怖い」という防衛本能と、相良への名前のつかないときめきが、胸の中で激しくせめぎ合っていた。

「……ちょっと、美優?」

横から降ってきた低い声に、美優はビクッと肩を震わせた。
いつの間にか授業は終わりのチャイムを迎えており、休み時間になっていた。隣の席から、親友の萌華が美優の顔をのぞき込んでいる。

「え? あ、うん、何、萌華?」

美優は慌てて笑顔を作ろうとしたが、萌華の目は誤魔化せなかった。萌華はジッと美優を見つめると、机に身を乗り出して声を潜める。

「何、何? 美優、顔すっごい赤いよ? 具合悪いの?」

「えっ、嘘、赤くないよ。ちょっと暑いだけ……」

「嘘〜! いつも平常運転の美優が、そんなに分かりやすくドギマギしてるの、初めて見たんだけど!」

萌華の目が、らんらんと輝き始める。まるで大物の獲物を見つけた猛獣のようだ。

「日直の仕事で、資料室行ったんだよねぇ? 相良くんと二人きりで。……ねえ、何かあったでしょ! 吐きなよ〜!」

「何もないってば、本当に……」

美優は萌華の鋭い追及から逃れるように、ふいっと顔を背けた。
けれど、そうやって視線を彷徨わせた先、教室の後ろの席で、友達とだらしなく笑い合っている相良の姿が、どうしても目に入ってしまう。

楽しそうに笑う彼の横顔を見た瞬間、またドクンと心臓が跳ねた。
美優は生まれて初めて、制御不能な恋の始まりに、少しずつ翻弄されようとしていた。